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第6章~その3~

 美咲とは勤務先が違い、朝女子寮となっているマンションを出る時間も早くなっていたため、恒例になっていた二人の朝の散歩がなくなっていた。また彼女は勤務が終わった後ほぼ毎日のように病院に通っているようで、夕飯と共にすることもない。

 そのような状況でしばらく会わない日々が続いていた。

 ただそんな中でも美咲はときどきメッセージで山中の状況を伝えてくれた。今のところ足の回復ははかばかしくないようだ。

 どうせ二人仲良くリハビリなんかしているのだろう。そんなところに邪魔をしに行くのもどうか、なんて自然に思う。

 ある夜ベッドに寝転びながら、はたしてそれは自分が取るべき行動としてどうなんだろう、という疑問が浮かんだ。純粋に美咲と山中のためにお見舞いを控えているのだろうか。

 ただ邪魔をしたくないから。それは言い訳で、本当は自分は関係がないし面倒くさいし、どうしてそんな人のためにわざわざ行かなきゃならないのか、などという思いが無意識に湧き上がってきているのかもしれない。

 だとすればそれは2年前と全く変わっていない。

 当り前にそばにいた人を突き放すだけではなく、遠ざけて見ないようにするということ。それが自分なのかもしれない。そうではないと、とても否定できなかった。

 布団の中でごくりと唾を飲み込むと、心臓がどくどくと強く打った。


 秋の雨が暗く感じるようになってきた。陽が沈んでからは、その重さまで余計に増しているようだ。窓の外の明かりも、季節外れのホタルのようで、どこかぼやけて見えた。

 和はいつもとはどこか違うその寂しい街の風景を見ていた。エアコンがカチリと小さな音を立てて動き始めると、カーテンをさっと閉めて部屋全体に立ち込める嫌な気分を振り払おうとした。

『コンコン』

 ドアを叩く弱々しい乾いた金属音。チャイムを鳴らすでもなく、その存在を隠したい人らしい。「はーい」と陰に籠っている空気を明るい声で変えてやるつもりで返事をして玄関に向かう。

 誰彼勝手に入れない女子寮。あまり警戒もせずドアを開けると、雨の痕がしっかり残るスーツを着た美咲が眉間にしわを寄せ、口を真一文字に結んで立っていた。隣の自分の部屋に入るよりも先に和を訪ねてきたようだ。和は何も聞かず「ほら、入って」と、美咲を招き入れた。美咲は何も言わずにフラフラと靴を脱ぎ、部屋の奥に向かった。

 美咲はいつもの座椅子に座って俯いていた。和は淹れたてのお茶が入った急須とカップを二つ持って美咲の隣に膝を立てると、静かにテーブルに置いた。

「なごみ……」

 美咲が急に和の胸に寄りかかる。押しつけた目から涙が溢れる。

 なんとなく山中のことだろうなと思ったけれど、これほどまで美咲を変えてしまうことなんて思いつかない。山中は足の自由は利かないが落ち着いた状況だと聞いていたからだ。

 頭から濡れてしまって、いつものふわりとさせた髪も潰れてしまっている。仕事の時のきちんと整えている美咲ではなかった。

「どうしたの?」

 和は美咲を優しく抱きしめると、これ以上美咲が壊れないように耳元で穏やかに尋ねた。

「涼佑が……もう来なくていいって……」

「え?」

 和を見上げた美咲の顔には悲しみや寂しさだけじゃなく、悔しさや腹立たしさが混じっている気がした。

 それにしてもあの山中がそんなことを言いだすなんて信じられなかった。優しさと人当たりの良さの上にイケメンの着ぐるみをかぶせたような人だと思っていた。それに、つい数日前美咲と一緒にお見舞いに行った時にはいまだわずかにしか動かない足に歯がゆさを見せていたけれど、和たちには以前と同じように冗談交じりに話をしていたのだ。もちろん美咲とは言葉を飛び越えてお互いに疎通している何かをはっきりと感じた。それがなぜ?

 しばらく震えていた美咲がまた涙交じりの声を絞り出した。

「私の元気な顔、見たくないって……彼の前で頑張って元気にしてたのに……」

 元気と勢いならだれにも負けない美咲が頑張っていたというくらいだから、いつも一緒にいることに余程負担を感じていたんだろう。

 和も同僚の女子が美咲を諭しているのを思い出す。

『無理に付きあわなくてもいいんじゃない? 美咲なら他にもいい男はたくさんいるよ』

 山中が落ち込んで彼の闇が思い切り深くなっている時だったから、その女子がそう言って美咲を慰めるのもわからないではなかった。それも付き合い始めて5カ月にもならないのだ。

 またそれを言ったことにも、そんなことを言える人間にも言い返したいことはあるけれど、和にはそれを完全に否定することはできなかった。

 でも美咲にはそんなつもりはさらさらないようで、和と二人でいる時には『彼を元気にする』とばかりに事故以前より快活に笑っていた。

 毎日顔を合わせているはずの二人。

 和も山中のことをそこまで知っているわけでもなかったけれど、どうにも腑に落ちない。こんなに心配を募らせる美咲を簡単に足蹴にするとは思えなかった。

「ここ数日、彼がイライラしてるようで。何でもするから言って欲しいんだけど、声をかけるたびに機嫌が悪くなって……」

 その原因をはっきりさせたくて、しばらく問い詰めるように聞いたけれど、結局判然としなかった。

「美咲。明日私も一緒に行く!」

 気づいたら、美咲の両肩をつかんで、そう叫んでいた。


 翌日、和は会社を終えてすぐ病院に向かった。待ち合わせ場所にしていた入り口の受け付け前の長椅子に俯いて座っていた美咲に気づくと、何も言わずにポンと肩を叩き「行こ」と促した。

 山中はすでに一般病棟の病室に移っていた。固定されていた装具も外され、両手のひらを頭の下にしてぼんやり天井を眺めていた。

 和が先に病室に入り、「山中くん」と笑顔で声をかけた。ふと笑顔が見たくないと美咲が言われたことを思い出す。その美咲に禁止と言われている自分の笑顔だったけれど、しかめっ面というわけにもいかないし、怒った顔はましてどうかと思うから、この顔しかないのだ。その後ろ、和に隠れるように、美咲は顔を顰めて気まずそうに会釈した。美咲に気づいた山中は顔を曇らせた。

「どう? 顔色良さそうなんだけど」

 そんな彼らの不穏な空気なんて無視するように、和は山中に近づきベッドサイドの白いパイプをつかむと、真上から彼を見下ろした。

「わざわざ来てくれてありがと。足は変わんないかな」

 美咲を無視するように、和にだけ軽く微笑んだ。少し顔がむくんでいるようだけれど、彼の気づかいは変わらない。決して追い返すような、拒否するような空気を醸し出してはいない。

 だとしたらなぜ。

「リハビリは?」

「やってるけどね。動きそうな感じもあるから、頑張れとは言われてる」

「立てないの?」

「とてもとても」

 そう言って足をポンとたたいた。確かに以前見た時より固定されてはいないけれど、歩く能力を持っている足にはまだ見えない。

「ま、時間が薬かな」

 半ばあきらめが混じる彼の声だが、やはりはねつけるようなところはない。

 ただ、ここに一生懸命に看病していたはずの美咲がいるのに、それを無視するかのような口調が引っかかる。

 目線を外して天井を向くから、逃がすまいと突き刺すつもりで質問を浴びせる。

「美咲の助けは? 来るなって言ったんでしょ」

 彼は少し考えているようだった。

「さっき言ったでしょ。時間が薬だって。だからいいんだよ」

「それで来なくていいって?」

「ああ」

「顔見せなくていいって?」

「…………」

 和はふっと息をひとつ吐いた。

「和、もういいよ。帰ろ」

 美咲が和の服をつと引っ張る。

「じゃあ、これ、酒のつまみ、置いてくね」

 そう言って、枕のそばのテーブルにケーキが入った箱を置いた。

 ようやくこっちを向いた時、美咲はすでに病室を出ようとしていた。それが目に入ったのか、彼の表情にわずかばかり悲しみが浮かんだ気がした。寂しそうに、さっと手を伸ばして引き止めそうな、『待って』と今にも叫びそうな。和の視線に気づくと、彼は慌てて顔をそむけた。

「山中くん!」

 病院では非常識なその大きな声に、山中はピクリと身体をこわばらせた。

 その様子を和がじっと見ていると、チラリと様子を窺うように目を向けたが、すぐにゴロリと身体ごと窓の方を向いてしまった。


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