第9章~その3~
その遊園地が作られている人工島は、区画整理がなされ、道路も広々としていて、建物も大きかった。広い空間は心まで開放してくれるようだった。その上に、吹き込んでくる潮の香り含む海風は、こまごました街の暮らしを忘れさせた。あの旅行から二週間と経っていないのに、もうその香りが懐かしく思う。雲間から差し込む光が斜めに海に届く様子も先日の風景と重なっているのか、遺伝子が共鳴するように沸き立ってくる。
高い場所につくられている駅には、家族連れやカップルも多かった。みんなカジュアルな服装で、帽子をかぶりっていたり、スニーカーを履いていたりと、遊ぶ気満々だ。
「え?」
「恵美ちゃんに言われたからね」
電車の駅を出るとすぐ和が俊樹の右手を取った。和にとって、とても覚えのある男の子にしては小さめの厚く硬い手。
「内緒やで。そうやないと、あんなの冗談に決まってるとか言われて殴られるき」
殴られるわけはないだろうけど、そう言っておどける俊樹は、和が控えめに握っていたその手をしっかり握りなおした。彼の右手と和の左手の指をしっかりと絡ませて、これでよしと言わんばかりに。わざとらしい所作が俊樹の照れ隠しなのは、和にもよく分かった。
「今日はこの手離さないでね。迷子になるから」
和も普通ではいられないから、恵美の言葉の助けを借りる。
「分かった。離してって言われても、絶対離さんきね。覚悟しちょきよ!」
余計落ち着かなくなった彼の顔が、無理をしたと言っていた。真っ赤になったその挙動不審者は、頭の中に長年使わずに置いてあったほこりのかぶった言葉を口にするのが精いっぱいだったようだ。
「お、俊樹、言うようになったね」
汗がにじむ手がやけに力を入れて握ってくる。でもこれは自分の汗と、自分の力も合わさっているのかもしれない。
「行くよ!」
耐えられなくなった俊樹が、少し雲が厚くなってきていた遊園地に向けて大股で歩き出すと、和は大きな笑い声と一緒にさらに強く手を握った。
二人の間の話はほとんど和から俊樹への、質問という名の自白強要だった。最近忙しさを増している恵美とは会っているのか、テニスしたり食事に行ったりしているのか、たまには旅行に行っているのか、なんて、あれほど嫌っていた『女子の恋バナ』を向ける。遊園地がそうさせるのか、話が自分に及ぶのが怖いのか。ただ、残念ながらというより、当然のことながら彼からおもしろい話や色っぽい話しが飛び出してくることもなく、淡々と事実報告が続く。その都度突っ込みようもない和の、「ほんとうにそれだけ?」とか、「それで終わり?」などというむなしい突っ込みが入った。
ただ会話に隙間が生まれると、俊樹の笑顔の中の目が、わずかばかり不安げになるのが気になる。その目が自分の様子を確認するかのようにちらりとこちらを向く。かといって、やはり彼から和に対して積極的に聞いてくることはなかった。
それでも、時間が経つにつれ俊樹との距離が詰まってくるのは、和にとって自然なことだった。悩みと不安を緊張が押しつぶしてくれ、その緊張もピークを過ぎて、肩の力が抜けてくる。つないだ手の汗もなくなり、ようやく足を地に着けて歩けるようになっていた。
むしろ俊樹が隣にいないことが不安になる。ジェットコースターの順番を待っているとき、俊樹が二人分のジュースを買いに列を離れると、和はずっと彼の姿を目で追っていた。戻ってくる彼の顔が見えると、手を上げてパッと輝くような笑顔を見せた。そして彼がそばまで来ると、ジュースより先に彼の腕をつかんだ。
そんな和に、俊樹にも明らかな当惑が浮かぶ。
俊樹には和が抱えている彼への想いを知られている。ただその想いは、いまだ浮き上がったり沈み込んだりしていた。特に山中との出来事があってからは、俊樹との思い出にすがりながら、ともすると倒れそうな自分を保っていた。もちろんそんなことを俊樹が知る由もない。
ここ数年乗ることもなかったジェットコースターの興奮を抱えて出口を抜けた時、俊樹のジーンズのポケットにつっこんでいた携帯電話が震えた。予想していたかのようにさっと取り出しすばやく名前を確認すると、彼はそのまま和に電話を渡した。ニヤリと笑う彼の思惑とはおそらく違い、その電話の画面を見た和の顔に影が差す。電話の先は誰だか言われなくても分かる。ただ彼のその笑顔は、この遊園地に来てから初めて見た気がしたのだ。
「何か用?」
「え? 和ちゃん?」
その声に和は俊樹と目を合わせクスクス笑ってみせた。俊樹としては、してやったりとニヤニヤが止まらないようだ。
「もう。こんなときに何の用? 邪魔しないでくれる?」
「え? 邪魔って、なにしてんのよ」
「そりゃ、内緒でしょ。言えるわけないもん、今の私たちの……ねぇ」
あおる和に恵美も焦りを見せる。
「もう! 俊樹に代わって!」
笑いが止まらない和が電話を渡した。
「代わったよ」
彼は毎日していたキャッチボールのようにごく当たり前に受け取ると、電話を握り直し、スムーズに耳に当てた。今彼がどこにいてどんな状況なのかなんてまるで関係ない流れるような動き。代わったよ、の『か』の音がどれだけありきたりの日常で使われているのか。自分へ向けられる声には決して無い安心のトーン。
すーっと和の熱は冷めていく。
彼は携帯電話のマイクを、ただ体をひねったという風に、和に聞こえにくい向きに変えた。それから、妙に真剣な顔をして頷きながら、ほとんど聞こえない小さな低い声で返事をしていた。ただ彼が二度口にした「大丈夫」だけは聞き取れた。その大丈夫は、彼から彼女への疑問文ではなく、彼女から彼への問いかけの答えだったことは、彼の声音でよく分かった。
その『大丈夫』にははっきり思いつくことがある。
だが、次の瞬間だ。
「仲良くしすぎるのはダメだからね! 聞いてる⁉ 和ちゃん!」
恵美の恐ろしく大きな声が響く。さすがに予想もしていなかったのか、俊樹は顔を顰めてサッと携帯を遠ざけた。どこで叫んでいるのか知らないけれど、恵美の周りにいる人は絶対振り向くだろうし、図書館や映画館ならつまみ出されるだろう。
「俊樹もわかってるでしょうね! あとで全部報告してもらうからね! じゃあ5時だからね! 1分でも遅れたら許さないからね!」
「はいはい、わかったよ」
和がわざとらしくベーっと舌を出している隣で、俊樹が携帯電話の通話終了のボタンを押す。
あれだけうるさい声だったのに、俊樹は爽やかな風が吹き抜けたように優しい顔をして、携帯電話の画面を見ていた。
和はそんな彼の姿に押しつけられるように重苦しくなる。
「俊樹、やっぱり恵美ちゃんとしゃべると、楽しそうだよね」
思わずそんな言葉が口をついた。
気づいた俊樹が顔を上げる。
「え?」
「私のような人間じゃだめだよね。俊樹もつまんないよね」
和が急に顔を顰める。デニムのトートバッグの持ち手をギュッと握りしめ、悔しさをかみしめるように俊樹を見上げた。
「なんでよ? そんなことあるわけないやん」
彼は携帯をポケットに隠すようにねじり込んで言った。
和には、その声は呆れているようにも聞こえたし、なによりただ取りつくろっただけに聞こえた。彼の言葉は、そのままの意味には響かない。いびつに形を変えて和の胸に届く。
そして全身から発せられる彼への返事が、彼を困惑させてしまっているなんて、和自身考えることもできなかった。
「……俊樹、観覧車、乗ろ」
虚ろな笑みを浮かべる和が懇願するように言った。俊樹は間髪を入れずに頷いた。




