1.欲しがらない女
世間一般的に見ても私は、とても無欲な女だと思う。
小さい頃からオモチャを欲しがることもなかったし、お菓子を買ってと駄々をこねることもな
かった。母には、育てやすい子だったと言われ、父にはおねだりしない子で少し寂しかったと
言われた。その逆に妹は、とても欲しがり屋で、数少ない私の絵本やオモチャをおねだりして
は奪っていった。母は、私に謝りながらも「お姉ちゃんだから」と言い聞かせる。
そんなこと言わなくても、私だって妹は可愛いと思っているのだからいいのに。
それに、父は最初に生まれた娘が殊更可愛いと思っているのか、妹に奪われるたびに私に新し
い何かを買ってきてくれていたから、寂しい思いをすることはなかった。
それでも私は、何も欲しがらず、父がせっかく私が悲しくならないようにと買ってきてくれた
ものを、また妹に渡す。無欲、悪く言えば遠慮してばかりの可愛くない娘だった。
小さい頃から続いたそれは、大人になった今でも続いていた。
[ 欲しがらない女 ]
無欲な私は、お洒落に気を遣う事もない。
基本的に、お給料は殆どが生活費へと消えていき、最終的には貯金に回される。
お酒は飲まないし、煙草は吸わない。飲み会への参加も、丁重にお断り。
会社で自販機のジュースなんか買ったことない。何時も水筒持参だ。ほうじ茶最高。
外食も殆どしない。お昼はお弁当持参。社食も食べたことない。食べたいとも思わない。
手作り最高。洋服や化粧品なんかは、最低限のものしか買い揃えない。
化粧品は無くなれば買い足すし、洋服だってボロボロになったりすれば、
さすがに買い換える。だけど、毎月毎月買ったりはしなかった。
ペットを飼う事もないし、読書は図書館で事足りるし、音楽だってパソコンで聴ける。
そう、唯一の贅沢は、パソコンでインターネットをするぐらいだ。
インターネットで素人さんが演奏しているクラシックを聴き、素人さんが書いている面白い
小説を読み、素人さんが作った面白いゲームをする。(だって、全部無料なんだもの)
パソコンに元々入っているゲームも、地味に面白い。
そんな地味な毎日でも、私は楽しかったし、辛いとは思わなかった。
毎日会社に行って、仕事して、家に帰ってご飯を食べる。
お風呂に入って一日の疲れを癒したら、インターネットだ。
そして、インターネットにも疲れてきたら、やっと睡眠。そのサイクルの繰り返し。
別に、つまらないとは思わない。これが、私に与えられた人生なんだと思えば、
苦だとも思わない。ただ淡々と、この人生を生きていくだけだ。
このまま一生、一人で生きていくんだろうなーと思っていた。
幸い、我が家には妹も弟もいる。長子としては、情けないだろうが、これが私と言う人間だ。
結婚なんかしなくても、私は一人で生きていける自信があった。
が、しかし。世の中はそんなに甘くは出来ていなかった。
こんな地味で淡白な私に、恋人が出来たのだ。
会社の取引先の男性で、私より二つばかり年上だが、まるで犬のように元気な人だ。
最初、告白された時は、なんの冗談かと思った。
ぶっちゃけて言えば、私は女性としてはかなり質が悪い。
化粧は最低限だわ着飾らないわ。
これでモテようなんて気は、サラサラなかったし、恋人を作る気も当然、ありはしなかった。
だから、こんな私に告白なんてネットの恋愛小説でありがちな設定として有名な「罰ゲーム」
なんだろうな……なんて、こんな低俗な考えぐらいしか思い浮かばなかった。
だから、最初はお断りした。なるべく相手に隙を与えないように、腰を低くして。
納得してくれたと思っていた。
だけど翌日、私のデスクにどどんと花束が置かれていた。
届け物だと言われ、花束をしげしげと眺めていると、カードが見えた。
綺麗な色のカードで、淡いブルーのそれは、私の好みだった。
カードを開くと、あの告白してきた男性からで、お友達から……と、お決まりの台詞が書かれ
ていた。とりあえず、花に罪は無いので、自宅に持って帰って花瓶に飾り、
ある程度枯れてきたらドライフラワーにした。香りのあるものはポプリの材料にでもしよう。
ちなみに、今現在は見事にポプリへと変化している。手作りバンザイ。
その翌日も、そのまた翌日も、更に翌日も。
花束攻撃は、収まる気配を見せなかった。
さすがにこれは拙いと、私は仕事帰りに彼の会社に行き、抗議した。
だけど彼は、反省する様子も見せず……
「やっと会いに来てくれたんだね!とっても嬉しいよ!」
と、喜色満面で私に抱きついた。
どうやら私は、彼の術中に嵌ってしまったようである。
結局、私は彼の熱心さに負けて、お付き合いを始めてしまった……というわけだ。
恋人なんて一生出来ないと思っていた、作る気も全く、これっぽっちもなかった。
それがどういう間違いだったのか、出来てしまった。
人生、何があるかなんて本当に分からないものだ。
でもまあ、この人とどれぐらい持つかなんて分からないが、この先恋人が出来る可能性がある
とは限らないわけだから、この時を楽しむと言うのもまた一興なのかもしれないと、
私は前向きに彼と向き合ってみた。
一週間でキスされた。
勿論、ファーストキスというヤツだった。キスが初めてというだけで、かなり喜ばれた。
更にその一週間後、触れるだけのキスは、俗に言うディープキスに進化を遂げた。
勿論、これも初めてである。
キスをするのに、舌を絡ませるなんて気色の悪い行動、出来るわけがないと思っていたが、
人間、やろうと思えばなんだって出来るものである。
私はひとつ、大人になったような気がした。それからディープキスは、更なる進化を遂げた。
先ずは、軽く私を抱き寄せてから顎を引き上げくちびるに触れる。
角度を変えて何度も触れるだけのキスをし、頬や額にもキスを落とし、
彼的に盛り上がったところで、やっと舌がくちびるを割って私の口内に侵入してくる。
他人の舌が自分の口内を弄るなんて、絶対に受け入れられないと思っていたのに、
不思議と気持ちいい。
散々、好き勝手に私の口内を楽しんだ後、最後は私のくちびるをペロリと舐めて終わり。
「それじゃ、また明日ね」
一緒に食事をした後、私を送ってくれて、別れ際にあのキスをするのだ。
最近、それが楽しみである自分が、少し恥ずかしい。
そして、彼と離れがたい、もう少し一緒にいたいと思い始めているのもまた事実で、
思うたびに私は、年甲斐もなく頬を赤く染めていた。
そうして付き合いも一ヶ月と続いた頃、ついに私は、彼と肉体関係を持つようになった。
勿論、私はこの年で処女という、まるで化石のような女である。
だけど彼は、キスが初めてだったこともあって、
私が処女であることは見越していたようだった。
彼は何度も「可愛いよ」「素敵だ」「とても綺麗だよ……」と、繰り返し耳元で囁いていた。
そりゃもう、身体が引き裂かれるんじゃないかっていうぐらい痛かったけど、いい思い出に
なったのではないかなと思う。破瓜なんて、人生で二度も経験できることではない。
何より嬉しかったのは、彼が私を気遣ってくれたことだ。
少しでも身体を動かそうとすれば「動かなくていいよ!僕が全部やるから!」と、
まるで病人扱いだ。まあ実際、身体を動かすのは苦痛だった。
下腹部は鈍痛が続いているし、体中、ありえない筋肉痛に襲われていたし。
普段使わない筋肉が面白いぐらいに悲鳴を上げていた。
次に身体を繋げるまで、それはもう、お姫様待遇で彼と過ごしたものだ。
そして今現在。
私と彼のお付き合いも、既に二年が経過している。
二人で話し合った結果、同棲もしている。
私も彼も、いつの間にか互いがとても大切な存在になっていた。
いや、彼は最初から今までずっと、私が大切な存在だったのだと初めて知った。
だから私も、同じ分だけ彼に気持ちを返せたらいいと思う。
「そろそろ」
「え?」
「本当に僕だけのものにならない?」
彼から言われた言葉が、理解できなかった。
だって、私は既に彼のものなのに。どうしていきなりそんなことを言い出したのか、
さっぱりワケがわからなくて、思わず顔が変になってしまった。
「分からない?」
「うん」
「あのね、僕と結婚しませんかって言ってるの。わかる?」
「え……えぇっ、えええっ!?」
「そんなに驚かなくても、君を大好きな僕の行動なら全て理解済みかと思ってたよ」
「だ、だって……け、け、結婚って……!」
「だって、僕は君が大好きなんだよ!愛して愛してやまないんだ!
もっと確実に僕だけのものにしたいんだよ、だからさ、名字を一緒にしちゃわない?」
まさかプロポーズを受けることになるとは、夢にも思わなかった。
一生、縁の無いことだと諦めていたのに。
一人で生きていく覚悟はあったのに。
この人は、なんで何時も私の覚悟や諦めを、掠め取るように奪っていくのか。
「僕と、結婚してください」
「……うん」
「やったぁ!僕嬉しいよ!ああ、三十一年生きてきて、今が一番嬉しいよ!」
私が了承した途端、とても三十路過ぎの男とは思えないようなハシャギっぷりを見せる彼。
彼は、あの頃のまま何も変わっていなかった。
まるで犬のようでとっても可愛い。
この人生で、一番華やいでいる瞬間かもしれない。
初めて「欲しい」と思った。この人の人生の中に、私がいることを望んだ。
この人の愛を得て、一生分の幸福を得られた。
でも、問題というものは常に付き纏ってくるものであり、私は自分の運のなさに辟易してし
まった。それは、彼が私の両親に挨拶しにきてくれた時だった。
彼の好青年っぷりは、両親にも大好評だった。
弟も、彼のことを気に入ってくれたようだ。
こっそり「あの人なら、お義兄さんって呼んでもいいよ」なんて言ってきた。
でも妹だけは、終始ぶすっとしていて、つまらなそうにしていて気になっていた。
「ねえお姉ちゃん、幸せ?」
「え?うん、幸せだよ」
「……ねえ、ちょうだい」
「……は?」
「あの人、あたしにちょうだい!」
「え、え、そ、それは……どういう……」
「んもう鈍いなぁ!お姉ちゃんには、あの人は勿体無いの!
だから、あたしが貰ってあげるって言ってるんだよ!」
使い古されたフレーズで申し訳ないが、彼は物ではないので簡単にあげるわけにはいかない。
彼には、意思があるわけで。
だから私は、ここで直ぐに「駄目だよ」と妹を諭さなければいけなかったというのに、
思わず躊躇してしまったのは、幼い頃から植えつけられた“欲しがらない”精神に縁るもの
だと思うのです。
「ね、いいよね?」
「そ、それは……その……」
「ちょうだいったらちょうだいー!何時だってくれたじゃない!」
「で、でも……」
「はいはい、そこまで」
「あ……」
「ちぃ姉はさ、姉ちゃんがお嫁に行くのが寂しいだけだろ?」
「なっ……!バカ弟!誰がそんなこと……!」
「事実じゃん、姉ちゃんのモノなんでも欲しがるのは、寂しいからだよな~」
思わず、開いた口が塞がらなかった。
言われてみれば、小さい頃から物を欲しがるのは、私がかまってあげなかった時に限った事
だと思い出す。私が幼稚園を卒園する頃に生まれた妹。
小学校の入学式があるため、母が忙しなく動いていた時、妹は突然、大声で泣き出したもの
だった。小学校の遠足、行事、林間学校、修学旅行。
何かにつけて忙しい時に限って、妹は「お姉ちゃん、それちょうだい!」を繰り返していた。
小学校の卒業式の時も、中学の入学式も、受験の時も。
そういえば直近では、私に彼氏が出来たということと同棲するということの報告に来た時
だったな……。私の唯一のお洒落着である、淡いパステルブルーのカクテルドレスを欲し
がっていた。友人の結婚式の時に買ったものだったから、もう当分着ないと思っていたし、
あげてしまった。なんだかんだ言いつつ、私も下の子達には弱いのだ。
「姉ちゃん、ちぃ姉の言うこと聞くことないって」
「アンタは黙ってて!で、くれるよね、お姉ちゃん!」
もう既に、何のために、何を、妹が欲しがっているのかもよくわからなくなってしまった。
弟の言葉で、事態が更にややこしくなってしまったのだけは、理解できる。
妹が、寂しがり屋なのはよく分かった。
でも、弟の言葉に妹が過剰に反応してしまって、売り言葉に買い言葉な状態になってしまっ
ている。多分……引っ込みがつかなくなっちゃったんだろうなぁ。
こうなるともう、じゃああげると言わない限り、妹も引かないだろう。
でもだからと言って、本人の意思を無視して「あげるわ」とはいえない。
何せ、今回は人間がその対象なのだから。
と、思っていたらご本人登場で、私達姉妹の間に緊張が走る。
「三人でなにしてるの?」
「あ、義兄さん」
「あ、あのね……」
軽く事情を説明する。
彼は、何時ものようにふーん……と、軽い反応だ。
あんなに悩んだ私がバカみたいじゃないか、それじゃ。私の悩んだ時間を返せ。
「で、僕が妹さんのトコに行っちゃっていいの?」
「え?」
「だって、あげるってそういうコトでしょ?僕が行っちゃって、寂しくない?」
「………………」
「で、妹さんはお姉さんから僕を奪っちゃって後悔しない?
奪っちゃった結果、お姉さんと不仲になっちゃう可能性だってあるんだよ?
いや、寧ろそうなる確立は非常に高いね。男女の関係っていうのはね、
単純なモノじゃないんだよ。僕もお姉さんも欲しいなんて巧くいくはずがない。
二兎を追うものは一兎をも得ず……ってね」
「あ……あ、あたし……」
「君の無欲な精神は、僕、とっても好きだけど。
でもね、たまには本心見せて、欲しがってほしいなって思うよ」
彼が私を、ギュッと抱きしめる。
ああ、私が彼を妹にあげるということは、この温もりが無くなってしまうということなんだ。
今まで何も欲しがらずに生きてきた。
そうすることは、別に苦でもなかったし、生まれ持った性質なんだと諦めていた。
でも……でも……欲しがってもいいのかな。
私は、彼だけは誰にも譲りたくない、どうしても私が欲しいと願う、唯一の人。
なんだか分からないけど、不意に目頭が熱くなって、涙がほろりと一粒零れた。
その後は、堰を切ったように涙が止め処なく溢れてくる。
涙が出るほど、私はこの人が欲しいんだ。愛して……るんだ。
「……やだ、いっちゃや……っ」
「うん、行かないよ。だって、僕が愛してるのは君だけだもの。
勿論、君が愛してるのだって僕だけでしょ?ね?」
「うん……っ……」
「お、お姉ちゃん!!」
「ちぃ姉、もう止めなって。これ以上やったら、墓穴掘るだけだよ?」
「う、煩い!なによ、なによ!アンタなんかにお姉ちゃんはあげないんだから!
お姉ちゃんはあたしのなんだからぁっ!」
「うーん、それは困ったね。大事なのは、君のお姉さんの気持ちじゃないかな?
それとも君は、お姉さんの気持ちを無視して平気でいられるの?」
「うっ……」
妹が縋るような目で私を見つめてくる。
こんな捨てられた子犬みたいな目……
それは、妹が私の物を欲しがり、そして私があげた後に見せる目だ。
ごめんね、私ね、この人が好きなの。でもね、でもね……
「あのね、私がお姉ちゃんであることには変わりないんだよ?」
「お姉ちゃん……」
「困ったことがあったら頼ってくれていいし、悩みがあるなら相談にだって乗ってあげる」
「ぐすっ……」
「大丈夫、きっと私なんかよりずーっと大切に想える人に、出会えるから。
私だって出会えたんだから、ね?」
「お、お姉ちゃん……ご、ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
「よしよし、いいこいいこ」
それから三ヵ月後、私は無事に結婚式を挙げることが出来た。
ちょっと早いかな?と思ったけど、彼が転勤でアメリカに行くことになり、
私もそれについていくことになったから、仕方ないのだ。
本当に急な辞令だったらしく、慌しい結婚式になってしまった。
勿論、花嫁のブーケは、妹が掻っ攫っていった。
並み居る独身女性を押し除け、私の目の前に立ち「ちょうだい!」と叫んだ彼女は、
実に天晴れだ。私も投げることなく、手渡しで妹にブーケをあげた。
これで、彼女にも素敵な男性とのめぐり逢いがあればいいなと思う。
日本を離れる時も、妹は散々泣いたけど、傍らには私の知らない男性がいた。
彼氏だと紹介された時は、とっても驚いたけど……
だけどもう、妹が私のものを欲しがることは無いだろう。
姉としては寂しいものがあるけど、それでいいんだと思う。
姉、妹、弟と、別々の道を歩んで行く。それが、人生なんだと思うから。
でも、私達はちゃんと繋がってる。
私たちには「きょうだい」の絆がちゃんと繋がっているから。
そして私はというと……相変わらず、欲しがらない。
欲しがらないので、たまに夫を困らせる。
「……あのね、これで何冊目?」
「いや、でもね?せっかく友達が送ってくれたし……」
「でもあなたがお友達に頼んで送ってもらってるのよね?」
「う……」
「あのね……そんな本なんかなくても、私達の母親っていう生き字引がいるんだから、
心配ないでしょ?」
アメリカに来て一年、私は子供を身篭った。
勿論、初めての妊娠だ。
夫は、心配性なのか、妊娠に関する本や育児雑誌を日本から取り寄せては、
私にも読むように言う。
そんな本なんかいらないのに。マニュアル通りに育てる必要なんかないのにね。
こんな調子で、まだ男か女かも判らないのに服を買ってきたり。
生まれてから一年近くは、おもちゃすら持てはしないのにおもちゃを買ってきたり。
かなりの子煩悩っぷりを見せている。
「君は本当に物を欲しがらないね……」
「それが私です」
「それもそうか」
「そうよ……ふふっ」
きっと私は、ずっとこの調子なんだろう。
でもそうだな……私達の子供が巣立って、結婚して、孫が生まれて、
私たちがおばあちゃんおじいちゃんになったのならその時は……
欲しがる女になるっていうのも、悪くないかもしれないね。
次は、妹かダーリン側から見たお話…かな。多分ね…。