第2章~その3~
和は抑えきれず、俊樹にだけメールを送った。先日京都で別れて以来、恵美からは何度かメールをもらったけれど、彼からは一度ももらうことはなかった。もちろん和からも送っていない。でも別れ間際、間違いなく彼に『また、メールするね』って言ったのだ。あのいつも乗り降りした駅で、これが最後になるかもしれない彼と同じ空気の中、機械の画面で見られる写真や動画じゃない、精一杯の笑顔を作って。
メールには写真を添付した。初めてのドーム球場前で美咲に撮ってもらった自分の笑顔の写真。コメントには今温かくも苦しめてくる想いを密かに込めた。
<今日久しぶりに野球を見に行きました。やっぱり俊樹の方がうまいし、かっこいいよ!>
しばらくソファに座ったまま、じっと返事を待っていた。どんな返事が来るんだろうとドキドキしながら。
プロよりうまいなんてあるわけないやろって呆れられるのだろうか。それとも、彼も虎さんファンだから、いいなぁ面白い試合やったもんなぁってうらやましがられるのだろうか。いやいや、和ちゃんの応援が足りんかったから負けたんやないのって怒られるのだろうか。
でも外から差し込む光がなくなって、部屋が真っ暗になっても彼からの返事はなかった。テーブルに置いたスマホも黙ったまま、その暗さの中で見えなくなっていった。いつになったら返事は来るのだろうか。自分にはその沈黙をずっと受け入れなければならないのか。それが自分への罰なのか。そんなことを考えていた。
しかたなく立ち上がり、明かりをつけて、お風呂にお湯を入れる。ほぼ無意識にテレビをつけると、あまりのけたたましい音に目を背け、すぐに消した。またソファに座り、十分くらいして、外から帰ってきたままだったシャツもスカートも下着もすべて部屋の中に脱ぎ捨て、素っ裸になってバスルームに入った。
目の前の全身が映る鏡と目が合う。そこには裸の女の子が一人、自分が思うより悲しそうに立っていた。ただ、体も手も指先まで、少しの穢れもなく映る。
(本当は、違うのに……。でも、あなたはきれいだよ)
誰にも聞こえない声で、自分しか見ることができないその子に、そう呟いてあげた。
のそのそと髪と体を洗い、ゆずの香りの入浴剤を入れたお湯につかり、体の表だけ温まってお風呂から上がった。いつものような幸せはなかった。
ドライヤーで髪を乾かし、水をたっぷり入れたケトルを火にかけ、ベッドに腰を掛ける。
ベッドサイドの小さな本棚に置いてあった、小さなオルゴールが不意に目に入った。これは2回生の時、看病をしたお礼にと俊樹からもらったものだ。彼からの数少ないプレゼント。自分が生まれる前の、頬が赤らんでくるような恋の曲が入っている。女の子が、好きな彼に振り向いてもらいたいけど、言い出せない、そんなありがちなシチュエーション…………彼がどういうつもりで自分にプレゼントしてくれたのかは分からない。いや、そんなこと、あの人は考えていないだろうな。こんな自分だから、色々なものがすり減るような気がしてイヤで、ネジを巻くのは特別な時。いつもは手に取って眺めるだけ。どことなく今の自分のために作られたようなこのオルゴール。一緒に看病した恵美ちゃんももらったそうだけど、あの事件の時に、怒りのあまり捨ててしまったらしい。
まだ静かに眠っているスマホを手に取った。彼からの返事はもちろん来ていない。おもむろにフォルダーを開き、昔の写真を見返してみた。写真はきちんと整理していた。映りの悪いものや気に入らないものはすぐに捨て、残したものにはよくコメントも添えた。スマホは大学に入ってからだけど、整理しているにもかかわらず、写真は結構な枚数があった。残してある彼の写真も多かった。会った時間のわりには。それも分かっているのだけれど。
いくつかめくっていると、縁結びの神社の前で撮った写真に行き当たった。一番幸せだったデートの思い出がよみがえる。これ以上ないくらい笑顔の自分が両手で彼の腕を抱えて、その距離はゼロ。ピッタリ寄り添った写真。コメントには『どうかお願いします』と恥ずかしげもなく書いてあった。でも神様へのその願いは、届かなかった。
その驚いた彼の表情をじっと見つめていたら、急に画面が暗くなった。それでも固まったまま、自分の息づかいを感じていた。
(いまさらメールなんか送ってどうするの)
ケトルが急にけたたましい音を立てる。慌てて立ち上がり、火を止め、一息。それから急須に茶葉を入れた。いつもより少なめの茶葉に、粉茶が混ざる。ついに京都から持ってきたお茶の葉までなくなってしまった。
一客しかないお気に入りの湯のみに熱いお茶を注ぎ、テーブルに置き、またソファに座る。時計を見るとまだ9時前。眠るには早い。
お茶をひとくちすすった時にスマホが震えた。この感じは彼からだとすぐに分かった。さっと手を伸ばし、頬を綻ばせ、胸を高鳴らせながらメールを開いた。
<先日はありがとう。ドーム行ったんやね。いいなあ。そうやね、僕の方が間違いなくうまいね(笑)。今度案内してよ。(さわなみ)
元気? ドームって行ったことないのよね。私も行きたいな。写真、和ちゃんめっちゃ楽しそう。たくさん友達とかできたんでしょ? 今度、ちょっと頭がおかしくなっている俊樹と行くよ(笑。なんか隣で文句言ってる。大笑!)。東京全然行ってないし、懐かしい。ところで和ちゃん、元気だよね? (えみ)>
(え、どうして?)
なんて素っ気ない彼の返事。たぶんいまだガラケーだろうけど、文字ばかりの返事が余計にやっつけ仕事のように感じる。おまけにどうして恵美ちゃんまで?
って、それは……そうだよね。でも、考えてしまう。
(この時間に二人一緒にいるんだ……)
今、二人は彼の部屋にいるんだろうか。今夜はずっと二人でいるのだろうか。あの彼の狭いベッドで、二人朝までずっと……。
でも、それも、そうだよね。私がそうなることを望んでいたんだから。
それにあの鈍感な恵美ちゃんに何か気づかれて心配されている。そのことにもなぜか腹が立った。一枚写真も添付されているけれど、頭に浮かんだ映像がむかついたので見なかった。その想像の恵美ちゃんの幸せそうな笑顔にバッテンをつける。返事もせず、スマホをベッドに投げ捨てた。胸の奥が熱くなる。膝を抱えると、また涙があふれてきた。もう嫌だ。
テーブルの片隅の封筒が目に滲んで映った。小さな子供のようにわざとつらそうな声を出して泣きながら、ぽたぽたこぼれる涙をそのままにして、封筒を取り、中の紙を引き出した。
『がんばってね 母』
そばにあったクッションに顔をうずめ、大声で泣いた。どうしてこんなに悲しいのか分からなかったけれど、あとからあとから涙が出た。
1時間も2時間も、もっともっと泣いてようやく涙が枯れた。顔が熱く、息が切れ、まだ心臓が騒がしい。
クッションから顔を上げると時計が笑っていた。まだ9時半にもなっていなかった。
しばらく大きな呼吸をして息を整えていると、なんだかばかばかしくなってきた。
(こんなものか)
何気なくあたりを見回す。ここは東京の自分の部屋。
(明日からまたここで研修がんばろう!)
ベッドにもぐりこみ、いつものように抱き枕にしがみついた。