第8話 戦闘準備②
「ところでユーリカ。その剣は?」
「そこで拾ったの。代官の屋敷から誰かが引っ張り出してきたみたいだけど、誰も剣なんてまともに使えないから結局は捨てられたんだろうねぇ」
少し目を離している間に彼女が手に入れてきたその剣には、ドーフェン子爵家の家紋が刻まれていた。
本来はこのような非常時に代官ヘルマンが手にするべきものだったのだろうが、彼が己の義務と共に放棄したのであれば、ユーリカが使っても構わないのだろう。
「だけど、ユーリカも剣の使い方なんて知らないんじゃないの?」
「ふふふっ。関係ないよ。誰かに習ってなくても、こんなもの勘で何となく使えるから」
そう言いながら、ユーリカは剣を振り回す。なかなか様になっており、危なっかしさはなく、初めて剣を握っているとは思えない動きだった。
「上手いね」
「でしょう? ふふふっ。これがあれば、本物の殺し合いでもあなたのために戦えるねぇ」
妖艶な笑みを見せながら、ユーリカはフリードリヒの前に立つ。
剣を地面に投げ置いて両手を空けると、左手でフリードリヒを抱き寄せ、自分より少し背の低いフリードリヒの顎に右手の指を添えて顔を上げさせる。その額に自分の額を押しつける。
鼻先が触れあうほどに二人の顔が近づき、フリードリヒの視界は彼女の笑みに埋め尽くされる。
「……皆が見てるよ」
「いいよ。見せつけてやればいい」
答えるユーリカの吐息が、フリードリヒの頬にかかる。
二人が常に一緒にいるのは今に始まったことではないので、ボルガの住民たちは密着するフリードリヒとユーリカを横目で見ることはあっても、何か言うことはなかった。
「ねえ、フリードリヒ」
ユーリカは囁くようにフリードリヒの名を呼び、その左手をとる。
夏でもいつも長袖しか着ないフリードリヒの、シャツの袖をまくる。細く白い腕が、そこに残る傷跡が見える。
その傷跡は細く長く、皮膚の色が腕の他の部分よりも少し薄く、僅かにへこみがある。まるで、そこだけ肉を抉り取られた後でその傷が治ったような。
「私があなたにこの傷をつけて、それでもあなたは私を受け入れてくれた。だから私はあなたを愛してる。だから私はあなたを守り抜く。あなたはずっと私の傍にいてくれたから、私はあなたから絶対に離れない。分かってるよね?」
「……」
フリードリヒも、笑みを浮かべた。
ユーリカと出会ったのは、フリードリヒが五歳のとき。ボルガ近郊の森で修道女たちが薬草を集める手伝いについていった際、木の洞の中に隠れてリスの死体を齧っている彼女をフリードリヒが見つけた。
服の汚れ具合からして、おそらく森に捨てられて一週間ほど。アルマがそう言っていたことを憶えている。
ほとんど会話もできず、ユーリカという名前と七歳という年齢だけを辛うじて話した彼女に、フリードリヒは寄り添った。当時の自分がどのような心境でそうしたのかは憶えていない。
彼女が孤児として迎えられて数週間が経った頃、修道女の一人が彼女の髪を切ろうとはさみを手に近づくと、彼女は異常に激しく暴れた。宥めようとしたフリードリヒの腕に、興奮した彼女は嚙みつき、そのまま肉を噛みちぎった。
七歳の子供の歯ではさして大きな傷を負わせることはなかったが、修道女たちが問題視したのは彼女の行動そのものだった。
このような子が人の世で生きていけるとは思えない。この子がこれ以上自分や他者を傷つける前に、成長して手がつけられなくなる前に、神の御許に返してやるのが慈悲なのかもしれない。
数人の若い修道女が深刻そうに話し合うその声を聞いてしまったフリードリヒは、人生で初めての駄々をこねた。
状況がよく分かっていないユーリカにしがみつき、自分でも信じられないほど泣き喚き、自分がユーリカの面倒をずっと見るからここに置いてやってほしいと訴えた。丸一日そうした。
普段は孤児の世話を修道女たちに任せている老司祭までやってきて、今しばらくユーリカを見守るという皆の誓約(全員がフリードリヒの見ている前で神に誓わされた)を受けて、フリードリヒはようやく大人しくなった。
以降、フリードリヒは本当に片時もユーリカから離れなかった。フリードリヒと触れ合ううちにユーリカはしだいに年相応の人間らしくなっていき、長大な時間と密接な距離が二人の心を繋ぎ、そして今に至る。
「私はあなたのいる場所に一緒にいるし、あなたのすることを一緒にするの。これからもずっと」
「……そうだね」
言葉を交わし、笑みを交わし、そして互いの唇が近づく。
ユーリカの柔らかな唇が、フリードリヒの唇に触れる、まさにその瞬間。
「二人とも、そんなことをしている場合ですか」
不意に後ろから呆れた声をかけられ、フリードリヒは硬直する。
一方でユーリカは、声を無視してそのままフリードリヒに唇を重ねた。
呼吸まで吸い尽くされるような口づけの後で、フリードリヒは硬い表情で振り返る。
「……アルマ先生。司祭様」
育ての親である修道女アルマに、ユーリカとの濃厚な口づけを見られた。呆れた表情でため息を吐くアルマの隣には、微苦笑を浮かべる老司祭もいた。
気まずい。そう思ったが、アルマたちの呆れの理由は違うようだった。
「フリードリヒ。大変なことになってしまったな」
「大変なことをしでかしましたね。貴族の縁者を詐称するなんて……」
柔和な人柄の老司祭は微苦笑を浮かべたまま穏やかに言い、一方のアルマは露骨なため息交じりに言う。二人とも、フリードリヒが貴族の私生児などではないことを当然に知っている。
十八年前、籠に入った赤ん坊のフリードリヒを行商人から受け取ったのはアルマだったと聞いている。彼女と老司祭は、籠の中やフリードリヒのくるまれていた布を丹念に調べたが、身元を示すものは何一つなかったと。
「……ごめんなさい。あのときは他に案が思いつかなくて」
「言ってしまったものは仕方がない。お前は皆を救おうと思ってあのようなことを言ったのだと、私たちには分かっているとも」
「貴族の縁者を詐称した際の罰は、詐称された貴族家の当主が決める法になっています。相手は英雄と名高きホーゼンフェルト伯爵閣下です。あなた自身の利益のために騙ったわけではないので、情状酌量の余地はあるでしょう。私や司祭様も弁護をします……生き残れればの話ですが」
そう言って、アルマの呆れ顔に笑みが混じる。優しい笑みだった。
「フリードリヒ。このボルガが、私たちが救われるとしたら、それはあなたのおかげです。あなたたちを神がお守りくださいますよう」
いつものように、アルマはフリードリヒとユーリカに向けて祈りを捧げる。老司祭も、彼女と並んで祈る。
「……ありがとうございます。アルマ先生。司祭様」
自分のために祈ってくれる、育ての親とかつての保護者に、フリードリヒは素直に礼を言った。
・・・・・・
それからしばらくして。空が白み始めた頃。
「盗賊だ! 盗賊が来た!」
「数は多分、六十人から七十人くらいだ! もうすぐ南門から姿が見えるはずだ!」
南門の外で見張りを頼んでおいた、足の速い男二人が、広場に駆け込んできた。
それを聞いた皆の視線が、フリードリヒに集まる。
「百人迎え撃つつもりでいたのに、思っていたより随分と少ないね。それに来るのも遅い。せっかく寝ないで待っていたのに」
緊張がこみ上げてきたのを誤魔化すため、咄嗟に軽口を叩く。
それを余裕の表れと受け取ったのか、皆は安堵の表情になった。笑い声さえ聞こえた。
「さあ皆。戦闘準備はもういいよ。それぞれ配置について」
努めて冷静そうな顔を作り、フリードリヒは呼びかける。
「大丈夫、僕の考えた作戦通りに動けば必ず勝てる。英雄の息子が言うんだから間違いない。僕を信じてほしい」
無責任な約束も自信たっぷりに言われるとそれなりの説得力があるのか、ボルガの住民たちは揃って威勢よく返事をしてくれた。
その反応に、フリードリヒは笑みを浮かべる。
我ながら、よくもまあ次から次に平然と嘘をつけるものだ。




