第1章~その1~
ゴールデンウイークも残り二日になった今日夕方、木下和は高知から空路東京に戻ってきた。
着陸間際、旋回する飛行機の窓から飛び込んできた、目を見張るような光景。わずかなオレンジから広がる群青のグラデーションが眼前にゆっくり流れる。
(あ……)
映画のスクリーンのように窓枠に切り取られているとはいえ、その雄大はあらゆる心情も飲み込んでくれそうだ。天空の神様が、こんな自分を鼓舞してくれているのだろうか。
でもその恵みの色彩も感動も、頭の中いっぱいに広がりきってしまうと、あとはサラサラこぼれ落ちるように、記憶の外に追いやられてしまった。
羽田空港からモノレール、山手線、中央線と乗り継いで最寄りの駅へ。いつもなら20分の道のりを25分以上かけて歩き、寮になっているマンションに辿り着いた。
つい立ち止まってしまったその入り口。もう見慣れた古びたガラスのドアが、控えめな蛍光灯の明かりに浮かんでいた。不意に明後日からまた始まる会社の新人研修を思い出させてくる。なんだか未来の疲れが、先払いされるような気がした。
化粧品なのか香水なのか、これもまた現実に回帰させる独特の匂いが染みついたエレベーターで5階まで上がる。そして、いつもより重いドアを引き開け、異様に真っ暗な部屋に足を踏み入れた。
明かりをつけてジャケットを脱ぎ捨て、重力に身を任せてどさりとベッドに倒れ込む。昔からいつでも自分の味方になってくれる柔らかい布団は、今日も変わらず優しく包み込んでくれる。最近買ったばかりの抱き枕にしている細長いクッションに、しばらくピクリとも動かず顔をうずめた。すると、ここ数日何度も繰り返し浮かび上がってくるフレーズが、また…………
(バカなことしちゃったな……)
そこから自分が主人公のストーリーが自動リピート再生される――――
――――大学生活の最後に、ある女の子と、ある男の子の仲を取り持ってあげた。
その女の子はとても頭が良くて美人なのに、『心の機微』のこととなるとまるでダメ。いつも一緒にいる人のことも、彼女自身のことでさえも、一から百まで教えてあげないとわからない。それも遠回しに言うなんて技を使うと、何言ってんの?とばかりに憮然とした顔をする。
片や男の子のほうはそこまでではないけれど、とにかく消極的。たぶん『主導権』なんて言葉は彼の辞書には載っていないんじゃないだろうか。自分自身のことならあれだけがむしゃらになるくせに、こと女の子のこととなれば、ちょっといい感じになったとしても一歩も進まない。手をつないで引っ張っていくなんてことはまずありえなくて、それどころか触れることすらない。AI搭載の可愛いお人形さんのほうがずっとマシなんじゃないだろうか。
それでも自分が気づいてから3年、どちらかを見つけると必ずと言っていいくらい隣にもう一人がいた。繰り返すけど、そんなに一緒にいるくせに、現代の常識から逸脱するかのように、親密になっている雰囲気なんてまるでない。いや、ひとつだけあった。つい最近、苗字の『くん』付け『さん』付けから名前で呼び合うようになっているのに気づいて、それはもう驚天動地の事件を目の当たりにしたかのように驚いてしまったのだった。
そんな二人だけれど、すぐそばでずっと見ていると付き合っているとしか思えなかった。でもその二人とも下世話なうわさ話や詮索など意に介していない、というより、恋愛なんてワードにはあまり目が向いていないようだった。
昨年の終わりごろ、そんな二人にある事件が沸き起こり、初めてその仲が壊れかけた。
見かねた自分が、繋がりの絶たれようとしていた二人が接近できるようにセッティングしてあげた。それが三カ月ほど前の卒業間際のこと。そしてつい一週間前、わざわざ京都まで行って、これが仕上げと接着剤で二人をくっつけてきたのだ。もちろん本物の接着剤じゃないけれど。
そのたくさんの印象的な光景が、数分の短縮バージョンに編集されている。優しい主人公の素敵な策略から、ハッピーエンドに。誰も見られないけど、誰が見てもきっと笑顔になれるストーリー。でもそれは、ただ一人見ることができる『自分以外』という注釈が付く。だからもう見たくもないし、いい加減飽きた。それでも勝手に流れる映像は、最後の場面、電車のシートに一人座った女の子の泣き顔のシーンを見終わるまで止まってくれない。
ふーっとため息を一つ吐き出し、コロリと仰向けになってスマホを覗く。その彼女からメッセージが届いていた。写真も添付されていて、どうやらあの超有名な大阪の遊園地で撮ったもののようだ。二人笑顔でピースとかして。今どきこんなピースなんて、する?
<和ちゃん元気? 初めて来たよ>
だって。知らないよ、そんなの。
<よかったね、恵美ちゃん>とだけ書いて送り返した。付け足すように「別れちゃえ」なんてこっそり呟いたけれど、ガッチリくっつけてきたのは和なのだ。
すぐにスマホを暗くして小さなソファに放り投げた。
しばらくして、シャワーを浴びて、テーブルの前のソファに体を預けた。座布団より少し厚みのあるソファは普段の心地よさとはどこか違う。見るともなくつけたテレビはお笑いの人がギャーギャー言っていて、画面の向こう側だけやけに楽しそうでイラっとした。
火にかけていたケトルが騒ぎ出したので慌てて立ち上がる。急須に茶葉を入れて、少し冷ましたお湯を注ぎ、しばし待つ。しっとり落ち着くアロマが、今ここにいる自分をふわりと包み込んでくれる。やはりこの香りは淹れたてのお茶ならではだ。自然に口元が緩み、気持ちほっこりする。お茶は京都の学生時代からよく自分で淹れていた。この茶葉はその京都のお茶屋さんで買った宇治茶。でも東京に来て一カ月も経つと、もう残りが少なくなっていた。
それからお弁当箱が入った袋を開いた。これは高知を離れる直前にお母さんが作ってくれたものだ。部屋に着くのは遅い時間になるだろうから、と持たせてくれた。昔からお母さんのご飯は好きだから、素直にありがとうと軽く言って無造作にバッグに押し込んだ。
保温の利く袋に入っていたお弁当箱の上に、小さな無地の封筒を一つ見つけた。可愛い傷心の娘のためにお小遣いでもくれたのかと開いてみる。
『がんばってね 母』
とだけ、小さなメモ用紙にボールペンで書いてあった。昭和なお母さん。目にすっとなじんでくる見慣れたお母さんの文字。いつもより丁寧に書いてくれている気がする。そんなこと言われなくてもがんばるに決まっている、と思ったけど涙がにじんできた。お小遣いよりずっとうれしいかも。きちんとたたんで封筒に戻し、テーブルの隅に置いた。お弁当もまだほのかに温かいのがまたしみる。お箸を出して、海苔が敷いてあるご飯を一口食べた。ちょっとだけがんばる気になった。




