第8章~その6~
翌朝、天気は回復していて、気持ちの良いはずの光が窓から差し込んでいた。そんな恩恵に反して自分は気持ちが悪かったから、風呂に向かう。もちろん窓を全開にした。さすがに酒のにおいが充満したままにするのは気が引けたから。
遅い朝食を部屋ですませ、ゆっくり旅館を出た。受付にいた方に加えて、昨晩お世話をしてもらった方までがわざわざ見送りに加わってくれた。自分より一回りほど年上に見える、細身で着物が似合う女性。絶妙のタイミングで現れるあの人は、いったいいつ休んでいるんだろう。
昨日の予定は決めていたけれど、今日の予定は全く考えていなかった。いましかできないことはと考え直し、浜の方に向かうことにした。ただ一番にこちらに足が向いたことは、まだ少しだけ複雑な思いでもあった。とはいえ、ここには海と浜と港以外特にこれといった場所はないんだけれど。
旅館から坂道を下り、大きく開けた海岸通りからは、海を中心にあたりが一望できた。左手には昨日歩いた浜が延びていて、右手には漁港があった。その漁港と浜を分けるように突き出た堤防には、たくさんの釣り人が竿を出していた。両手の指ではとても足りないくらいの人。それも陽射しを遮るものなどなにもないコンクリートの上。何気なくキャップを目深にかぶりなおしそちらに向けて歩き始めた。
晩秋とはいえ降り注ぐ光は突き刺してくるほど元気だ。なのにいま化粧はおろか日焼け止めすらしていない。もちろん気づいているけれど、今朝は化粧なんかする気にはなれなかった。化粧は自分自身を大切に思う人が自分をより綺麗に見せるために施すもの、もしくは、仕事のためとか生活の必要に応じてするもの。だと思うから、昨日からしていないし、そもそもここに持ってきていない。
堤防を海の先の方に向かって歩く。誰も自分のことを関知しない、というか、針がついている釣り道具だから危ないという意識だけはあるのか、障害物が歩いてきたとばかりに避けてはくれるが、目を合わせることはない。こちらも今となっては、どんな魚が釣れているのかなとちらちら覗く程度の興味だけで歩いているのだから、それはそれでよかった。
よくみると、釣りをしている人は一定の間隔で陣取っているように見える。その様子に、つい京都の鴨川を思い浮かべてしまい、おかしくなった。ただあちらは二人組がしっとり静かに等間隔なのに対して、魚がかかるのに神経とがらせて黙って待っているこことは雰囲気がまるで違う。もっとも、糸が絡まってしまうから、釣り人があいだを開けるのは当然と言えば当然なのだ。
そのなかでやや大きく開いている隙間があった。人がいるとはいえ、広い堤防にそこまで密集しているわけでもないからおかしくはないけれど、遠目に見ているとどうにも違和感がある。とはいえ全力で駆け寄るほどでもなく、ひとまず頭の片隅に置いて、堤防の先に向かって控えめに観察させてもらいながらのんびり歩いた。そしてごく自然にその隙間に差し掛かったところで、原因になりそうなことが分かった。
気づくと目が離せなくなり、つい立ち止まる。
あたかも吐物のようなぐちゃぐちゃしたものと、そのぐちゃぐちゃにまみれて乾きかけている小さな死んだ魚。
よく見ると、ぐちゃぐちゃの吐物のようなものは小さなエビのようで、10センチにも満たない魚はフグのようだ。おそらく数時間前にはこの海を泳いでいたのだろう。生まれて間もないかもしれない。食べるのならともかく………と思う。それが、避けられるような姿になっている。小さなエビもそう。おそらく釣りの餌なんだろうけど吐物に見えてしまうなんて。
でも自然は、生き物がこのような姿になっても、役立つように作られている。なら、人が見て感じるためにも、こういう形も必要なのだろうか。
じっと見ていると、寄り添いたい、むしろ同化したい気になる。
そんな自分を止められなくなるような気がした。
もっと、もっと…………。
引き込まれそうに、なる。
呼ばれている気さえしてきた。
急に怖くなって我に返った。なに思わず周りを見回したけれど、こんな自分になんて関知する人は一人もいない。今一度そのぐちゃぐちゃを見直すと、すぐにそれを嫌うように顔をそむけ、踵を返して来た道を歩き出した。堤防の先まで行くつもりだったけれど、そんな気なんて瞬時になくなっていた。さっきよりずっと速く歩いた。背中から追いかけてくるような気がしたから、振り向きもせず先を急いだ。とにかくこの堤防から抜け出たかった。
その勢いのまま電車の駅に向かった。おかしな生き物と思われたくないから走りはしないけど、普段街中で歩くくらい足早に歩いた。すれ違う人も、店の中の人も、誰もいないような建物の中からも、奇異の目で見られている気がする。自分だけ全く違った姿かたちでいるような。吐物のようなエビや干からびた魚に見えはしないか。歩きながらときどきガラスに映る姿を確認する。自分の目にはいたって普通の人間だ。でもそれは自分の目であって本当は違うのかもしれない。この目は、昨日のお風呂で同じように自分の体を写したのだ。
怖い。
ぐっとこらえていたのに涙が溢れそうになる。でも気持ちの良いこんないい天気で泣くのは、ヘンな上にヘンを上塗りするようなものだ。だから花粉症で目をやられているようなふりをした。ハンカチで目をおさえ、かゆそうにした。そんなの、誰が見ているわけでもないのに。
駅にたどり着き、すぐさま壁に掲げている時刻表を見ると、電車の到着まで時間があった。お昼近くの中途半端な時間には、駅の構内に人は少ない。落ち着かない自分に反してのんびりしていた駅員さんからまず切符を買う。
それから駅前の見慣れた外観のコンビニが目に留まったから、無目的に店に入った。およそなにがどこにあるのか分かる店内で、おにぎりとお茶を買い、店を出た。
改札を抜け電車の線路が見える閑散とした駅のベンチで一人おにぎりを口にした。ふと思い出し、何度もおにぎりを見直したけれど、白いご飯とのりと昆布の佃煮だけだった。自分の中に入ってくるのに、汚れたものではなかった。
そして気づいた。
(どうして、食べてんだろ?)
電車は空いていて、窓側の端の席に座ることができた。リュックサックを膝に乗せ、形ばかり文庫本を開いてみた。なんとなく食べた清浄なおにぎりとお茶で少しは落ち着いたとはいえ、今の頭の中は、自分ではどうしようもないものが渦巻いているから、目からの情報など何も解析してはくれない。それでもしばらくじっと見ていたけれど、あきらめて窓の外に目を向けた。相変わらず眩しい光に溢れていて、それは公平に自分にも届く。自然は何にも公平だ。善人にも悪人にも、元気な人にもしょげかえっている人にも、そして綺麗な人にも汚れた人にも。そこにはなんの思惑もないから、自然の恩恵などというのはその人の受け取り方ひとつなんだろうなと思う。ただこの光、今の自分には明るすぎた。
行きと同じように電車を乗り換える。
最後は東京駅。
ここに降りたって、ようやくホッとすることができた。
人が多い。すれ違う人が多い。
エスカレーターでは前も後ろも人。手すりにつかまってじっとしていると、横を無言で追い越していく。歩いていると、ときにはぶつかることもある。こちらから『すみません』というと、たいていの男性も女性もニッコリ笑って、『すみません』と言い返してくれたり、大丈夫だよという仕草を見せてくれたりする。自分にぶつかる前からあからさまに避けられることはない。
自分はここにいていいんだ。
込み合う電車に辟易することもなく、最寄駅に辿りついた。そして20分弱歩く。
夕方にはまだ早い。だからか、駅から寮までも、寮のエレベーターでも、通路でも、見知った人には誰にも出会うことなく部屋に入ることができた。いまは誰にも会わなかったことも気になるけれど、逆に誰かに会うこともまだ怖い。
ドアを閉めると、すぐにスマホを手に取った。
電話とメッセージがたくさん入っていた。すべて美咲からだった。
大きく深呼吸する。
少しだけ迷ってから、文字をじっくり目で追う前に、まずはシャワーを浴びることにした。
汚れを落とすのもあったけど、頭を冷やさないとと思った。
脱衣所に入ると否応なしに鏡に映る自分が目に入る。シャツとジーンズを脱ぐと、ここまで連れてきてしまった砂がこぼれた。下着を取り去ると、やはり真っ白い自分がいた。半分だけホッとした。ただ、顔と手は強烈に日焼けしている。だから、わざとにっこりしてみた。それが残りの半分の気持ち。
ぬるいシャワーを浴びる。足の指の隙間からも砂が流れ出る。手をぺろりとなめるとわずかにしょっぱい。さっきまで海にいたのだから当たり前なのだけれど、なぜか懐かしい気がした。勢いをつけて頭の先から足の先まで、すべての汚れがなくなるように流していった。
最後にシャワーを一番高い位置にセットして、冷水を頭から掛けた。今日はこの時期にしては暖かいけど、この水はさすがに冷たかった。それでもすべての汚れを流し、熱を冷まし、十分に体が落ち着くまで、そして自分が納得するまでしばらく流水の下にいた。
脱衣所で冷えて引き締まった体をバスタオルで拭いた。それから髪をドライヤーで乾かしていると、髪も日焼けしたのかパサパサしているのに気がついたが、無視した。顔もカサカサして強くこするとひりひりするけれどなにもしなかった。この二日着ていたものをまとめて洗濯機に放り込み洗剤を入れスイッチを押すと、部屋に戻りパジャマを着てソファに座りこんだ。
まだ窓から明るい光が差し込んでいた。海のものと同じはずのこの光がお腹から足元にあたると、ホカホカと温かい。斜めから差し込んでいるとはいえ、太陽の光は体にも気持ちにもエネルギーをくれる。すべての生き物になくてはならないもので、神様のように偉いのだ。
少しだけいい気分になって、ガラステーブルに置いてあったスマホを今一度手に取る。
たくさん入っている美咲のメッセージ。それらがいま愛しく感じるのが不思議だ。その最初の未読を開こうと指を画面の上に置いたときに、当の本人から電話がかかってきた。
もちろん何のためらいもなくすぐにつないだ。
「なごみ! あんたどこにいるのよ!」
挨拶も何もなく開口一番怒鳴りつけられた。
「部屋だよ」
と言うや否や、電話は切れた。
ほぼ同時にドアがノックされる。ノックと言うより殴っている感じだ。
やれやれ、と立ち上がりドアを開けると、目を吊り上げて睨みつける美咲がいた。
自分の部屋なのに、引きずり込まれるように奥に連れていかれ、ソファに座らされた。
美咲が「あんたね!」と声を荒げたから、すばやく「ごめん、美咲、心配かけたね」と快活に謝った。
やけに冷静な声のトーンに、美咲が次の言葉をためらったように見えた。
だから、謝罪の意味を込めて、にっこり笑って頭を下げた。
すると、美咲がとんでもないものを発見したかのように、また声を上げた。
「ちょ、和、なにその顔、真っ赤!」
「そう? ちょっとは精悍に見える?」
おどける和に美咲の反応は厳しい。
「明日、仕事だよ? どうするのその顔」
「大丈夫じゃない? 私のことだもん。誰も何も言わないよ」
和がごく当たり前のこととばかりに返事をすると、美咲はさっと顔を曇らせた。
和はいま外部と接触する業務でもないし、これくらいのことで社内の人は関心を示すことはないだろう。だいたい日焼けしている人もいるのだ。それにこれだけ日焼けしていれば、可愛いなどと言われることもなさそうだといいように考えた。
「日焼け止めって効くんだね。やってみて分かったよ」
そう言って立ち上がり、冷蔵庫を開けてビールを取りだした。
「美咲も飲む? おいしそうなおつまみ買って来たんだ。あ、日本酒もあるよ、ほとんど飲んじゃってるけど」
リュックから、たくさんの干物を取り出し、最後に日本酒のボトルをガラステーブルにゴトリと置いた。
「どこ行ってたのよ」
変わらず怖い顔、冷ややかな目で詰問する。
「海」
「一人で?」
「うん、一人で」
和は缶ビールを引きあけると、そのままぐいっと傾けた。
美咲は呆気に取られていた。彼女はビールの飲み方にこだわりがあって、必ずビアグラスに注いで飲むのだ。それ以上に、なにもないのに明るいうちから酒を飲むタイプでもない。それをすべて心得たうえでの所業。
「何しに行ってたの?」
「何しにって、ただぶらっと……」
「スマホくらい出てくれてもいいんじゃない?」
「忘れていったのよ、部屋に。ごめんね」
なんとはなしに流れで軽く言った。
「あんた、また嘘つくんじゃないよ。スマホなくて電車乗るなんてありえないでしょ。わざと置いて行ったのね」
美咲のもっともな指摘に、和は口をつぐんだ。
「和のスマホ、メッセージもメールも電話もほとんどあたしでしょ? あたしがうざかったの?」
美咲の怒りに火がつきそうだった。
「違う! それは絶対違う! 私を助けてくれてたのは美咲だけだもん」
それはそれは、慌てて否定した。それだけは誤解だと大きく顔を振り、全身で否定した。
今美咲だけがこの場所で人とのつながりを得られる唯一の懸け橋だった。美咲にいなくなられたら、本当に一人ぼっちになってしまう。とてもそんなのには耐えられそうになかった。
冷静になると、美咲の怒りももちろん理解できた。たくさんのスマホの履歴の数からも、たった今も、これほどまでに心配してくれていることが心底嬉しかった。
「じゃあ、何しに行ってたのよ」
「ええと、一人旅もいいかなって思って……」
これ以上美咲の機嫌は損ねたくはないけれど、自分でも何をしに行ったのかよくわからなくなっていた。でも美咲の心配を増やしたくもない。
「でもスマホを置いて行かなくてもいいでしょ」
いまだ不機嫌な美咲がガラステーブルに両肘をついて身を乗り出してきた。
確かに出かける時には、スマホはいらないと思っていた。この先使うこともないとさえ思っていた。でも今は必要だとはっきり言える。
「ごめん…………」
全ての説明を放棄して謝るしかなかった。
「和、おかしいよ。大変なことがずっとあって、悩んでるのは分かるけど」
美咲は怒りの顔を哀しみに変えて、諭すように言った。
「ごめん。本当に大丈夫だから。心配かけて、ごめん。わたし、なんだか分からなくなってる。でも何とかするから。ありがとう。本当にありがとう」
知らぬ間に涙声になっていた和に、美咲は静かに頷いた。




