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第8章~その3~

「あら、さっきの方。ゆっくりなのね」

 和にはさっきと同じとは思えない笑顔がとても温かく映る。

「そこに座って」

 良かれと思ってのことなのだろう、海が見える一番景色の良い席に通してくれた。仕方なくその椅子に座ると、どこから来たのか分からない冷たい風が吹き抜けた。季節外れの汗が乾いていく。ゾクゾク悪寒が走る。テーブルに起立するメニュー表にすぐ目にとまった温かいうどんを注文した。

「寒かったら言ってね」

 何気ない言葉なのにとてもうれしい。湯気の立つお茶をことりと置いた、母親よりも年上に見えるおばさん。「大丈夫です」と答えると、さっと暖簾をくぐって奥に入って行った。

 遅めの昼ご飯になったな、そんなことを思いながらリュックを下ろし隣の席に置いた。

 くるりと見回した店内には、もちろん誰もいない。

 ふと夏の賑わいを想像した。

 ビーチに一番近い店だ。ひっきりなしにお客さんが店に入って来る。どこに座るともなしに空いている席に腰を下ろしていく。水着やビーチサンダルが、床にたくさんの砂を落とす。お尻にもくっつけているからその椅子も砂だらけだ。けれどもそんなことを頓着する人はいない。汗だくのおばさんが、店の奥とテーブルを行き来する。小さな子供も連れて家族で来た人も、たくさんの仲間で来た人も、恋人同士のカップルも、みな笑顔。明るい太陽に焼かれたその肌は、ビーチで楽しんだ証拠。そんな自然な夏に溶け込む大勢の人の風景。

 いいな。

 しばらくして、おばさんが目の前にお椀を置くと、『おまたせ』と一言だけ残し、奥に戻って言った。

 少し待たされた、温かい関東風のうどん。

 贔屓目に見て少しだけ模様の消えかけた器から、人の気も知らないで白い湯気が無邪気に絡み合いながら立ち上る。

 割り箸をすっと差込み、持ち上げ、口にする。なんとはなしに嬉し懐かしいコシのある麺。

 田舎の思い出とは違うのは、濃く見えるつゆと、たくさんのせてくれている野菜。

 気持ち甘いその野菜と一緒に麺を取り上げ、口に運んだ。

 飲み込むごとにお腹が温まってくる。

 欲するままに食べていると、あっというまになくなってしまった。

 物足りなくて、残ったつゆをかき混ぜて、れんげに持ち替えた。

 色が濃いからしょうゆのイメージが強いけれど、だしのしっかりきいたお汁も上手い。

 ほとんど飲み干してしまい、お椀のふちにれんげを寝かして、ほっと息をついた。

「お疲れなの?」

 暖簾をくぐって店に現れたおばさんは、左手にお盆を持って流れるような足取りでテーブルの横に立つと、温かいお茶をそっと置いて覗き込んできた。『はぁおいしかった』が、『はぁ疲れた』に見えたのだろうか。

「そう、見えます?」

 おばさんを一瞥すると、はにかんだように答えた。

 ほっと小さくまごうことなき溜息をついて、湯気の立つ陶器の茶碗を手に取り少し口にする。

「温まりますね、ほうじ茶ですか。おうどんもお野菜がたくさん入っていてとてもおいしかったです。」

「よかったわ、そのうどんがうちの一押しなの。実はその野菜ね、私が育ててるの。うどんは知り合いに打ってくれる人がいて、出汁はそこの港で揚がった小魚から取ったの。だから全部手作りなのよ」

 ちょっと得意気なおばさん。丸いお盆を抱え直して、ふふふと笑った。

「すごいです。それでこの値段は安くないですか?」

「そうかしら。でもみんながおいしいって食べてくれればそれでいいの。楽しみでやってるようなものだから」

 確かにそのエプロン姿は使い慣れたユニフォームを着ているようだ。

「なんだか、とてもいいですね。うらやましい」

 ふとそんな言葉が口をついた。

「なあに? まだ学生さんのようだけど、元気ないわねぇ」

 よほど疲れて見えるのだろう。おまけに学生だなんて。

「一応これでも働いているんです。まだ一年生ですけど」

「あら、それはごめんなさいね。じゃあ、とても忙しい一年生なのね。ちゃんと休んでる?」

「休んでいますけど、疲れはひどいかも、です」

 つい恥ずかしくなって苦笑してしまう。仕事だけじゃないんだけどな。

「そうかぁ。どこも同じなのね。うちの息子なんかもたまに電話すると、忙しい、疲れるって口癖のように言うのよ。あなたよりずいぶん歳は上だけど」

「でも、このお店も夏にはとても忙しいですよね?」

「いまは、ヒマだけどね」

「あ、ごめんなさい」

 慌てて謝ると、おばさんは楽しそうに笑いだした。

「いいの。その通りだから。でもあなたすごく気遣いできるのね。うちの息子にも見習わせたいわ」

「そんな……」

「だから、余計に疲れちゃうのかもね。私たちなんて、忙しい時には友だちとかその子供とかに手伝ってもらって、そこそこでやってるから。知ってる人ばかりで気も遣う必要もないし」

 とは言っても、このおばさんを見ていると気遣いをしない人ではないなと思う。

「そうなんですね。おばさんの店ならたくさん人が来そうです。なんだか大変そう」

 人でごった返す海水浴場を思い浮かべた。それだけでぐったりしてしまう。

「なるようになるものなのよ。食堂は食べ物がなくなったら閉めちゃうし。自分で作っているから無理なのよ」

「もっと人を雇ったりすれば、良いように思うんですけど」

「うーん。でももうそこまではあくせくするつもりはないの。子供を育てていた頃なら考えたかもしれないわね。それに、野菜にも限りがあるから」

「そこは自家製にこだわるんですか?」

 おばさんはまたにっこり笑って首を横に振る。

「そうじゃなくて、野菜作りが先だったの。それが楽しみだったんだけど、たくさん取れてどうしようって思ってた時に、たまたまこのお店の方がそれならうちで使うからって声をかけてくれたの」

「そうなんですね」

「その人はもう亡くなっちゃったんだけど、私も手伝っていたらこっちの店も楽しくなったし、せっかくなら続けようって。だからそこそこでいいの」

 おばさんは少しだけ寂しそうな顔をして和に目を向けた。

 人のいないお店の中は声が余計に冷たく響くようで、悲しさが強く伝わってくる。窓をくぐり抜けてくる光も心なし弱くなってきているからかもしれない。

 和はその顔を逃さないように、微笑みかけた。

「野菜はね、手をかければかけるだけ元気に育ってくれるの。かといっても急に大きくなるわけじゃないから、毎日することといえば、お水をあげたり、雑草を抜いたりするだけね。育っていくのを見ているのは楽しいものよ」

「私の実家の近くにも田んぼや畑がありますけど、じっくり見たことがないです」

「私もあなたくらいの頃はそうだだったのかもしれないわね。これでも昔はね、お化粧して、電車に乗って、会社に勤めてたのよ。今じゃ陽に焼けてこんなに真っ黒いおばあちゃんになっちゃったからわからないでしょ」

「いえ、そんな……」

 思っていたことを言い当てられて、つい気まずくなる。

「じゃあ先輩ですね。いまよりも大変なことがあったんじゃないですか?」

「ふふふ、そうね。確かに大変だったかもしれないわね。よくやってきたと思うもの。あまりに忙しいから体を壊す人もいたけど、あれを乗り越えたのは私の財産かもしれないわね。体だけは丈夫だったみたい。でも今こうしていると、それもどうなんだろうって思うのよ」

「どういうことですか?」

「んー、ほら、野菜って急に大きくはならないって言ったけど、人の生活も本当は野菜が育つような速さで進むんじゃないかなってことなのよ」

「急ぎ過ぎってことですか?」

「そう、そんな気がするのよ。息子の話を聞いていても、毎日何かに追われているようで、大変すぎじゃないかって思う。私たちが若いころよりずっと便利になっているはずなのに、それでも仕事が終わらないなんてどうかなって」

「そうですね」

「競争の社会だから仕方がないのかもしれないけど、行き過ぎの気がするの」

「分かります。まだ私なんか働き始めて間もないんですけど、それは分かります」

 つい立ち上がらんばかりに顔を上げた。同時に胸がほっと温かくなる。

「がんばらないといけないし、やるべきことはすばやくこなさなきゃいけないけど、程度問題ね。でもね、それも半分以上私のせいかなって思うの。私もがむしゃらに仕事も家事もしていた時だったから、勢いで息子のお尻を叩きすぎたかなぁって。だから無理する子になっちゃった気がして。反省してるのよ」

「後悔、してるんですか?」

「後悔? うーん、どうだろ? いまでもあの状況だったら、頑張れ頑張れって言うと思うのよね。だから後悔はないかも」

「反省しても、後悔はないんですね……」

「もちろん後悔することもあるわよ。ああしておけばよかった、迷惑かけちゃったな、いやなこと言っちゃったな、なんてあるわよ。あなたの何倍も生きてきたんだもの。たくさんあるわ」

 学校の先生のようなおばさんは、ウインクするようににっこり笑った。「ごめんね、昔話につき合わせちゃって」と言うその笑顔はとても素敵に見えた。

 代金を払う時、おばさんに気持ち多めにお礼を言って店を出た。


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