第2章~その1~
伝統の一戦、関東の兎、対、関西の虎。晴れも雨も関係ないドーム球場は見渡す限りほぼ満席で、座るところもないかと思いきや、そこは横並びで5人分しっかりと席を取ってくれていた。飛び入り参加の和の席も確保されていたけど、それでピッタリ。ということは、最初から頭数に入っていたのだろうか。
1時試合開始だから、まだ時間に余裕はある。みんな思い思いに弁当やお菓子を仕入れて、試合開始に備えて準備万端整っているようだ。
和の隣の通路側に座っていた同期の山中が、さっと手を上げて「ビール1つ」とか言うから、和もつい「私も1つ」と付き合う。ビールは席の近くまで、それも生ビールを売りに来てくれる。ただ、ビールが好きだから付き合って頼んだというより、特にこういった場所のこういう雰囲気で飲むのが好きなのだ。それに、というかそれ以上に今日ばかりは、肩に力が入り落ち着かない自分を少しばかり緩めたい、という気持ちも確実にあったから、いずれにせよ良いタイミングだった。
ふと気づくと、なぜか四人全員の目線が和に集まっていた。『え、飲むの?』、そんな感じだ。何度か飲み会のお誘いを断っていたからだろうか。お酒がキライじゃなくて、飲めないわけでもなくて、飲み会を断るとなれば、一緒に飲みたくない人間がいるなどと勘繰られてもしかたがない。もちろんそんな理由ではないのだから、なにか言っておいたほうがいいのかもしれない。でも言い訳がましく、取って付けたような話をするのもどうなんだろう。話の糸口もないし。隣ではよく二人して部屋飲みする美咲が、可愛らしくペットボトルの紅茶なんか持っている。彼女が何を考えているのかは、今朝の話からなんとなく分かる。自分はそんな気もないが、かといってこんなところで悪い印象を持たれるのも癪だ。そんなことを頭の中で素早く考えまわしたものの、結局取り立てて隠すことでもないという結論に至り、遠慮気味ににっこり笑って泡たっぷりのビールが入った紙コップを受け取った。
ちなみに手元に持っていたのは、お好み焼きと串カツ。ビールとの相性は間違いない。でもどう食べても口のまわりはソースだらけになり、突っ込みどころ満載の顔になるだろうし、ひかれること間違いなしだ。自分の立ち位置とこのメンバーからすると、このチョイスはさらにないのかもしれない。ただそれを選んだ理由は、好きだし、美味しそうだし、食べたかったから。それ以外考えていなかったし、いいのだ、別にひかれても。美咲はというと、サンドイッチを小さな口でつつましやかに食べている。いつもはそんなキャラじゃないから、ボロが出ないようにするのは大変だろうに。
試合は予想に反して乱打戦だった。毎回のように点が入って、5回を終わったところで6対5。これだけ点が入ると観ている方は楽しい。両チームとも連戦続きだったからか、先発ピッチャーをここまでずっと引っ張っていたけど、そろそろ代えどきかな? それで右往左往している試合の流れがどっちかに傾くかも。6回表に兎さんチームのピッチャーが連続ヒットを浴びた。ノーアウト1、2塁。監督がベンチから出てきて、審判に交代を告げている。いまだ!
「すみません! ビール一つください!」
サーバーを背負った今にも走り出しそうな、笑顔がかっこいい女性に声を掛けた。ん? 3杯目?
「ちょっと、和」
さっきまで渡辺さんとかに解説してもらっていた美咲が軽く肘打ちをしてきた。
あら美咲そこにいたの?というくらい久々の接触。魅惑的な映画の世界から、息苦しい現実に無理矢理引き戻されたような気分で振り向いた。
そうだ。だいたい美咲が誘ってくれてここに来たはずなのに、おまけに「野球、嫌い?」とか言っていたのに、なんだ野球全然知らないんじゃないか。じゃああんたはお隣の渡辺さんと滝本さんに聞いてなさい、と一人勝手に久しぶりの野球を堪能していたのだった。
「え? なに?」
「飲み過ぎよ。大丈夫なの?」
まるであなたのためにわざと作りましたと言わんばかりの、誰が見ても分かる不機嫌な顔を向けてくる。
いいじゃない! 場を白けさせてないし、楽しく見ているんだから! それにこんなワクワクする展開、盛り上がらなくてどうするんだ!
左隣にポツンと座っていた山中が、売り子のお姉さんから受け取った和のビールを手渡すと、「強いね」と呆れたように笑った。たぶん、山中は和に野球を教えるつもりだったのが、あまりにのめり込んでいるので、一人黙っていたようだ。
「面白いの?」
と和に声を掛けたその時に、バッターが三遊間に強いゴロを放った。ショートがかろうじて追いつく。
「うまい! ゲッツー!」
山中の声なんてまるで届かないかのように、身を乗り出した和が叫ぶ。
残念ながらさっきのプレーは、ショートが振り向きざま2塁でランナーをアウトにしたものの、1塁はセーフになった。ダブルプレー(ゲッツー)にはならなかった。
「んー! 逆シングルのあの体勢から、速かったなー。俊樹にはキツイかな、あれは」
瞬時に熱が冷めて深く椅子に座りなおした和に、「ゲッツー、惜しかったね」と山中が囁いた。
(惜しい? 私は虎さんファンだからセーフでいいんだけど。そうか、みんな、兎さんファンなんだ)
「惜しかったですね。でもさすが! 抜けたら1点のあの打球をダブルプレー寸前まで持っていくんですから。それにこの席だとみんなの動きがよくわかりますね。外野手もしっかりカバーリングしてて、って当たり前か」
クリクリとした瞳をキラキラさせて、興奮気味に、いや超興奮して山中を見上げた。
「木下さん、すごく詳しいよね。まさか野球してたの?」
「いえ、好きなんです。野球」
何をご冗談をと、顔の前でパタパタ右手を振った。そんな和を横目に山中は何を思ったのか、不敵な笑みを浮かべる。ほんの少しの間、球場の興奮が収まるのを待って口を開いた。
「好きなのは野球? それとも、その『としき』って人?」
「え?」
和の笑顔がピタリと止まる。ゆっくりと口元が下がり、膝の上の串カツが目に入る。
つい昔の感覚で俊樹と比べてしまい、いきおい口から漏れてしまったのだ。
「木下さん、わかりやすいよね。彼氏?」
山中は吹き出しそうになるのを堪えて、もう泡もなくなったビールをちびりと口にした。
「え? 和、彼氏いないって言ってたじゃん」
背中から突然美咲が割り込んできた。慌てて振り返り、すぐに前を向いた。大きなモニターには、先ほどのショートの流れるようなプレーが映し出されていた。
「……友達の、彼、なんです」
事実を伝えた声が震える。両手でしっかりとつかんでいるビールの紙コップが、少しだけ潰れた。黄金色の液体の中から細かな泡が上がってくる。
(こんな声じゃ、変に勘繰られる)
「よく見に行ってたんですよ! その友達と」
さっと顔を持ち上げて、明るく嘘をついた。ここにはそれを知る人はいないから。
なんだ、という空気が流れる。和は素早く山中と美咲の顔を見てこっそり胸をなでおろした。
「同じショート守ってたんですけど、チョーヘタだったんです。比べるほうが悪いですよね。あははは」
そう言うと、ビールをゴクゴクのみ込んだ。罪悪感と一緒に。
試合は、最終回にホームランが飛び出し、兎さんチームの劇的なサヨナラ勝ちだった。グラウンドではホームランを打ったバッターにベンチの選手がバシャバシャ水をかけていて、一緒に来ていた三人の男性も立ち上がって大盛り上がりしている。虎さんファンの和はみんなにはわからないように美咲の背中に隠れて俯いていたが、それは試合に負けたという理由だけではなかった。
その後お茶でもと言われたけれど、和はビールやらお好み焼きやらでもうおなかいっぱい。それに昨日からの疲れとビールの酔いが加わり、体もだるくなってきていた。輪をかけるように重たい気分ものしかかってきている。仕方なく美咲にこっそり「ちょっと疲れた」と耳打ちすると、「だからあれほど大丈夫って言ってたのに!」と、めちゃくちゃ怒られた。それでも「この子初めてではしゃぎすぎちゃって。明日があるので、ここで失礼させてもらっていいですか」と大人の対応をしてくれた。