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第9章~その6~

 和は俊樹の返事を待つこともなく彼のバスローブの紐を引くと、すぐに自分の紐も解きさっとバスローブを脱ぎ捨て、彼の右肩にあごを乗せ抱きしめた。

 すでに覚悟があったのか、俊樹も和の細い体に腕を回した。

 肌と肌が密着する。

 和がぐっと彼の胸を押すと、二人はベッドに倒れこんだ。

「ごめんよ、俊樹。本当にごめん」

「なごみちゃん……」

 俊樹は彼の胸の上で呼吸する和の頭を、もろく壊れてしまいそうな宝物を包み込むようにそっと抱きしめた。

 和自身こんなことなんかで自分の大罪が償えるとは思っていなかったが、そうせずにはいられなかった。俊樹が受け入れてくれることで、少しでも罪が軽くなれば。そうすれば真に納得できるような気がした。

 そんなことを思っていると、俊樹の腕に力がこもる。

 胸の奥で心が大きく拍動し、全身に熱を帯びる。

 今日すべてをさらけ出し、自分のすべてを投げ出して、今がある。

 そして感じる、生まれて初めてのこの感覚が、ただただ嬉しい。

「和ちゃん。いま和ちゃんが考えてることがちょっとだけ分かった気がする」

 俊樹は和の頭をやさしくさすりながら言った。

 華奢に見えるけれど安心して預けていられる引き締まった彼の胸、わずかな負担にすらならないように優しく包み込んでくれる彼の腕、彼の足。

 だがそれに反する声が続いて届いた。

「でもそれは違うと思う。だから、ごめん。何よりも和ちゃんが大事やから」

「でも……」

「上手く言えんけど、すごく気遣ってくれて、優しくて、でも自分がめちゃくちゃ傷つくくらい考え込んでしまう和ちゃんには、ずっと近くにいて欲しい。だから僕が傷つけたくないし、嫌われたくないきね。でもこうやっているんやったら、いくらでもいいよ」

 拒否の言葉で硬直してしまったけれど、そのあとの温かい言葉が瞬時に溶かしてくれる。その呪文を発してくれた口から温かい息が流れて、頭から首筋に降り注ぐ。

 理解が追いつかないままも胸がじんわりと熱くなり、涙があふれる。あふれた涙が彼の胸をつたう。すると彼が頭に当ててくれる手のひらがまた優しくなでてくれる。

 こんなの、いくらでも欲しい。

「恵美ちゃんにも、こうしてあげてないが?」

 つい、また、聞いてしまう。してあげていないのが不思議でならない。

「してないって、ほんとに。和ちゃんが初めてやって」

 彼は平然と諭すように言った。

 5月には涙も見せた恵美。優しさをも尖った形でしか示せなかった彼女が、あれほど柔和になったのは間違いなく俊樹がなしたものだ。彼の、まさしく捨て身の愛が彼女を変えた。そこにはこの温かさは関与していないのか。

 そしてふと思う。

「ねぇ。恵美ちゃんの何に惹かれたが? 恵美ちゃんの何が好き?」

 俊樹の胸に呟くように尋ねた。

 いまさら自分は何を聞いているのだろうか。それに小さな子供のような問いかけ。

 出会った頃の近寄りがたい雰囲気だった彼女からすると不思議に思っていた。いかに同じ学部、同じサークルだったとはいえ、あの彼女は1回生の初めからずっと隣にいたのだ。もちろんそれを見ていた自分も彼女ほどではないとはいえ近くにいた。彼の好みなんか分からないし、いまさら比較するつもりもないけれど、素直にそれを今知りたくなった。

 するりと答えが返ってくるかと思っていた質問なのにすぐに返事もなく、なぜだか考え込んでいるようだった。ただ、動揺することも恥ずかしがる様子もなく、頬から直接伝わる彼の鼓動は、速くなりもせずまっすぐ。

「んー、なんやろね? 実は好きとか、惹かれるとか、僕にはよう分からんのよ」

 彼は胸に抱えている和をわずかに抱えなおして呟いた。

 隙間なく触れ合っていた彼の肌が動き、予想もしない返事が耳に届くと、それまでと違った彼が流れ込んできたような気がした。それで心が乱れてしまったから、少しだけ呼吸を大きくして彼の胸の上で落ち着ける場所を探し、また頬を押しつけた。

 和が静かになると、それを待っていたかのように彼は言葉をつづけた。

「みんながどう判断してるのか本当に知りたい。顔なんか、スタイルなんか、性格なんか。性格でもいろいろあるやろ。優しいところが好きとか、はっきりしているところが好きとか、キッツいのがいい人もいるかもしれん。けど、トータルで人やから、そんなのがたくさん合わさって好きになるんやろうかと思うてた」

「思うてた?」

「うん。だって瞬時に惹かれるとかもあるやろ。一目ぼれとか、びびっと来たとか。そりゃ、その一瞬でいろんなことを判断したんかもしれんけど、基本少数の要素からよね」

 和の胸の内にどこか嫌な気分が押し寄せてくる。だから決してほどけてしまわないように、回していた腕に力を込める。

「それぞれの要素にも深い浅いがあるし、それに種類まであるとしたら、それらが合わさって出来てる好きっていう感情にも深い浅いとか広がりがあるように思う。そんなんが、嫌いにもあって、絶対一人の人に好きも嫌いもあるやろうし、そんで好きでも嫌いでもなくてどうでもいいこともあって、そんなんも干渉しあってトータルの差し引きで、好きって思うんやないやろうか」

「俊樹、計算しゆうが?」

「そのへん自分でもよう分からん。でも要素が多くて、好きって感覚が深いほど、その好きに価値があるかって言われたら、それも分からん。野球でも好不調の波があるけど、人もいつ何時も同じ感覚でおらんやん。そんなアバウトな存在がその時に好きじゃ嫌いじゃいうても、ちょっとしたことで今まで好きやと思うていたことが嫌いになって、それまで築き上げてきた好きって感情が、崩れ落ちることもあるような気がするんよね。そしたら、そんなもんスーパーコンピュータでも計算できんと思う。だから最近は、ときどきなんじゃこいつと思うても一緒にいたい人、一緒にいて楽な人が好きな人ってことで良いんやないろうかと思いゆう」

「それが、恵美ちゃん?」

 和のキーワードを口にする。

「ん~まあ、そうやね」

 自分に気遣ってか、俊樹は口ごもった。

「あいつも好きとかよく分からんようなこと言いよった。僕にも嫌いなところがあるってはっきり言うた」

「恵美ちゃんらしいね」

「そうかもしれん。僕の優柔不断なところとか、考え込むっていうかネガティブな考え方をするところとか嫌いなんやって」

「考え込むのは誰でもするよね。俊樹、ネガティブながや」

「そうやと思う。特に最近、自分はポジティブ思考ではないなあって思う。特に人間関係では。人が怖いし、他人が関わることは石橋を叩きまくってからやないとよう動かん」

「恵美ちゃんを怒らせた時も?」

「いや、あれは簡単やった。なにしろ嫌われたらいいんやもん。好かれる方が難しいがやない?」

「そっか。でも人が怖いのは、同じやね……」

 和がポツリと呟くと、俊樹が頭をギュッと抱えてくれた。

「そうなんやね」

 いろんな意味がこめられているような俊樹の言葉がしみわたってきて、またじんわり胸の奥が温かくなる。

「ねえ、聞いていい?」

「ん?」

「あたし、嫌われてない? 俊樹、本当にあたしのこと嫌いやない?」

 繰り返し繰り返したずねたこと。

 いまここでその言葉を口にしたとたん、幼く聞こえる言葉自体も恥ずかしかったけれど、体の奥底からすべての想いが噴き出してきて全身が熱くなった。心臓もそれに同調するように騒ぐ。なにひとつ身につけず裸のまま俊樹にくるまっていると、汗までにじみ出てくるのも自覚する。

 俊樹がその幼子を守るように目を向けてくれた気がした。そして彼の頬が優しく癒すように自分の頭に押しつけられる。

「安心しいや。さっきも言うたろ。嫌いやないよ。計算からしても嫌いやないし。漠然とした気持ちでも嫌いやない」

「じゃあ、好き?」

「そうやね。嫌いやないから好きって言うんじゃなくて、好きやって。一緒におって欲しいと思うよ」

「体調悪い俊樹を見て、ひどい態度とったのに。そんなあたしやけど?」

「うん。美咲さんにも聞いた。それで和ちゃんがずっと自分を責めてるって」

 背中にゾワリと寒気が走り、体に電気が流れるように痙攣した。

 わずかに動いている部屋の空気に晒されて素肌の背中が冷えたと思ったのか、俊樹は黙って腕を伸ばし彼の胸の上に横たわる和に布団をかけ、またさっきと同じように和を抱きしめた。

 それだけで震えがおさまってくる。なにも言わなくても心が落ち着いてくる。

 和も自然に緩めていた腕をまた絡ませる。上半身は裸のままの俊樹のバスローブの内側、俊樹とバスローブと布団にくるまれて。

 長い間想いを寄せ続けてきた俊樹が、美咲に話を聞いて、自分の話を聞いて、それでも好きだと言ってくれた。その上自分の心配をしてくれる。こんな自分を。

 そんなことを思うと、鼻の奥がツンと熱くなった。

「中学校の頃からあれほど大好きやったのに、いっつも考えてたのに、俊樹がちょっと体調崩しただけで、イヤになって遠ざけようとするなんて。あたしってどういう人間やって思うた」

「うん」

「俊樹を助けようともせんし、声もかけんかった。気にもせんようにしてた」

「もういいって。大丈夫やって。和ちゃんは大丈夫」

「大丈夫……大丈夫って、なに?」

 どこかで聞いた、『大丈夫』の言葉が引っかかる。

「大丈夫ってのも変やね。計算になるかもしれんけど、あの体がしんどい時に冷たい態度を取られたままやったら正直どうかわからん。あの真冬の川沿いのことやろ。和ちゃんが初めて僕の酷い顔見たときのこと」

「……うん」

「和ちゃんに見せとうないと思うちょったし、見られとうないと思うちょった。今考えたら、和ちゃんを意識しちょったきやろうね。嫌われとうないって。だからショックはショックやった。あの時の言葉とか和ちゃんの様子で、正直突き放されたような気がしたがは確かやし」

「やっぱり……そうよね」

 また後悔と寂しさが突き上げてくる。俊樹にどう許しを請うたらよいのかがまた渦巻き始める。

 そんな和のことを察して、また俊樹の腕に力がこもる。頬が彼の胸に押しつけられ、苦しいほど抱きしめられると、涙が溢れてくる。

 そんな震えている自分にも彼は気づいてくれる。

「大丈夫、大丈夫や。いま和ちゃんとこうしているから正直に話したがやで。こうやってがっちり抱きしめてるから、和ちゃん逃げられんし。ははは、うそ。最後まで聞いてもらえるからやね。

 そんな気持ちになったのは確かやけど、あれ一度きりやった。しばらく会わん間は体調悪くて和ちゃんのことを考えれんかったけど、あの高校で一緒やった山野翔が僕の部屋に来た時よ。つい和ちゃんを呼び出してしもうて、あれはまじですまんかったと思う。でも今でもはっきり覚えちゅうのは、またねって言うてくれたんよ、あの時。和ちゃんが、笑うて。あれはうれしかった」

「そうやったっけ?」

「そう。だからプラマイゼロ。チャラ。というかむしろ僕の方が嫌われてないと思うてほっとしたもん」

「あんなことしたのに?」

「そりゃあんな傷だらけの顔見たらいろんなこと考えるし、それは仕方ないって。僕も和ちゃんの立場やったら同じことを考えたよ」

「俊樹ならそんなこと考えんろう?」

「考えるって。考えるというか、頭に勝手に浮かぶやろう。でも僕も嫌われたくないとかが先に立つき、言葉にはせんけど、顔には出るろうね。姉貴にもよう言われよったもん。あんたすぐ分かるって。和ちゃんも言わんかったやない。同じよ。けんどすべて仕方ないと思う」

「本当に仕方ないがやろうか……」

「仕方ないって。それから僕のことめちゃくちゃ心配してくれたき、わざわざ高知で入院しよった時にお見舞いに来てくれたんやろ。あの時はついでに来たって言いよったけど。それから、恵美とつなげてくれたのも和ちゃんやし。どう感謝したらいいかわからんくらいよ。気にするも、大丈夫もない。和ちゃんはなにも悪くない。それ以上にすっごい優しい人やと思うで」

「そんなことないと思うけど……」

「そんなことある。だいたいまったく純粋に優しいだけなんて人がおったら、それこそその人を疑うわ。汚いとかいやらしいとか、そんな気持ちを知って初めて綺麗とか優しいとかも育つんやと思う。だから両方あるのが普通。その中で優しいが勝ってたら、その人は優しく映るんやろうね。和ちゃんみたいに」

 ずっと抱きしめてくれていて、そして今優しく頭をなでてもらう。

 また涙が溢れてくる。

 自分の少しの変化も俊樹は感じ取ってくれる。

 悲しみを取り除くように、背中をさすってくれる。

 グスッと鼻を啜る。

 それじゃあ、と慎重な前置きしてから、俊樹は背中をポンと一つ叩いた。

「僕もお願いしてもいい?」

 まさか、と思う。

 でも違った。

「もう自暴自棄なことはせんといて」

「え?」

「今日もそうやけど、その日焼け、おかしいもん」

「日焼けが? でも俊樹もずっと真っ黒やったろ?」

「それは野球しよった時のことやろ? あれは体も心も超健全な日焼けや」

「同じでしょ?」

「和ちゃんのは、ホントに火に焼かれたような気がする。中学も高校も大学でも見たことない、こんな和ちゃんは」

 そう言うと、俊樹は和の頭を抱きしめていた手を日焼けの痕が残る頬に当てた。

「見てくれよったがやね」

「そりゃそうよ」

 当たり前のことを言わすなと聞こえた。

「どうしようもなくなったら、言うてきて。美咲さんでも恵美でもなくて、僕に」

「いいの?」

「いい。いまやったら一番言いやすいやろう? 悩んでたことも全部吐き出してくれて、素っ裸でこうしているんやもん」

 ボッと真っ赤になった。これ以上はないと思っていた汗がまた滲み始める。いや、さっきまでの汗とは違う気もする。ちょっとだけ元気になって、なんとか地に足がついたから感じ始めた、ものすごく恥ずかしい汗。

 縮こまってしまった和に俊樹が続ける。

「和ちゃんの仮の彼氏やもんね」

 そう言って俊樹は笑う。

 和もそれに応じた。

「俊樹」

「ん?」

「その仮の彼氏、今日で終わりにしようと思うてたけど、契約延長する」

「うん、構わんよ。それがいいやろう。その代わり、なんでも言うてきいよ。和ちゃん、たまに突拍子もないことをするき、はらはらするもん。誰にでもにしたら大ごとになるで。したらいかん!」

 彼氏の延長ができてホッとしていたら、いきなり怒られた。

 でもそうだ。彼はよく分かってくれている。

「それもまあ、しばらくの間やろうね。今は僕が一番和ちゃんを知っちゅうかもしれんけど、そのうち僕なんかいらんなるがやろ」

 そんな予言はいらない。今は言わないでほしい。

「四十歳、五十歳になっても言うかもしれんで? 助けて、抱きしめてって」

「おう。それまで僕がそんな人間やったら、僕もたいしたもんや」

「恵美ちゃんの許可をもろうて?」

「そうやろうかね」

 彼は言葉を濁したけれど、どんなことがあってもそこは変わらないだろう。

「そしたら……いまはもうちょっと、このままで、えい?」

 いまの温かさをずっととどめておきたかった。これが最初で最後になると思ったから。

「いいよ。僕でよかったら、いくらでも」

「僕でよかったらって言わんといてってさっきも言うたのに」

 そういっても俊樹は言うんだろうな、一生。

 だからそれ以上何も考えられなかった。

 そしてより深く彼の胸に体をあずける。

 ここでこうしているのが何よりも幸せだった。

「和ちゃん、めっちゃ大事やし。何度も言うけど、何かあったら言わんといかんがやきね。すぐ飛んでくる。僕にできることやったら何でもするき」

 ふざけたような口調で、無責任なことを言う。

 そういうことを言ってくれる人なんだ、俊樹は。考えようによってはちょっと怖いけれど。

 そうか、でもそれでも……

 和はようやくクスッと笑った。

「恵美ちゃんに怒られるで。そんなこと言うてたら」

 我に返ったのかもしれない。彼の体が急に熱を帯びた。

「知らん。かまわん。その時はその時や」

 ふざけたまま開き直るように言うけれど、そこは計算しているんだろう。彼女なら絶対大丈夫だと。

 けど、それは私も思う。恵美ちゃんならきっと許してくれる。

 いいな。本当にこの二人は。うらやましい。うらやましすぎる。

 ふと私だったらどうなんだろう、と思ったけれど、いいや、と思考をストップさせた。

 いまこうしていれたらいい。

 また腕に力を込めてギュッと強く彼を抱きしめた。


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