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第4章~その1~

 七月に入り久々に晴れを見た夕方は、七時近くになってもいまだ明るい。窓から入ってくるもう休憩したそうな太陽の光と、つい反射的に点けてしまった生きのいい照明の光が混じり合った部屋。会社から帰ったばかりの和は部屋着にしているジャージに着替えると、スーツをベッドに放り投げたままソファに転がってぼんやり天井を眺めていた。

(私なんかに頼まれてもこっちで知っている人なんかいないのに。おまけにそんな時期に。まったく考えてものを言ってよね)

 実は今朝、美咲に唐突に聞かれたのだ。

「こっちに野球ができる人知らない?」

 今美咲とは勤務場所が違っていて、行動を共にする機会は少なくなっていた。けれども相変わらず部屋は隣だし、朝待ち合わせて駅まで一緒に歩くのは習慣になっている。その道すがらの話だが、どうも今いい関係になりそうな山中に相談を受けたようだ。

 山中は会社の野球サークルに入っていた。八月のお盆前の土曜日、他の企業と練習試合があるのだけれど、研修やら帰省やら個人的な都合やらで集まれる人数がギリギリだというのだ。だいたい練習試合とはいえ人が集まらないなんてとても熱心にやってるサークルには思えない。ただ学生でもないし家族のことなどあれば仕方がないのかもしれないけど。

 確かに美咲は社交的だし友達も多いから彼女に聞くのは分かる。けれども和は、東京はおろか関東にも知り合いは少ないのだ。数人いる高校の友達は年賀状の付き合い程度。確か美咲にそんな話もしたはずだし、その上で聞いてくるなんて美咲もよほど切羽詰まっていたのだろう。試合まであと一カ月と少し。もうみんな予定を組んでしまっていて、体があいている人なんていないんじゃないだろうか。でも美咲が山中の助けになれば、二人の仲も少しは深まるに違いない。ぜひ助けてあげたいし、そうなるとそこそこうまい人を紹介してあげたい。

 むっくり体を起き上がらせ、京都の沢波俊樹にでも聞いてみるか、と立ち上がる。『沢波俊樹にでも』などと偉そうに思いはしたが、実は連絡が取れる野球関係者は彼しか知らない。

 その前にと冷蔵庫から高知産ショウガで作った自家製ジンジャーシロップと炭酸水を取り出す。氷を3個グラスに放り込み、適量のシロップと適量の炭酸水を加え、適当に指で混ぜ合わせて完成した最近ハマっているジンジャーエール。指をひとなめしてついでに一口飲み込み、「うまい!」などと独り言を言ってグラスをテーブルに置くと、また足を投げ出してソファにもたれかかった。

『ピロリン』

 なんとものんきなメールの着信音がした。文庫本を取るように、テーブルの上のスマホをズリズリ手繰り寄せ、手にも取らずに開いた。

「恵美ちゃん」とポツリと呟く。

 最近めっきりクールとかドライとかに縁がなくなった彼女。氷原に君臨するオオカミが脱皮して、暖かい草原のコアラになったように人当りも良くなっている。メッセージにも必ずと言っていいほどカワイイ絵が動きまわる。ただ、いまだにちょっとしたことで自分にメールしてくるところをみると、まだまだ友達は少ないのかもしれない。そりゃそうだろう。表向きは変わってきたかもしれないけれど、地はそんなに簡単に変わりはしない。電話でも時々愚痴を聞かされるし、その辛辣な言葉使いたるや……。

<今度企業説明会で東京に行くよ。和ちゃん遊べる?>

 書かれていた日付は例の試合の前日で、土日に遊ぼうと言う。予定は土曜日にその試合を見に行こうと言われているくらい。試合は暑さのピークが過ぎた4時から。その後の飲み会も今のところ参加予定。でもそれまでは大丈夫だ。もちろん帰省するつもりだけれど、金曜日までは仕事だし、まだいつにするか考えていなかった。

 BGM代わりにつけていたテレビが都合よく音楽を鳴らす。まあCMなんだけど、バイオリンの落ち着いた音色から、アップテンポな聞き覚えのある曲に変わる。ん? 小さな本棚の一番隅っこ、文庫本に押しのけられ肩身が狭くポツンと並んでいたCDが目に入る。確かそれに入っている曲だ。ただ、そのCDは封を切った日に一度聞いたきり。あとはテレビのCMくらい。たいして好きな曲でもないし、好きなバンドでもなかった。でもそれをくれた人を思い出す……そうだ! これだ!

 和はニヤニヤしながら、込み上げてくるたくさんのいたずらを思い浮べて、恵美のメールに返事を送った。

<全然OKだよ! ただ、『私の仮の彼氏』も連れてきて! いつでも使っていいって言ってたから!>

 適任の人がいた。彼ならばどうせヒマだろう。彼のつてを考えていたけれど、本人でいいじゃないか。

 和のニヤニヤは止まらない。

 スマホとにらめっこして、動き出すのを待つ。数秒後、案の定電話がかかってきた。速攻でとる。

「なに? 俊樹? なんで? またデート?」

 疑問の言葉を立て続けに並べて来たけれど、呆れたような言葉のわりに溢れかえる余裕を感じる声色に腹が立つ。そうだよ。もう関係ないから安心しろ!

 学生時代、俊樹に『代役彼氏』をお願いしたことがあった。恵美も知っているその口約束、ただその期限を区切った覚えはない。

「デートしたいのはやまやまなんだけどね。せっかく恵美ちゃんが東京に来るんだったら、俊樹も一緒に来たらどうかなって。どうせまだ泊まりで旅行なんてしたことないんでしょ?」

「……ないけど……ほっといてよ! でもそれだけ?」

 それだけって、恵美ちゃん達は泊まりの旅行も『それだけ』になっちゃったんだ。いやいやこういうことにはピンとこない恵美ちゃんのことだからそれはわからない。しかし恵美ちゃんも、ここんとこ勘が鋭くなってきている。それも彼に鍛えられたのかと思うとまた腹が立つ。

 さっとスマホを持つ手を変えて、一呼吸置いた。

「わかる? いや、デートじゃないんだけど、手伝ってもらいたくて」

「手伝い? 何を?」

 訝しがる彼女に、返事をためて、ためて……

「野球!」

「はぁ?」

「恵美ちゃんも見たいんじゃない? 俊樹が野球しているところ」

「そりゃあ見たいけど。でも、あいつ今何もやってないんだよ。走ったり、筋トレはしてるけど」

「いいの。多少ブランクがあるくらいがたぶん丁度いいから。うちの野球部が他の会社と親睦試合するらしいんだけど、人数がギリギリで助っ人が欲しいみたいで。紹介する手前、うまい人がいいから」

「前にも和ちゃんが言ってたけど、やっぱあいつがうまいなんて信じられないんだけど。でも会社以外の人でもいいの?」

「いいんだって。どうせわからないから。それよりも二人で旅行するいい口実でしょ? なんだったらあたしが誘おうか?」

「もう……でもいい、私が聞く。和ちゃん、何吹き込むかわかんないから」

 よく分かっていらっしゃる。いっそのことこの二人の仲もぐんとすすめてやろうと今思いついたのを、いきなり撃ち落されてしまった。

「人数いたら少ししか出られないかもしれないけど、お願い」

「わかったよ」とおそらくにやけた顔で言った声がすると、電話は切れた。


 翌日の夕方、恵美からやけに楽し気なメールが届いた。いつも以上に、やたらと絵がうにょうにょ動いている。

<俊樹は大丈夫だって。でも野球全然やってないから迷惑かけるし、ベンチの控え要員にしておいてって。それが野球で一番得意なんだって(自虐的だね~~)。それから、和ちゃん、日曜日とかあの遊園地、行ける? 行ったことないんだ>

 先日大阪でテーマパークデビューしたと思ったら、今度は東京でって? それまでだって東京に住んでいたんだから、いくらでも行けただろうに。そう思うと、恵美がちょっとかわいそうな気がしてくる。今のこの急なブレイク。一緒に行く人が見つかったからだよね。本当に良かった。でも一番は俊樹が来れるようになって良かった。これで美咲の顔も立つ。

<ありがと。細かいことは後でメールするね。俊樹にはグローブとかスパイクを用意するように言っておいて>

 恵美にはとりあえず適当にメールを返すと、早速美咲にメールを送った。

<野球の件だけど、一人見つかったよ!>

 喜ぶ美咲の顔を思い浮かべた。山中くんに嬉しそうに言うんだろうな。ありがとう、助かった、なんてお礼なんかされたらめっちゃ照れて、あなたの役に立てて良かった、とかなんとかかわいい猫を3匹くらいかぶって、言ったりして。

 その想像だけでまたニヤニヤしていると、ドアが軽やかにノックされた。たぶんお隣さんだ。どんな顔してドアの前に立っているんだろうと、さっきの想像の顔にさらに笑顔を上乗せする。

「美咲?」

 和の噴き出す直前の声に、「早く開けて!」といつもの美咲のせっかちな返事が返ってきた。なんだろう? 今日は文句を言われるようなことは思いつかないんだけど。

 ドアを開けると、ビールをたくさん入れた袋と、いつの間に買って来たのか近所の有名な焼き鳥屋さんの袋をたっぷりの香り付きで持って立つ美咲がいた。そりゃ重いだろうし、不機嫌にもなる。

 彼女は肩でドアをこじ開けるようにして入ってきた。不機嫌そうに見えたけど、口は笑っていた。

「メール、見た?」

「見たよ」

 もっと口がニヤニヤした。嬉しかったらサッサと笑いなさいよ、と思ったけれど、それが地の美咲なのだ。

 勝手に上がり込むと、キッチンのお皿を勝手に取って焼き鳥を並べ、食器棚から勝手にビアグラスを取り出して、持ってきたビールを勝手に冷蔵庫に詰め込み、和がストックしてある冷えたビールを勝手に取り出して、すべて勝手にテーブルに並べた。

「今日は何作ってる?」

「鶏肉を甘辛く煮たやつ」

「鶏ばっかじゃない!」

 美咲が焼き鳥を買ってきたからでしょ? 私がなんで文句を言われなきゃならないのよ。どこまでも勝手なやつ。

 仕方なく、トマトをスライスして、キュウリをただ斜めに切って出した。高知(いなか)から送ってもらった、ゆずポン酢を添えて。さっぱりしたこのメニューは和の得意技と化していたが、意外に美咲のウケも良かった。

 この部屋で何度繰り返したかわからない乾杯を、100メートル走のスタートの合図のようにして、和はグイっと半分くらい飲みほした。今日も暑かったからいつも以上においしい。ビールがお腹から全身に駆け回って、冷ましてくれるようで気持ちがいい。本当にそうなったら大変だから、それはなんとなくそんな気分ってことだ。おまけに、すきっ腹も刺激されて、焼き鳥にも手を出した。

「ひとまず、ありがとうって、お礼を言っとくけど」

 なんだこの持って回った言い方は。美咲のこういう時は、すんなりと良い話には続かない。

「どこのどういった人なの? 野球できるの?」

 美咲ならこう言うと思っていた。山中の手前、あまりに下手な人を紹介するわけにもいかない。それ以上に戦力になって、感謝されたいとも思っているだろうから。でも自分に誰かいない?って聞いてきた割には、えらく高飛車な態度だ。

「そこそこできるよ。高校野球経験者。地区大会ベスト4までいったチームの人」

 サラリと答える。会社の野球部がどの程度か知らないけれど、サークル活動のようなアマチュア野球。それに、対外試合なのに人が足らないようなチームだ。とすれば、彼ならば恥ずかしくはないだろう。

「なによそれ。どこで見つけてきたのよ」

「高校の友達。たまたま東京に来るからって」

 本当は自分が呼び寄せたんだけど、『たまたま』にした。

「へー。高知から?」

「ううん、京都から」

「京都?……あんた、ひょっとしてまさか……」

「え? なに?」

「例の俊樹さん?」

 美咲、鋭い。まあいずれにしてもいつかは話さなきゃいけないと思ってはいたけれど、意外に早かった。

「あら、よくわかったね」

 何でもないことのように飄々と答えて、鶏の胸肉の甘辛煮を取り分ける。これは昨日作って何度か火にかけていたから、味がしっかりしみていて今一番おいしくなっているに違いない。あと少ししかないけど。

「和はいいの? またフラッシュバックしない? もう慰めてやんないよ?」

「大丈夫だって。それに恵美ちゃんも来るし」

 今はもう本当に何でもないのだ。それは美咲のおかげでもあるんだけれど。

 美咲はふっと息をついて煮物に箸をつけた。そこではたと何か思い出したように顔を上げた。

「ねえ、これちょっとちょうだい。明日のお弁当に入れたいから」

「もう少ししかないよ」

「いいから。その代わり、焼き鳥3本あげるから」

 5本残っている焼き鳥、全部じゃないところが美咲らしい。それも自分が1本多いだけだ。おまけに鶏の甘辛煮は全部持っていくつもりだ。まだ手をつけていなかった和のお皿の鶏肉も鍋に戻し、素早く蓋をしてテーブルの脇に寄せていた。どうも鍋ごと持っていきそうだ。

「はいはい。お好きにどうぞ」

 そんな美咲の行動はもう慣れている。和も素早く諦めた。

 話によると、どうも明日は仕事でどこか外に行くらしい。ご飯が食べられるのか分からないのでお弁当を作るのだけれど、その一緒に行く人の中に山中もいるようだ。お弁当を作ってあげるなんて、美咲も案外かいがいしい。ただ和の作ったものを持っていくあたり、ちゃっかりしている。


 次の日の夜、山中と美咲からメールが届いた。

<あの鶏の煮物、すごくおいしかった。ありがとう。また何か食べさせてください。山中>

<山中くんが、あの鶏の甘辛煮、美味しい美味しいってべた褒めしてたよ。よかったね。たぶんまた食べさせてとか言ってくると思うけど、ダメだからね! 余計なことしないでよね! まったく!>

(全然よかったって感じじゃないじゃん。それにあれ、美咲が勝手に持っていったんじゃない……)

 相変わらずの美咲。でも二人の関係がうまくいってそうで、今はただよかった、と思うだけだった。


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