第3章~その2~
まだ仕事はお試し期間のようなものだから、ほぼ定時に帰ることができた。もっとも今はまだやらなければならない仕事があるわけでもなく、学校の延長のようにもっぱら研修を受ける毎日。ただそれが終わったとしても、最近はお役所がうるさくてたくさん残業をするわけにもいかないようだけれど。
そんなこともあって、隣部屋の美咲とは一日中行動を共にしている。彼女はクールな見た目のわりに話してみれば明るくて社交的。だから仕事が終わった後同僚と外食することが多いかというと、そこはそうでもなく堅実だ。特に和と夕食をとるとなると、ほぼどちらかの部屋。買ってきたお惣菜のこともあるけれど、だいたい二人とも何かしら作る。二人分なら食材を余らせることがないのでリーズナブルだ。
今日は、美咲がトマトベースのスープと白身魚のムニエル、和がキャベツとシラスの酢味噌和えと豚肉とたまねぎをすき焼き風にして卵でとじたもの。和食も洋食も取り混ぜて賑やかな取り合わせ。いつもはお互い前日に作ったものが多い。でも、美咲は昨日下ごしらえをしてあったようだけど、和は帰りに食材を調達してササっと作った。今日は美咲の部屋。
「お疲れ、カンパイ! って、和、昨日あんだけ飲んで大丈夫だったの?」
「でも、ビール2杯半だよ? 普段もっと飲んでるでしょ? それより美咲の方こそ大人しかったじゃない」
「そりゃ、会社の先輩もいたし。飲みにくいよ」
「いつも私より飲むのにね。ネコかぶってるのかと思ったよ」
できるだけ自分に話題が振られないように、チクチクと美咲をつつく。美咲は思い切り口を尖らせた。
美咲の部屋と和の部屋は隣り合わせで、台所やお風呂などの位置が全く対称になっていた。でも、エアコンやベッドなど大きな家具は最初からあったものだから、部屋の感じも似ている。お互いミニマリストとまではいかないけれど、スッキリシンプルな空間にしていた。食卓にしているテーブルも似ていて、強いて違いを挙げるとすれば、和が床に座るような寝転ぶこともできるソファに対して、美咲は大きめの座椅子といった感じ。でも美咲いわく、それもソファらしい。
「でも、先輩の渡辺さんと滝本さんはともかく、山中くんもしっかりしてるよね。私はダメだなあ、まだ学生気分が抜けないもん。美咲は偉いよ」
そのソファの背もたれに体をあずけた和がいかにも感心したように言った。
「和も研修じゃそつないじゃん。プライベートは天然だけど」
テーブルの向い側、クッションを座布団がわりにしている美咲は、座り心地が悪いのかクッションをずらしながらいいポジションを探している。
「天然って失礼な! え、私、天然?」
「あんたが天然じゃなくて誰が天然よ⁉」
ようやくお尻が落ち着いた美咲は、やっぱりね、というような顔でビールをひとくち飲んで、すき焼き卵とじを取り分けた。
美咲の反撃に納得がいかない和も、スープや酢味噌和えをよそうと美咲と自分の前に置く。
ただ妙に不安になって、どこがそんなに天然?と聞きかけた時、先に美咲がお箸をおいてポツリと聞いてきた。
「和、昨日一緒に行った三人、どう思う?」
「どうって、だから、みんな大人だなあと」
「それだけ?」
「それだけって、失礼なことをしちゃったのに優しく受け入れてくれたし、また行きましょうって言ってくれたし。社交辞令なんだろうけど、わざわざ会社で面倒臭い私なんかに声かけてくれて」
「……まったく。やっぱ、あんた天然だよね。というか分かってないというか」
「何が?」
「何がって、いくら会社の人だからって、すべて優しさとか社交辞令だけじゃないからね」
怒ったように言って、大きく口を開けて目の前の卵とじを押し込むと、「味付け丁度いいね。おいしいから、これは私が全部もらう」と和の前のお皿も取り上げてしまった。
いつもの美咲にはない態度。さすがに和もそうかと思い当たる。両肘を机について美咲の顔を覗き込む。
「Yくん狙い?」
和が優しく微笑むと、美咲は照れくさそうに俯いて、また卵とじを食べた。そしてビアグラスのビールを一息に飲み干すと、「あんたのその顔、禁止って言ったでしょ」と言ってその緩んだ顔を隠すように後ろに振り向いて立ち上がり、冷蔵庫に隠してある、美咲が好きな、とっておきの、(ほんの少し)値段が高いビールを持ってきた。ふざけてビールを顔の横に掲げる美咲に、和の頬もさらに綻ぶ。
「もう。和が普通に笑っているだけで、性別飛び越えて押し倒しちゃいそうになるよ。あんた、気を付けときなさい! か・い・しゃ・で・も!」
「え? え⁉ なんのこと?」
「……なんでもないよ。で、もう一度確認するけど、和はみんなが大人な対応で、社交辞令で、いいんだよね?」
「全然、いいよ」
「じゃあ、これあげるからコップ空にして」
和が飲み干すと、全身で安堵したような美咲が、両手でわざとらしいほど丁寧に注ぎ入れた。
直情的な彼女の機嫌が悪かった理由は分かった。ただ、彼がどう思っているのかは知らないけれど、自分は『カッコよくて、いいひと』と思うくらいで、それ以上のなにものでもない。むしろヘンにいじられて考え込まされたのが、いまさらながら気に障るくらいだ。彼には他愛のない突っ込み話だったかもしれないが、こちらは後からじりじり強くなる感情の処理が大変だった。だからと言って彼を責め立てるわけにはいかないけれど。つまりは美咲の好きなようにしてくれたらいいと思うだけだ。
ただ和は、これでそうおいそれとは野球を見に行けなくなったかな、とどこか気持ちのいいあきらめ気分になっていた。