第99話 蠢く侵略者②
「これほどの大一番も久しぶりだ。冬明けが待ち遠しいな、エマニュエル」
ツェツィーリアの退室を見送ったキルデベルトは、そう言って弟の方を向く。
「はい、兄上。ファルギエール卿の素晴らしい策をもとに、これだけ念入りな準備をしたのです。勝利は間違いないものとなるでしょう」
「ああ。そしてまた、我が国の領土が増える。ノヴァキア王国を征服し、そしてエーデルシュタイン王国の征服も成せば、大陸西部の全土が我が国のものとなる。我が国はいよいよ、古のルーテシア王国に匹敵する大国となる……そうなれば、次は大陸中央部だ」
キルデベルトの表情が、獰猛に歪む。
「リガルド帝国は強敵だが、東部のシーヴァル王国と組めば勝利は叶う。できるだけ多くの領土をこちらが切り取って優位を得た上で、その次はシーヴァル王国をも打ち倒し、我が手中に収めてやる……そこまで突き進めば、もはや敵になる国はない。ルドナ大陸全土をアレリア王家のものとすることは容易い。この俺が、大陸統一という偉業を最初に成し遂げる王となるのだ」
「……はい。兄上こそが、この大陸で唯一、その偉業を成し遂げることのできる御方でしょう」
心の内に抱いた悲しみを悟られないよう、エマニュエルは努めて表情を変えずに言う。
「俺は進み続ける。強き王として勝利し続ける。それ以外に道などない……父上の歩み始めた覇道を受け継ぎ、父上よりもさらに前に進むのだ。この俺こそが」
円卓の上で拳に力を込め、その手元を見下ろし、しかし実際は目に映る何も見つめていない。そんな危うい様子のキルデベルトに、エマニュエルは僅かに悲しげな顔をしながら無言を保つ。
何も言うことはできない。否定することなどできない。諫めることなどできない。兄は、自分たちは、アレリア王家は、今さら止まれない。そう分かっているからこそ。
・・・・・・
呼び出された王城の一室で、イーヴァル・ヴェレクはただひたすらに待ち続けていた。
自分が何を待っているのかも知らされていない。ただ、雇い主である国王キルデベルト・アレリアの命令通りに登城し、官僚に案内された一室で、椅子に座って無言を保つ。
テーブルを挟んで向かい側にも椅子が置かれていることから、これが誰かとの会談だとは予想できるが、一体誰が来て何の話をするのかは分からない。
「……団長。やっぱり、俺たちは何か罰を与えられるんじゃないでしょうか」
イーヴァルの後ろで口を開いたのは、イーヴァルの若き側近である戦士アハトだった。いずれ自分の立場を継がせるからと、勉強させる意味も兼ねて従者として伴っている彼は、居心地の悪い豪奢な一室で続く沈黙に耐えかねたようだった。
「帝国大使の家族への襲撃があんな結果に終わったんです。国王陛下の気が変わって、失敗の代償を払えと言われるんじゃ……」
「馬鹿なことを言うな。国王陛下は後になってそのようなことを仰る御方じゃない」
不安げなアハトの言葉を、イーヴァルは一蹴する。
キルデベルトへの忠誠や信頼から出た言葉ではない。無条件に信じられるほどは、雇い主のことをイーヴァルは知らない。
これはただ、保身のための発言だった。ここは王家の城。応接室の隣に隠し部屋などがあってもおかしくはない。自分たち程度のためにわざわざアレリア王家がそこまでするかは分からないが、誰かが壁の向こうに隠れていて、自分たちの会話を聞き、王家への忠誠心を図ろうとしていても――あるいは不敬罪にあたる発言を拾おうとしていてもおかしくはない。
アハトが抱いたものと同じ懸念を、イーヴァルもまったく抱いていないわけではない。
エーデルシュタイン王国での任務の結果は散々だった。街道と農村での襲撃は失敗。イーヴァル自らが指揮をとっての大がかりな追撃戦も、敵側の奇天烈な戦い方に前進を阻まれて目的を達成できず、逆に大損害を被って終わった。
百人で敵地に侵入し、帰還できたのはかろうじて過半の五十六人。死者はもちろん、負傷者も全員を連れて帰ることはできなかった。戦場に置いていかざるを得なかった者、帰路で力尽きた者が少なくなかった。
王都まで帰還してキルデベルトに謁見した際は、何らの叱責も受けなかった。確かに、帝国大使とその家族の拉致あるいは殺害はあくまで副次的な目標であり、その失敗については国王はあまり気にしていない様子だった。むしろ、お前たちの能力が必要十分であることは確認できたと、働きを認められるような言葉さえかけられた。
しかし、あのような失態を演じておいて、雇い主に使える駒と見なされたとは思い難い。帰還後の報告からさして経たないうちに再び呼び出されては、悪い想像をせざるを得ない。
そのとき。イーヴァルとアハトの鋭い聴覚が、廊下の足音を拾う。二人は扉の方を向き、足音が扉の前で止まったのを確認する。
呼びかけもなく扉が開き、しかし事前に気づいていたので二人は驚かない。イーヴァルは立ち上がり、アハトは今一度姿勢を正し、入室者を迎える。
部屋に入ってきたのは、若い女性軍人だった。傍らに副官らしき騎士を伴っているその軍人は、軍服の装飾や徽章からして、軍の中でも相当に高位の立場だと分かる。
「君が、ヴェレク傭兵団の長か」
「はっ。イーヴァル・ヴェレクと申します」
こちらを見て口を開いた将に、イーヴァルは大陸西部式の敬礼をしながら答える。
「私はツェツィーリア・ファルギエール。ファルギエール伯爵家の当主で、国王陛下より現在はノヴァキア王国侵攻の指揮を任されている。よろしく頼むよ……まあ、とりあえず座ろう。楽にしてくれ」
軽く答礼した将――ツェツィーリアはそう語り、着席する。副官の騎士は、彼女の後ろに影のように控える。
促されて自身も着席し、イーヴァルはツェツィーリアと向き合う。
得体の知れない人物だと思った。穏やかな微笑の裏に、どこか歪な人間性を感じた。
「今日はわざわざ来てもらって済まなかったね。私が陛下にお願いして、君を呼び出しておいてもらったんだ」
「いえ、謝罪など畏れ多いことと存じます。ファルギエール閣下のお名前とご功績は私も存じております。お会いできて誠に光栄です」
イーヴァルは努めて表情を崩さず、無難に答える。
ツェツィーリアの名は、この王都に来てから知った。元は異国だったロワール地方の将で、今はアレリア王家に固く忠誠を誓う、若く有能な智将であるという評判だった。
「ははは、嬉しい言葉だな。だが私も、こうして君たちに会えて光栄だよ。先のエーデルシュタイン王国との戦いにおける君たちの働きは聞いている」
その言葉に、イーヴァルは少しばかり渋い表情になる。
「おや? この件に触れられるのはあまり嬉しくなさそうだね……おそらく君たちは結果に満足していないのだろう。気持ちは分かるが、帝国大使の家族を仕留め損なったことについては気にしなくていい。君たちの能力が確認できた時点で、あの作戦は成功だったのだから。陛下も君たちに同じことを仰ったことと思うが、それは気休めじゃない。陛下の本心からの御言葉だ」
「……」
ツェツィーリアはどうやら嘘や皮肉を言っている風ではなかったが、イーヴァルはどう返したものか迷う。その様子を見て苦笑を零し、ツェツィーリアは話を続ける。
「そもそも敵国の領土内で要人を襲撃するなんて、運も絡む任務になるのは仕方ない。ましてや帝国大使があのような気まぐれな行動をとったとなれば、混乱して予定通りに仕事を進められないのも当然だ。肝心なのはそこじゃない。君たちの猟兵としての能力――山も森も踏破し、敵国の領土に易々と侵入し、僅かな装備のみで数日にわたって行動できる力。それが証明されたことこそが重要なんだ……さて、本題に入ろう」
そこで、ツェツィーリアの少しばかり嘘くさい微笑が、熱のこもった笑みに変わる。
「春になったら、ノヴァキア王国への大攻勢が行われる。君たちにはその戦いで、重要な役割を果たしてもらいたい。君たちの能力がなければできない働きをしてもらいたい。先の戦いの結果を君たちが恥だと感じているのであれば、次の戦いでの貢献をもって名誉を挽回してほしい。そうすれば、陛下は必ずや、君たちの戦功に報いてくださることだろう」
「……そのような機会をいただけるとは、願ってもないことです。我々は傭兵の身。雇い主たるキルデベルト陛下の御命令とあらば、どのような役割も務めてご覧に入れましょう」
イーヴァルは厳かに答える。
実際、これは本心だった。今の立場を考えれば、勝利なくして自分たちに未来はない。戦功なくして同胞たちに希望ある未来を与えることは叶わない。今や自分が生きる意味は、ここまで生き長らえたヴェレク族に未来を残すこと。ただそれだけ。
さらなる戦いの場を与えられ、戦功を挙げる機会を得られるのはありがたい。
「殊勝な言葉だね。とても頼もしく思うよ……大攻勢の全容については、悪いがまだ明かすことはできない。ただ、君たちにはこの冬のうちから少しずつ準備を進めてもらいたいことがある。私は数日後にはノヴァキア王国との国境地帯に戻るが、その際にヴェレク傭兵団の中から、特に優秀な者を二十人ほど選んで預けてほしい」
「承知いたしました。それでは精鋭を二十人選び、私自ら率いて閣下に随行しましょう」
前回は政治的な事情を考えてアハトに現場の指揮を任せ、悔しい結果に終わった。雇われ兵の身で二度続けての失敗は許されない。今回は与えられた任務を確実に達成しなければならない。
達成できなければ、生まれ故郷を遠く離れ、こんなところまで歩んできた意味がなくなる。歴代の族長から受け継いだ役割を果たすという、重責に堪えてきたこれまでが報われなくなる。
そう思ってのイーヴァルの言葉に、ツェツィーリアは片眉を上げる。
「そうか、団長の君が自ら動いてくれるのか。こちらとしてもありがたい。それじゃあ、どうかこれからよろしく頼むよ、イーヴァル・ヴェレク」
イーヴァルはそれに一礼で応え、副官を伴って退室するツェツィーリアを立ち上がって見送る。
最後まで得体の知れない人物だった。しかし、その赤い双眸には強い戦意が宿っていた。彼女が戦いについて語るとき、瞳の中には確かに感情が、血のように赤く滾る炎があった。
嫌いではないと思った。キルデベルトといい、ロベールといい、あのツェツィーリアといい、この国には面白い将が多い。
・・・・・・
「……どうか待っていてくれ、ホーゼンフェルト伯爵」
王城の廊下を歩きながら、ツェツィーリアは独り言ちる。その声が聞こえても、傍らのセレスタンは何も言わない。
「必ずあなたを仕留める。私の策で仕留めてみせる。それまでどうか、待っていてくれ」
穏やかな微笑に、どこか恍惚とした色を浮かべながら、ツェツィーリアは家族の仇を思う。
春に始まる大攻勢。ノヴァキア王国の征服。その先には、エーデルシュタイン王国侵攻のための策もある。既に用意している。
ツェツィーリアの悲願が達成される日は、きっとそう遠くない。
ここまでが第三章となります。お読みいただきありがとうございます。
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書籍化に関して、そう遠くないうちにお知らせできるかと思います。今しばらくお待ちいただけますと幸いです。
引き続き『フリードリヒの戦場』をよろしくお願いいたします。