第8章~その2~
一歩足を出すごとに、足裏をつかまれているように感じる。アスファルトの歩道とは違う軟らかさ。初めて砂浜を歩くわけでもないのに新たな発見だった。
波打ち際に近づくと海水で湿っているからか砂がしまっていて歩きやすい。波も穏やかだ。ときどき止まって沖の方を見る。青い海と言うけれど青くはない。むしろ青いのは見上げた空だ。下の海は暗い色に見える。
波打ち際からまた足を取られる砂浜に戻ったり、また波打ち際に来たりを繰り返しながら歩いた。どこを歩いてもいいのだから、すべて堪能しないと損とばかりに。さすがにこの時期だから海水に足を踏み入れはしない。実は何度かそんな気に駆られた。
雲が少しずつ増えているようだけれど、陽の光も十分差していて、額にじんわり汗がにじむ。ふと立ち止まって太陽を見た。まぶしすぎてすぐに下を向いてしまう。下に見えたのは、やはり海だ。
海でいい、自分には海がいい。どこか寄り添ってくれそうだから。
1時間ほど歩いてきて、周りには人の気配がなくなっていた。また立ち止まり辺りを見回す。太陽と雲と空と砂と風と、穏やかな波の向こうに深い色をした海。波打ち際では砂浜の段差が目隠しになって、人工物は見えず、さわさわと波の音しか聞こえない。緩やかな風の中に、ときおり悪戯をするように通り過ぎる風は冷たかった。この風が体温を奪い、ゾゾゾと寒気が走る。風に吹かれた自分の髪の毛が自分の頬を不規則になでる。自分の髪だと分かっているのだけど、髪以外の何かが混ざっている気もした。それを確かめてくれる人はいない。自撮りできるスマホは部屋に置いてきた。鏡もない。ここには誰も助けてくれるものはなにもない。声をかけてくれる人もいなければ、話しかける相手もいない。またゾゾゾと寒気が走った。
じっと立っていると湧き出してくる雲が厚くなり、陽が遮られる時間が長くなる。白い雲の中に濃い雲が混じり始める。
海も自ずと黒くなってくる。
海の黒さはブラックホールのようになにもかもを吸い込んでしまうのだろう。川を流れてきた木や草、泥や石、動かなくなった動物の亡骸、人の手によるプラスチックやビニールなど簡単に自然には還らない物も。海の奥にはそういうものが溜まっている。海の栄養のために必要な物もあれば、まったく不必要な物もある。人にとっていらない物もあれば、とても大事な物もある。それは手にとって触れられる物も、触れられない物もある。海は黙ってそれを飲み込む、ときには飲み込んでしまう。
いつだって海の口は開いている。時と場合を選ばない。
けれども、よほどの事態でなければ、海の方から自分たちに向けて、手招きをしてくることはない。あくまでよほどの事態でなければ。
和は自身には理解しきれない強い思いを抱いてここに来ていた。今それを思い起こす。
小さく盛り上がって、さわさわと打ち寄せる波。急に大きな波が来ることはなく、同じような大きさの波が若干不規則なリズムを奏でている。じっと見ていると、こんな小さな波だけど、打ち寄せているのではなく、近づく物を引き込み、この世にはないところに取り込んでしまうように感じた。波打ち際の小さな砂が作るわずかな傾斜はその入り口。
和は波に近づくようにしゃがみこんだ。
目の前の石も砂も、加わる力に身をゆだね、冷たくそこにいる。
自然にあるがままということ。
人も同じ。
ただ、人には意思があり、それに従い動く能力があるだけで、自然にいるのは同じ。
ただその意思が災いしているのが今の自分。
災いにしかなっていない。
置かれた場所で、何思わずいることができれば、どれだけ幸せなことだろうかと思う。
……本当に、それが、できる?
こうして冷たい風に吹かれ、転がされ、これからやってくるであろう雨に打たれ、夏の灼熱に焼かれ、傷だらけにされても、それでも静かにいることはできるのだろうか。
そして波にのまれ、暗く冷たい海の底に連れて行かれ、身が朽ち果てるまでそこに一人いることが。
一人、ずっと、一人。
誰も語り掛けず、誰も答えてくれない。何もない、小さな音や、わずかな光のような波しかないところ。
ここまで自分の足と自分の意思で歩いてきた。誰もいない、人の気配のない、自分だけの場所を目指してきた。
一週間前、ここに決めることにしたネットの写真の夕景は、あれだけ温かく、包み込んで癒してくれそうだった。あの時本当はそれを無意識に期待していたのだろうか。
しかしいま、潮の香りも、波の音も、髪を揺らす風も、色を濃くしている雲も、より体温を奪いにかかる冷気も、背中から押し寄せてこようとする砂の山も、なにもかも飲み込んでしまいそうな海も、すべてが現実だった。これを期待していたのだろうか。これに身を預ける覚悟を持ってきたのだろうか。
つい自分のまわりを見まわして、何をということもなく足元を確認し、あとはしばらくその波を見続けた。
繰り返し、寄せては引いていく波。自分の影の角度がわずかずつ動くとともに、波は忍び寄るがごとく近づいてくる。
不意に風に背中を押され、よろけるように足を出した。打ち寄せた小さな波が踏み出した靴のすぐそばまでやってきて、引いて行った。
知らぬ間に涙があふれてきた。
(ごめんなさい……)
思わず海に向かって謝った。今ここに自分の内側から押し寄せてくる感情では、謝るしかなかった。
もうその砂浜の先にはとても歩けなかった。さっと立ち上がり慌てて背を向けると、元いた方向へ歩き出した。波打ち際は歩きやすいが、恐ろしくて怖くて砂浜を歩いた。足が沈み込み、滑る。木くずや錆びた缶や割れたガラスビンは突き刺さってきそうだけど、防波堤が見え建物が見え遠くで車の音がするとホッとできた。それでもさっきまでよりもずっと急いで歩いた。砂に足を取られながら、時々走りながら。心臓が激しく打ち、息が切れる。それでも止まって休む気などまったく起こらなかった。
遠くに人が見えた。そして2時間前に座っていたベンチが見えるとほっとして泣きそうになった。歩くスピードを落としベンチに近寄ると、そのまま座り込んだ。
俯いて、息ができることを確認して、息を整える。胸の奥の強い鼓動を聞き、落ち着くのを待った。
のどが渇いていることに気づき、リュックからおもむろにお茶を取りだした。半分以上残っていたお茶のペットボトルを口にすると一気に飲み干した。歩いているときにはのどの渇きには気づかなかったが、いま渇望しているものがあることが嬉しかった。空になったペットボトルにふたをすると、軽く振ってみた。わずかに残っていたお茶が、ポコポコポチャと滑稽な音を立てた。
遠くの人の動きを見ながらしばらく休んだあと、階段を上る。目の前の昼前に入ったお土産屋さんの隣に『海鮮』『食事』ののぼりの文字が見えた。食事を取れる店だと分かるとお腹がすいていることも分かる。一人でこのような店に入ることもなかったけれど、お腹を満たせて、挨拶でもなんでもいいから人と会話がしたかった。
年季の入った木枠のガラス戸を押し開けると、店の中にはがらんとしていて人の気配がなかった。自分と同じ、だからこの店に誘われたのか。そんな邪推もすぐに消え去った。それもそうだった。壁にかかっている時計は、2時半を過ぎている。
そこに人影が現れてくれた。




