表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/38

プロローグ

 京都での大学時代、木下和きのしたなごみは中学時代から好意を寄せていた沢波俊樹さわなみとしきと再会を果たす。しかし沢波がひどいアトピー性皮膚炎にかかり、そのつらそうな姿に困惑し距離を取ってしまう。一方、俊樹と同学部のクラスメイトで、和と大学で知り合った春田恵美はるたえみは、そんな彼に献身的に寄り沿い続けた。病状が悪化し心身とも極限の状態になった時、俊樹は恵美の負担にならないように、わざと嫌われて離れていくように仕向ける。思惑通り恵美は離れていき、俊樹は全力で病魔に向き合い克服する。その間に和は、彼の恵美への強い想いと、その想いから起った悲しい企てに偶然にも気づいてしまう。彼を愛する資格がないと罪の意識に苛まれていた和が、いてもたってもいられず二人の間を取り持つことを決意する。そして和は二人から決別するように、希望していなかった東京での生活を選んだ。

 それから……


*本作品は、令和2年11月に出版された『桜舞う春に、きみと歩く』のスピンオフ小説です。



 五月晴れ、汗ばむ陽気。お昼を少し回った南中に近い太陽の光はなにもさえぎるものもなく輝いていた。

 その明確な明るさを持った光は、万物の半分を照らし半分に影を作る。光がはっきりしているほど、その影もはっきりする。光に力がないと、影も弱々しい。その作り出された陰影は見る者により、喜んでいるようにも見え、憂いているようにも見え、悲しんでいるようにも見える。自然はなんの気なく作り出しているはずなのに、なんだか不公平な気がする。

 (なごみ)は偉大な太陽を敵に回すように、駅のホームにぼやける自分の影に目を落とした。


 京都駅から一駅先で私鉄に乗り換え、6駅ほど。それが待ち合わせの駅だった。

 気の置けない友達がいる場所。和はそこに戻る。それは彼女たちのために戻らなければいけないと思ったから。そしてそれが自分に課された最後の役割だと信じて疑わなかった。

 2カ月前、黙って京都を離れた。その和に彼女は文句を言ってきた。それも何度も何度も。きちんとお礼も言えなかった、と怒っていた。もちろん和が大学を卒業していなくなることを彼女も知っていたのだけれど。

 その少し前、和は彼女が全く予期しないような『宿題』をいきなり突きつけた。おまけに解答を報告するようにも言っておいた。彼女は気づいていなかったけれど、とても素敵なご褒美が待っているその問題。聡明な彼女にとっても苦手分野の難問のはずだったが、見事にクリアされてしまった。ご褒美は自動的に受け取ったようだけど、以後すべてが放置されたままになっていたから彼女が怒るのも無理もないことかもしれない。

 しかしまあ、そのお礼が言いたいんだか、文句が言いたいんだか。そんな彼女の顔を想像すると、込み合う電車の中なのに思わずぷっと吹き出してしまった。


 地下の駅から地上に伸びる階段を駆け足で上る。1時に待ち合わせていたけど、思っていたより連結が悪くてギリギリになってしまった。昔からいつも私より早く来て待っている彼女。時間にきっちりしていて遅れて来たことがない彼女を待たせたくないと思うと足に力がこもる。言いたいこともあるようだし、久しぶりとか関係なく、遅い!なんて怒鳴りつけられるかも。

 走りながら慌てて確かめた腕時計で1時きっかりに強い光がさし、まぶしさに目を細める。階段の一番上を踏みしめたとき、すぐに彼らの姿を見つけた。さっと右手を上げる。彼女も右手を差し上げ、なにか叫びながら駆けてくる。ほんのわずかな憂いも感じさせない笑顔。あのときにあふれていた怒りも不安も困惑もまったくない、無垢な少女のような姿が輝いて見える。彼女の肩越しには、変わらない笑みをたたえた彼が同じように右手を上げて立っていた。切望していた彼女と彼が重なる光景に、最高の笑顔を作って応えた。


 その駅近くには、彼女たちと何度も通ったパスタ屋さん兼カフェがある。白を基調とした昭和レトロな店内に、ザワザワコソコソと成長途上の学生が店の雰囲気を醸し出しているのは今日も変わらない。懐かしいなんて言葉が浮かんだけど、あれからまだ3カ月も経っていないことに気づく。店独特の匂いは覚えているし目に映るものにも何の違和感もない。まだここにも自分の気配が十分に残っている。そんなホッとしているのか嬉しいのか分からない、とにかく心地よい感覚を堪能する間もなく、慌ただしく働いている店員さんに引っ張られるように窓際の4人掛けの席に通された。

 社会人ともなると、座る席も意識してしまうけれど、それも今は関係ない。さっと店側の席に腰を下ろすと、窓を背にして彼が、そして彼女はそれが決められているかのように躊躇なく彼の隣に座った。差し込む光が彼らを優しく包み込んでいた。


 いつものように彼がメニューをじっくり見て選ぶ。お気に入りのグラタンしか頼まない彼女も形ばかり覗き込んでいた。和も手元にあるメニューを見ているフリをしているけれど、実は注文するものはすでに決まっている。顔を上げて彼を見ると、「おススメのスープパスタにする」と宣言するように言った。和も「私も同じやつ」と付き従う。

 いままで3年間、この3人で何度かここに来たけれど、たぶん彼らは気づいていないだろう。和はいつも彼と同じものを注文していた。なぜか、という問いにはっきりした答えはなくて、彼が頼むからとしか言えないけれど、それは今日も変えられないスタンス。ただ彼女がいつもと違っていた。さっと手を上げて店員さんを呼び止めると、「じゃあ三人ともオススメのスープパスタを」と注文した。いつものグラタンではないことを指摘すると、彼も気づいていたようで、「恵美が違うものを選ぶのって珍しいかも」と驚いている。すると、「和ちゃんも俊樹もそれにするって言うから」と微笑んだ。

 和は、グラタンのことなんか瞬時にどうでもよくなり、この二人がごく自然に名前を呼び合うようになっていることに目を丸くした。和にしてみれば、なんとまあこの二人が!なのだ。あらためて彼女を見ると、柔和な笑顔もそうだけれど、どこか可愛らしい空気をまとっている。あれほど隙がなく凛としたイメージだったのに。だから隣の彼を見てわざとらしく首を傾げ、「恵美ちゃん、なんだか優しい可愛い感じになったよね」と言ってやった。髪型を変えた?なんて付け加えたけれど、そんなの変わっていないことは分かっている。あたりまえに「変わってないよ」とキョトンとしている彼女。もちろん彼が原因なのは明白だ。なぜなら、それを焚きつけたのが和だから。それにしてもよくもまあここまでいい感じに変わったものだ。その変化が分かるのも、おそらく和だけなのだろう。

 悔しかったから彼に向けて、肌の調子よくなったね、きれいになったね、男前になったねと話を変えてみた。苦難を乗り越えようやく回復した彼が照れるのはいいとして、そうでしょと言わんばかりに得意気な彼女がまた癇に障る。だから「中学の頃からずっとずっと男前だと思っていたよ」とつい張り合った。

 彼女の表情(かお)が急に曇る。

 和は、表向きには照れくさそうな顔をしていたが、確かに自分にはありえない言葉に照れていたけれど、実はニヤリとする自分が勝っていた。そう、彼女のその顔が見たかったのだ。

 でもすぐにそんないやらしい思いは消え、重苦しい気分になる。やはり自分は、意地の悪い人間なんだと。


 食事の後、道向かいの川の遊歩道に向かった。葉桜の間を気持ちのいい風が流れる川べり。薄紅の花の時期には及ばない人出とはいえ、この陽気で初夏の装いの人々が散策を楽しんでいた。

 彼が小石を拾って川の真ん中くらいまで投げた。さすが元野球選手、スマートなスローイングは相変わらずだ。彼女にもそれが分かるのか、「上手そうに見えるよ」と上からの物言いをする。瞬時にカチンときて「上手そうじゃなくて、上手いの!」と言い返した。そしてどれだけ野球が上手かったか彼女にコンコンと刺さるように説明した。そこはどうしても譲れないのだ。

 そのやけにむきになっている和を、彼は他人ごとのように感心して見ていた。

 彼と目が合うと、その和に向けられた視線が優しくなる。和を向いている驚いた表情(かお)が朗らかになる。

 それに気づいた和は、自分の目にもしっかり焼き付けておきたくなった。「もっかい投げてみてよ」と頼むと、彼は足元の小石を拾い、さっきよりずっと遠く、対岸に届くんじゃないかと思うほど遠くまで投げてくれた。すぐに三歩ほど歩いて、彼のすぐそばに立ちその顔を覗き込む。川向うなのかもっと先なのか、遠くを見ているけれど、どこか満足げな横顔。肩が触れるほど近くにいた和に気づきただ一瞥すると、どうだといわんばかりに彼女には笑顔を向けた。

 その瞬間、ようやく心が決まった。

 一度だけ彼の左腕を両手でぎゅっとつかんで離すと、くるりと向きを変え、彼女を真正面に見据えた。その彼女は、なにが楽しいのか、口元が緩んで、微笑んでいるようにしか見えない。

 一歩足を踏み出す。

 彼女と目が合うと、今できうるかぎりの笑顔を作った。

 手を後ろで組んでゆっくり歩を進める。

 次第に目の前の彼女の顔に不安が浮かぶ。祈るように両手を胸の前で合わせ、眉を寄せ、まばたきもせず見つめてくる。意外だったけど、その表情に心底喜びを覚えると、さらに笑みを深めた。

 ゆっくり、ゆっくり、歩く。

 笑顔に反して、心の奥まで睨みつけるように視線をそらさないでいると、彼女の目に涙が浮かんできた。心なしか震えているようにも映る。

 とどめを刺すように、あと2,3歩で手が届くところで歩みを止めた。

 ふっと息を吐き、小さくうなずくと、彼女の顔が恐怖で怯えているような表情に変わった。

 もう、十分。

 手品の種明かしのように口を開く。


「惚れなおした?」


 彼女は固まったままだけど、瞳が大きくなり(まなじり)から涙があふれてきた。それを拭うでもなく、和を見続ける。まるで和から目を離すことを許されていないかのように。

 和はもう十分満足した。彼女に対する仕返しがすんだと。

 仕返し? いったい何の? 彼女は何一つ悪いことをしていないのに?

 そう思いなおすと、スッキリするどころか、黒いどろどろしたものがまた溜まっていくようで、気持ちが悪くなった。だから彼女のために、そして自分のためにも、償いの言葉を送った。

「恵美ちゃんにまかせたんだからね」

 数歩足を出す勢いのまま、彼女を抱きしめた。

 震えが伝わってくる。

 その小刻みな振動が、彼女の中の和の立ち位置を教えてくれる。腕に力を込めると、安堵に裏付けられたぬくもりがじんわりと湧き上がってきた。

 本当に恐かったんだ。

 ごめんね、と声に出さず謝った。

 そのかわりに息がかかるほど間近で見つめて、「結婚式には呼んでね」と言ってあげた。すると彼女の顔が瞬く間に真っ赤になって、心臓が大騒ぎする音が聞こえる。

 よかった。今日京都に来て本当によかった。

 でもやはりこんな自分だから、「嫌になったら言ってね。私がいつでもすぐにもらいに来るから」と本音を口にしてしまう。すると、なんのためらいもなく「絶対嫌にならないから!」と、涙目のままではっきり声に出して答えてみせた。あの彼女がこんな心の言葉を素直に口にするなんて想像もしなかった。和の安堵を一瞬で確信に変えた。


 電車の時間が迫り、駅に向けて歩きだす。と、いきなり彼女が背中に飛びついてきた。和の役割は終わったと思っていたけれど、彼女はまだ和を離したくはないようだ。

 ありがとうと、絶対に連絡してよを、涙交じりに繰り返す。

 見た目も精神も、あれほどしっかりしていると思っていた彼女。いい意味で可愛く、悔しいほど上手にポンコツになった。


 駅に着くと、彼が餞別をくれた。彼とライブに行く約束をしていたバンドのCD。あの時は自分も好きだと言ったけれど、本当は名前を知っているくらいで、好きでもなんでもなかった。でも彼からの数少ないプレゼントだからありがたく受け取った。「ライブ、一緒に行けんかったから」なんていまさらのように言う彼に、「なにそれ? 一緒に行くって?」と何も知らされていなかった彼女が不機嫌になる。それに気づくと、「言われんで。二人だけの秘密やき」と反射的にくぎを刺した。さっき彼女に謝ったばかりなのに、いまだこんな言葉が自然に出てくるなんて、本当に意地の悪い人間だと思う。でも彼はもうあなたのそばにずっといるのだから、これくらいは許してほしい。

「和ちゃん。本当にありがとう」

 口をとがらせている彼女を横目に、彼がかしこまってお礼を言ってきた。彼のこと、そのお礼の言葉をずっと秘めていてくれたに違いない。でもそのままの重さで返事することは到底できないから、「そうよ。めっちゃ感謝してよ、あなたがた」とずいぶん軽く言い返した。おそらく分かってくれているのだろう、黙ってにっこりしてくれる彼に対して、彼女は『なんであたしが感謝しなければならないんだ』って顔をしていたから、また睨みつけてやった。この2カ月あなたが言い続けていた文句はなんだったのだと。

 最後に、「メールするね」と彼に言うと、ごく静かに小さく、自分にしか分からないほど小さく頷いてくれた。彼女は「気をつけてね。仕事も頑張ってね」なんてありきたりの励ましの言葉をくれるから、「恵美ちゃんもね」と口だけで答えておいた。

 ポンっと彼女の肩をたたき、彼の顔を一瞥すると、とても見られなくてすぐに目をそらした。

 さっと背中を向けて走り出す。

 改札をすばやく抜け、彼らを一度も振り返ることなくホームへの階段を駆け下りる。

 楽しげに電車から降りてくる人たちを避け、一番後ろの車両に飛び乗り、一番後ろのシートの後ろの端に座った。

 出発のブザーが鳴り、ドアが閉まる。窓の外の壁が動き出す。ホームに満ちていた光が見えなくなる。自分を照らす光も遠ざかり影に飲まれる。

 本当の終わりを感じると、今まで我慢していた涙があふれてきた。他の乗客には決して見られないようにハンカチで目を押さえる。声を漏らさないように口をぐっとつぐんだ。涙以外すべてを胸の内にしまい込むように。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ