第7章~その3~
翌日会社では不思議といつも通り過ごすことができた。むしろ重い荷物を下したようで、気持ちは軽くなっている気すらした。もちろん同僚と業務以外の話はしないし、デスクでPCに向かっている時にも相変わらず気になる視線がそこかしこから背中に刺さっているように感じていた。毎日黙って盾になってくれている背中はもうボロボロになっていることだろう。
けれども終業後は緊張していた気も抜け、蓄積した分に加えて今日会社で受けたダメージが噴き出してくる。急にずしりと重くなる体、それもこのところ変わらない。駅の階段を上るのもつらくエスカレーターを探すし、電車を待つ間も椅子に腰を下ろし、駅から寮に辿り着くのも足を引きずりながらやっと。胸を張る元気もなく自然と俯き加減になるが、それもくたびれたように映るだろうからスマホを見ているフリをした。なるほどスマホ歩きの人たちは疲れを隠すためなのかもしれない。ただ、普通にスマホを見ていると人や物にぶつかりそうなので、見ているフリだけだ。いつもならスマホ歩きなんか迷惑だから止めろ、と口には出せない分お腹の中で怒声を上げているくせに、これはなんだろう。こんなところで見た目を気にし、ヘンな所で真面目な自分にも嫌気がさす。
どうにも夕食を作る気力もなくて、途中のコンビニでお弁当を買って帰った。滅多にないことだけれど、なんでもいいからエネルギー補給をしておかなければいけない気に駆られ、目に留まったものを手にした。明日の仕事のための、義務のようなものだった。
寮の5階までエレベーターで上がり、部屋のかぎを取りだそうとした時に、隣の部屋から出てきた美咲と鉢合わせた。
「あ、いいところにいた。お醤油貸してくれない?」
珍しくジーンズなんか履いていて、どうもその醤油を買いに出ようとしたところのようだ。
髪を後ろで束ね化粧は軽め。いつもより高い声でなんだか間の抜けたお願いについ笑ってしまう。
「いいよ。薄口? 濃口?」
「濃口。煮物してるから」
前に美咲は、色で分かるしコクが出るから煮物は濃口がいいと言っていた。
「ちょっと待ってね」
鍵を開け、数歩歩いた小さな台所の棚から1リットルの濃口醤油を取りだす。一人暮らしだけどよく料理をするし、以前は頻繁に美咲の分まで作っていたから調味料は多めに置いてあった。
「サンキュ。もう少ししたらできるから後で一緒に食べようよ」
「あ、あたしお弁当なんだけど」
そういって肘にひっかけていた袋を持ち上げる。
「珍しいね。でもいいじゃない。後で来て。どうせ先にお風呂入るんでしょ。そしたら味が染みてちょうどいいよ」
美咲は和の行動パターンを知っている。もちろん和も同じく美咲が夕方どうしているのか手に取るように分かっていた。
相変わらずこっちの返事を待たずに部屋に入っていった。彼女はいつも騒がしいけれどなぜか疲れない。さっきまで恐ろしく疲れていたはずなのにむしろすっきりしている。美咲の部屋のドアをしばし眺め、不思議な気分で部屋に入った。
8時近くに美咲の部屋をノックする。中から「入って」とひとこと声がした。誰か分かっているから余計なことはしないし言わない美咲。ドアを開けると、おいしそうな匂いが充満していた。これは肉じゃがだ。さっきのジーンズのままの美咲は、いつものように部屋のガラステーブルにセッティングしていた。もちろんビアグラスも。今日はあまり飲む気もしないんだけれど。
美咲はもう一品、小アジを南蛮漬けにしていた。三枚におろしたアジをフライにして甘酢に漬けたもの。そして漬物の専門店で買ったという大根のぬか漬け。これだけで十分御馳走だ。
和は申し訳なさそうに、テーブルの隅っこにもうとっくに冷えている焼きサバ弁当を置いた。
美咲が最後に冷蔵庫から、冷えたビールを取りだしてきた。外気はもうずいぶん寒くなっていたけれど、暖房も効いて、さらに煮炊きしていたこの部屋はポカポカ温かい。火の前にいた美咲はなおさらだろう。
ふと見ると、美咲の好きなちょっと値段の高いビールだ。もちろん和も嫌いではない。
いつものように丁寧にグラスに注ぎ、『乾杯』と言って、こつんとグラスを合わす。
「和、かなりお疲れ? お弁当買うなんてめったにないでしょ」
目の前の美咲はいつもと同じように、1杯目はグラス半分一気に飲んだ。はーっと息を吐く彼女が一番幸せそうな顔をする瞬間。和はほんの少し口にして、ことりとテーブルにグラスを置いた。
「今日は忙しくて」
ありきたりな返事に美咲が怪訝そうな顔をした。
「だから、涼佑のところに行かなかったの?」
「え?」
「仕事終わってあの病院に行ったら、定時に帰ってもこの時間に帰って来れないもんね」
「そうね、確かに」
美咲は誰よりもそれをよく知っている。病院は寮とは方向がまるで違うところにある。ゆっくり話なんかしていたら遅くなってしまう。
でもそれももうなくなってしまった。
「和のおかげでしょ、あんなに元気なってたんだもん。あたしが行ってたときなんか超暗かったのに失礼な話だよ」
「ハハハ、暗かったんだ」
抜け殻から出てくるような声。おまけに何の意味もない。
「やっぱ、和だよね」
「なにそれ、またからかう気?」
「違うって。和は気がついてなかったみたいだけど、涼佑は最初和だったんだよ」
グラスを持った手を指さすように和に差し出して、残ったビールを飲み干した。
「和の反応がなくて、付き合えそうになかったから諦めたみたいだけどね」
和は、よそってくれた肉じゃがやアジの南蛮漬けではなくて、お弁当の焼きサバに箸を入れた。その小さい切り身を口に運ぶ。
「涼佑の足、良くなりそうなんでしょ。そしたら復職もできるから、どう? 付き合っちゃえば?」
サバはパサパサしていて味気なかった。それでもしばらくじっくり噛んでいた。
「あ、もう付き合っちゃってる? あいつちょっとまじめ過ぎて暗いとこもあるけど、いいやつだと思うよ。あたしみたいにずけずけ言うのは好きじゃないみたいだから、和にはぴったりだと思うけどな」
口の中で形がなくなったサバをごくりと飲み込む。
その音が響いて美咲にも伝わった気がした。
美咲の顔がさっと変わる。
「和、なにかあった? なにかあったでしょ?」
「なにもないよ」
そう、もうなにもなかった。どう変わろうが何を言われようが、それが真実。
「あんた、すぐ一人で悩むから。分かるよその顔で。全然可愛くないもん」
可愛いか……
その可愛いって言う言葉を止めてもらいたかった。山中にさんざん言われた挙句、なにもなくなった。会社でも、女の子からも言われることがあったけれど、それで四面楚歌。いいことがない。そもそもこの年になって可愛いなんて言われるのは、どう解釈していいのか。
「ひょっとして和も、もう来なくていいとか言われたんじゃないの? あたしの時みたいに」
美咲の言葉に、つい顔を動かしてしまったから、仕方なく口を開く。
「うん。言われた……」
「うわ、やっぱり。あんな酷い噂がたっちゃったから、涼佑、気にしたんだよ、きっと。あたしの時と同じだよ」
頭の回転が速い美咲は、すぐさま情報を整理して反論する。けれどもうすでにその先のことを知っている和には響かない。
「違うみたい。山中くん、会社辞めるんだって」
「え? 前に話してたのウソじゃなかったの?」
「お父さんが会社を経営してて、その後を継ぐって言ってた。足に負担が少なそうだからって」
「なんだかんだで東京は歩くもんね」
「山中くんも同じこと言ってたよ」
「でもちょっと遠距離になるけど、休みに行けない距離じゃないと思うけど」
山中と別れたときにはあれほど落ち込んでいたのに、いまはかなり前のめりだ。ひょっとするとあのことが引き金になっていたけれど、もっと前から離れかけていたのかもしれない。
「それだけじゃなくて、もう結婚するんだって」
和ははっきり言った。
「ええ! うそ! だって私と別れてからまだ2カ月も経ってないんだよ? あいつ二股かけてたの!?」
急に美咲が怒りだすのは分かる。
誤解を生まないように、慌てて説明した。
「ごめん、美咲、違うの。山中くんが実家に戻ることになったからお母さんが喜んで見合い写真持ってきたんだって。美咲と別れたあと、つい最近のことだよ。それがたまたま仲のいい可愛い幼馴染だったんだって。もう病院にもお見舞いに来たって言ってたから山中くんのケガのことも知ってて、その上での話らしいから」
美咲は納得したようだけど、険しい顔は変わらない。
「そうかぁ。じゃあしょうがないけど。でもその話、和にしたんだ、涼佑が」
「そうだよ、昨日だけど」
「昨日? それでもう和には来なくていいって言ったんだ!」
「……うん」
「許せないな。世話になるだけなっといて、自分にいい人ができたからもう来なくていいって? なによそれ!」
「そんなつもりはなかったのかもしれないから、いいよ、美咲」
「よくないよ!」
怒り心頭の美咲だけれど、和はもうことを荒立ててほしくなかった。どのみち山中は辞職して結婚してしまうのだから、自分とは関係がなくなるのだ。もちろん今さら彼の真意をはっきりさせる必要もない。おまけにその関係ですら、ただの同僚というだけでそれ以上ではなかったのだ。
「ごめん。食欲ないから……せっかく作ってくれたけどお箸つけてないから、美咲食べて」
和はそう言い残して、食べかけのお弁当だけ持って美咲の部屋を出た。




