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第6章~その2~

 美咲に急に電話がかかってきた。

 相手は、今日山中と行動を共にしているはずの渡辺だった。

『今、電話大丈夫?』

 電話を挟んで、隣に座っている和にもはっきり渡辺の声だと分かる。

 そのただならぬ雰囲気も同時に。

 冷静を繕おうとする、声。

 美咲にも緊張が走る。

 一呼吸おいて、返事をした。

「はい、大丈夫です」

『山中が、事故に巻き込まれた』

「え?」

『意識がなくて病院で手術中だ。すぐ来れるか?』

 美咲の顔面が蒼白になり、時間が止まる。

 見かねた和が美咲の顔を見ながら奪い取るように電話を代わった。

「木下です。美咲の代わりにお聞きします。どこへ行けばいいですか?」

 自分のスマホを取り出し、渡辺が口にした病院をメモする。

 すぐに向かうことを告げ電話を切った。

 目だけこちらを向いている美咲の肩を揺さぶると、時間が少しずつ動き始めた。


 電車を乗り継ぎ、和たちが病院に駆け付けた時には、騒然とした様子は少しもなく落ち着いていた。会社の上司にあたる渡辺浩司と川上有香は、白い空間に浮かぶ小舟のようなブルーの椅子に並んで座って静かに俯いていた。先に気づいた渡辺が顔を上げると、沈痛な面持ちで「早かったな」と言った。まだ手術は終わっておらず、それどころかいつまでかかるかも分からないという。

 それから渡辺が事故の状況を説明してくれた。二台の車が衝突したはずみに一台がコントロール不能になり、横断歩道の信号待ちをしていた山中たちに突っ込んできた。運動神経のいい山中が渡辺と川上を突き飛ばしたが、自分は避けきれずまともにぶつかってしまったという。そのため二人にはかすり傷すらなかったようだ。とはいえ渡辺のズボンにはコンクリートでこすったらしき痕がくっきりついていた。

 それを聞いて、「お二人に大事がなくて良かったです」とすぐに口にしたのは美咲だった。狼狽を隠せない彼女だったが、ここに来るまでの間にしっかり自分を取り戻していた。電車の中ではなにも言わずただ黙っていたのだけれど。

 日が沈んだことすら分からないほど待っていると、陽に焼けてガッチリした男性と化粧っ気のまったくない女性が息を切らせて駆け込んできた。

 山中の両親らしく、気づいた渡辺がすぐに立ち上がり、挨拶もそこそこに状況の説明らしき話をしていた。しばらく神妙な面持ちで聞き、無理やり自分を納得させるように頷いていたが、渡辺がこちらを指すように手を上げると、その父親とおぼしき男性が小さく会釈して和たちに近づいてきた。

 美咲とともに立ち上がり簡単に挨拶を交わす。父親は長い時間心配して待っていた礼を至極丁寧にすると、今日はもう帰るように促した。美咲は一度だけ残るように主張しもしたけれど、憔悴しきった山中の両親を見て、和と一緒に病院を後にすることにした。

 帰りの電車でも数語言葉を交わしたくらいだった。状況も分からない今は和にも言葉が浮かばない。部屋の前で別れ間際、「ご飯作るよ」と声をかけたものの、美咲は「今日は止めておく」とひとこと残して部屋に入って行った。


 翌日曜日、休みにしては早めに起きた和が美咲の部屋のドアをノックすると、すでに部屋を出た後のようで返事がなかった。メッセージを送るとすぐに返事が返ってきて、自分は病院にいること、山中が一命を取り留めたこと、今は会えないので来なくていいことが書いてあった。逆にそれしか書いていなかった。

 山中のことも心配だけれど美咲のことも気になる。自分にはここまで気丈にふるまえるとは到底思えなかったからだ。

 今和にできることと言えば、美咲のために元気が出る食べ物を作るくらいのものだった。彼女の好みを思案し、お昼前に食材を買いに出ようとドアを開けると、ちょうど帰ってきた美咲とはち合わせた。

 和が声をかけようとしたけれどそれは美咲の方が早かった。

「おはよ。昨日は眠れた?」

 どこかもやが晴れたようなスッキリした声だった。

 でも、眠れた?なんて、それはこっちのセリフだ。でもその言葉が出てくるということは昨日美咲が眠れなかったのだろう。

「眠気覚ましにコーヒーでもどう?」

 だから質問に質問で返し、閉めかけた部屋のドアを開けた。

 美咲は素直にうなずき、いつもより大人しく和の部屋の中に入っていった。

 コーヒーができるまでは少しばかり重苦しい空気が立ち込めた。聞きたい話はもちろん決まっているけど、話しの糸口が見つからない。簡単にどうだった、などと和は聞くことができないのだ。自分が怖いし、万一美咲を傷つけることになればなどと先を考えてしまう。

 コーヒーと小袋入りのクッキーを美咲の前に出す。

「砂糖とミルク、いる?」

 普段美咲はブラックだけど、朝ご飯を食べていないかもしれないし、頭の疲れにも甘いものが良いかもと気を回した。

「ありがと。砂糖もミルクも欲しいな」

「疲れたんでしょ。なにか食べるもの作ろうか?」

「いいよ、このクッキーで。もうすぐお昼だからどこかに食べに行こうよ」

 意外に元気が戻っている。

 和もそれならばと気になっていたことを聞いた。

「そうね。あ、それで山中君はどう?」

「うん。ご両親にお話しを聞いたんだけど、しばらくは面会できないって。脳とかにはまったく問題ないみたいだけど、ただ……」

 珍しく美咲が言葉を詰まらせた。

 和は首を少し傾げて次の言葉を待つ。

「……足がよくないみたいで」


 3日後の仕事終わりに、ようやく面会が許された病室に美咲と一緒に訪ねた。

 何の変哲もない9月の晴れた夕刻。待ち合わせた駅から二人並んで歩く。暗くなっていることは間違いないけれど、いつもとはどこか違うひんやりとした空気を感じた。すぐ隣を顔色を一つも変えることもなく黙って歩く美咲は、もっと感じるものがあるのだろう。どんなことを思い浮かべているのだろうかとふと思った。

 この辺りでは名前も知られている比較的大きな救急病院。教えてもらっていた一人部屋の病室には山中の両親と、到着したばかりの渡辺の姿があった。

 挨拶をしベッドに目を向ける。寝息を立てる山中は、顔こそきれいでなにもなさそうに見えたが、布団からわずかに覗く足は固定されていて、とても動かせそうには見えない。

 それまでいつものように毅然としていた美咲の表情に安堵が浮かぶ。ベッドサイドから覗き込むと、彼が瞼を開いた。

「みさき……」

 どこか悔恨の念に苛まれているような表情の山中だったが、笑みを浮かべる美咲と目を合わせているうちに彼女と同じ安堵も浮かび上がってきた気がした。

 和の胸も、ポッと温かくなる。

 不意に彼が起き上がろうとしたが、激痛のためか顔をゆがめた。全員の手が伸びる。

「いいから寝てて」

 美咲の言葉に黙って従うしかない山中は、ふっと息を一つ吐き、枕に頭を戻した。

「すまなかった。助けられたよ。山中が突き飛ばしてくれなかったら、俺らもどうなっていたことか」

 渡辺が申し訳なさそうに口を開く。

 みんな発する言葉を失っていて、ただじっと見ていた。それを察した山中が一回り高い声で言い返した。

「何言ってんですか。あれくらいの車を避けきれなかった自分が悪いんです。情けないですよ。逆に申し訳ないです」

 いつもの整えられた髪もぼさぼさな上にふざけた顔を作る。それが滑稽に見えれば見えるほど悲しくなってくる。この状況ですぐにその言葉が出てくる山中。病室の入り口に近いベッドから一番離れたところに立っていた和には、重苦しいものがのしかかってくるようだった。

 彼の父親がそんなことを口にできる息子の頭を右手でぐしゃぐしゃと撫でた。

「確かに情けないな! 皆さんに心配までかけて。良くなったらもう一度鍛えなおさないとな」

 山中を見つめる父親の目。なにも言わないけれど彼の母親も微笑んでいた。

 ああ、この両親にこうして育てられたから彼はあの言葉が言えるんだろう。そんなことを考えると、自分はどうかとすぐに問いかけてしまう。

 研修でも仕事でも毅然とした態度を取ることができる山中。ただ言うべきことは言うけれど、聞くべきところはきちんと聞く。加えて彼は普通に冗談も言うし人を慮ることもできる。会社でも、あの野球の試合の時も、今も。自分はどうだろう。言いたいことは言うけれど気持ちをうまくコントロールできず、自分の中で留めておいたほうがいいことをたくさん外に漏らしているのではないだろうか。

「私も鍛えるお手伝いしますよ」

 美咲もサラリとその言葉を口にする。笑顔を山中に向ける。山中はわざとらしく顔を顰めて「まじ?」と呟いた。

 和にはそれがうらやましかった。

 2年前、和にはそれができなかった。自分のことだけ、先のことだけを考え、突き放してしまった。少なくとも和はそう行動したと思っているし、彼もそう感じていると疑わなかった。それは今でも変わらない。それが和の脳裏に張りついていた。強くこすっても取れないほどに。お前はそんな人間だと烙印を押されたように。

 後日和はさらに信じられない話を聞く。山中の足は動けないほどひどい骨折だと勝手に思っていたが、実は神経までダメージを受けていたようで、将来歩けるようになるか分からないということだった。あの事故後初めて面会した時、山中の両親はもちろん渡辺も美咲も知っていたようなのだ。

『私も鍛えるお手伝いしますよ』

 美咲が言ったその温かい言葉は和の中でより強く繰り返し響き、その度に自分を責めることになった。


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