第2章~その2~
その帰り道。球場から駅までも、電車の中でも、駅から寮までも、疲れこそあれ気持ち悪いとかフラフラするといったことは一切なかった。ただ球場での会話と情景が頭の中を繰り返し流れていて、もやもやした気分が波のように続いていた。
部屋に入る前、美咲に心配されたけど、「大丈夫」とひとこと言って別れた。
バッグを無造作にベッドに転がして、ソファに体を預ける。柔らかいソファに沈み込んで落ち着いていくほんのわずかの間、瞬きもせず、息もせず、体も意識も固まっていた。ようやく力が抜けて一人になったことを全身で理解すると、堰を切ったように想いが溢れ、涙となって流れ出した。
(やっぱり行かなきゃよかった)
球場に着くまでは緊張していたのに、その雰囲気にのまれると、大きな遊園地で童心に返った女の子のように、なにもかも忘れている自分がいた。いろいろな刺激を受けてしまう事まで忘れて。
今、触発されて湧き上がる痛みが、胸の中の記憶を揺り動かした――――。
たった数日前の京都での出来事はまだ鮮明で、しまい込んでおくにも温か過ぎた。その上、目の前で繰り広げられた野球のインパクトは強くて、中学高校大学と抱えてきた記憶と想いさえよみがえってきた。学校の教室でキチンと制服を着ていた彼、広いグラウンドをユニフォーム姿で駆け回っていた彼、大学時代に自分とおそろいのジーンズとシャツを着て助けてくれた彼、その姿まではっきり浮かび上がる。今日、みんなの前で彼は下手だって言ったけど、そんなことこれっぽっちも思っていない。俊樹ならゲッツー取れていたとさえ思う。それ以上に……
『友達の、彼、なんです』
そう自分で口にした言葉で、自分に走った衝撃は強烈だった。彼はもう恵美のものなんだ。自分が恵美に託したんだ。そしてあの二人の絆…………もう決して自分の近くに来てくれはしない。
和は8年以上も、想い続けてきた。
でも中学高校では、近くで気づかれずに見ているだけだった。願いが叶う夢を見ていたけれど、現実は積極的に動いていくタイプではない、というよりむしろ消極的で引っ込み思案な性格。だから、仲が良い女の子の友達にこそ気軽に話せても、ほとんど接点のない男子になんて話しかけることはおろか、目を合わせて挨拶することすらできなかった。
ただ、その後入った大学は高知から離れていて知り合いも少なかったから、こんな自分がアプローチしたからといってからかってくる人もいない。まして彼氏がいる女の子も、高校時代以上にたくさんいた。
(今までの自分を変える!)
そんな決意も、彼と驚きの再会をしてから、やはりしばらくの間躊躇してしまった。そもそも頭の中でいくら考えていても自分は自分。激変することはない。もちろん思い通りに行動に移せるはずもなかった。それに学部も違って生活の場所が1キロメートル以上離れていたから、会う機会もおのずと少なくなる。たまにしか会わないと、言葉も出てこない上に話すこと自体ためらってしまう。かといって、話したいことがたくさんあったとしても、何のきっかけもないのに電話やメールなんてできなかった。
でも自分は一学年上。大学で一緒にいられる時間は、単純に一年少ない。そんなことを思うと、次第に焦るようになっていった。さらにその不安をあおったのは、性格はきついけどとてもきれいな女の子が、いつも彼の隣にいたこと。確かに付き合ってないって言っていたし、二人とも消極的だった。とはいえ、いつ何どき、何がきっかけになって、急に進展してしまうか分からない。だから偶然とはいえ、想像すらしていなかったシチュエーションが訪れてくれたとき、思い余って自分には考えられないような行動に出たこともあった。後悔しないように、いっときでも早く、気持ちを伝えたかった……。
自分の中に少しずつだけど確実に膨らみ続ける思慕と、急激に高まる不安や焦燥。そんな気持ちを抱え、決して止まってはくれない時間の流れに翻弄されている時に、一度だけ生まれた、思いもしない、ある負の感情が和を狂わせた。それさえなければ…………。
和が3回生だった冬、彼に病魔が襲いかかった。アトピー性皮膚炎。その強い症状は、いつも目にすることを楽しみにしていた顔にも現れ、反対にいつもあると疑わなかった自分への優しさが影を潜めた。大好きだった彼なのに、その風貌も、発する言葉も、醸し出す雰囲気もすべて別人に見えた。そんな彼と何度か会っているうちに、それまで変わることのなかった彼への想いが揺らいでいった。
(こんなつらそうな人と、私は一緒にいたいの? 一緒にいることができるの? 私は……どうしたいの?……)
誰の責任でもなく、ただ彼が、『病気になった』というだけなのに。それなのに、自分は…………。
心地よい風が吹く澄んだ湖に落とされた、昔から自分の奥底に眠っていたであろう真っ黒い泥のような塊。それが広がり、汚れていくのを自分では気づいていなかった。意図的ではなく、いや自分の中のどこかに置かれていた意図だったのかもしれないけれど、しばらく他の何もない方向を見ていた。気づいた時には、彼と会わない、連絡すらしない時間が過ぎていた。
そんな自分の意識が遠のいている時間に、恵美は彼を無条件に支えていた。不器用な彼女が、おそらく彼女自身も気づいていなかっただろう愛を持って献身していた。だから自分が引いた。いや、忌み嫌われる闇を抱えた醜い自分には、悪戦苦闘しながらもあくまで純粋な二人の間に、入っていく隙間はなかったのかもしれない。
次第に悪くなっていく彼の病状。そしてついに、極限状態だった彼の中にほんのわずか残っていた優しさによって、彼らの仲が引き裂かれようとした。――――――彼の強い想いが生んだありえない企てが恵美を見事なまでに激怒させ、彼はすべてを尽くした敗者のように離れていった。そうして、一番の心残りを振り払った彼は、ひとり病気と闘う道を選んだ。彼女に心配をかけないように、迷惑をかけないように、そして愛する彼女が幸せになることを願って。
偶然だった。本当に偶然にも、その事実を知ってしまった。気づきたくもないことなのに、気づいてしまった。それは、互いに思いやる心が強すぎて生んだ悲劇だった。ただ、あくまで偶然だとしても、それを知ってしまうと、いてもたってもいられなくなった。だからこんな自分にもできること、でも自分にしかできないこと…………彼らの溝を埋める手伝いをした。
彼が口にした言葉を捻じ曲げ、事実を隠し、遠回しに彼の本当の気持ちを恵美に伝えた。そして、頑固な恵美の誤解を解き、鈍感な恵美自身の想いに気づかせ、とてもとても優しい恵美の不安をあおるように言葉を紡ぎ出した。それは自分の傷を鋭利な刃物で深く深く、削っていくような作業でもあった。だから素直に伝えることはできなかった。抑えきれずあふれてくる自分の感情もそのままに、伝えてしまった。――――――でも、それはとても上手くいった。その二人の幸せを一時は我がことのように喜んだ。
ただ、心はゆらゆらしながらも、つい半年前までは自分が彼のそばにいることを少なからず望んでいたはずだった。それでも最後は自分の意志で、離れた。彼のそばも、関西勤務の希望も、ギリギリのタイミングで遠い東京勤務に変更した。電話もメールもせず、一切のつながりを断った。
けれども、心も距離も静かに離れてしまうと、また、気づく。汚れた水に浮かんでいる醜悪な自分だけど、眉根を寄せて物欲しそうに、いまだ彼に向かって弱々しく手を伸ばしていた。あくまで、自分が汚した手を……。
だから今となっては手伝いの結果は良くも悪くもあった。しかも彼を恵美に託したからといって、自分の中に残された彼の欠片は、携帯電話の写真のようにすぐに消去できやしない。それどころか、これほどまで強く胸を締め付けてくる。