第3章~その1~
美咲とは毎朝部屋の前で待ち合わせていた。しばらく研修先が同じだから、そこは自然に。
いつもは和が先に出て待っているのだけれど、今朝は珍しくドアを開けたところに、頭からつま先まで整えた美咲が、冷然と見下ろすように立っていた。即座に気圧されたけれど、昨日のことだと分かっていたから、会ったらすぐに言おうと思っていた言葉を口にする。
「昨日は、ごめんなさい」
心を込めて、きちんと頭を下げた。整えた髪は揺れたけれど、顔はこわばったままだ。アサイチからドキドキする。
「おはよう、でしょ?」
顔を上げると、美咲は微笑んでくれていた。
細面の顔にやや釣り上がった切れ長の目。真顔で美人、きつく睨まれると怖いけど、笑って少し目じりが下がると可愛くなるのだ。ついホッとして顔を緩めてしまう。
「和はいいよね。そんな可愛い顔してたら、怒るに怒れないじゃない」
呆れたような美咲が、「行くよ」と右手を引いた。
駅までは歩いて二十分ほど。高知だと車を使う距離だけど、都会では普通に歩くのだ。朝のウォーキングは目も覚めるし、普段動かないからいい運動になる。建物の影が邪魔をするけれど、今日は天気も上々。できたての朝の光がまだへこんでいる体にあたるとじんわり暖かくて、自然に足が前に伸びるようになる。
それなのに……
「昨日、なにあんなに泣いてたのよ」
カツカツと軽やかにヒールの音をさせながら、美咲が振り返りざま唐突に切り出した。
意表を突かれて、急に頬が真っ赤になったのがはっきり分かる。
聞こえてたんだ、あれ。変なこと口走らなかっただろうか。
心配になって美咲の顔を覗き込むと、美咲の方が心配そうな顔をしてくれていた。
「なにかあったからあんなに飲んではしゃいでたんじゃないの? 言えることなら言ってよね」
えらく上からで、いつものようにきついけど、優しさに溢れている。
美咲は、その雰囲気も話口調も性格がそのまま表れているようで、キリッとしていて勢いよくまっすぐ。それでいて気持ちを察してくれるから悔しいかな憎めない。
それが今もジワリと沁み込んでくる。和はむぅと口を突き出した。
美咲とは入社式前からの付き合いだ。
寮に入る日、たまたま美咲も同じ日に引っ越してきた。寮と言ってもワンルームマンションのようなもの。部屋は隣だから、狭い通路は荷物を抱えた人で溢れかえった。おまけに引っ越し業者も同じで、同じ制服を着た男の人が同じデザインの段ボール箱を持って、「これどっちの部屋ですか?」なんてしょっちゅう聞いてくるから、自然と話をするようになった。お約束のように一個間違えて置いてくれていたし。その晩からご飯を一緒に食べ、会社でもプライベートでもよくくっついているようになった。美咲は姉御肌。童顔でおろおろすることが多い和といると、どちらの立場が上かは一目瞭然だった。
「んー、ホームシック?」
「ホームシックって、あんた京都でずっと一人暮らししてたんでしょ? 嘘つくんじゃないよ」
「んー……」
「もういいよ。今晩ご飯食べる時にでもゆっくり聞いてあげるから」
聞いてあげるって、美咲は聞く気なんだ。話す気なんかないのに。それにご飯も一緒に食べることになっている。
美咲に目をやると、鋭い眼光がこっちを向いていた。
(ああ……この人にはかなわないからどうせ話すことになるんだろうな)
今までの力関係から、すぐにあきらめて覚悟を決めた。ひとまず今はすんなりと。残念ながら。
既に嫌気がさしているギューギュー詰めの電車に乗り、東京駅で降りる。途中の駅で何度も人に押し出され、1カ月以上経つのにいまだ美咲に手を引いてもらうことがよくある。最近になって、ドアの近くでは自分から降りて、また乗り込むなんてことをようやく覚えた。
駅から歩いて十分ほど。見上げるとひっくり返りそうになるようなビルが研修先、というか就職先の会社だ。3カ月って言っていたから、あと2カ月ほどここに来ることになる。それからはまず東京近辺の支店にばらばらに配属させられるらしい。
今日も朝から、大学では全く触れたことのない研修を受けた。もう少しすると試験もあるという。この先たくさんの試験が待ち構えていると聞いたので、げんなりした。もちろんそんなことは入社する前から知っていたけれど、具体的に聞くとそれはそれで余計重たい。
「木下さん、もう帰るの?」
一緒に研修を受けていた山中涼佑がやけにニヤニヤしながら近づいてきた。
そのニヤニヤは昨日のことだと瞬時に理解できた。仕方がない、自分がまいた種だ。
朝と同じように、心を込めて頭を下げる。
「昨日はごめんなさい」
「なに謝ってんの? 別に木下さんがなにかしたわけじゃないでしょ。面白かったよね。また行こうよ」
そう言って、ニッと笑った。あからさまにホッとする自分がいる。
背が高く、スラリとして、優し気な顔つき。髪もキチンと整えられている。昨日のカジュアルな服もそうだったけど、今日のスーツも彼によく似合うものを選んでいて、それがとても清潔な感じがする。靴も奇をてらったものではなく普通に落ち着いた形だけど、キレイに磨かれていて、黒がピカリと輝いていた。
まったく誰かさんとは大違いだ……といまだに比べる自分に気づいて、なんだかおかしくなった。
「機会があれば、ぜひ!」
その緩んだ顔に、ちょっとだけ作った笑顔も載せて、社交辞令なんて言葉をかなり意識して返事をした。
自分だってキチンとアイロンをかけたスーツでピシッとしているのだ。おお、ずいぶん大人になってきたぞ、なんて思う。
「え、ホントに? その言葉忘れないでよ!」
山中も社交辞令を忘れない大人だ。みんな偉いな。ここは自分も頑張らないと。
「ええ、決して」
『ええ』だって。自分で選んで言っておきながら、なんて言葉使っているんだと恥ずかしくなる。頬を赤らめながら少しだけ俯いて、そろそろ出てきそうな地をハンカチと一緒にこっそりポケットに押し込んだ。
「きっとだよ! じゃあ」
どこまでも大人な山中が背中を向けて爽やかに去っていく。和も全力の社会人笑顔を維持しつつ、小さくぺこりと頭を下げた。
「な・ご・みぃー」
右耳のすぐ後ろから、背後霊としても絶対たちの悪い奴だと思うほど怨念をはらんだ声が聞こえてきた。慌てて振り向くと、のけぞってしまうほどすぐそばに美咲の顔があった。朝よりアイシャドーが濃くなっているようにも見えて、もうすぐ何かに変身しそうだ。
「謝ったら、また行こうって。よかったよ、機嫌損ねてなくて」
「あたしの機嫌は良くないけどね」
わかるよ、その声聞いて、その顔見れば。研修中に何かあったんだろう。まったく、山中くんを見習ってもらいたいものだ。
グレーのスーツを着てその表情で睨まれると、鬼教官に問い詰められているようだ。その顔に見覚えがあるからいいけれど、他の新人ならきっと震えあがってしまうだろう。
仕方ないから、ここは自分が大人な対応をすることにする。
「わかったよ。なにかあったんでしょ。大丈夫、今晩のご飯の時にでも聞いてあげるから」
と言って、朝の立場の逆転を図る。今日何度目かの笑顔を作って、ポンポンと肩を叩くと、余計に目を吊り上げた。本当に怖いから止めてほしい。
「もう、あんたのその顔は、禁止!」
美咲は和の頬をムニューと引っ張ると、急に脱力して、大きく息を吐いてうなだれた。
どうして自分がこんな仕打ちを受けなければならないのか分からない。誰かに向いていた怒りの矛先が、近くにいた自分に向けられたような。今日は彼女に悪いことをした覚えはないからとんだとばっちりだ。
おまけに化粧、どうしてくれるんだ、まったく。学生じゃないんだぞ。
今日は一日大人モードが続いている。




