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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

オートマトンの傷痕

作者: 鵜川 龍史

 祖父が戦場から持ち帰ったのは、硝煙の臭いと赤黒い血の染みついたキルトをまとった自動人形と、ヘルメットをかぶって、はにかんだ笑みを浮かべた父の写真だった。周りには四人、同じ戦闘服を着た兵士が、一様に白い歯を見せて笑っている。皆、死んだのだろう。

 祖父が戦場に置いてきたのは父だけではなかった。カーゴパンツの右足をまくって、木の棒になった自分の足を誇らしげに叩いてみせた。しかし、僕はその祖父の表情の裏に、死神を握りつぶすような怒りが張りついているのを見逃さなかった。


 どうしてこんなことを思い出したのだろう。

 母は、きっと泣いていた。祖母も、同じ様子だったに違いない。しかし、その時の記憶の風景には二人の姿はなく、ただ、僕は自動人形が壊れて動かない原因を確かめようと躍起になっていた。現実から目を背けようとしていたのだろう。そういうことでは、今の僕もあの時と変わらないのかもしれない。

 目を閉じるよりもっと深い闇の中、氷のように冷えた床に腰を下ろして、遠くから聞こえる会話の残響だけが外とのつながりだ。敵の言葉のはずだが、時折、意味の分かる言葉も混じっている。戦場、追撃、被弾、特攻、勝利――僕にはもう、不必要な言葉だ。

 床に張りついた下半身を引きはがして立ち上がった。無駄な体力は使いたくないが、そうせずにいられなかった。


 自動人形はバネと糸に不具合があった。十六歳になった僕にとって、その程度の修理はたやすかった。そして、十六歳という年は、人を殺すのに十分と判断される年でもあった。

 祖父は軍から招集のかかった僕の肩を叩きながら誇らしげに父の話をしたが、母は部屋の隅で泣いていた。自動人形が、相変わらず戦場の臭いをさせながら、僕と母の間を行ったり来たりしていた。何か掛ける言葉があればよかったのだが、生きて帰れる気がしない以上、何も言うべきでないとも感じていた。

 祖父は煙草と酒の臭いをさせながら、戦場の心得を十も二十も並べ立てていた。その中に、一つだけ心に残るものがあった。いわく「他の奴の足手まといになるな」。笑える。足まで失って生き恥をさらしている祖父が、自分の息子を戦場に差し出して生き延びた祖父が、自分の孫に「足手まといになるな」だと。

 僕の元から去ろうとしていた自動人形を、背後から掴み、祖父に向かって投げつけた。


 祖父は死んだ。永遠に続く時間などない。それでも、僕は希望を捨てられない。だから、正気を保たなくてはならない。祖父は正気を失ったから死んだのだ。

 この牢獄が僕に与えられている場所なら、ここを守る。今いる場所を守ることができれば、僕はいつかかつての暮らしを取り戻せる。反撃の機会はやってくる。

 看守たちの会話の残響から、日々活気が失せていくのを感じる。声の数も少しずつ減っている。初めは多い時には四人が詰めていたが、一人減り、二人減り、今では一人だけで詰めている時間も増えてきた。そんな時、敵は必ずラジオを流した。割れた雑音が反響して、何の意味ある言葉も聞き取れなかったが、音楽だけは違った。ロックのリズムが、何度も壁に跳ね返りながらも、世界に穿たれた楔のように僕の胸の傷をえぐった。知っている曲だった。僕たちの音楽だった。そこに僕のいるべき場所が待っているなら、きっと、助かる。


 自分で壊した自動人形を、どうしても捨てようという気にはならなかった。祖父は頑なに否定したが、そのキルトに染みついた血が、父のものだと確信していたからだ。

 父は機械的な細工を好んでいた。その技術を買われて前線に送られたと言ってもいい。そんな父を僕は誇りに思っていたし、尊敬もしていた。だから、学校でも機械工学に力を入れたし、その成果は市長から表彰されたりもした。父もまた僕を誇りに思っていたし、仕事で遠方に行く時には必ず機械仕掛けの品物が土産だった。それは、必ず父の懐に入れられていて、帰宅後の食卓で手品のように僕の前に差し出された。父の体温が移ったそれは、たいていどこかに不具合が起きていたが、それを二人で直すのもまた、嬉しい土産だった。

 だから、祖父に投げつけたせいで壊れた自動人形も、きっと直せるはずだった。僕は、家にいる間は自動人形の修理に掛かり切りになった。少しずつ、出征の日は近づいていた。母は家のことをする時以外はずっと泣いていた。二人の間をつなぐ自動人形は直らない。


 音楽が頻繁に流れるようになった。看守に割ける人数が一人になったのか、敵国のラジオを聴くことが認められるようになったのかは分からない。ただ、そのリズムは僕を座ったままにさせなかった。気が付くと、ロックの刻むビートに合わせて牢獄の中を行きつ戻りつするようになっていた。そうして、毎日毎日自動人形のように壁から壁へと歩いていると、いつの間にか牢獄が広くなっていることに気がついた。当初、角から角まで三歩しかかからなかったのが、今、三歩では届かなくなっていた。僕は糸の切れた自動人形のように立ち尽くした。牢獄が広くなった――そんな馬鹿なことは起こらない。振り向いて、無理やり一歩を踏み出した。二歩目、そして三歩。やはり、届かない。

 大声を出して笑おうとした。しかし、僕の喉は接着剤でも流し込まれたように張りついて、何の音も出せなくなっていた。


 結果的に僕は出征しなかった。僕の暮らす町が戦場になったからだ。

 母と祖母は買い物に出掛けたまま、二度と戻ることはなかった。祖父は義足を引きずって逃げるように出て行った。そうするべきだと僕も思った。

 向かいの通りで銃声が鳴り響いた時、僕はとっさに自動人形をシャツの中に放り込んだ。その直後、轟音とともに家が崩れた。そして、僕の意識は途絶えた。


 あれからどれだけの時間が経ったのだろうか。暗闇の中で過ごす一日は、どこまでも広がる荒野のようなものだ。道標が存在しなければ、自分がどこにいるのか、どこに行くのか知ることはできない。だとすれば、そこはどこでもないのと同じこと――。

 いや、一日に一回、看守が食事を運んでくる。といっても、それは必ず僕が眠っている間のことで、近頃では角から角を巡っている最中に、皿にけつまずいて初めてその存在に気がつく。中に入っているのがスープだったりすると、それで食事が終わってしまうが、幸運にもパンだった時には、床に散乱した前日のスープや、僕が垂れ流している体の中のいろいろなものを吸って味のついた食事にありつくことができる。

 だが、今日は何にもつまずかない。まだ眠り足りないのか、看守がいなくなったのか。相変わらずラジオからは音楽が垂れ流しになっている。僕の体と同じだ。内にある衝動を、リズムを伴って排出すれば、それは他の人間にとってのエネルギーとなる。だが、そのエネルギーを受け取る者がいなくなれば、それは単なる排泄物として、処理されないままに腐敗していく。反響に反響を重ねた音が監獄中に響き渡り、音と音の輪郭はなくなり、看守は発狂して逃げ出したのだ。

 いや、部屋が四角形ではなくなっているだけかもしれない。五角形、六角形、十二角形、三十六角形――歩いていれば、いつかは始点に戻るだろう。


 爆撃を受けて瓦礫の山と化した家の下敷きになって、僕はそれでも生きている自分を笑った。そして、体と地面との間で押しつぶされた自動人形の破片が、胸に食い込んで血を吸い取ろうとするのを、安堵の溜息で受け入れていた。そうだ。きっとこうやって父さんも死んだんだ。キルトの上で僕と父の血が再会を果たす。美しい最期じゃないか。

 しかし、僕は死ななかった。なにより、僕の体が死ぬことを拒んだ。呼吸し、腹が鳴り、排泄した。やがて雨が降り、頭上の建材から滴り落ちてきた水滴を求めて体を動かした。そのせいで瓦礫が崩れる音が外から聞こえたが、この雨では、きっとどの兵士も気づかないに違いないと考えた。

 いや、嘘だ。

 僕の頭は考える役目を放棄していた。ただ観察し、見える、聞こえる、感じる情報を、体に直接送り込み、体は生きるための動きをする。目の前に溜まった泥混じりの雨水に唇を寄せ、喉が抵抗するのを無視して、砂利っぽい砂を飲み込んだ。


 食べるものも飲むものもない。

 牢獄の辺は無限に増殖し続け、一辺の距離も四歩を超えた。もはやここは外なのではないかと思ったが、夜が明けないところを見ると、そうではないらしい。

 どこかに食べ物が落ちていないだろうかと、床に顔を付けて探してみるが、そこに落ちているものからは、腐った死体の臭いしかしない。それなら床は、と思ったが、石は食えない。壁も同じだ。そんなことは知っている。しかし――僕は時折現れる鉄格子のことを思い出した。鉄は人の体を作り上げる鉄分になる。僕は鉄格子にかじりつく。砕けた――と思われたが、砕けたのは僕の歯の方だった。少し遅れて、骨をかち割るような痛みが、全身に響き渡った。

 痛み――。

 そういえば、僕は、この痛みというやつと、もっと親密な関係を築いていなかっただろうか。


 雨がやみ、すする泥水がなくなると、床板にかじりついた。建材はほとんどが石で、歯が立たなかったが、木材は噛んでいれば、少しずつ柔らかくなっていった。生きるためにかける時間なら、いくらでもある。

 そんな僕の時間を奪ったのは、痛みだった。

 瓦礫が取り除かれる音がした時も、僕は馬鹿みたいに木をしゃぶっていた。自分が置かれている状況を考えることをやめていたからだ。だから、眼を射抜くような日差しを遮って三人の兵士が立っているのを見た時も、助かったとも、敵だとも考えることなく、ただ、邪魔な太陽を取り除いてくれたことへの安心だけを感じて、木をしゃぶり続けていた。そんな様子を見た兵士の一人が何かしゃべって、他の二人が笑う様子を見て、初めて僕はそこにいるのが人間なんだと気づいた。次の瞬間、巨大な瓦礫が、彼らの手から放り投げられた。一つは頭に、一つは足に、最後の一つは胸に落ちてきて、自動人形が、胸に深くめり込むのを感じた。三人が身をよじって笑う様子が見えた。

 頭が危機を理解した時には、全て終わっていた。


 食べていた鉄格子が外れた。

 根元の部分が腐食しているらしい。もう一本、外すことができれば、今の僕ならここを抜け出すことができる。僕は歩くことをやめ、鉄をしゃぶり、食らった。

 ほどなく鉄格子が外れた。

 僕は外に出るのだ。

 足を取られながら、終わりがないようにも思える廊下を、這いつくばって進む。腹が減れば、そこら中にぶちまけられていた食事を喰らい、腹が満たされれば、僕の中にあるものを後ろへと垂れ流した。そう、そこには食べ物が捨てられていたのだ。きっと、僕に与えられるはずだった食事を、看守がここへ捨てていったのだろう。今、僕は、自分のものを取り戻している。食って出して、そして前へ――ようやく、人間の生活が戻ってきたのだ。

 やがてたどり着いた終着点は扉だった。そうだ。内と外をつなぐもの。扉を開けば、ここを抜け出して、大きく躍進することができる。

 その扉は、体をもたせ掛けるだけで、簡単に開いた。日差しの痛みに目蓋を閉じる。

 痛み――それは、僕が生きていることの証だ。

 胸に手を当てると、父さんの自動人形が穿った穴がそこにある。修理すればまた動き出す。捨てなければ、希望はそこにあり続ける。急いで目を開く必要はない。今は、この太陽の温かさに抱かれて、眠っても構わないだろう。



 赤子が産み落とされる世界――それは、血と羊水の入り混じった、そこから全てが生まれ出る原初の世界。

 それなら、ここはいったいどこだ。僕の体が引きずり出されたのは、どこなんだ。

 腐敗した肉と血、陽の光が照らし出すのは、どこまでも続く死の世界。振り返ると、僕がこれまでいた場所も、既に溢れんばかりの死に満たされていた。

 僕は吐いた、必死に。そこに僕の帰る場所がある。僕の中にだけ、僕の居場所がある。僕は吐き続けた。僕の中が全て外になるまで吐き続けた。


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