第3章~その3~
「で、なんで昨日泣いてたの?」
さっきまで低調だった美咲が、余計なことを思い出したようでテーブルに手をついて身を乗り出した。そのニヤリとした顔はたくさんの悪戯を隠し持っているようで、意地悪く見える。
まったく面倒臭いな。
でもどうせ彼女は何一つ分からないのだ。ビールに合うように面白おかしく盛り上がる話を作ってやればいい。
そう思うと、それがなんだか楽しいことのようにも思えてしまうから不思議だ。
けれども大喜利の落語家さんのように面白い話につながりそうなネタはすぐには思い浮かばず、とりあえず朝の言葉を繰り返した。
「だから、ホームシックって言ったじゃん」
「はいはい。で、なんで?」
「なんだっけかな。忘れたよ」
こちらもニヤニヤ笑いながら、トマトのスープをすする。塩味と酸味のバランスが絶妙でおいしい。トマトが、私が主役ってはっきり主張しているさらりとしたスープ。美咲は見かけによらず料理が上手だ。
目の前を見ると、今度は美咲が両肘をついて、和と同じようにニヤニヤ覗き込んでいた。
「そう。じゃあ聞くけど、いい?」
ストレートが得意なクセに、やけに持って回った聞き方。いつのまに変化球を覚えたのだろう。
10センチばかり身を引き衝撃に備え、態勢を整えてから口を開いた。
「いいけど……、なによ」
「としきって、彼氏でしょ?」
「え?」
意表を突かれて体がカッと熱くなる。胸の奥が思わずひどく騒ぐ。
「あ、元カレか。だとしても、ずいぶん引きずってるよね」
東京で知り合った美咲からの、東京でしか見せていない和(自分)以外の質問。昨日のうっかり口にした失言への追及。
まさかそこにつなげてくるなんて思いもしなかった。
ただ冷静でいられないほど動揺するのは昨日までのこと、にわかに取り乱すことはない。
しっかり気持ちの整理をつけたから大丈夫。それに話すつもりもないし、第一話をしたくもないのだ。
グラリと一瞬めまいもしたけれど、素早く立て直した。
「山中くんに突っ込まれてあんな顔してるんだもん。ホントは今でも好きなんでしょ?」
あの時聞かれていただけじゃなくて見られてもいたようだ。美咲はなかなか目ざとい。
「友達の彼って言ったでしょ。好きでも嫌いでもないんだから」
いかにも呆れているような声を作った。表向きは動揺の影も見せていないはず。
でも大きくため息をつくふりをして深呼吸して、白いパネルの天井を見た。
まったく美咲もゴシップ好きな女子だ。もっともいままでだって女友達はみんなそんな話をよくしていたのは間違いない。ただ会社で根掘り葉掘り詮索されたくなかったから逃げていたのに、美咲にまで追及されていることには理不尽のようだけどいら立ちが募る。
とはいえ確かに火のないところに煙は立たないし、その火種を不用意にも作ってしまったのは自分なのだからやりきれないところはある。でも激しく燃え上がっていたものがようやく鎮火してくすぶる程度になっているのに、わざわざ扇いで再燃焼させないでもらいたいものだ。ただ何も知らない彼女のこと、面白がって大きなうちわで思いっきりバサバサ扇ぎかねない。
「へー、ホントに? 好きじゃないの?」
さっきの顔に輪をかけて意地の悪いにやけた顔をした。
それにこの手の話が酒の肴になりやすいのはよく分かる。しかし、酒の肴におもしろい話を作ろうと思ったのに、まさか自分の実話(過去)がネタにされることになろうとは。
でも…………
そんなことだと分かっていても、悲しいことにその『好き』という言葉をつい頭の中で繰り返してしまうと、胸の奥がまた、今度は温かく騒ぎ出してしまう。
そう、間違いじゃない。今でも一番好きだ。誰よりも大好きなのだ。
だからお願いだから余計なことは言わないでほしい。
まだその気持ちにふたをかぶせたばかりで、火がついて燃え上がれば、簡単にふたは開いてしまうだろう。ガッチリ固まって開けようにも開かなくなるには、いや、そこにあることすら忘れてしまうには、そっと触らないでおく時間が必要なのだ。
またひとつ大きく息を吐いて眉根を寄せ、美咲をじろりと睨みつけた。
「好きでもない友達の彼なんでしょ? じゃあどうしてそんな顔するの?」
思わず胸の奥からこぼれ落ちた表情が、余計な疑念を抱かせてしまった。
美咲はまるでおもちゃ箱の人形を取り出してこっちを見もせずに名前を尋ねるように、すき焼き卵とじを口の中に運んでいる合間についでとばかりに聞いてくる。
和はただ黙って下を向き、ムニエルを箸で切り取り口に押し込んだ。
そんな彼女にとってどうでもよさげな軽い質問なのにどういう顔でどう答えたらいいのか、自分でもよく分からない。
何も知らない彼女にとってただの恋バナ、酒の肴。居酒屋のメニューに載っている料理の一つで、ゆっくりそれをつつきながらビールが飲めればいいのだ。所詮、引きずっているのはどんな人だとか今どんな関係だなんてただ騒ぎ立てて、はい終わり。
でも自分にとってはそんな軽いものじゃない。そのあたりに転がっているただの恋愛などと一緒にしないでもらいたい。
けれどもそのように自分では思っていても、他の人にとっては同じようなものなのだろうか……。自分も記憶からさっさと消し去ってしまったほうがいいのだろうか。こだわっている自分が悪いのだろうか。酒の肴にしてしまって、笑い飛ばしてしまえばいいのだろうか。
そんなことも考えてしまう。
でもそんなこと、とてもできない。
だったら―――――――――
そうだ、捨てちゃえばいいんだ。恵美ちゃんみたいに。写真もオルゴールもなにもかも。今日をうまくやり過ごして、明日から目に触れなかったら、フタが開かなくなる時間もすぐに訪れるだろう。
「一緒に応援に行くくらいだから、彼女とも仲がいいんだよね?」
高いビールで、口の中のムニエルを流し込む。口の奥に流れ込んでいくだけでその味がよくわからない。どうせならと、勢いをつけてグラスのビールを一気に飲み干した。
普段の美咲より何倍も軽く聞こえる声と、明らかにただの興味でしかないと物語っているニヤニヤした顔が、神経を逆なでしてくる。
彼女と仲がいいのは間違いないし、それ以上にこんな自分なんかを慕ってくれる彼女も大好きだから、そのことにも部外者には触れて欲しくない。おまけに自分がなんの気なしに口にしてしまって、仕方なくついた嘘からそんなことまで詮索されているのだから、そんなことをした自分にもますます腹が立ってきた。
和はそれ以上なにも口にせず、なにも漏らさないようにグッと唇をかんだ。
本当にこの東京では過去の記憶を呼び覚ましたくはない。でなければわざわざ東京まで来た意味がなくなってしまう。
やはりこの場所で、この現実の世界に引きずり出されないためには、その触媒になるものが限りなくゼロになるほうがいい。
捨ててやろう! スマホごと! なにもかもゴミ袋に詰め込んで、燃やしてしまおう!
それで、ピカピカの超最新のスマホを買って、未来の楽しいことだけたくさん詰め込むのだ。
高校の時のことも、大学の時のことも、あの嫌な思い出も、きれいさっぱり捨て去って!
彼らからの連絡は一切来ないようにして。
すべて、捨て去って………………
「その彼、え、二股? 和のことだからそれはないな。じゃああんたの片……」
「もういいよ、美咲! むしかえさなくても!」
堪えるつもりが、美咲に次の言葉を言わさないように、つい強い口調で制した。
なにも言うな! もうとっくに終わったことだ!
そんな怒声をどんなに頭の中で浴びせかけても、フタは勝手に開いていく。
それでも悔しくて悔しくて、強く強く押し返して、閉じ込めようとした。
「むしかえす?」
「いいって!」
人の心に土足で入ってくるような美咲の言葉にますます腹が立った。
せっかく落ち着きかけていたのに、これ以上かき混ぜるな。
「なご、み……?」
「いいから!」
「ご、ごめん、なごみ。ごめんね。まさかそんなに……」
和の突然の豹変、怒声に、美咲は急に顔色を変えた。差し出した彼女の右手が、不用意に発してしまった言葉をかき集める前に宙で止まる。
そんな美咲の狼狽を目にして、和の中で思いもしない雪崩が起きた。
破裂するような声のあと、体が震え始める。
そして観念するかのようにうなだれた。
また唇をぐっとかみしめると、大きく強い心臓の音が響く。
どうしてこんなに……
美咲が驚いて、急に心配そうな、自分を心配してくれる顔をしたからだろうか。それを自分の名前に込めて、優しいその声にもしてくれたからだろうか。
他人には決して知られたくない、知ってもらいたいなんて思いもしない。話したからといって、解決することでは決してない。蜘蛛の糸のように絡まって取れなくなっている、苦い記憶と想い…………。
彼は大好きな人で、良い思い出の中にいてくれたらいいんだ。楽しい、温かい、でも切ない、思い出。中学、高校、大学とずっと紡いできた想い。それはつい先日終わりを告げたばかりで、自分にはもうその先の物語はない。優しくて何を置いても他の人のことをまず考えて動く、恥ずかしがり屋の彼。そんな彼をどこまでもまっすぐ心配して全力で動いた、不器用な恵美ちゃん。二人は上手くつながったんだ。それでよかったんだ。これから彼と恵美ちゃんが幸せになればいい。……恵美ちゃん………………
やっぱり、恵美ちゃんに……………………なりたかった。
「和、泣いてるよ」
和に目を向けたまましばらく黙っていた美咲が眉をゆがめてぽつりと呟いた。
そう言われて初めて気づいた。知らぬ間に、涙が溢れていた。
「和、どうして、泣いてるの?」
美咲が優しく和の琴線に触れる。その穏やかな声が固めていた壁を溶かす。
逃避してきた東京で出会った、ただひとり気の許せるひと。そのひとの自分を思う声が伝わる。
真一文字に結ばれていた唇が緩み全身の力が抜けてくると、温かいなにかが体の見えるところと見えないところに流れ始めた。
誰にも話したことはない。口にするのにはとても勇気がいると思っていた。
自分の大切な想いと、忌み嫌う自分の過去。それは自分自身。
昨日で終わりではなかった。
一度それを口にし始めると、溜め込んでいた気持ちが爆発するように流れ出てきた。
「私は…………長い間大好きだった俊樹にすごく酷いことをして、東京に逃げてきたの」
真正面に美咲を見据えて、はっきりと言った。
「え?」
「私はそんな人間なの……」
和は核心だけを告白してうなだれた。




