第15.5話 僕の師匠③
対局が始まる。先生は、僕らに気を使ってか、遠くの方から僕らのことを見守っていた。どうやら、他の大人達にも何かを言ってくれたらしい。彼らは、一切こちらに近寄ってはこなかった。
彼女は、ゆっくりと、確かめるように駒を打ち下ろす。その手は、ほんの少しの震えを帯びていた。
そんな彼女の様子が気にかからない訳がない。対局中、「どうして手が震えてるんですか?」と聞きたい気持ちが何度も沸いてきた。だが、僕は、必死にその気持ちを押しとどめ、盤上に集中した。ここで、彼女にそんな質問をするのは、とてつもなく失礼なことだと思ったからだ。
僕と彼女の間には、確かな棋力差があった。僕の陣形は、一手一手、見るも無残な様相に変えられていった。反対に、彼女の陣形は、ほとんど傷を付けられていない。僕の攻めは、彼女に全く届いていなかった。
そして……
「負けました」
僕は、その言葉を口にした。
盤上には、『惨敗』という表現がふさわしいほど、酷い局面が広がっていた。ここまで酷い将棋を、これまでの僕は体験したことがなかった。
「……私、戻るね」
そう言って、彼女は椅子から立ち上がり、クルリと僕に背を向けた。そのまま、先ほどまで本を読んでいた場所へと歩き出す。
「あ、あの!」
そんな彼女の背中に向かって、僕は声をかける。どうしても、言わなければならないことがあった。
「……何? 文句でもあるの?」
背中を向いている彼女の表情は見えない。だが、その冷たい声から、彼女がどんな表情をしているのか、なんとなく分かる気がした。
「違います。逆ですよ」
「……逆?」
「はい。さっきの対局、すごく楽しかったです!」
「…………え?」
彼女は、勢いよく振り向いた。大きく見開かれた目が、僕を見つめる。
「……何……言ってるの?」
「何って……ただ、さっきの対局が楽しかったなって言っただけですよ」
「……こんなに酷い負け方だったのに?」
「負け方なんて、関係ないです。いろいろ勉強にもなりましたし。本当に、楽しかったです!」
負けて悔しい気持ちはある。だが、それ以上に、楽しかったという気持ちの方が大きかった。今まで祖父とばかり将棋を指していた僕。彼女の将棋は、そんな僕に新しい景色を見せてくれたのだ。
「……本当に?」
「はい。本当です!」
彼女は、まだ少し疑わしそうだったが、僕の返事に、僕が嘘を言っているわけではないと分かったようだった。
「私との将棋が……楽しかった……私との……将棋が…………そう、なんだ」
僕を見つめたまま、何かを呟く彼女。僕たちの間には、先ほどまでにはなかった、不思議な雰囲気が漂っていた。
不意に、ポトリと、音が聞こえた気がした。
彼女の目から、涙が零れ落ちていた。




