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第9章~その5~

 電車には乗った。同じように帰ることにしたたくさんの人と一緒に。

 俊樹の前の席があいていたので、彼は「和ちゃん」と促した。けれども和は、すぐ隣で小さな子供を二人も連れた女性に譲ってあげた。ふと俊樹を見上げる。俊樹は頭をなでるように和の頭に手を乗せた。和は恥ずかしそうに笑った。

 一駅過ぎるとなだれ込んできた人に二人してドアの近くに押しやられた。和をドア側にして、俊樹が和に覆いかぶさってガードするように立つ。和は俊樹が作ってくれたその空間にいて、どこか安心したように彼をじっと見つめていた。

 乗り換えの駅で電車を降りた。とはいえそこが終点だったから降りただけで、どこに行く当てもなかった。俊樹はもちろん和にも土地勘がないので、ひとまず出口に向けて歩いた。和の足取りはますます重くなる。腰を掛ける椅子でもあればいいが、あいにく見当たらない。

「大丈夫?」

 改札を出た俊樹が尋ねた。弱り切った和にかける言葉が尽きてきたのか、俊樹からも短い言葉しか出てこない。

 和は返事をせず、俯いて黙ってその態度で答えを示した。

「どこかで休も。温かいものでも飲んで」

 俊樹が慰めるように背中に手をまわして覗き込むと、和は小さく頷いた。

 駅の出口は二つあり、どちらに行けばいいのかもわからないから、ひとまず近い方を選ぶ。

 すぐに外が見えてきたけれど、駅の中以上に薄暗かった。

 一段下がっている出口の床の古びたコンクリートは、長い間人が踏みしめたためか角が削られ丸みを帯びていた。俊樹は他の人たちと同じように段の端に足をかけ、歩道に降りて辺りを見回した。和もそのあとに付き従う。そんな彼女を見て、俊樹は慌てて傘を開いた。

 真正面に片側一車線の道路が伸びていて、コンビニや小さなショップはあるが、見慣れた喫茶店やファミリーレストランの看板は見つからなかった。左右は小道になっていて、その閑散とした雰囲気は腰を下ろせるような店がありそうにない。

「どんな所でもいい?」

 俊樹を困らせているのは重々承知しているから、もちろん頷いた。

 左の小道に目を凝らしたとき、喫茶店の看板らしきものが、大きな看板に隠れて見えた。俊樹が「歩ける?」と聞くと、「うん」と微かに答えた。

 傘は電車に乗る前に買った一つだけ。さっきより小降りになっていたが、濡れるには十分だった。和をぬらさない配慮なのだろう、俊樹は彼女に向けて傘を傾けた。するとそれに気づいた和は俊樹にぴったりくっつく。ただ並んで歩くだけではどうしても隙間は生まれてしまう。俊樹が肩を抱くように右手を彼女の右肩に添えると、和がホッとしたように顔を上げた。

 あくまでも二人がお互いを気遣っていた。

 俊樹が何かに気づき足を止めた。俯いて歩いていた和も、俊樹より一歩だけ多く歩いて止まる。俊樹を見上げると、目が丸くなっている。和もなにごとかとその視線の先を見た。

『休憩 3時間 4000円』

 そのホテルの看板にさすがにまずいと思ったのか、俊樹の落ち着きがなくなる。

「ごめん!」

 和も駅の近くには時としてあることは知識として知っていたが、目にするのは初めてだった。おまけに、今はまるで自然に入っていけるかのように、ピッタリ二人寄り添って歩いてきたのだ。

「ここでいい」

 深い考えもなく、ただ頭に浮かんだ『進む』の言葉に従った。

「和ちゃん!」

 制止を促す俊樹の声を無視して、まるで何かを隠すようにしつらえている壁をすり抜け入り口向かう。引き寄せられるような和の足取りに、俊樹も慌てて後を追う。

 勢いのまま部屋を選び、オートロックの部屋に二人で入った。


 その部屋は、拍子抜けするほど淫猥な雰囲気はなかった。白と黒とでコーディネートされた、落ち着いているとも言える部屋。ただ異様に大きなベッドと浴室は、ここが二人で静かにいるだけの部屋ではないことを匂わせている。

「シャワー、浴びてくる」

 和はくるりと部屋を見まわし、すぐに浴室に向かう。体が冷えているのはもちろんあったけれど、なによりこの流れている時間を止めたくはなかった。一度止まってしまうと自分の気持ちまで止まってしまい、限られた時間を無為に過ごしてしまいそうな気がした。

 だから脱衣所のガラスのドアは透けていて部屋から見ることができたが、そんなことには一切頓着しなかった。さっと服を脱ぎ、下着も脱ぎ、浴室に入った。

 温かいシャワーは寒さから救ってくれたけれど、固まって思うように動かない体はなかなかほぐれなかった。寒さではなく、緊張が多分に加わっている。けれどもせめて表面だけでもと、頭も体も念入りに洗い温めた。

 バスタオルで体についた水滴を拭い取ると、そのまま備え付けのバスローブを羽織る。ガラスの向こうには和に背を向けてうなだれる俊樹の姿があった。その扉を開くと、彼はこわごわ振り返った。

「俊樹も浴びてくれば。私より濡れてたでしょ」

 トートバッグをベッドサイドのテーブルに置くと、だらりと下がった洗い髪をそのままに、俊樹をいざなう。

「あ、うん」

 俊樹は見たこともない和のありように、気圧されるように立ち上がり、浴室に向かう。和はドライヤーを手に俊樹に目を向けていた。俊樹は和に背を向けて服を脱ぐと、そそくさと奥に入りシャワーを浴びた。

 10分とかからず俊樹は和と同じバスローブを着て浴室から出てきた。湿ったジーンズを椅子の背もたれに掛け、シャツをハンガーに掛ける。

 俊樹は和が使ったドライヤーを持って鏡の前で髪を乾かし始めた。ベッドに座っていた和を向いて、「櫛」とだけ言った。昔デートしたとき、和がぼさぼさよりそのほうがいいと言ったから、櫛で梳かしたのだとすぐに分かった。にっこり微笑むと、彼も笑ってくれた。

 しばらく念入りに乾かしていたが、ドライヤーのスイッチを切ると、ふっと短く息を吐いて立ち上がり、和の隣に座った。20センチという気持ちばかりの隙間を開けていたけれど、すぐに和はその空間を嫌って詰めた。

「まだ寒い?」

 部屋の空調は効いているのかわからなかったけれど、少なくとも湿気は少ないようだった。彼からの熱を感じることもなく、寒いかと聞かれると、寒い気がする。

「うん……少し」

 ごく自然に心配してくれることが嬉しくて、そっと頭を傾け彼の肩に触れる。すると当たり前のように、彼の腕が引き寄せてくれた。あまりにも慣れたようなその動き。

「恵美ちゃんにも、いつもこうしてるの?」

 聞きようによっては意地の悪い質問に動揺する様子もなく、返事はすぐに返ってきた。

「せんよ。したこともないよ」

「ほんとに?」

「ホントやって。だいたい僕がしそうに思う?」

 俊樹のおどけた言葉に、和は口元だけで笑った。

 静かな空気は息がつまる。そのままだと気を失いそうになるから、大きく息を吸ってゆっくり吐いてすりガラスの窓を見た。決してため息にはならないように。密やかな雨粒はいまだ降り続いているようだ。それは、まだここにいていいよ、ということなのだろうか。

「今日はいかんかったね。僕がもうちょっと天気予報とか見てたら良かった」

 そんな和に何を気づいたのか、彼が申し訳なさそうに言った。

「でも少し遊べたし、こうして俊樹と話せてるから、良かったよ。わざわざ来てくれて、うれしい……」

「なんでよ。僕なんかで良かったらいつでもいいって」

 この人はまた……

「……俊樹、いっつも僕なんかで良かったらって言う」

「え?」

「私は俊樹にいてほしいのに……」

 その言葉が彼に困惑を生んだことはよく分かった。今日は彼を困らせてばかりだ。

 ただ、いまばかりは何を思ったのか、隠し事を弁解するように慌てて説明を始めた。

「来るって。この間、恵美に初めて話聞いたときびっくりしたもん。山中さんも立花さんも大概やけど、木下さんめちゃくちゃ落ち込んでるって聞いて」

「え? きのした?」

 和は俊樹から少しだけ離れて、その形相を見上げた。

 まだ、俊樹の解説は終わらなかった。

「恵美もすごい心配してて、どうしようどうしようって電話が来て、ほんで飛んできたんやもん」

「俊樹……それ恵美ちゃんのため? あたしのためやないろう?」

「え、いや、そんなこと」

「そうやんか! あたしの心配やないがやろう⁉ 恵美ちゃんを何とかしたいがやんか!」

「木下さん……」

「木下さん言わんといて! もういい!」

 俯いた和の肩が震え、頬に涙が伝う。

「ごめん……」

 俊樹の言葉に和は首を横に振るだけだった。

「ごめん。確かにそうやったかもしれん。でも僕も心配してたよ。だって僕の恩人やし……恵美と比べれんくらい好きやった。今やから言うけど、恵美にあんなことしでかしたあと、和ちゃんが高知へ来てくれて、関西で就職するって聞いた時すごく嬉しかった。これで体調が良くなったら和ちゃんと付き合えるかもしれんとまじで思うた。それから、二月のはじめやったか、電話をくれた時はもう絶対付き合えるってと思うたよ。まさか和ちゃんのおかげで恵美と付き合えるようになるとは夢にも思わんかったけど。だから、今でも…………。さっき遊園地で、どうしようもなかったんやもん……」

「でも恵美ちゃんよね、俊樹は。やっぱり、あたしがいかんかったがや……」

「だからそんなことないって。あんなひどい僕を見て普通は――」

「わかったき、もういい。俊樹の気持ちもわかった」

 俊樹が何とかして助けたいと思っていることは十分に伝わっていた。ただ、彼の中で恵美への想いがあまりにも強いことはあの事件の時に知ってしまったから、今いくら自分への好意を示してくれたところで、響くことはない。それ以上に、純粋な恵美に対して闇を宿した自分にまた目を向けてしまう。

「俊樹、優しすぎるがやって。中学校の時から、いつでも、どこでも、本当に……だからずっと忘れることができんもん」

「ごめん」

「ごめんって…………」

 和が俯いて口ごもる。しばらく考えていたが、おもむろに顔を上げた。

「…………ね」

「ん?」

「私、汚くない? 汚れてない?」

「え? なに?」

 和の中からするりと出てきた結論じみた質問は、俊樹にはにわかに理解できないようだった。

 その疑問を言い終わると、和は彼の疑問には答えず、悲哀に満ちた目で彼を見つめた。

 彼に言葉の意味が理解できないはずはない。そして彼に審判を仰ぎたいのだ。

 イエスなのかノーなのか。

 真剣な面持ちの彼の口が動き出すまで、和には何十分も息を止めているように感じる。

 彼は何を判断しあぐねているのだろうか。壁にかけられている絵の一点を凝視して考えていた。

 そして、ようやく彼の口元がゆっくり持ち上がった。

「僕には、汚くは見えんよ」

 そう短く言って呆れるように軽く鼻で笑った。

 彼は言葉を慎重に選んでくれたのだろう。

『汚くない』でも、『きれいだ』でもなくて、長い間時間を共にしてくれた彼の目に『汚く映らない』ということ。鏡に映る自分自身は汚れては見えないけれど、その中は黒いものが溜まっていることを自覚している。それも考えてくれたのだろうか。そんなことを含めて『きれいだ』と言わなかったのだろうか。

 だから言葉だけではなく、最後に本当の納得と贖罪のために、許しを請うた。

「じゃあ、お願いしていい?」


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