文字と言葉
唐突だった。
携帯に文字を打とうとしていた手が止まる。
あまりにも唐突に、気づいてしまった。
『何故』や『どうして』という考えよりもなによりも、『どれくらいだっただろう』という考えが頭の中を廻り始める。
そもそも、何を考えていてそんな考えに至ったのかすら、ほんの数瞬前の事なのに思い出せない。
それよりもなによりも、『いつから』という考えの方が重要に思えた。
打ち込もうとしていた文の続きが思い出せない。
それまで打ち込んでいた文字を追っても、何と打ち込もうとしていたのかという考えよりもなによりも、彼といつから言葉を交わしていないか、という事の方が気になってしまった。
携帯を傍らに置き、そして指折り数え、カレンダーに目を向け、気付く。
三ヶ月。
そうだ。
気づけば三ヶ月も彼と言葉を交わしていないのだ。
彼の仕事が忙しいのはわかっていた。
それほどまでに激務の仕事についているのはわかっている。
彼を煩わせたくないという思いもあって、控えめに、こうしてメールを送るに留めていた。
けれど、気づけば三ヶ月もただメールのやり取りだけで終わってしまっているのだ。
再び携帯を手にし、打ち込んでいた文字を視線が追う。
いつもどおりの始まりの文言。
そして相手を気遣う言葉。
それから、こちらの近況を少し入力した状態で、文字は止まっている。
改めて―――そうだ、改めて読み返してみて、何と無味乾燥なものなのだろう、と思った。
誰が打ち込んでも同じ。
誰が返信しても、その人の名前で返信が届けばその人の言葉だと信じてしまう文章。
手書きの文字のように個人の癖も個性も何も無い、同じ字の形。
言葉って何のためにあった?
それは人が他者とコミュニケーションを取るために生み出した手段の一つの形。
文字もまた同じ。
同じでも、違う。
言葉を交わすことと、文字を視線で追うことは違う。
文章は、幾度と無く読み返せる。
けれどそこに、その人の感情は深く読み取れない。
いや、違うか。
いくらでも邪推することも、予想することも、自分の望む方向に想像することも出来る。
でも時に、その人の真意が見えてこなくなる。
書かれたものでしか、受け手は捉えることしか出来ない。
それ以上は自分の考えが判断基準となってしまうのだ。
あなたの真意はどこにあるの?
これは本当にあなたが書き記したものなの?
これが、あなたの……
本当の―――想いなの?
彼からの返信を幾度と無く繰り返し読み返してゆけば、不安が募る。
だからこそ、百の文字を書き連ねる事と、たった一言の言葉を交わすことの違いに気づく。
文字と言葉。
言葉には、様々な感情も込められる。
たった一言。
それだけで、相手が何を感じ取っているのかも、時折感じられる。
嬉しい、楽しい、悲しい、悔しい、怒り。
様々な感情が、たった一言の中に込められる。
時には苛立ちの篭った声音、時には優しさが篭った声で。
たった一言だけなのに、それだけで心を安心させることも不安にさせることも出来る―――言葉。
零れ落ちた言の葉は、落葉した葉の如く、元には戻らない。
時には刃となって、心を傷つける。
目に見えないものだけれど、傷つけることも、救うことも出来る言葉の力。
だからこそ。
ほんの数秒でいい。
電話に出て欲しい。
そう望んだときもあった。
けれど彼は、忙しさに無理だと返して来た。
ほんの数秒だけ。
たった一言だけでいいの。
好きだ。
そう。
私を『好き』と言って欲しいだけ。
ほんの数秒だけ、その一言だけで電話を切ってもいいの。
ただの一言だけでいい。
その一言だけ貰えれば。
私は今を耐えられる。
そのはずだったのに、気づけば会話ではなくメールで言葉を交わすだけの生活。
一言を交わす時間も惜しい。
そんな考えが透けて見えてくるような、彼からの短い文章の返信。
メールは自分の考えを打ち込んだ文字であって、生身の声の言葉ではない。
ねえ。
声が、聞きたいよ。
言葉を交わしたいよ。
あなたと会話をしたいのよ。
ねえ、どうして?
どうして、電話を、してくれないの?
再び携帯を手に取り、それまで書き込んでいた文章を消し、改めて文字を打ち込んだ。
これが、最後。
待ちたかった。
信じたかった。
いえ、今でも信じている。
今でも、待ち続けたいと望んでいる。
でも。
でも、もう―――。
一つのことに気づけば、それに連なるように様々な事に気づいてしまった。
毎日がありふれた日常になり、日々を変わることなく過ごしている。
彼が居るときと、居ないときと。
その違いを今……はっきりと思い出せない。
初めての時間は不安になりながらも、それでも楽しさに共に過ごせる時間の短さを口惜しく感じた。
過ごす時間が増えてゆくたびに、心が弾み次に出会えるときを指折り数えた。
会えた時には心が浮き足立ち、別れるときは心が沈み行く。
けれど次に会う約束を交わせば、新しい自分を見せたいと決意を新たにする。
自分を磨いて、綺麗になったね、と声をかけてもらえる事を期待して、その瞬間を夢想しながら努力する。
夢を見ているような、けれど新しい自分に出会うための努力を惜しまない時間。
夢中になって過ごす日常は、気付けばあっという間に時間が過ぎてしまっている。
ああ。
でも、今の私は、そのときの想いを―――思い出せない。
指は静かに文字を打ち込む。
まだ待ちたい。
まだ望みを捨てたくない。
でも……。
でも、私は――――――疲れてしまった。
打ち込む指が震える。
打ち込み終えた後、一瞬の躊躇い。
そして送信した。
書きこんだ言葉はたった一言。
―――――会いたいよ。
なんとなくスマホだと文字の感じが変な気がしたので、携帯で統一させていただきました。
『携帯するもの』という意味では一緒でしょう、ってことで(~_~;)