第6章~その1~
早朝に涼しい風が入り始めた9月なかば、お休みの土曜日。和は美咲に誘われて街に出ることになっていた。
週休二日に慣れきっていて、最近休日の朝はゆっくりお昼近くまでベッドの中にいることが定着しつつある。自堕落な生活だけどそれを戒めるなんてさらさら考えてもいないから、まあ今日ばかりは仕方ないかと後ろ髪を引かれる思いで布団と抱き枕を諦めて早々に起きあがった。それにしてもあの街のひどい雑踏を想像すると余計に気が重い。のそのそ洗面台の前に立ち、楽しいショッピングなんか全く期待していないように歪んだ顔を、生ぬるい水で洗った。
確か美咲は欲しい服があると言っていたようだけれど――――――
「山中くんはどうしたのよ?」
昼前の電車は空いていて、直射日光を避け影になっているロングシートに二人並んで座っていた。この様子では今日も暑くなりそうだ。
「急に仕事が入ったって。上司と一緒に得意先に行くとか言ってた。今日は付き合ってくれるはずだったのに」
つまらなそうに口を尖らせ、前を向いたまま腕を組んで目を吊り上げた。
ということは、せっかくの休みに彼と一緒に行けないから、仕方なく和を代役にしたということらしい。
美咲は和と違って気が強いくせに誰かがいないと寂しくてダメなタイプ。うさぎだったか確かそんな可愛い寂しがり屋の動物がいたような気がする。機嫌が悪い彼女の顔と見比べると似ても似つかないからつい噴き出してしまった。
「なに笑ってんのよ」
うさぎのくせにじろりと怖い顔を向ける。
「いや、なんでもないよ。でも一緒に行くのが私だからって、もう少し楽しそうにしてくれても良くない?」
最近和も休みの日には近場にふらりと出かけるようになっていた。ただ人混みだけは相変わらず苦手で、街からは反対方向の人が少ない静かな公園や、のんびり散歩できる川べり、あまりメジャーじゃない画家の個展を見に行くことが多い。もちろん気楽気ままな単独行動。でも今日ばかりは美咲の頼みであまり気乗りしない賑やかな街に向かう。服を見るのは嫌いではないが、そんなにつまらなそうな顔をされると複雑な思いにもなるというものだ。
「ごめん、そういうことはないんだけどね」
じゃあどういうことなんだ、と突っ込みを入れたくなるけれど、そこは飲み込んでおいた。いらないものを飲み込んでしまったから余計に気分が悪くなった気がする。どこかのタイミングで、この幸せいっぱいの美咲に吐き出してやろうと誓った。
美咲はいつも服を買う店を決めているようだった。でも新しい店も開拓したいようで、あらかじめ調べていた店や気になった店にも足を運ぶ。和はあくまで後ろからつき従っていたのだけれど……
「和はいいよね、なんでも着られるから。私は選ばないと似合わないから」
ふらりと入ってみた店ではササッと見るくらい。
「こんな可愛い服、着られないもん。いいよね和は」
手に取ってみてもすぐに元に戻す。
「こんな柔らかい色でこんなデザインの服、着たいのよね。いいなあ和は」
和に服を当てて、和の顔色をうかがう。
「これなんか和にぴったりだよね。私は無理だけど」
ぐちぐちぐちぐち。自分の役割は一緒に服を選ぶんじゃなくて、愚痴の対象で、おまけに聞き役までさせられるのかと勘ぐってしまう。山中と一緒なら愚痴なんか絶対に言わないはずだ。
でも確かに美咲には似合わないなあ、とずっと思ってはいた。もっとも口には出せないから、そんなことないんじゃない、なんて舌を噛みそうになりながら小声で否定していく。それに気づいているのか、その都度睨むのはやっぱりやめてほしい。
結局いつも買っている店のうちの一軒で、キラリと光るこの秋のジャケットを見つけた美咲は、ようやく上機嫌なってくれた。やれやれと胸をなでおろす。そして美咲と服を買いに行く時は、決まった店以外行かないぞと心に固く決めた。
ちなみに和も美咲が勧めてくる物の中から1着買っていた。この秋の流行の中でも自分の趣味に合うシャツ。なんだかんだ言っても美咲の見る目は悪くないのだ。
普段なかなか行けない老舗の洋食屋さんで遅めの昼食を食べた後、全国チェーンの喫茶店に入った。「今日は付き合ってもらったからここは払うよ」と和を制するように、美咲が会計してくれた。これで溜まりに溜まった文句を吐き出せなくなったなと思っていると、付け足すように、「さっきの店はちょっと財布に厳しかったから」と、ちゃっかりしている美咲らしいことを言う。こういうことをタイミング良くはっきり言ってくれるから、みんな美咲と楽しく付き合えるのだろう。だから、素直に「おごってくれるの? ありがとう」と言えた。
おやつ時にも近く、込み合う店内。かろうじて通りに面したカウンター席に二人並んで腰を下ろすことができた。
「ケーキはよかったの?」
美咲の前にはストローが刺さったストレートのアイスティーだけが置かれていた。和の前には温かくて甘いカフェオレに、本日のおススメになっていたチーズケーキ。おごってもらったのになんだか心苦しい。
「ダイエット」
あまり聞いたことのない言葉が美咲の口から洩れる。
「はぁ?」
「さっきのハンバーグもカロリー高いでしょ。デミグラスソースはすごく美味しかったけど。ポテトサラダもあったし、ちょっとセーブしないとね」
「そんだけスマートなのに、ダイエットなんてしなくていいでしょ。大事なところもしぼんでなくなっちゃうよ」
パッと見もそうだけど、薄着の美咲も知っているから理解できない話だ。でも確かにこのところ夕食を一緒に食べても食事の量もお酒の量も少なくしているようには感じていた。
「うるさい! あんたみたくなくて悪かったね! っても、まあ、そうなんだけどね。それに体重が増えたってこともないんだけど」
「じゃあどうしてよ」
詰問する和に、美咲の目が少し泳いだ。
「今度、旅行に行くの」
頬をぽっと赤らめると、口元をゆるめて俯いた。
「え、どこに?」
「東北の方。ひなびたいい温泉を紹介されて」
「いいなあ、だ」
れと?と聞きかけて理解した。
今日買った服はそのためのものなんだ。
美咲は普段ちゃきちゃきしていて、行動も口調もスポーツカー並みにスピーディーだけれど、この手の話になると三輪車のようにおとなしくなってしまう。めったに現れない乙女美咲。
「そうかあ、山中くんとねえ」
「だれも涼佑とは言ってないけど」
「私も同期の山中涼佑君とは言ってないよ」
いつもいじられているからここぞとばかりにやり返す。いいのだ、幸せなことだから。
「もう……」
「違うんだったら、私も割りこんでいい?」
降参したかのような、声があふれる寸前の笑顔。この美咲はとても可愛い。山中くんも普段とのギャップにやられてしまったのだろう。
わざとらしく顔を覗き込んだら、恥ずかしそうにそっぽを向いた。
柔らかに流れる時間が心地よかった。
ただ時間の流れは、それを感じる者によりまた状況により、早くも遅くも、そして厳しくもなるのだった。




