第1章~その2~
翌朝、昨日の疲れもあってベッドでのんびりしていると、枕もとでスマホが震えた。面倒だなと躊躇したけど、じりじりと手を伸ばし見る。同期入社で、隣の部屋の立花美咲からのメッセージだった。
<和、今日、ヒマ?>
ヒマ、ヒマ、超ヒマ。昨日のどーんと沈んだ気分もあって、どこかに行きたい気満々だ。
だから、<チョーヒマ!>と光速で返事すると、音速でドアがコンコンとノックされた。「美咲?」と部屋から声を掛けると、「早く開けて!」と急かせてくる。
こっちはまだパジャマのままなのになんてこと。でも美咲は気が短いから早くしないと……。
観念してドアをそーっと開けると、美咲もさっきまで寝ていたような、すっぴんジャージ姿だ。いくら女子寮といっても、そりゃ早く開けろと言うはずだ。
美咲は自分でドアをこじ開けるように入ってきた。さっとサンダルを脱いで、自分の家のように部屋の奥に向かう。
「まだ寝てたの?」
見りゃわかるだろ?それにそういう自分はどうなのよ?と言いかけてやめた。でもいくら休みとはいえ、いい歳した女が9時を過ぎてまだこんな姿なのも考えものだ。
まともに返事するのも癪だから、ちょっとだけぶすっとして代わりに「ご飯食べた?」と聞くと「まだ」と言う。
じゃあ、ってことで、トースト焼いて、コーヒーメーカーをセット。ジャカジャカっとスクランブルエッグに、高知の採れたてのトマトとキュウリをザクザク。それに昨日のお弁当につけてくれていたメロンも添えて。ものの五分で美咲の前に出した。可愛いネコのパジャマで。
美咲はソファで、んーまだ眠いーとか言いながら伸びをしたりしていたけれど、テーブルにドスンドスンと食べ物が置かれると静かになった。
「ねぇ、和は彼氏とかいないの?」
「え?」
むしかえすな!と思ったけど、彼女にはそんな気はさらさらなく、というかこちらの事情など一切知らないから、ただ目の前の食べ物を見て言葉にしただけのようだ。
「彼氏、いないのって聞いたんだけど」
「いないけど」
「ふーん」
なんだいったい。ケンカでも売る気か? 買わないけど。
イラっとした和のことなんてまったく気づくそぶりもなく、コーヒーカップに手を伸ばした美咲がまた口を開く。
「今日は一日予定ないの?」
「なんにもないよ。あ、でも誰かと飲みに行ったりするんだったらちょっと……」
美咲の普段の行動から予測して、予防線をすばやく張る。今このバリアのスイッチは頻繁に押すから、何か察知したらほぼ自動的に自分を取り囲むようになっていた。
その発端は、はっきりしている。
入社直後、会社が新入社員の歓迎会を開いてくれた。食事会と銘打ってはいたけれど、もちろんお酒もあり、上役の方々がいる中で、無礼講の雰囲気まで作ってくれていた。とはいえ、もともと社員全員が力を発揮できるようにと、おおらかな社風なのだ。それに初顔合わせだし、これから同じ会社の仲間として仕事していくようになる。だから、まず自己紹介のような事をして、お互いのことを聞いて理解し合う、なんてことになるのはよく分かっていたつもりだった。だた、肩ひじ張らずに言いたいことを言いやすい状況は、交流を図るのに良いことばかりではない。元来の生真面目な性格も相まって、きちんと立ち振る舞わないといけない、なんて考えていたから、遠慮の欠片もない質問に神経をすり減らされ、恐ろしく気疲れしてしまった。おまけにお酒が入るにつれ、学生の合コンと変わらないありさまになっていったのだ。
だからそれ以降、何度か個人的に飲みに誘われはしたけれど、どうにも気乗りしなくてすべて断っていた。行ったほうが良いだろうし、むしろ行かないことでみんなとの関係が築けないばかりか、一人孤立してしまうかもしれないことも重々承知しているのだけれど。
そもそも昔はどうだったのかは知らないけれど、今はアルハラなんて言葉があるように、酒席を強要するなんてご法度な世の中のはずだ。それにみんなとお茶したりご飯食べには行くようにしているから、いいんじゃないか……
と、誰に見せるわけでもない理由を並べたところで、行く気がしない本当の理由が別にあることは分かっていた。不思議に気の合う美咲だけは別にして、今はみんなの気が緩む場所には行きたくない、根掘り葉掘り聞かれたくない、それ以上にプライベートで人とじっくり顔を合わせたくはない。――――それは、考えたくないことを考えて、思い出してはいけないことをたくさん思い出してしまいそうだから。自分の中のある部分を、これ以上疲弊させたくはない。
「たまには来たほうがいいよ。和、断ってばっかじゃん」
「会社だし、遊びじゃないんだし、いいでしょ。みんなだって、楽しんでくれる人と行きたいんじゃない?」
「そりゃ確かに会社だけど、みんな気にしてるよ? 体調が悪いんじゃないかって」
「ありがたいけど、うん、まあ、そのうちに」
「もう……」
美咲は大声で呼べば聞こえるほどの壁に隔てられただけの隣部屋だ。そんな彼女とはこの一カ月余り何度も夕食を共にしお酒も飲んでいた。もちろんたくさん話もしたけれど、履歴書に書くような内容以外そのほとんどが記憶にすら残っていないような他愛のないもの。それでも美咲も和のことを少しは理解してきたのか頑固な性格なのはもう分かっているようで、それ以上話を深堀りすることもなかった。
美咲は呆れ顔のままコーヒーを一口口にすると、はたと何かを思い出したように和に向き直った。
「じゃあ、お昼から野球、観に行かない?」
「は? 野球?」
「そう、昨日同期の山中くんと先輩の渡辺さんが誘ってくれたんだけど、誰か他にいたらって言われてたから。プロ野球、嫌い?」
「そんなことはないけど……」
「じゃあ行こうよ。男の人も何人か来るって言ってたから。いい男がいれば声かけてみれば?」
これまでまわりにはなかった軽いノリ。何事も落ち着いてゆっくりゆったりペースの和には、とてもついて行けそうにない。それに今はその話題に触れたくないんだし、誰かと付き合いたいという気もさらさらなかった。ただずいぶん前からプロ野球は観に行きたいと思っていたのだ。これは捨てがたい。
美咲はトーストにリンゴジャムを塗りながら、いつものことって感じで和にちらりと目を向ける。どうも彼女とは目的が違っていそうだけれど、しょうがないなあ、とばかりに唇を尖らせて、「いいけど」と答えておいた。