第7章~その1~
結局、数日の空白はあるものの、美咲に変わり和が山中に付き添うことになった。
山中の本心を知った和は、それを知ったがゆえに、リハビリに付き添うのではなく、付き添わなければならないと思っていた。それは人が違いこそすれ、贖罪のためという意識が強かった。それどころか恐ろしいことに、山中の事故は和のために起こったような気すらする自分もいるのだ。自分の傷を癒すために彼が犠牲になったような。
でもそれはまた思い上がりだと反論する自分もいた。自己中心的な自分の、自己愛が生む錯覚。確かに今でも自分の傷が治るものであれば治したい。それは事あるごとに脳裏に浮かぶ。ただ、それを彼の事故に託すことは、自分が許せない。だから、美咲のために、山中のために、その上でほんの少し自分の得心のために、彼をしっかりサポートすることを誓った。
もちろん美咲には十分に話をしなければならなかった。山中には言うなと言われていたけれど、美咲には彼の本心を知っておいてもらいたいのだ。それに、美咲に知らせないで和が付き添うことはできない。美咲のことはよく分かっていたけれど、余計ないざこざの火種を生むことも回避しておきたい。
翌朝、少し早く部屋を出る美咲に合わせてドアの前で待ち合わせることにした。
その駅への道すがら、昨日のことを美咲に話した。誤解を生まないように間違いなく丁寧に。
「私のため? 涼佑がそんなこと言ったの?」
山中が美咲のためを思って、離れるように言った言葉。その和の話を聞いた美咲は、信じられないという顔をした。
和は美咲の歩調に合わせるように歩きながらこくりとうなずいた。
「はっきりと言ったわけじゃないけどね。間違いないと思うよ」
少しばかり考えてはいたが、あれほど尽くした挙句に投げかけられた言葉の力は大きく、もう諦めはついているようだった。
「和、あれからまた行ったんだね」
「うん、なんとなく気になったから。それで問い詰めてたら・・・・・・」
「そっか。んーそれでもあれだけはっきり何度も言われちゃったしなぁ。一度なんか怒鳴りつけるくらいに。いまさらウソでしたって言われても、ちょっと、無理かも」
切り替えが早く、前を向いて突き進む美咲らしい決断だ。そもそもちょっかいを出していくのは得意だけれど、ヘンにいじられたり、訳も分からず怒られたりすると、反発するタイプなのだ。よく何度も来るなって言われて病院に通ったものだ。
「わたしもときどき顔は見せるとは言ったけど、あまり来てくれるな、放っておいてくれって言われたしなあ」
すると美咲はさっとこちらを向いて、どこか含みのある返事をした。
「いまさら私が言うのも変だけど、たまに行ってあげてよ」
「え?」
「和ならお願いしやすいし。そうそう、彼にとってもいいかもね」
「なにそれどういうこと?」
「まあ、和はしっかりしてるし可愛いってことだよ」
「はあ?」
美咲は悪ガキのような顔で笑った。
何の事だかよく分からないけれど、あとくされはないようだ。
美咲もときどき一緒に来るように頼むと、「全然いいよ」なんて軽く約束してくれた。
ただ、人の噂はどこをどう伝って、どう捻じれていくのか、予期せぬ流れをたどることもあると知る。
和は美咲のように毎日ではなかったけれど、2,3日に1度山中の病室を訪れた。それも、病室で何を手伝うというわけでもなく、強く叱咤激励することもしなかった。それは和なりの配慮でもあった。あまりに熱心になり過ぎると、美咲の二の舞になる恐れがある。だから、山中に再度気持ちの負担を植え付けないように、ときおり来て、ちょっとしゃべって帰る。わざと土産すら持たず、近くまで来たからと顔を出すことも。その程度。あなたのことを忘れてないよ、回復を待っているよと暗に伝えるくらい。
もちろん仕事の同僚と一緒になることもあり、会社の野球サークルの面々と鉢合わせすることもあった。もちろん山中と同じ勤務先の女子社員とも。
和もそれに関して何思うでもなく、普通に挨拶して、会話して、別れた。山中との距離も含め、みんなと立場を異にすることもなかった。それでよかったし、それ以上のことは不思議なほど考えもしなかった。
ただ、圧倒的に多い病室に向かう回数は、噂を生むには十分だった。そして生まれた噂が広がるのは速く、尾ひれがついて、和はもちろん美咲でさえも思いもしない内容になっていた。
そのようになりやすかったのは、山中という人物にもあった。引き締まった顔に背もすらりと高く、いつも爽やかで清潔に整えている。そんな容姿もさることながら、誠実を絵にかいたようなふるまいは、男女と問わず惹きつけるに十分の魅力があった。もちろんめったにない仕事中の事故自体でもあったが、そんな彼だからこそ衆目の関心を集めることになった。
その噂の拡大がエスカレートすると、聞きたくなくても勝手に耳に入って来る。
『入院している山中くんに、木下さんがアプローチしてるらしいよ』
『それで立花さんともぎくしゃくしてたみたい。山中くんも優しいし、木下さんを断りづらいからね』
『木下さんも前から山中くんに気があったみたい』
『あんな可愛い顔してよくやるよね。立花さん、あれだけ看病してたのに、かわいそう』
同僚を救い、そのため自分は歩くことさえできなくなるかもしれない山中。その山中に献身していた美咲のことは美談になりこそすれ、悪く言うものはいなかった。逆に、少しの隙を突いて二人の関係を悪化させ、山中をわが物にしようとした、などという和の評判はまことしやかに広がる。広がっていくうちに誰が言い出して、広げたなんて分からなくなり、それ以上にその話自体が現実の中にしっかり根を張り、簡単には取り去ることはできない状況になっていた。
つまり、誤った情報であっても、和には自分でもいかんともしがたい悪評が大きく張り出されることになった。
さらに和には、業務中にこそ話をする同僚はいても、業務を離れるといまだにほとんど誰とも接点を持っていなかった。それがわずかな反論すら容易ではない状況を作り出していた。
当事者の美咲も、そのありえない話が間違っていると周りに伝えても、優しい美咲が和をかばっているようにしか伝わらなかった。和とは、部屋が隣でよく晩御飯を食べるし、朝は一緒に出勤していると、いかに良好な関係であるかを説明したところで、ほとんどの人間はにこやかに聞いてくれるだけ。和に関心を寄せてくることはなかった。
インターネットの世界では、誤情報やわざと炎上させようと意図された情報が氾濫していることは周知の事実になっている。だから一瞬の花火のように、パッと開いてはすぐに終息することが多い。人の噂は75日と言うが、そんなのんびりしたものではない。ものによれば数日で消えてなくなり、人々の記憶からも消滅していく。
現実の話はそうもいかない。ネットほどのスピードはないだろうが、その緩やかさは当事者の首を真綿で絞めていくようにじわじわ追い詰める。わずかな時間で解放してくれるようなものではない。そして、そうやって時間をかけて広がっていったものは、人々の頭にしっかりすり込まれ、たとえ誤りだったと上書きされても、最初に持った印象がずっと付いて回るのだ。それを消し去るのは難しい。
だが山中の耳にそんな噂が入ってくることはなかった。たとえ病院で和が一緒にいたとしても、感情を表には見せないくらいのスキルはみんな持ち合わせていた。
和はそんな中でも山中の病室に行くことを止めなかった。最初に自分が言い出したこととはいえそれを曲げる気はなかった。
『あたしでよければたまに来てあげるから、がんばりなさいよ』
この言葉を反故にはできなかった。今これを壊してしまうと、自分自身が崩壊してしまうかもしれない。とても立ち直ることはできそうになかった。
最近は山中の方が待ってくれているような気がして、それが唯一の救いになっていた。病室のドアを開けた時に彼が見せてくれる笑顔が楽しみになっていた。
和が守ろうとしたのは、夕方の十分ほどのほんのわずかな時間、彼とおしゃべりして帰る。ただそれだけだった。




