星の瞬き
自罰のため、いっそ死ぬために私はこの地へとやってきました。
ですが今となっては……分かりません。
いつの間にか分からなくなっていました。
いいえ、本当は最初から分かっていなかったのでしょう。
私は何をしにこの地へとやって来たのでしょうか?
分かりません、分かりませんが……きっとこの選択は正しかった。
レクさん、あなたのお陰でそう思えているのです。
「ミエタ!」
樹上のアリャからだ、ようやくハイロードへと着いたか……巨人に運ばれた際にはあっという間だったのに山林を徒歩で進むとなると相応に時間がかかるもんだ……。
……それにしても意外だな、森の中なのに意外と獣が現れない、けっこう身構えていたんだがな……。
わりと歩いたよな、ゆうに一時間は歩いた、なのに何の問題もなくハイロードへと戻ってこれたよ、おかげで野営できる場所を探す時間もありそうだし願ったりだが……いや、まさかな……。
「……今日はいささか大変だったし、早めに切り上げることにしないか? 疲労を抱えたまま動くといざというとき困るしさ」
「うむ、そうだな」
「まさか宿らしい宿があるわけもないだろう、どこか安全を確保できる寝床が必要だろうが……何かいい案とかあるかい?」
「森ではやはり樹の上が比較的安全といえるであろうな。この地には竜血樹に似た樹木があり、それが獣より身を隠すには便利なのだ」
「竜血樹? ああー……昔、図鑑で見たことがあるような……」
「キノコのようなシルエットをもつ樹木だそうだ。アリャ、狩人ならば憶えがあるのではないかな?」
「キノコ、ジュモーク……シッテル! セルフィン、ヨクツカウ」
「うむ。ではそれを探してもらいたい」
「ワカッタ!」
「あとできれば夕飯の調達もしたいな。この地には普通の動物とか……いるよな?」
「おるよ、変わった亜種が多いがな」
「じゃあアリャが探してくれている間にこちらも狩りをしようか。山菜やら薬草やらはさっきアリャが採っていたし」
「うむ、そうしよう」
「スグ、ミツケル!」
アリャの姿が一瞬で消えた、さらに上ったんだろうが相変わらずすごい身のこなしだな。
「先ほどよいお食事をいただきましたし……」エリだ「無理に動物を狩らなくとも……」
殺生はなるべく控えたいという気持ちは分かるが……。
「でも食料は常に確保しておかないと……」
「……ええ、いえ……すみません、その通りですね……」
明日も満足に食えるとは限らないからな、余裕のある時にこそ食料は確保しておかないと……って、あれ? もうアリャが戻ってきた。でかい兎? か何かを担いでもいる。
「おお、狩りもしてくれたのか、樹の方は?」
「ドッチモ、ミツケタ! ラクショー、ダッタ!」
マジかよ、早すぎねぇ? 狩人様々だな。しかも兎のような動物はすでに首がはねられ血抜きの最中という手際のよさだ。
「コッチ!」
これだけ早いんだ、樹の方も近場にあるんだろう。
「ココ!」
これか……幹を見る限りじゃ他の樹木とあまり見分けがつかないが、上方を見るに枝が密集しているのは分かるな、これなら姿を隠しやすいだろうし、ちょっと縄でも通せば安定した寝床を作る事も容易いだろう。
「よし、あとは湿気っていなさそうな枝とかを周辺から集めて上がるとしようか」
「任せて下さい」
エリが鳥をたくさん出した、枝集めにも使えるのか?
「本当に便利な魔術だな……いったいどうやって操っているんだい?」
「お願いを伝えると簡単な事ならこなしてくれます」
お願い、くれる? エリが細かく操っているんじゃないのか……と、俺をも運んでくれるらしい、木登りはあまり得意じゃないから助かるな。
さて樹の上部へと着いたが……かなり枝が密集しているな、なるほどこれなら多少ロープを張れば不意に落下することも少なそうだ。よし、俺も少しは役に立たないとな。
「あら、そういったやり方もあるのですね」
「ああ、これで多少は安心なはずだ」
……よし、さして寝心地がいいわけでもないだろうが場所が場所だけにこれで勘弁だ。
ロープを張ったことにより竜血樹の中心部分はちょっとした居住空間になったな、アリャとワルドが集めた枝などで焚き火をこさえたようだし、さあ一息つくか……。
「あーあ、ほんと、初日から大忙しだったな……」
「うむ……外では稀と思えることもこの地においてはそうともいえん。都合の悪いことならばなおさらにな……」
「不運はいつだって大安売りってね」
ワルドは小さく笑い、
「では、今後について話そう。無論、蒐集者についてだ」
「……ああ、なんだかよく分からないが、やり合う状況になってしまったようだな……」
「うむ、あれはまた現れるに違いない。ならば実力をもって排除する以外にあるまいな」
「図鑑によれば……奴は罠を駆使するらしい」
「ハイロードは危険であろうな。冒険者がよく通る道をあやつが見逃すはずもない。それに人工物全般にも気をつけた方がよい。つまり冒険者が興味を抱きやすいものすべてであるな」
「確かに……さっきだってあの建造物に入ってみないなんて選択はなかったもんなぁ……。ということは獣と出会いやすい森の中の方がマシって事になるけれど……」
「それだけで避けられるほど甘い相手とも思えんがな……」
「そもそもだ、効率よく罠を仕掛けるならこちらの動向を把握する必要がある……というか奴の口ぶりが妙だったんだよな、あたかもこの辺を広範囲に観察できているかのような……」
「うむ、例の首なしやもしれんな。あれらが偵察をしている可能性が高い」
「ああ、動きはぎこちないものだったし戦闘を主目的とした兵隊ではないのかもしれないな。監視や追い込みがその役割とか」
甲虫が爆発したのはそのもの本来の性質というより爆弾を搭載させていたからではないだろうか? そしてそういう手法を取るのは首なしの戦闘力が低いから? 甲虫はふらふら飛んでいたし、他の奴らも挙動が怪しかったからな。
「首がないのはなぜだろうか? 他に何か変わったところはなかったかね?」
「ああ……そういや、切断面から金属っぽいものが見えたような……。なんというか、蓋みたいな」
「蓋か……。それが頭脳の代わりをする何かなのかもしれんな」
頭脳の代わり……? そんなもの、あり得るのか……?
「うーん、森の中にいた方が多少は監視の目を避けられると思うが……移動に支障がでるよな」
「うむ……難しいところであるな」
「はい」エリが小さく手を上げた「ある観点の説明と、それに付随する今後の方針において意見があります」
「うん、聞きたいな」
「ある観点とは匂いです」
「匂い?」
「罠を仕掛ける上での事案としては大まかに標的がかからない、標的以外がかかってしまう、この二点があります。蒐集者の場合、おそらく人間を主な標的にしていると思われますので、人間には分かりづらく、動物には分かりやすい性質を持つ罠を仕掛けるはずです。具体的には何か特有の匂いを微量に塗布しておくなどの対策をしているはずです。動物は嗅ぎ馴れない匂いを嫌いますから」
「むう……罠の匂いか、なるほど狩りにおいて重要なのは罠の匂いを消すことであるが、あやつの場合その逆の発想にて人間を狩っておるといいたいのであるな?」
「罠の匂い……?」
「キンゾク、ニオイ、ケモノ、キライ」
「へえー?」
「狩人の一族たるセルフィンにおいては自明であろうな。獣は金属の匂いを嫌うことが多い。ゆえに長時間、川に漬けたり土に埋めたりなどをして匂いを消すのだ」
「へええ……」
「ゆえにエリの主張には説得力がある。魔物たちが普段より罠のある場所を避けて生活しておるとしたなら、魔物を避けるほどに罠のある場所へと誘導されてしまうことであろう」
つまりは罠と獣の二者択一か……。
「そいつはどっちをとってもあまりよろしくないな……」
「ですので、危険を承知にてハイロードを行くべきではないでしょうか」
……なに?
「そちらの方がマシだって?」
「はい。なぜなら私たちへと向けられた罠が無関係な方々に牙を剥くことも考えられるからです」
それは確かに……他の冒険者に俺たちのとばっちりをくらわせる道理はない、か……。
「さらに、罠がどういったものか実際に確認をする必要もあります。ゆえにあまり逃げてばかりもいられないと思うのです」
「ぬう……あるいは我々の責任問題になると? しかしあやつは普段より冒険者を狩っておるそうだぞ、我々が重荷を感じる必要がそこまであるかね?」
「程度の問題だと? でしたら、そうかもしれませんが……」
「ようは奴と真っ向勝負するかどうかって話だろう? それは成り行き次第かと思うが、それより実際問題……やるのか? 奴を殺すって話でいいんだな?」
エリはうなる……。
「私は……捕縛し……」
「捕らえるだと?」ワルドはうなる「話にならん」
「……今回ばかりは容赦などいらないと思う。意思の疎通ができるなら異人種だろうが獣だろうが可能な限り穏便に済ませたいが……奴の場合、どうにも嫌な予感しかしなくてな……」
「それでよい。人を狩る者など畜生以外の何者でもありはせん。先のグラトニーズの方がよほど隣人にふさわしいであろう」
隣人、か……。
「説得ができればよいのですが……ええ、あるいは至難であるかもしれません。彼はおそらく、裏教典に関した信念に基づいて行動しているようですから……」
そうだ、裏教典……。
「その、裏教典って何なんだい……? 聞き覚えはあるんだが詳細なところはとんとね……」
「白妙の教えには扱いの困難な裏面たる内容があり、困難であるがゆえに恣意かどうか……はともかく、極端な行動に人を誘うことがあるのです……」
極端な行動……つまりは悪事か。
「彼はおそらく、神の降臨か神人の再臨のためにあのようなことをしているのだと察します」
神人……つまりハイ・ロードか……。
「よく分からないな、神や神人は何かつまり……悪い事をするとやって来るとでもいうのかい?」
「正教典においては」ワルドだ「他者に善く接することで神性を見出さんとし、そうして現世を浄化することで神人の再臨を早めんとしておるが、裏教典においては逆に悪しきに傾倒し、再臨を促そうとしておる……とは聞いたことがあるな。そして理屈の上では裏教典の方が構造的に強力だと研究家の間では解釈されておるとも。人は愛し合うより憎しみ合う方が容易なものであるし、相反する両派の確執そのものが裏教典派の思うつぼである」
「でも、悪い事をしたからってさ……」
「罰を与えにくるのだという話だ」
ああ、なるほど……。
「罰が下って本望なんて……自己犠牲のつもりかよ」
「まさにそうなのです……。来るべき至福のためには手段を選ばないのが彼らなのですから……」
「どうであろうか」ワルドの語調は冷淡だ「そのような理屈をかさに欲望を満たさんとする輩が多いとも聞くぞ」
「それは……ええ……」
単に、言い訳に使う輩もいるってことか。だが奴は違うだろうな、あれは間違いなく狂信者の言葉だ……。
……なんて話をしている間にアリャが兎を解体していた、今は皮をなめす作業に入っている。
「ハナシ、ヨクワカランナー」
「そうそう、よく分からんって話をしてるんだよ」
「ニェエー……?」
さて、疲れたし少し横になるか……。ロープを張っただけの寝床だが、横になれるだけましだ……。
「うっ……?」
ああ……揺すられた? 寝起きの感覚、辺りが暗くなっているな、日が沈んだか、寝てしまっていたんだ……。
「起きて下さい、夕飯にしましょう」
……いい匂いがする、鍋をやっているようだ、山菜や薬草などが兎肉? と一緒に鍋で煮込まれている。
「デキタ!」
「よし、迅速に食べ切るのだ」
いい匂いで何が寄ってくるか分からないからだろうな。
「はい、どうぞ」
椀が回ってくる、シンプルな鍋料理だが美味しそうだな。
「ありがとう」
少し前にご馳走を食べたばかりだが……うん、これも美味いな。薬草だろうか、爽やかな香りが肉の脂と調和してしっかりとした旨味を楽しめるいい鍋だ。味付けは塩のみだが充分だな。
「うん、うまいね、うまい」
「うむ……!」
「ごちそうの味がしますね」
「ニェー!」
あっという間に食い尽くした、美味かった……と、さっそくアリャが何かをしているな、何かで鍋を擦っている?
「洗っているのか?」
「コレ、コスル!」
何かの植物に切れ込みを入れて棒の付いたタワシ状にしたものだ? それで綺麗になるのか?
「へえー……」そういや食事に関しては何もしていないしな「貸してくれ、俺がやるよ」
「ニエッ」
……擦ってみるとなんか……かなり青臭い汁が出てくるが大丈夫か……?
「コレ、カラダ、ゴシゴシ、キレイ」
これで体も洗えるって……? すごく青臭いことになりそうだが、まあその方が体臭は消せるかな。
……しかし、なるほど? 鍋が確かに……綺麗になったな、残った油分や匂いが消え去っている。
へえ、この植物……の茎? はいいものだな、どういう植物なのか、あとでアリャに教えてもらおうか。
よし、片づけが終わった……アリャは寝そべり大あくびだ。
「ウーム、ネドコ、ワルクナイ」
ある程度のスペースはあるが、あんまり大の字で寝られると邪魔なんだがね。
さて俺も寝るかなぁ……と、あれ? そういやエリの姿がないな……いや、枝の端に座って月を眺めているようだ?
……考え事かな? 邪魔になったらあれだが……少し、気にした方がいいかもしれないな。
「あー……エリ?」
「はい」
「……どうかしたかい?」
振り向いたエリ、月のように微笑んだ……。
「いいえ……ただ……」
ただ……?
しかし、続く言葉はない……。
やはりお邪魔になったか……? まあ深刻そうでないなら一人にしておくべきだろう。
「レクさん、月が輝いています」
うん? ああ……本当だ。
「森の夜景も綺麗ですよ」
……邪魔というわけではないらしい? じゃあ、近くへと行ってみようか。
「……本当だ」
この樹は頭抜けて高く、辺りが一望できるな。月明かりで森が青く……ほんのわずかに照らされている。
月が……いつもより大きい気がする。輝きも確かに強いな。
「どうだい、この地へと踏み入ってみて……」
「ええ、驚きの連続です」
「彼らは何者なんだろう? あんな異人種が、俺たちより高度な科学技術をもっているような人種がいたなんて……そう、もっと話題になっていてもよくないか?」
「そう、ですね……隠匿されている面もあるのでしょうね」
隠されている? あえて、か……。
「あるいは、ここが基準なのでしょうか」
「……というと?」
「これまで私たちが住んでいた世界、世間こそが異質であるという可能性です。あのジ・グゥーという方の言動をお聞きになりましたでしょう? 私たち冒険者を観ているようです。それは同時に私たちの世界……この地を基準とするならば、いわば外界を観ている可能性をも想起させます」
「……確かに、賭けか何かの対象にしているかのような……あるいは珍獣の観察めいた……好奇心からくる動機なのか……」
「あり得ますが……」
……続く言葉はない、エリも考えあぐねているんだろう。
話題を変えるか……知りたいこともあるしな。
「そういえば……さっき裏教典とやらの話になったけれど、君にももちろん、信仰があるんだよね?」
「ええ……」
「ならばこそ、ああいう輩は赦せないだろう?」
「そう、ですね……」
……またも続く言葉はない。うーん、あまりいい話題ではなかったか……。
「レクさんには何か信仰など、ありますか?」
不意に……エリが質問をしてきたが……。
信仰、か……。
「いや、俺は……宗教とかはちょっと苦手でね……」
つい口に出してしまったが……ここで誤魔化すのも違うだろうしな。
だが? エリは特別、気分を害したわけでもなさそうだ。
「そうなのですね。ええ、分かりますとも」
分かる? のか……。
「ま、まあ、そのものというより、苦手な人が信心深くてね、敬遠するようになったというか……」
「ああ、そうなのですか……」
「いや、それはいいさ、でもその、君が信仰している事をね……少しは知りたいと思ったりもしていて……どうにも最近の事情と関係があるようだし……」
「白い教会のことですか?」
「うん……そう」
「私はもはや教徒といえるかどうか……。破門された身というのもそうなのですが、いろいろと研究をするうちにもっと古代の信仰……白い教会の前身ともいえる、名前のない教えに惹かれているのですから……」
「へえ、それはどんなの……?」
「いわば不条理と戦うための知恵です。天災、事故、病魔、そして戦争……人間はありとあらゆる不条理に晒され苦しんでいます。そしてその度に憂鬱に陥り、正気を見失い、不和を起こしてはさらに苦悩してしまう。この悪循環を……解決とまではいかなくとも緩和すること、そのための知恵が求められました。そう、寓話という形で……」
「寓話かあ……」
「人々が不条理に晒されたとき、例え原因となった事象がひとつの事柄でも個々が抱く苦しみの形はそれぞれ異なるものです。これは当然の事に思えますが、人々はそれをしばしば忘れてしまいます。自身の心象を他者に投影し、過度に重視したり、逆に軽んじたり、あるいは憎悪したりしてしまう。これでは不和は解消されません」
確かに……。
「ゆえに自身の投影に囚われることなく他者の苦しみを理解する技法が求められました。そしてそれこそが教典の元となった寓話なのです」
「ほう……」
「古代の人々は寓話を創造し、それを共通する話題とし、理解を深め合ったそうです。そして要たる主とは本来、その寓話に共通する主人公だという話です」
「なるほど、いきなり正面から向き合うより寓話を挟む方がいいってわけか……」
「はい、それが古代の知恵だったのです。そうしてたくさんの寓話が生まれました。それは先も述べたように教典の元となりましたが、元々の思想からして書物として完成を見るわけもなく……そうです、いっそ私たちが創造し、語ってもよいのです」
「へええ? でも教典って改変とかにはかなり慎重じゃないの?」
「はい、その通りです。現在においては改変はおろか解釈すらもあまり自由には行えません。すべてはホワイトサムの権威の下にあらねばならないのですから。本来はもっと自由なものであるはずでしたのに……」
ホワイトサム……か。白い教会とは俗称で、正式にはホワイト・サム・ファミリア、あるいはホワイト・サム・スフィアといったか。しかし……嘘か真か、あいついわく原初はホワイト・シス・レギオンなんだとかいっていたが……まあ怪しいところだし話題に出さなくてもいいだろう。
「……でも、なんだか妙な話だな。元々は人々が互いに支え合うための知恵で、勝手に話をつくって相互理解を促す……みたいな感じだったんだろう? なのに権威化して……いわば改変の権利を独占するという事だろうし、もはや趣旨がかなり違うだろうに」
「はい……その点においては残念な事です……」
まあ、支配階級にとって何か便利な用途があったんだろうな。
「かつての源流も今となっては異端ですね。実は破門にされた理由にその個人的な研究が問題視されたという点もあるのです」
「そうだったのか……みんなの主人公も今じゃ権威に装飾された偶像、か……」
「とはいえ、現在の教典における神人たるハイ・ロードを私は否定しません。それはそれで人々より求められ、心の支えとなっているのですから」
「そう、か……」
「ですが……そもそも信仰とはいったい何なのでしょうね。あの子たちの……あの事から私のそれは窮地に陥り……そうです、三日の祈りだって……」
エリは月を見つめる……。
「……私は怖かったのです、あの子たちの死を受け入れることが、神に裏切られたと感じることが、信仰心の悲鳴が……」
エリは、ローブの膝元を握り締める……。
「……何も手放そうとせず、拘泥し続けた形があの祈りでした。そうです、私の祈りはいつの間にかただの執着に変質していたのです。それを私は、ここに認めなくてはなりません……」
エリ、恥じるかのように俯いてしまった、な……。
俺も、何か話さなくてはならないだろう……だが俺なんかに何がいえる? 俺にあるのはけっきょくあの家の話しかない……。
「お、俺は……さっきもいったけれど、苦手な人が信心深かったからね、宗教的なあれこれは……なんというか、苦手だったな……」
エリ……顔を上げてくれた、瞳があの月のように光っている……。
あまり話したくないことだが、エリの吐露に対して俺は……より誠実に接しなければならない……。
俺の生い立ちを語ることに意味などあるのか分からない、なにより母さんとあの人との恐るべき確執なんて……。
「……あの人は母さんの宿敵であり、俺への扱いも冷淡なものだった。だから嫌いになるのは当然だったんだけれど……今はね、彼女の気持ちも分かるんだよな……。正妻からしてみればそれこそ不条理な話さ、親父もその辺曖昧というか……いや、一度な、酒の席で俺に言い放ったよ、女を二人愛して何が悪い、とかなんとか……。そのときは俺も酔っていたし、くそしょうもねぇ親父だなぁと笑ったもんだけれど、そのしょうもなさがあの人をひどく苦しめていたんだろうし、だからこそ彼女には救いが必要だった……そう、信仰に傾倒してしまうのも当然の事だったのかもしれない。でも……あの人はなぜか俺に教えを押し付けてきたんだよな、実の子にはさほど熱心ではなかったのに。まあ察するに、信仰を同じくする立場ならば少しはよくしてやろうって、そんな感じだったのかもしれないな……ほら一応、俺も親父の血を継いでいるしね?」
戯けて肩を竦めて見せるが、エリの瞳は真剣だ……。
「……お祈りとか説教からはよく逃げていたし……やっても形だけでいい加減だったから、内容はほとんど覚えちゃいないんだ。でも……まあ、少しは合わせてあげればよかったかなと、今は時々そう思うよ……。あるいは多少なりとも、誰かの救いになれる立場であったのかもと……」
いや、というかこの話って……。
「……あっ、いや、君の話とはあまり関係がなかったかな……? でも信仰とかにまつわる話はこのくらいしかできなくてね……」
「いいえ、いいえ……」エリは首を振る「話して下さって……なんだか、嬉しいです……」
エリは優しく微笑んでくれる……。
「そ、そうか……」
「……ですが、教義を共有することがよい事ばかりとも限りません。教義が異なればこそ不和の理由を信仰の違いからくるものと理由づけすることができますが、同じなればこそ、その解釈の仕方を含め個人の問題へと還元されてしまうのですから……」
「そう、かもしれないな……」
「……ですが、だからこそ、レクさんと向き合うおつもりだったのではないでしょうか。少なくとも私はそう察します……」
「でも、俺は……」
「ええ……大事なことこそ、振り返ってようやく見えてくるものですよね……」
月が爛々と輝いている……。森はひっそりと静まり返っているが、時折さざ波のように優しく揺れ動き、遠くから獣の声が聞こえてくる。
……なんの拍子だったろう、エリと手が重なり、驚いた。でも、彼女は遠くを見たままだ……。
「レクさん……」
エリが囁くようにいう。
「私は、きっと……死ににやって来たのです……。あの子たちを復活させたい気持ちは本当ですし、そのための努力は怠りませんが……正直、不可能だとも思っていました。この地には強大な生き物がたくさんいて、私などあっという間に食べられてしまうと……でも、それでよいと……」
……ああ、驚きはない。俺には分かっていたから。
でもな、もう一つ分かっていることがあるんだ。
「でも、でも……。私は……」
エリの瞳が、潤んでいく……。
「私は……」
……待っても、次ぐ言葉はない。
でもいらないよ、死ぬんじゃない。
なるべく死ぬんじゃないよ。
「いけないよ。生きなくては」
どれほど辛くとも、生きている限りは、
「諦めてはならない。だからこそ辛いのだけれど、それは、そうなんだろうけれどさ……」
しかし、俺には分かっている。
君は生きるためにも、ここへとやって来た。
俺には分かるんだ、そう、獣たちを見るといい。
彼らは、生きている。
それこそ本当の真剣さで。
俺たちもそう、
殺して食ったろう、兎をさ。
その生命力に嘘をついてはいけない。
俺たちもつまるところ獣で、
ならばこそ、本当の真剣さで生きていけるはずだ。
獣たち、
俺たち……。
俺たちは、生きてゆく。
生き方の良し悪しなど語っても、けっきょくはくだらない。
俺たち獣はしぶとく図太く、生きてゆく。
それでいい、そうでなくてはならない。
「……さあ、今日はもう、眠ろう」
少し、語り過ぎたかもしれない。
あとは安らぐために、寝床へと戻ろう……。
「レクさん……」
……うん? エリが、月を背後に……。
しかし、続く言葉はない。
ただ少し安らかな顔を……彼女はしていたように思う。