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第1章~その3~

 野球――――和はルールはもちろんのこと、プレーの内容や、ある程度プレーヤーの力量までみることができた。それは高校野球で培われたもので、それもただ一人の男の子のためだった。

 その男の子とは、中学から一緒だった。ただ、口数は少なくクラスで目立つタイプでもないし、成績もいいという話は聞かないし、細身で背も高くなく、ものすごく整った顔でも好みの顔でもなく、普通の男の子。とにかく全然魅力的には映らなかった。けれども、ある時を境に和の中からずっと離れない存在になった。

 それは中学二年生の冬のこと。クラスが違っていたけれど、同じ図書室の掃除当番になった時だった。窓の外側を雑巾で拭くために、温かい教室から寒いベランダに出ようとすると、不意に声を掛けられた。「木下さん、僕、外、行くから」。

 図書館という場所柄なのか、数人の生徒がほとんど言葉を発することもなく黙々と手を動かしていた。特に作法があるわけでもないけれど長年の慣例に従い、椅子を隅に寄せ、ほうきで床を掃きモップをかけ、大きな机を雑巾で拭いていく。ただ、一年で一番寒い季節の外側の窓ふきだけはみんな気づかないふりをしているのか、各々が手にしている道具を離そうとせず、いつもより熱心に取り組んでいるようだった。

 今もはっきり思い出すことができるそのシチュエーション。できるならやりたくないし誰かにやってもらいたい。それは自分だって同じ。かといって見て見ぬふりをすることができないのも自分。しかたないからやはり自分が、と思った時、すでに彼は絞った雑巾を握っていた。

 ありがちなことをしていいところを見せたいのかな、なんて邪推もしたけれど、それ以上にカゼだったのか寒気がひどく体もだるかったから、彼の何気ない言葉がとても嬉しく、響いた。ときおり出てくる咳のためにマスクをして、厚手のセーターを着ている自分に代わって、それ以上何も言わず素早くベランダに出て行った。かろうじて冬の薄日はさしていたけれど、四階のベランダの寒風の中、自分とは目を合わすこともなく窓を拭いていた。少しくらいこっちを見てくれてもいいのに、と思うほど。白い息を吐きながら柱を支えにしてふわりと窓枠に登り、窓の高い所まで手を伸ばしていた。その彼が野球部だった。

 それから、たまたま友達に誘われて野球部の応援に行った時にまた出会った。レギュラーでショートを守る彼。ユニフォームを着てグラウンドで機敏に動いている姿はカッコよく、そのうち自分から応援に行くようになっていた。学校でも女子の友達に会いに行くついでを装って、彼のいるクラスに足を運んだ。そうしているうちに彼の一挙手一投足も気にするようになり、いつも物静かでひとり椅子に座って外を見ていることが多い男の子だったけれど、誰であっても変わらず優しく穏やかに接していることを知った。もちろん、自分にも、同じように。でもそんなことなんてクラスメイトはまるで気づいている様子もなく、彼女はおろか友達も少なそうだった。だいたい彼がいいなんて言っている女の子はいなかったし、そもそも彼の話が友達の口に上ることさえなかったのだ。

 中高一貫校だったから、高校も同じ。高校一年でこそクラスが一緒だったけど、口数の少ない彼とはあまり話をすることもなかった。ただ彼の(おそらく)唯一の大親友が、高校二年三年と一緒だったし、同じ高校野球部だったおしゃべりな男子もいたから、それとなく彼のことを聞いていた。もっともそのせいで、その野球部の男子と付き合っているといううわさが広がったけれど。

 好きになっていた。いつからかは分からないけど。彼が視界に入っただけですぐに気づいたし、声が聞こえただけでその姿を探した。勝手に胸が熱く騒ぎ、勝手に口元が綻んだ。自分がそれほどまで気にしているんだと気づいたのも、いつからなのか分からない。でも少しずつ強くなるその想いは、他の男の子に告白されても全く揺らがないものになっていた。しっかり自分の心に根を下ろしていた。会話はほとんどないけれど、見ること、聞くことだけで、その気持ちは育っていった。

 ただそれは、受験勉強に全精力をつぎ込まなければならないようになると、土砂降りの雨の中に霞んでしまい押し流されていくように遠ざかっていった。そして、高校の学業が最高の結果で終えることができたとき、あの熱に浮かされたような想いは優しい思い出に変わっていて、いまさら告白なんてするつもりもなくなっていた。もっともそれまで告白なんてしたこともないから、できるはずがないと分かっていたけれど。だから彼のことは高校の卒業とともにすべて終わりを迎えた…………はずだった。

 その彼が偶然自分と同じ大学に進学した。彼が1年浪人したから、最初入学したことすら知らなかった。だから、住んでいたマンションのそばの本屋さんで再会した時には、それはそれは驚いた。運命かと思った。

 レンガのアーチをくぐりガラスのドアを押し開け店内に入り、いつもの足取りでいつもの場所に向かう。ただそこはいつもと違っていた。かがんで本を眺めていた彼はもちろん私服だったけれど、その見た目も雰囲気も、高校の頃とまったく変わっていなかった。だから瞬時に彼だと分かった。思い出が想いに戻り、高校時代以上に強い火がついた瞬間だった。勢いよく湧き上がる喜びと、同時にぐんぐん高まる緊張を悟られないようにしていたけれど、すぐに耐えかねた。なんとか連絡先を交換したけれど、あとは逃げるように本屋さんを飛び出した。今でもつい数日前のことのように思い出すことができる鮮明な記憶。

 でもそれほどまでに大好きな彼を、同じ大学のある女の子に譲ってしまったのだ。しかも自分が仲を取り持って。

 やはり野球は観に行かないほうがいいのかもしれない…………


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