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希代伉儷伝

作者: 高沢りえ

 ぽわーーーーーーーーーーーーーーんんん


 あっけにとられるほど妙な音だった。

 王子は思わず目をみはって、手の中の角笛をみつめた。

 竜の角から作られたという笛には、奇妙ないわれがある。

 あるとき、国祖泰珀はこの地にたどりつき、保池のそばで身を休めた。笛を吹いていると、どこからか竜がやってきて、笛の音にあわせて歌い出した。

 三晩続いた楽宴のすえ、角を折りさしだした竜は、こう言ったという。

 友よ、肝要のときあらば、この角を笛となし吹け。いずこにいても、必ずや駆けつけよう、と。

「まさに、今は肝要のときです」

 西の大国華が、山脈を隔てたこの国に攻め入ろうとしている。迎え撃つしても、軍兵の数はかの国のそれに遠く及ばず、地の利があるとて苦戦を強いられるのは間違いない。

 病の床についた王の命とはいえ、政治を担うには十五歳の王子は若すぎるのだと、陰口をたたく者もある。

「もし竜に助力を請えたなら、どんなに心強いことでしょう」

 叔父のスシン親王だけが、王子の考えを笑わなかった。

「竜は角笛を吹くと意のままになるともいう。一吹きで、五千の援軍に等しい力が手にはいるとしたら。試すだけの価値はあろう」

 竜の角笛。形は細い芋にもにている。まわりをふわふわした毛のようなものが覆っているが、芯は堅い。

 吹いてはみたが、何が起こるのか、さっぱりわからない。側に立つ叔父は、こわばった顔つきでただ空を見上げている。

 風が強くなってきたようだ。王子は目を細め、東の空をみつめた。黒雲の一群が、するするとこちらへ流れてくるのに気づいたのだ。

 梅の花びらが散り舞い、衣のすそがばたばたと翻る。ふいの横風におされ、よろけた王子は尻餅をついた。その拍子に角笛を取り落としてしまい、あわてて拾い上げるうち、ざあっと日が陰った。おそるおそる王子は天を仰いだ。

「おまえか、あたしを呼んだのは」

 野太い声が響いた。淡い紅色の肌をした、翼あるものがすぐ頭上にいる。王子は悲鳴をのみこんだ。

「あいさつは、無しか?」

 不機嫌そうな声がした。「それ」は、唸り声とともに牙の並んだ口元をめいっぱい開いた。くらい口中をのぞきこんだ王子は、目をそらすこともできずに、石のようにかたまってしまった。

「あなたは、竜・・・・・・なのですか?」

 王子はようやっとのことで、ふるえ声を押し出した。

 身をくねらせると、ばら色の肌がいっそう濃く、血を通わせて見える。たくましい二足を地に降ろした竜は、磨き上げた紅玉の瞳で王子を睨みつけた。

 宝石を薄く削ぎ重ねたような肌は、日の下に輝いている。つり上がった目のあたりまで裂けた大きな口と、ずらりと並んだ牙。

 竜は、王子の知るどんな獣にも当てはまらない恐ろしげな容貌をしていた。けれど、その瞳は理知をたたえて穏やかだ。桃色の蠢動する喉もとはやわらかそうで、思わず触れてみたくなるほどだった。

「いかにも、竜だ」

 片角の竜は、鋭い爪を王子の首もとにひっかけると、ぐっと近くに引き寄せ、睨みおろした。

「おまえはなんだ?」

 問いかけがふに落ちると、ふしぎと震えは収まり、かわりに胸が痛いくらいに高鳴るのを感じた。

「わたしは、ファサル」

 伝説の中の住人が、目の前にいる。国祖泰珀のように、今まさに竜と真向かっているのだ。

 ファサル王子は、うわずった声で叫んだ。

「お願いです。結婚してください!」


 片角のジャンミ。一族の者はみな、彼女をそう呼んだ。竜はすべからく、ひたいに一対の角をもつものだからだ。

 濃いはちみつ色の角は、細い月のように優美に弧をえがき、日の光を浴びると黄金色にかがやく。厳かなまでに美しい右の角にくらべて、左はぶかっこうに肉が盛り上がり、毛もまばらに生えているばかりだ。


 二百年前、ジャンミは飛ぶことを覚えたばかりの稚い竜だった。

 あるとき、どこからか心地よい音色が風にのって流れてきた。つられて下界に降りると、池のほとりに人間がおり、笛を吹いていた。

 思わず歌い出すと、人間は吹きやめないまま、ジャンミを見上げたのだった。

 昼は夜にかわり、飛び舞う鳥は流れ星にかわった。時のたつのが惜しいと思ったのは、生まれてはじめてだった。

 ジャンミはすっかりその人間を気に入ってしまった。自らの片角を差しだしたのは、せめてもの心尽くしであり、惜しいとも思わなかった。

 案ずるように、彼はジャンミの顔をなでてくれた。すべらかな、浅黒い手だった。

 そのときの気持ちを、なんと言って表したらよいか、ジャンミにはわからない。二百年たっても、まだわからない。

 角は約束のあかしとなった。もう一度、いずこかでまた会おうと。

 そして今。ジャンミの耳に、血を騒がせる角笛の音が届いたのだ。

 ひょうたんの形をした池に、確かに見覚えがある。前に来たとき、この辺りは草地が広がるばかりだったはずだ。それがいまや、朱色の甍を乗せた立派な住まいがずらりと立ち並んでいる。

 気弱そうな顔をした子が、ひきつった笑い顔をむけてきた。その手には角笛が握られている。

(・・・・・・ああ)

 ジャンミが角を渡した人間は、とうに死んでしまったのだろう。わかっていたはずだ。人間の寿命はみじかい。

 何を期待して、ここまで飛んできたのか。腹立たしい思いで、ジャンミは空を見上げた。そして翼を広げ飛び立とうとした。

「待ってください」

 せっぱ詰まった声がジャンミを呼び止めた。

「結婚してください!」

 結婚。

 そう言い放たれた瞬間、ジャンミはたまらずに笑い出した。ひどくおかしかった。まじまじと見下ろして、おもむろにたずねた。

「本気か? ええと、ファ」

「ファサルです。あなたをお呼びしたのは、ほかでもありません。わたしの祖先にして、あなたの友、泰珀が国をうちたてて二百年余り。いま我が国は大国におびやかされています。肝要の時に笛を吹けと、あなたはおっしゃいましたね。どうかお助けください、伏してお願いいたします」

 たしかに言った。けれど、それは次の奏楽の機会をさしてのことだ。人間の諍いに加担する気はない。

 そう言うと、ファサルはうなだれた。

「それにしても、結婚なんてどっから出てきた」

 ファサルはおずおずと顔をあげた。

「華国では、人と竜が結ばれたという伝説があります。竜はその牙で国を守り、翼で民を守ると」

「かんたんに言うなよ」

 ジャンミは声をやさしくした。はるか西方で、そうして国が興ったと聞いたことがある。ほんとうにまれだが、あるにはある。

(よっぽど困っているらしい)

 神頼みならぬ、竜頼みをせずにはいられないくらい。

「しかたないな。まあ、話してごらん」

 

 細竹の生い茂る小路がひらけたところ、殿舎のまえの庭園に、小山のごとき影があった。

(この景色だけは、二百年前とちっとも変わらない)

 月光が池を照らしている。水面に揺れる満月は、ひんやりとした夜風にふるえているかのようだ。たわわに花をつけた梅の木が、ほのかな香りを鼻先にはこんでくる。

 国をあげてのもてなしを断って、ジャンミは夜の静けさの中に身をひたしていた。

 懐かしい楽の音が聞こえはしないかと耳をすます。人の短命が恨めしかった。楽の音をあわせて友になっても、その音色も人の命も、すぐに時の向こうに過ぎ去ってしまう。

「竜王さま」

 ちいさな明かりが目の端にひっかかった。下を向くと、ファサルが立っていた。

「ジャンミ」

「ジャンミ・・・・・・?」

「名だよ、名」

 照れくさくて、ジャンミは鼻を鳴らした。

「それより、さ。何をしにきたの」

 春だといっても、まだ夜は冷える。ファサルの肩はあまりに華奢で、頼りなく見えた。

「あなたが心配で。父も案じていました。大切な客人を、外に寝かせるなど失礼だと」

「いなくなると思った?」

 困り顔を、ジャンミはのぞき込んだ。ファサルは、どことなく思い出の中の若者に似かようところがあった。

(子孫・・・・・・)

 似ていると思いたいだけかもしれなかった。

 驚きもせずおそれもせず、好ましい笑みをふりむけてくれた人のことが思い出された。笛の音は揺れることなく凛として、たいそう心地が良かったのを覚えている。

 ファサルは静けさを押しやるように、そっと言いだした。

「ぶしつけなことを言って、すみませんでした」

 ファサルは懐から角笛を取り出し、表面をそっとなでた。

「でも、冗談などではありません」

 幼い頃に折りとった角は、ジャンミのひたいを飾るはちみつ色の片角と比べると、いかにも小さくみすぼらしかった。

「この国を、守ってほしいのです」

 ファサルは空を見上げた。ぼんやりとかすみにけむった満月が輝いている。

「国は興っては潰えるものだ」

「わたしには、世継ぎの責任があります」

 ファサルはきっぱりと言った。

「責任ね」

 ジャンミには理解できない考えだ。

「あたしにも責任とやらを負わせようというの? ごめんだよ」

 ファサルはふいをつかれたように、目をみはった。

「そういや、おまえの叔父さんは、ずいぶん腹をたてていたね」

「叔父は、失礼ながら・・・・・・あなたを召し使えるものと思っていたのです。角笛を吹く者は、竜を服従せしめるという言い伝えがあるので」

 あながち間違ってはいない。竜が角を折るのは、身を捧げるのにひとしいことだ。

「じつは、わたしも叔父と同じ考えだったのです。あなたを戦に駆り出して、圧倒することができればいいと」

 言いながら、ちらりとジャンミをうかがった。

「隣国華は、竜が人の子を娶ってうちたてた国で、竜族を神ともあがめ奉っています。あなたが姿を見せれば、無遠慮にこちらに攻め込むことをためらうでしょう」

「意のままになるなら、敵を殺せとでも命じたか?」

「浅はかさを、お許しください」

 ファサルは唇を結んだ。

「あなたの意に反するようなことを、お願いするつもりはありません」

 どうやら本気のようだ。

「肝要の時をのりきった暁には、あなたをたたえる楽祭を催すことをお約束します。それで足りなければ、楽の音を毎日でもあなたに捧げます」

 ジャンミはため息をはいた。

「そもそもどうして、戦になどなる? 王后は華の人なんだろう」

 ファサルは苦笑いをした。

「王后様のもとには二年前、王子が生まれました。わたしにとっては異母弟です。弟を次の王にするのは、華国の意向でもあります」

「意向ねえ」

「近頃、王様は床に伏せることが多くなり、王后派の圧力も強まってきました。あちらが力に訴えるのも、当然のなりゆきなのです」

「おまえ、子どもなのに苦労しているね」

「十五は、子どもじゃありません」

 不満げな顔をすると、ファサルはいよいよ幼く見える。ジャンミは鼻を鳴らした。

「おまえの母さんは?」

「亡くなりました。もうずいぶん前に」

 ファサルはふいにたずねた。

「あなたがたは、争わないのですか。どのように皆をまとめるのです」

「長老がいるからね」

「長老?」

「もっともひげの長いものが、長老になる」

 ファサルは目を丸くした。

「長く生きれば、知恵も備わる。知恵こそが、皆を導く。まあ、あたしたちは五百年は生きるから、気も長いんだろうね。けんかだって滅多にしやしないし」

「なんだか、うらやましい。わたしも竜にうまれたかったな」

 ジャンミは首を庭木にこすりつけた。

「なあ、結婚してやろうか?」

 ファサルは勢いよく顔を上げた。

「いいのですか?」

「このまま放って帰るというのも気分が悪いし。・・・・・・ところで、おまえ笛は吹けるの?」

「泰珀には及びませんが」

 笛を取り出したファサルは、吹き口に唇をあてた。流れ出た音は、夜のしじまをやさしくふるわせた。

 ジャンミは静かに耳をすませた。決してうまくはないが、いきいきとしていて、やんちゃで愉快な、とてもやさしい音色だ。

 いい気分だ。悪くない。

 眠気をおぼえ横たわったとき、ふと思い出したことがあってジャンミはつぶやいた。

「そうそう、おまえの父さんだけど」

 床を離れた王様は、ジャンミに一言二言、声をかけた。そのときジャンミは、よくない臭いをかいだのだ。

「毒気にあてられているから具合が悪いんだ。腐ったものでも食べたんじゃないか? よい気を吸って養生すればいい」

 音が止まった。しかし、すぐに流れ出した。

 岩を枕に、草をしとねとし、翼で身をくるむ。笛音をききながら、ジャンミはいつしか眠りについたのだった。

 十五歳の世継ぎの王子と、ばら色の竜の婚儀は、夏のはじめに保池のほとりで略式ながら執り行われた。

 絹の沓がやわらかい草をふみしめる。のりのきいた衣のうえに、さらに絹を紺で染めた上着を身につけたファサルは、ジャンミを振り返った。首もとには、ジャンミの角笛にひもを通したものをかけている。

「ジャンミ、頭をもっと下に・・・・・・」

 ファサルが手ずから作ってくれた小さな花冠は、ジャンミの片角を飾った。多少形に難はあるが、心遣いが何よりうれしかった。

「ありがとう」

 ファサルはうれしそうに笑った。

 臨席したのは王族の中でもごく一部らしい。叔父のスシン親王と王后は、最後まで姿を見せなかった。

「王様の毒気のことを話すと、スシン叔父は顔色を変えられたのです。怒ったように出て行かれて、それきりです」

 そう耳打ちしたファサルは、しきりと空席を気にしていた。


 ともあれ、ジャンミとファサルは夫婦になった。この知らせは、人々に驚きと、興味と、大方の好意をもって受け入れられたのだった。

 人々は王子夫妻を「希代なる伉儷」と呼んで喜びわきたった。

 婚儀からほどなくして、華の進軍は始まった。山脈を越え、要衝の谷まで迫った敵を阻止するため、ファサルも兵を率いることになった。

「加護をお与えください、ジャンミ」

 まだ夜も明けやらぬ頃、鎧を身につけたファサルがやってきて、深く頭をたれた。戦装束は、凛々しいよりも痛々しくみえる。

「あたしは神様じゃない、ただの竜だよ」

「わたしにとっては、そうなんです」

 かぶとを脇にはさんだファサルは、真剣なまなざしで見上げてくる。こうして見つめられるのは、嫌ではないが妙にまごついてしまう。

「・・・・・・竜様をあがめ奉るお国柄なんだろ。戦わないですむんじゃないの」

 うんざりした顔で、ファサルは息をはいた。

「進軍は止まる気配がありません」

 籠手をした手をさしのべて、ファサルはジャンミののどをなでた。

「ジャンミ」

 何か言いたげに口を開いたが、思い直したようにきつく唇をむすんだ。兵は命令を待つばかりとなり、敵もすぐそばまで迫っている。

 人間はよく戦ごとをする。ジャンミには理解できないことばかりだ。

(戦いが、ほんとうに必要なのかな)

 人間たちは、望んでみずからを窮屈な箱の中に閉じこめたがっているように見える。

(奏でる音楽は、あんなにも自由なのに)

 ジャンミはファサルに目配せすると、空高く飛び上がった。


 婚儀以来、叔父に会えないことをファサルは気に病んでいた。

 スシン親王は王后派と結んでいるらしいという噂もある。ジャンミの耳に入るくらいだから、よほどのことだ。


 ジャンミは向かい風をものともせず、谷を飛び越えた。青い旗をはためかせた行軍がみえる。

 ジャンミは彼らの上をゆうゆうと飛んだ。黙っているのもなんなので、歌いながらぐるぐると旋回すると、たちまち隊列が乱れてきた。得物を取り落とし、逃げる者もある。

 大声であいさつをしてやる。すると、大勢がひれ伏した。地に降りると、将とおぼしき者の乗った馬が驚き暴れていなないた。

 翼を広げ、ジャンミは彼らを睥睨した。

「何の用だ? あたしは、この国に浅からぬ縁のある者。ジャンミ様を知らないのか? うわさに聞こえし、世継ぎの王子の伴侶だ」

 作戦では、矢の雨が華国軍に降り注ぐはずだが、何の動きもない。

 非常時の合図が耳に届いたのは、ちょうどそのときだった。


 身を翻し谷の陣営に戻ると、ジャンミは血相を変えて走りすぎようとした兵を呼び止めた。

「王子はどこだ」

「存じません。何がなにやら・・・・・・」

 言い終わらぬうちに、兵は地にどうと倒れ伏した。その背には深々と矢が刺さっている。うめき声をあげる間もなく死んだのだ。矢羽は染料で赤く染められている。味方のものだ。

 から足を踏んだジャンミの翼にも、一つ二つと矢が突き刺さった。背後の木陰から次々と矢が飛んでくる。痛みはさほどでもない。ただ、焦りが胸を締めつけた。

「ファサル!」

 ジャンミの呼び声が雷のようにとどろいた。

(どうなってる)

 あちこちで味方同士の競り合いが起こっている。剣戟のかちあう音、怒号、悲鳴。ジャンミは将の幕屋をめざして駆けた。

(何があった?)

 火矢の放たれた幕屋のそば、うつぶせに倒れたファサルを目に留めたとき、腹の底から怒りがこみ上げてきた。

 ファサルのそばにいたのは、王子が慕う叔父その人だった。手にした剣が血で汚れている。彼はジャンミを険しい顔でにらみつけた。

「スシン」

 ジャンミは喉をぶるぶる振るわせ、吼え叫んだ。スシン親王を守る兵たちが、壁のように立ちふさがった。手加減なしに腕を振り上げ、なぎ倒す。立ち木を折るよりずっと簡単だった。

「ジャンミ! ちがうのです」

 かすれた声が響いた。ファサルだ。

「叔父うえは、助けてくださったのです」

 スシンに抱え起こされたファサルは、せき込んだ。

「華国に射るべき矢が、味方に向けられたのだ。そのあとは、収拾がつかない混乱に陥った」

 スシンはひややかにそう述べた。

「どこに行っていた。ファサルを放って」

 睨みつけても、表情ひとつ動かさないのが腹立たしい。

「王様のご命令だ。貴殿に言う必要はない」

 苦しげなうめき声で、ジャンミは我に返った。ファサルの鎧のいとまから、おびただしい血が染み出している。血の気がすうっとひいていく。一刻の猶予もない、それだけは確かなことだった。

 

 負った傷は深く、もはや手の施しようがない。王宮の医師は、平伏してそう言った。

 保池に寝台が運ばれた。

 青ざめたファサルのほほを、ジャンミはなめた。涙がひとしずく、こぼれ落ちそうだったのだ。彼は本当にかすかに、笑ってみせた。

 この子はまもなく、死ぬだろう。

 奏でる笛音も、永遠に失われてしまう。

(いやだ・・・・・・いやだ!)

 迷いは一瞬だった。ジャンミは角にしっかりと手をかけた。

 竜の角は、万病をいやす。いのちのたえず巡るところは、一族の長寿の源をたたえるところでもある。

 みしり、と鈍い音がする。頭から尾の先まで、激しい痛みが駆け抜けた。おそれをねじ伏せて、ジャンミは一息に折り取った。

 角からこぼれおちる一滴一滴を、ジャンミはファサルの唇におとした。

(命よとどまれ。この子のもとに)

 呼吸がほんの少し、すこやかになったようだ。あふれでていた血はじきに止まった。頬にもこころなしか血の気がもどってきた。

 ジャンミはひどい疲れをおぼえて、身を伏せた。息を吐くたび、力が抜けていくようだ。

 一族には、角を二つ失えば、地に堕ちるという言い伝えがある。

 それはすなわち、命を失い、土にかえるということなのだろう。

「王子様!」

 人々のむせび泣きや、驚きの声に、ジャンミは胸をなでおろした。

(みたか。竜様の力に感謝しろよ)

 もう一目だけでも、ファサルを見ておきたい。けれど頭をあげることさえも、もうできそうにない。

 すべての音が遠ざかっていく。体の自由がきかず、ひとかたまりの岩か何かになったように堕ちていくしかない心許なさは、風を読むのを見誤り、墜落しかけるときとにている。暗闇が口を開け、ジャンミを呑み込もうとしている。

(ああ、もうおしまいか)

 死はおそろしくはない。ただ、ほんの少し惜しいだけだ。もう少しだけ、あの子のそばにいたかったと、そう思うだけだ。

 矢を受けた翼をぎこちなくたたみ、ジャンミはは目を閉じ横たわった。

 ばら色の竜の紅玉の瞳が輝くことは、二度となかった。

 笛の音が、聞こえる。

 梅の甘い香りとともに、細いしなやかな高音は響いてきた。

 卓のうえに飾られた紅梅が、ひとつ、小さな花を落とした。

 起きあがってみたが、どうにも変だ。背にふれると、翼がない。まるで元からなかったかのようだ。見下ろすと、体はなまっちろくやせ細り、腕も足も奇妙なほど長い。

 あわてて外へ這いでたジャンミは、池の縁から身をのりだして、水鏡にみずからを映した。

 娘がいる。長い髪をした、人間の娘だ。

 小さな口から舌を出すが、短くすぎて鼻の頭をなめることさえできやしない。自慢の牙もない。

 ぼうっとしながら長い髪をさわっているうち、人影が水面に映り込んだ。顔をあげて振り返ると、夕暮れの涼しい風が肩をふきぬけていった。

「目がさめたのですね」「ファサル」

 笑い顔が、なぜ泣いているように見えるのだろう。

「華国では、竜は天よりくだりて人の子と婚いしたとあります。捧げものとして、花嫁には二つの月が贈られたと」

 ジャンミは深く息を吸い込んだ。そうしないと、叫びだしそうだったからだ。

「これは、現実か?」「はい」

 しずんだファサルの顔をみていると、落ち込んだり騒ぎ立てる気もうせてしまった。

「まあ、なんにしろ、この姿も悪くないよな。あたしは、うん、気に入ったよ、気に入った」

 彼は手をさしのべ、ジャンミを立たせた。そうして向かい合うと、目線はほとんど同じ高さだった。

「おまえ、大きくなったか?」

 間近でみつめると、ファサルは居心地がわるそうに身じろぎをした。

「あなたが変わったのです」

 悲しげに顔を曇らせ、ファサルは言った。

「わたしのために、あなたの翼が」

「気にすんな」

 ジャンミは彼の肩を拳で小突いた。

「あたしの勝手でやったことなんだから。それに、おまえには責任とやらがあるんだろ」

「あなたを人の諍いに巻き込んでしまいました。翼と引き替えに救われる価値などあったのか、ずっと考えていました」

 ファサルは眉根を寄せた。

「つい先日、華国から親書が届きました。話し合いに応じる用意があると」

「話し合いねえ。どういう風の吹き回しだ?」

「かの国にも、色々事情があるようです」

 スシン親王にたきつけられ、ファサルを害そうとした王后派は、まんまとしっぽをつかまれた。王様に含ませた毒の件についても、証拠はあがっているのだという。

 スシンの冷ややかな顔を思い出して、いやな気分になったので、ジャンミは頭を振った。あの男は嫌いだ。とくに理由はないが、大嫌いだ。

「ジャンミ?」

 手を伸ばし、ジャンミは頬にふれた。浮かない顔をしたファサルの目元をなめてやる。たちまち彼の頬は赤く染まった。

「そんな顔するなよ。元気出せ」

 ファサルは眉を寄せ、そっぽをむいた。

「この通り、元気ですから・・・・・・大丈夫です」

 そわそわして落ち着かない様子だ。

「人のやり方にならうつもりはあるんだよ。夫婦なんだしさ、おまえが満足するように、色々がんばるからね、あたしは」

 じっとみつめると、ファサルは面はゆそうにまた目をそらした。

「しかたのないやつ。はやく慣れろよ。それとも、同族の女が嫌いなのか?」

「知りません」

 すねてしまった。目を合わせて話すのが、ずいぶん難しいことになってしまったようだ。ものを言うたび赤くなったり青ざめたりすると、心配になるではないか。

「なあ、笛を吹いてくれ、ファサル」

「・・・・・・いくらでも。あなたが、望むなら」

 ジャンミはほほえんだ。飛ぶ鳥の鳴き声をまねると、ファサルがはっとしたように見つめてきた。見合うと、どちらからともなく笑い出した。

「そうこなくちゃ。あたしは歌おう。しっかりついてこいよ」

 翼はもうない。けれど、惜しむまでもなかった。かわりに得たものもあるのだから。

「きいて驚け。春の女神も真っ青の、すこぶるつきの美声だぜ」



 

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