第8章~その1~
会社では、気構えを変えると決めていた。
ずいぶん前から駅から会社の建物に近づくにつれて、一歩の踏み出し方が少しずつ重くなっているように感じていた。最近それがひどい。
特に今朝は、泥の中をずぶずぶ歩くような足取りでたどり着いた。本社ほどではないにしても威圧的にも感じる大きなビル。朝の光がまぶしく照らし出すさまは、神様の皮肉なのか。それでもいい、力をもらえれば。その入り口の自動ドア開く瞬間、腹筋にキュッと力を込めて、両手もグッと握りしめ、よしっと気合を入れた。
冷たい流れが厳しく引き締めてくれる外気から、化学薬品のような臭いを帯びた生暖かい淀んだ空気に変わる。都会とはいえ神様が作り出す冬の大気が消える。その境界にあるエントランスの一歩は情けない自分の意識を瞬く間に気絶させる。以後この建物の中で繰り出される格段に速い歩みは、良くも悪くも人としての大切な物を押し殺した、ただの歩く機械のものとなる。
だから今の歯車のような仕事には打ち込むことができた。率先して動き、役割を全うする。仕事でのコミュニケーションは、人一倍とった。常に全力で、そして笑顔で。他人の意見も愚痴もたくさん聞くけれど、それは表面だけで処理する。自分は堪えた。昔想い人が、苦悩の中、おそらくそうしていたように。
ただそれは勤務時間内のこと。仕事が終わり、『お疲れさまでした』の挨拶と笑顔がスイッチを切る合図となっていた。
休みの日はずっと部屋にいた。少し前ならば一人でどこかに出かけようという気もあったけれど、今は他人の気配を感じたくはなかった。もっともこの場所では自分に直接干渉してくる人といえば美咲くらいだ。だから彼女には悪いと思いながらも、時にはスマートフォンの電源を落とし、ドアのインターホンも無視して居留守を使った。休みあけには美咲から文句半分、もう半分は温かな心配をもらった。そんな、自分への唯一の心遣いに対しても、『ごめんなさい』とたったひとことの感謝を込めた謝罪しかできない自分。そんな美咲も呆れてきたのだろう、だんだん言葉数も少なくなってきていた。
それでもかろうじて和は東京で一人静かに息をし続けていた。
11月下旬の連休になる週末、和はリュックサックに一泊分の着替えを詰め込んだ。
旅を思い立って一週間、和は部屋中を隅から隅まで掃除し綺麗に片づけた。
風呂の浴槽、目地、そして全身が映る鏡は水滴の痕が少しもないように磨いた。毎日食事を作ったキッチンも、油汚れを落とし、換気扇のフィルターを変えた。知らぬ間に種類が増えた調味料を入れた棚もきれいに拭いた。もちろん食器も食器棚も。ベッドサイドの小さな書棚も雑巾がけし、本も並びなおした。大切なオルゴールは乾拭きしてからいつもの一番見える場所に戻した。もちろん一度だけねじを巻き、やさしい思いが詰まった音色を聞いてから。床は掃除機をかけ、雑巾で拭きあげた。
その最後に、今朝布団を整え、脱いだパジャマをたたんで枕元に置いた。
見渡すと何にもないように見える部屋。真ん中にはモニュメントのように浮かぶガラステーブル。その片隅に、しまい込むこともなくずっとお守りのように大切にしてきた小さな封筒が置いてあった。中には今年の春お母さんからもらった励ましのメモが入っている。これはとても持って行けないから、テーブルの縁に沿うように置きなおした。
その隣に長い間使ってきたスマートフォンを並べた。それは大学時代以来たくさんの思い出を写真として記憶してくれている。これもこの部屋でゆっくり休んでもらうことにした。お腹は一杯のはずだから、電源を落とし、充電器にはつながずそっとそこへ。
この機械がないとあらゆる場面で不便にはなるが、なにより縛られるものは持ちたくはなかった。手元にあると気になってどうしても見てしまう。見ないと罪悪感すら覚えるに違いない。旅の間何度もそんな気持ちになりたくはなかった。一度思い切って手を離し、部屋を出て電車に乗れば気にならなくもなるだろう。スマートフォンを忘れて外出することくらい誰にでもあることだから。
そのぶん財布にはクレジットカードといつもよりたくさんお金を入れた。クレジットカードはどうしても外せなかった。でもそれだけでとても体が軽くなった気がした。
朝早く静かに部屋を出た。ドアが閉まる音さえさせないようにそっと。朝早くにしたのは、最近隣部屋の美咲が生存確認のように朝ドアをノックするからだ。それは休みともなれば少し遅い時間になるだろうけど、万が一にも顔を合わさないように、普段出社するよりも30分早い時間にした。
ネイビーのジーンズに白いTシャツとニット、キャップをかぶり、しばらく履いていなかったスニーカーを引っ張り出し、少ししわになった厚手のジャケットを持って、晩秋早朝の冷たい風の街を歩き出した。
目的地は静かな港町、でも本当はあてどない旅だった。とにかく知っている人がいない、景色のいい広いところを歩ければよかった。ゆっくりできてひとり黙考できるところ。だから行きたい場所があるわけでもなかった。けれど、一人で美味しいものが食べられて、露天風呂があって、あまり遠くないところをネットで探していたら、ピッタリな条件ととても印象的な夕景の写真が目に飛び込んできたので即座にここに決めた。そこにはいまだ矛盾を感じるのだけれど。
切符を買って電車に乗るなんていつ以来だろうか。それも自動券売機を使わず、切符を買う人の列に並んだ。どこか遠くに出かけていくのだろう、大きな荷物を抱えた人の長い列。先を急ぐこともないのか、待っている間も談笑している方がたくさんいた。年配の方が多いようで、スマートフォンに目を落としている人もいなくはないが少ない。
そんな人々に挟まれている和は、列の先を見据え、手にしていた財布を人差し指の先で無意識にポコポコ叩いていた。そのうち壁に貼られている美しい冬景色のポスターに目を移し、その旅行案内を読み終え、リュックサックにミステリーの文庫本を放り込んだことを思い出したところで、するすると人がはけていき、思ったより早く窓口が近くなった。
窓口を担当している駅員さんは、お客さんから必要最小限の情報を得て、ほぼ会話らしきものもなく淡々と仕事をこなしていた。制服をきちっと着ていて隙がなく映る。自分の番がくると、ただ目的地の駅名を伝えた。すると、モニターに向かったまま、定型のように質問してきたので順次答えていく。
「往復ですか?」
「いえ、片道で」
一つ答えるごとにその答えが分かっていたかのようにスムーズにパソコンのキーを叩く。その作業をじっと見ていると、彼はその視線に気づいたのかこちらを振り向いた。反射的にニッコリ笑ったけれど反応はなく、すぐにパソコンに戻ってしまった。最後に金額を言うと、切符を差し出しながらようやくこちらを向いた。慌てて現金でお金を払い、貰った切符をなくさないように財布にしまう。彼は少しだけ笑顔を作った気がしたけど、『ありがとうございます』と本気なのかどうか怪しい声色で言い終わるや否や、次の人に取り掛かっていた。押し出されるように列を離れると、もう一度窓口の駅員の男性を見た。仕事を離れたらどんな顔をする人なのか。きっとすれ違っても分からないだろう。
幾度か電車を乗り換えて3時間、ようやく目的地にたどり着いた。駅のホームは土曜日だけどオフシーズンのためか人は多くない。むしろ最初に乗り換えた東京駅と比べるとずいぶん閑散としている、というより人がいない。ここで間違いはないだろうかとと駅名を見直したけど、間違いはなかった。改札を抜けると、その広い駅の構内にそぐわない潮の香を含んだ冷たい風が吹き抜けた。
駅から10分ばかり海に向かって下りていくと、今日泊まる旅館があり、その先に漁港がある。さらにその隣に夏にはにぎわう砂浜がある。頭の中にインプットしたネットの情報ではそのはずだ。駅前のコンビニでおにぎりを2個と温かいお茶とカフェオレを珍しく現金で買い、ひとまずその浜に向かって歩き出した。
浜の近くにお土産屋さんが数件並んでいた。はじめは素通りしていたけれど、一番浜辺に近い店を見ると人が少なそうだったので入ってみる。「いらっしゃい」と目の下の笑いジワが優しいふくよかなおばさんが声をかけてくれた。和もいつもそうしているように、にこりと会釈する。
そのおばさんの視線を感じながら、海産物を見ていく。近づいて押し売りしてくるわけではないが、なにか買わないといけない気になる。そんなに広くはないその売り場を、ゆっくり二周ほど見て、焼いて食べるシンプルな干物と、すぐに食べられる味が付いた小魚の干物を選んだ。オススメを聞くと、「生ものじゃないほうがいいのよね」と言って、別の干物を持ってきてくれた。「ここで獲れたものなのよ」と笑顔を添えて。
お金を出しお釣りをもらい、干物が詰め込まれたビニール袋を持って店を出た。雲が多いけれど、半分は青空がのぞいている。散歩にはいい天気だ。冷たいけれど海風が気持ちいい。ぶるっと体を震わせると、強い潮の香りを置いて行った。それは体の奥の方で小さくも騒ぎ続けている心を落ち着かせてくれる。ここにはそんな自分の安寧をもたらしてくれるものがある気がした。
店の前でリュックに干物を詰め込み、小銭で膨れてきていた財布をジャケットの内ポケットに押し込んだ。店のそばのコンクリートの階段を下りて浜に出ると、木のベンチがいくつか並んでいた。それから何十メートルか歩くと波打ち際だ。家族で来たのだろうか、波と戯れている小さな子供連れの人たち。平らな浜辺のど真ん中では、高校生くらいの男の子がなにか悪だくみをするように角を突き合わせている。恋人同士なのか手をつないで歩く二人組。そのほか数えるほどの人が散らばっていた。
朝ごはんも食べていなかったからさっき買ったばかりのおにぎりを食べることにした。ベンチの砂を軽く払い腰を下ろす。その脇には浜にへばりつくように細い緑の葉を伸ばす名前も分からない草が生えていた。
ゆっくりお米をかみしめる。遠足で食べるご飯はよりおいしく感じるというけれど、いまはそれほどでもないように思う。強いてあげると、いつものコンビニのおにぎりより少し塩味がするような。これは目の前に海があるから、勝手にそう感じてしまうだけかもしれない。
二個のおにぎりをゆっくり食べたつもりだったけど、腕時計を見るとさほど時間は経っていない。食べるのは早い方ではないし、いつもよりゆっくりでいいんだし、今日ばかりは時間なんかどうでもいいはずなのに、時計を確認してしまう。そうしないと落ち着かない生活になじんでいるんだろう。ふーっと一つ息を吐き、お茶でのどを潤し、荷物をすべてリュックにしまい込み、立ち上がった。2回屈伸して、ぐいっと腕を上に伸ばす。ぐるりと辺りを見回し、左に伸びている浜に沿って歩きだした。




