あの頃
帰宅ラッシュも過ぎ去った時間にようやく帰路につけた。電車はほろ酔いで気分のよさそうなおっちゃん2人と、予備校帰りであろう学生服をきちっと着こなした男の子しかいない。
携帯を見ればもう1時間もしないうちに日付が変わってしまう。
体がなんとなくだるい。疲れからなのか、風邪の前兆か。帰ったら部屋の掃除をと思っていたが、この分だと週末まで先送りだ。
電車の小さな揺れは、規則正しく体を揺らし、気のいいおっちゃんたちの話声は子守歌となり、瞼を重くする。
ここで眠ってしまえば起きられる自信がない。わかっていても意識は睡魔に吸い取られ、混濁していった。
『お仕事お疲れさま。部屋で待っています』
通話機能付き目覚まし時計と化していた携帯が、駄々をこねる子供のように震えた。メールを確認した僕は頬を緩め、帰路を急いだ。
先週末、久しぶりに遊びに来ていた彼女は、ニコニコと終始笑っていた。休日出勤をして疲れたからなのか、誰かがいる部屋に帰るのはいいもんだなんて、のんきに感じたのを覚えている。
再会を喜ぶハグやキスをほどほどに済ませ、彼女の手料理を食べた。土地勘もなかったろうに買い物までして、晩御飯を作って待っていた。久しぶりに自分以外の作る手料理だ。少ししょっぱいサラダや、味の濃い豚肉の炒め物を、うまいうまいと笑顔で食べた。
夜は二人で翌日の予定を適当に練りながら、部屋の隅に片づけていたDVDを垂れ流しながら過ごした。
体を重ねた後、疲れ果てて眠る彼女の隣で、自分の部屋に誰かがいるという違和感に、眠れぬ夜を過ごした。
結局、空が白み始めて眠りにつくことが出来たが、当然、翌日は盛大に寝坊してしまった。
昔なら激怒はしないまでも、不機嫌になっていたのに彼女はただ仕方ないよと、笑った。埋め合わせにと遅めのランチに出かけ、帰りに見たかったらしい新作のDVDを借りて帰った。
中途半端な時間にしっかりと昼食をとったものだから、僕が作る酒の肴を晩御飯にして、夕方から晩酌を始めた。
高校の時に些細な勘違いからすれ違い、社会人になって会社の同僚として再会。そこから、同僚や他社の人間を巻き込みながらも、もう一度距離を詰めていくラブロマンスだった。画面ではいよいよ互いの気持ちを伝えあうというクライマックスだというのに、やけに時間が気になってしまった。
面白かったねと笑う彼女を見て、僕もつられて笑顔になった。つまらないものを見たときは俳優や演出をこれでもかと罵倒していたことを考えると、なかなかのアタリだったのだろうと思う。
それから、食べ散らかしたごみや食器を片づけ、地上波でやっている映画を見ながらくつろいだ。
そろそろ寝ようか。そう切り出そうとしたところで、僕は初めて彼女の目に涙がたまっていることに気が付いた。
訳を聞いてもただ首を横に振るばかりで、答える様子もない。僕は彼女の頭をなでながら泣き止むのを待つしかなかった。
明日帰ることを考えると寂しくなっちゃって、と彼女は目をはらして笑った。
またいつでもおいで、と僕も笑った。寂しくなったら、また会いに来ればいい。ただそれだけのことなのだから。
しかし、彼女は違った。もう一度目に涙をためて首を横に振った。
昨日の食事、おいしかった? 彼女は泣いていた。
昨日の予定、覚えてる? 彼女は寂しがっていた。
昨日の夜、リラックス出来てた? 彼女は傷ついていた。
今日の映画、内容覚えてる? 彼女はむなしくなっていた。
ねぇ、私が来てうれしかった?
彼女は静かに泣き崩れた。もう駄目なのだとようやく悟った。
最愛の人が僕の目の前で泣き崩れている。なのに僕はなぜかほっとしていた。それに気が付いたとき、強烈な自己嫌悪が、自分の中で暴れまわった。
あなたは一人で泳げてしまうから、誰かがおぼれていることが煩わしいと思ってるんじゃないの?
かつて僕の前から去っていった女性が最後に言った言葉を思い出した。
「お客様? 終点ですよ?」
突然声をかけられ、肩がはね上がった。
気が付けば電車はけだるそうにアナウンスを流し続け、数人いたはずの乗客は僕一人になっていた。
起こしてくれた車掌さんは次の車両に走っていっており、なんとなく感じる気恥ずかしさがぼんやり残った。
あれから彼女が出ていこうとしたのを引き留め、明日の朝に帰るように説得した。そうだねと寂しそうな笑顔を今でも罰のように時折思い出す。
重たい体に鞭を打って、何とか立ち上がる。ふと感じるめまいの後に頭痛もしてきた。本格的に風邪の引き始めかもしれない。
早く帰ろう。
僕は誰もいない、真っ暗な部屋に歩を速めた