第48.5話 師匠と先輩の隠し事⑮
「言い忘れたこと~?」
先輩は、不思議そうに首を傾げた。今から僕に何を言われるのか、全く心当たりがないといった様子だ。
「……はい」
僕は、ゆっくりと頷く。そして、一言。
「僕、先輩のこと、嫌ったりしませんから」
『今から何があっても、何を知っても、師匠ちゃんのことだけは、絶対に嫌わないでほしいんだ~』
先輩が僕に言ったこの言葉。これはつまり、裏を返せば、師匠以外の人を嫌ってもよいということだ。そして、その対象となるであろう人。それは、先輩だ。師匠から将棋を奪い、師匠にトラウマを植え付けた。それを、未だに後悔し続けている、先輩なのだ。
思えば、先輩には不思議なところが多すぎた。先輩は、僕に勉強を教える時、必ず、「教え方が悪かったらすぐに言って」と前置きしていた。「受験勉強だからいなくなるなんて、もう嫌なんだよね~」と言って、高校生活最後の大会が終わっても部活動に参加し続けた。極めつけは、僕が将棋部に初めて訪れた時のこと。将棋部への入部希望者が現れなかったことについて、「将棋の神様は、まだ私のことを許してくれてないんだね~」と言いながら無理に笑っていた。他にも、たくさん。本当に、たくさん。
それらがすべて、先輩の後悔の念から生まれていたことだとしたら。先輩が、自分は嫌われて当然だと思っていたとしたら。
僕の言葉に、先輩は目を大きく見開いた。次の瞬間、その体が、プルプルと震えだす。寒さで震えているというわけではなさそうだった。
「……き、急に、何、言ってるの~?」
「…………」
「わ、私は……その……」
「…………」
「き、嫌われて、当然なんだ、よ~」
そう口にする先輩の顔は、クシャリと歪んでいた。
「嫌いません、絶対に。嫌えるわけ、ないじゃないですか」
「……ど、どうして~?」
「それは、僕が、今の先輩を知っているからです」
どうして僕が先輩を嫌わないのか。そこに大した理由などない。しいて言うなら、僕が今の先輩を知っているから。ただ、それだけなのだ。先輩が、師匠から将棋を奪ったのだとしても。師匠にトラウマを植え付けてしまったのだとしても。それは、過去の先輩がやってしまったことだ。今の先輩は、それをとても後悔し、同じことが起こらないようにしている。後輩の僕がこれまでずっと見てきたのは、今の先輩で、過去の先輩ではないのだ。今の先輩にどんな過去があったにしろ、嫌えるわけがないじゃないか。
「……私のこと、嫌わないの~?」
「はい」
「……詩音ちゃんに……君の師匠に、ひどいこと、しちゃったんだよ~」
「……先輩は、それを反省してるじゃないですか」
「…………」
「…………」
僕たちの間を、沈黙が支配する。じっと見つめ合う僕と先輩。遠くの方で、救急車のサイレンが大きく響くのが分かった。
「……そ、そういうことですから! じゃ、じゃあ、僕、帰りますね!」
急に、僕の中に恥ずかしさが波のように襲ってきた。今、僕はとても偉そうなことを言ってしまっている。それも、先輩に向かって。さすがにいたたまれない。
僕は、クルリと踵を返し、歩き出した。その時だった。
僕の背中に、トスッと軽い衝撃。感じる温かさ。ギュッと握られる僕の服。
「せ、先輩!?」
「ごめん。少しの間、こうさせて~」
「……はい」
「絶対に、ヒッグ、振り向か、グス、ないでね~」
「……分かりました」
先輩は、僕の背中に自分の体を預けながら、ただひたすらに嗚咽を漏らしていた。先輩が、今までどれだけ苦しんできたのか、僕には想像がつかない。だが、背中を貸すくらいは、僕にだってできる。僕は、先輩の後輩なのだから。
「先輩」
「……なに~?」
「また、月曜日、将棋しましょうね」
「……うん」
先輩の手が、さらに強く僕の服を握ったのが分かった。




