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「いかないで」と泣く彼女に、僕はずっと寄り添っていた。──彼女を喰い殺すために

作者: 中身無男
掲載日:2026/06/17

 僕には、記憶がない。


 いちばん古い記憶は、彼女の泣き声だ。


 暗い場所だった。湿った石の匂いがして、遠くで何かが崩れる音がしていた。その音のなかで、彼女がうずくまって泣いていた。膝を抱えて、誰かの名前を呼んで、震えていた。


 僕は、彼女のそばに立っていた。どうやってそこにいたのか、わからない。それより前のことを、僕は何も覚えていない。生まれたのが、その瞬間だったみたいに。


 彼女が顔を上げて、僕を見た。涙でぐしゃぐしゃの顔で、信じられないものを見るみたいに、僕を見た。


「……どうして」と彼女は言った。「どうして、あなたが」


 僕には、その問いの意味がわからなかった。


 でも、彼女が手を伸ばしてきたから、僕はその手を取った。冷たくて、小さな手だった。握ると、彼女はもう一度泣いた。さっきより、ずっと激しく。


 その涙の味を、僕は、知っているような気がした。


 なぜだろう。彼女の悲しみが、僕には、ひどく――心地よかった。彼女が深く嘆くほど、僕の輪郭は、はっきりとしていく。彼女の絶望が、僕を、この世界につなぎとめている。そんな、おかしな感覚があった。


 でも、僕は、それを深く考えなかった。考えると、何か、見たくないものに行き当たる気がしたから。


 それが、僕のはじまりだ。


 彼女の名前は、灯里という。彼女が僕に最初にくれた言葉が、それから僕がいちばん欲しがる言葉になった。


「いかないで」


 いかないよ、と僕は答えた。


 その約束を、僕はずっと守っている。守りつづけている。


    *


 灯里は、探索者だった。


 地下に広がる迷宮へ潜って、危険なものを狩り、資源を持ち帰る。そういう、命を削る仕事だ。僕がそれを知っているのは、彼女が教えてくれたからだ。


 僕自身が何者なのかは、相変わらずわからない。名簿にも記録にも、僕の名前はないらしい。


 でも、それでよかった。僕には、灯里がいればよかった。


 彼女は、夜になるとうなされた。


 寝言で、誰かの名前を呼ぶ。Aさん、と。それから、ごめんなさい、と繰り返す。汗をびっしょりかいて、シーツを握りしめて、苦しそうに身をよじる。


 そういうとき、僕は彼女を抱きしめる。背中をさすって、耳元で「大丈夫、僕がいるよ」と囁く。すると彼女は、少しずつ落ち着いて、僕の腕のなかで眠りなおす。


 彼女が泣いて、僕にすがりつくとき。


 僕は、満たされる。


 ひどい言い方かもしれない。でも、本当のことだ。彼女が僕を必要とするその瞬間、僕は自分がここにいていい理由を、はっきりと感じる。だから僕は、彼女が泣きやんでほしいと思う一方で、ずっと僕の腕のなかにいてほしいとも思う。矛盾している。でも、それが僕の正直な気持ちだった。


 Aさんというのが誰なのか、僕は灯里に聞いたことがある。


 彼女は、長いあいだ黙っていた。それから、ぽつぽつと話してくれた。


「私の、先輩だった人。ずっと、ペアを組んでた。憧れてたの。誰よりも強くて、優しくて……後輩を、絶対に見捨てない人だった」


「その人は、いま」


「死んだ」と灯里は言った。「半年前。深部で。私を、庇って」


 彼女の声が震えた。僕は、彼女の手を握った。


「私が、足を引っ張ったの。私がもっと強かったら、あの人は死ななかった。私のせいで、あの人は」


「灯里のせいじゃない」と僕は言った。「君は、悪くない」


 彼女は、僕の胸に顔をうずめて、泣いた。


 僕は、その髪を撫でながら、思った。――この人を、ずっと、こうしていたい。この弱った、傷ついた、僕にすがるしかない彼女を、ずっと。


 そう思う自分を、僕はそのとき、おかしいとは思わなかった。


    *


 灯里との日々は、穏やかだった。


 朝、彼女が目を覚ますと、僕はもうそばにいる。彼女が「おはよう」と言う。僕も「おはよう」と返す。それだけのことが、僕には、たまらなく満ち足りていた。


 休みの日は、一日中、家で過ごした。彼女が好きな映画を、肩を寄せて観た。彼女が淹れた紅茶を、向かい合って飲んだ。彼女が、僕の肩に頭を預けて、「こうしてると、世界に二人きりみたいだね」と笑った。


 そうだね、と僕は答えた。世界に、二人きり。


 ――それは、僕が、いちばん望んでいたことだった。彼女の世界に、僕以外の何も、誰も、いなくなること。彼女が、僕だけを見て、僕だけにすがって、生きていくこと。


 ときどき、彼女のもとに、報せが届いた。同期からの誘いだったり、昔の友人からの便りだったりした。「久しぶりに会わない?」と。


 そういうとき、僕は、そっと言った。


「行ってもいいけど……顔色、よくないよ。無理しないほうがいい。今日は、ゆっくり休んだら?」


 灯里は、少し迷って、それから、その手を止めた。


「……そうだね。今日は、やめておく」


 僕は、ほっとした。


 彼女が、外の誰かと笑い合うところを、想像したくなかった。彼女の世界が、僕の知らない人で満たされていくのが、こわかった。だから、引き留めた。彼女のためだと、自分に言い聞かせて。


 彼女は、少しずつ、連絡を返さなくなった。誘いを断るようになった。気づけば、彼女の世界には、僕しかいなくなっていた。


 それを、僕は、喜んでいた。


 彼女が痩せていくのにも、僕は気づいていた。よく眠れていないこと。食が細くなったこと。日に日に、笑わなくなっていくこと。


 でも、僕は、止めなかった。


 だって――弱った彼女は、いっそう、僕にすがった。夜中にうなされて、僕の名を呼んで、僕の腕にしがみついた。「あなたがいないと、だめ」と泣いた。


 その言葉を聞くたび、僕は、満たされた。


 もっと弱ればいい、と思った。もっと、誰もいなくなればいい。そうすれば、彼女には、僕しか、いなくなる。


 ――いま思えば、あれは、愛ではなかった。


 飢えていたのだ。僕は、ずっと。


 ただ、そのときの僕は、それを「愛」と呼んで、疑わなかった。


    *


 灯里には、新しいペアがついた。


 Aさんの、弟子だったという。不器用で、要領が悪くて、Aさんがずっと面倒を見ていた後輩。会社の編成で、灯里と組むことになったらしい。Bという名前だと、灯里が教えてくれた。


 その男のことを、僕はまだ、見たことがなかった。灯里は集合場所で彼と落ち合い、ふたりで迷宮へ向かう。


 僕は、その男が気に入らなかった。灯里を、外へ連れ出すからだ。僕の知らない場所へ、僕の届かない場所へ、彼女を連れていくからだ。


 灯里がその男と探索に出ているあいだ、僕は、よく覚えていない。彼女がいない時間のことを、僕はうまく思い出せない。眠っているのに近い。彼女が「ただいま」と帰ってくると、僕はようやく、目を覚ます。


 そして、気づいたことがある。


 あの男と潜るようになってから、灯里が、笑うようになった。


 僕には見せない種類の笑顔だった。何かをやり遂げた人の、晴れやかな笑い。僕の腕のなかで泣いているときとは、まるで違う顔。


 僕は、それが、いやだった。


 彼女がそんな顔をするたびに、僕の輪郭が、薄くなる気がした。手をかざすと、向こうが透けて見えそうなくらいに。


 だから、僕は決めた。


 彼女に、思い出させてやろう。世界がどれだけ危険か。彼女がどれだけ弱いか。そして――僕が、どれだけ必要か。


    *


 その日、灯里が「あなたも一緒に来て」と言った。


 浅い階層なら、と。Bも一緒だったけれど、灯里がどうしてもと言うので、僕はついていった。彼女のそばにいられるなら、断る理由はなかった。むしろ、好都合だった。


 迷宮の入口で、僕は、初めてBを見た。


 不器用そうな、しかし芯のありそうな男だった。彼は、僕を見なかった。視線が、僕のいるあたりを通り過ぎて、その後ろの壁にぶつかる。まるで、そこに誰もいないかのように。


 灯里が、当たり前のように、僕の腕を取った。Bは、それを見て、かすかに眉を寄せたが、何も言わなかった。


 迷宮のなかは、暗かった。湿った石の匂いがした。


 その匂いを嗅いだ瞬間、僕の奥のほうで、何かが、疼いた。懐かしいような、飢えたような、おかしな感覚。でも、それが何なのか、僕にはわからなかった。わかろうとも、しなかった。


 そして――魔物が、出た。


 大きな、黒い獣だった。浅い階層には、いるはずのないもの。Bが「どうしてこんなところに」と叫んで、剣を抜いた。


 灯里の顔が、恐怖で凍りついた。あの日を、Aさんが死んだあの日を、思い出したのだろう。彼女は、動けなくなった。


 Bが、ひとりで前に出た。灯里を庇って、剣を構えて。


 けれど、その剣は、軽かった。獣の一撃を受け止めきれず、Bは、あっさりと弾き飛ばされた。壁に叩きつけられ、剣を取り落とす。立ち上がろうとして、足がもつれる。


「灯里さん、逃げ……っ」


 言い終わる前に、獣の脚が、Bを薙ぎ払った。Bは、地面を転がった。師匠の真似なのだろう、囮になろうとする動きだけは、立派だった。でも、それを支える力が、この男には、まだ、何もなかった。


 不器用で、要領が悪くて、弱い。


 ただの、半人前だ。


 僕は、安心して、前に出た。


 どうしてそんなことができたのか、自分でもわからない。気づいたら、その獣と向き合っていた。獣は、僕を見て――ぴたりと、動きを止めた。


 まるで、主に出くわした犬のように。僕が手を振ると、獣は、おとなしく身を伏せ、それから、塵になって、崩れていった。


 あっけなかった。


 獣が消えると、灯里は、まっさきにBへ駆け寄った。地面に倒れ、血を流すBの傍らに膝をついて、「Bくん! しっかりして、Bくん!」と、その肩を揺さぶった。


 僕のことなど、見てもいなかった。


 助けたのは、僕なのに。あの獣を、一瞬で消したのは、僕なのに。彼女の目には、倒れたBしか、映っていない。


 胸の奥が、焼けた。


 こんな感情は、知らなかった。この、半人前の男に、彼女の心配を、彼女のまなざしを、ぜんぶ奪われている。許せない、と思った。


 僕は、Bのそばに、しゃがんだ。そして、その傷に、手をかざした。


 なぜそんなことができるのか、僕にはわからなかった。ただ、できると、わかっていた。手のひらから、何かが流れ込み――Bの傷が、みるみる塞がっていった。血が止まり、裂けた肉が繋がり、痛みが、引いていく。


「これで、もう大丈夫」と僕は言った。灯里に、微笑みかけて。


 灯里が、息を呑んで、僕を見た。Bから、僕へ。彼女のまなざしが、ようやく、僕に、戻ってきた。


「あなたが……治して、くれたの?」


「うん」と僕は、彼女の手を取った。Bの傍らから、そっと、自分のほうへ引き寄せながら。「僕がいれば、Bくんのことも、君のことも、守れる。だから――そんなに、彼を心配しなくていいよ」


 灯里は、僕の胸にすがりついた。さっきまで、Bを案じていた彼女の、しっかりした探索者の顔は、もう、どこにもなかった。あるのは、僕にすがる、弱った彼女の顔だけだった。


 僕は、満たされた。


 Bだけが、塞がったばかりの自分の胸に手を当てて、僕を――見えないはずの何かを、まっすぐに、見ていた。


 その目に映っていたのは、灯里が、誰もいない虚空に抱きつき、何もない空間に顔をうずめて、すがりついている姿だったはずだ。傷を癒したのも、獣を消したのも、彼の目には、誰の仕業とも映らない。ただ、何もない空間が、灯里を、からめとっているようにしか、見えない。


「灯里さん」とBが、掠れた声で言った。一歩、後ずさりながら。「いま……何も、ないところに……」


 灯里には、その言葉が、聞こえていないようだった。彼女は、僕の腕のなかで、安心しきっていた。


 Bだけが、青ざめて、僕のいるあたりを、まっすぐに、見据えていた。その目が、はっきりと、疑っていた。


 僕は、目を逸らした。


 ――そのとき、僕は、自分が嘘をついていることに、まだ気づいていなかった。いや。気づかないふりを、していたのだ。


    *


 灯里は、探索を続けていた。Bと組んで、毎日のように、浅い階層へ潜っていた。


 帰ってくると、彼女はその日のことを話してくれた。僕は、それを聞くのが好きだった。彼女の口から出るBの話が、いつも、僕を安心させてくれたからだ。


「Bくん、今日も派手に転んでね」と、最初のころ、灯里は苦笑していた。「Aさんの真似して、囮になろうとするんだけど、全然さまにならないの。怖がりだし、要領も悪いし。あの子、ほんとに、Aさんの弟子だったのかなって」


 いい気味だ、と僕は思った。あんな半人前、何の脅威にもならない。灯里を奪えるはずがない。


 だから僕は、笑って相槌を打った。「大変だね」「無理しないようにね」と。


 でも、彼女の話は、少しずつ、変わっていった。


「今日ね、Bくんが、私を庇ってくれたの」とある日、灯里は言った。「魔物に囲まれて、もうだめかと思ったとき、あの子、自分が前に出て。無茶なんだけど……ちょっとだけ、Aさんに、似てた」


 僕の奥で、何かが、不快に疼いた。


「あの子、いつも言うの」と灯里は続けた。「『仲間は、置いていかない』って。Aさんの口癖だったんだって。何度も死にかけながら、それでも、その言葉だけは、守ろうとしてる」


 Aさんに、似てきた。


 その言葉が、なぜこんなに、僕を苛立たせるのか。僕にはわからなかった。わかりたくも、なかった。だから僕は、いつものように、考えるのをやめた。


「そう」とだけ、僕は言った。「でも、危ないことはしないでね」


 灯里は頷いたけれど、その頷き方は、前とは違っていた。僕の言葉を、痛み止めみたいに飲み込む頷き方では、なくなっていた。


 それからも、灯里は、Bの話をした。


「今日、Bくん、はじめて一人で、階層主を倒したの」とうれしそうに。あるいは、「Bくんね、私のこと、ちゃんと探索者として、頼ってくれるようになった」と、しみじみと。


 彼女が語るたびに、Bは、強くなっていった。不器用な半人前だったはずの男が、一歩ずつ、僕の知らないところで、灯里の隣に立てる人間になっていく。


 そのぶん、灯里の中で、僕の居場所が、削れていく気がした。


 僕は、彼女が眠ったあと、何度も、自分の手をかざした。前より、ずっと、輪郭が薄い。向こうの壁が、はっきりと透けて見えた。


 焦りが、僕を、苛んだ。


 そして、決定的な夜が、来た。


「Bくんがいると」と灯里は言った。湯気の立つカップを両手で包んで、どこか遠くを見ながら。「なんだか、安心するの。あの子、口下手で、何も気の利いたことは言えないんだけど。ただ、ちゃんと、そこにいてくれる感じがして」


 安心する。


 その言葉は、僕のものだった。僕だけのものだった。彼女が夜中にうなされ、僕にすがりついて、僕の腕のなかでようやく落ち着く――あの「安心」は、僕だけが、彼女に与えられるものだったはずだ。


 それが、Bに向けられた。


 灯里は、笑っていた。僕に見せたことのない、穏やかな笑顔で。すがる笑顔ではなく、満たされた笑顔で。


 僕は、初めて、はっきりと、奪われる恐怖を感じた。


 その夜から、僕は焦った。灯里が立ち直りそうになると、必死で引き留めた。「無理しなくていい」「まだ早いよ」「ここにいよう、ふたりで」。彼女のためを思って言っているのだと、僕は信じていた。


 信じて、いた。


 灯里が眠ったあと、その寝顔を見おろしながら、僕は、ふと思った。


 どうして僕は、あの獣を、消せたんだろう。


 どうして魔物は、僕にひるんだんだろう。


 どうして僕は、この迷宮の匂いを、懐かしいと感じたんだろう。


 考えるな、と、僕のなかの何かが言った。思い出すな。知るな。このまま、優しい僕でいろ。彼女にすがられて、満たされて、それでいいじゃないか。


 僕は、目を閉じた。


 考えるのを、やめた。


    *


 灯里が、あの場所へ行くと言い出したのは、それから間もなくのことだった。


 Aさんが死んだ、深部。彼女が、二度と潜れなかった場所。


「Aさんを、迎えに行くの」と彼女は言った。青ざめた顔で、それでも、まっすぐに。「あの人を、あんなところに置き去りにしたままじゃ、私……前に進めない。Bくんが、一緒に行ってくれるって」


 僕は、止めた。


 必死で、止めた。


「行かないで」と僕は言った。「あんな危険な場所、行かなくていい。君は、もう傷つかなくていいんだ。ここにいよう。僕と、ふたりで、ずっと」


 灯里は、迷っていた。僕の言葉に、足が止まりかけていた。


 そうだ、と僕は思った。そのまま、すがってくれ。僕を選んでくれ。あんな場所、行かなくていい。ずっと、僕の腕のなかで、弱っていてくれ。


 でも。


 彼女は、首を振った。


「ごめんなさい」と彼女は言った。「私、行かなきゃ。行かないと、ずっと、あの日のままだから」


 その目に、僕の知らない強さがあった。Bと潜るようになってから、彼女のなかに育った、あの強さが。


 僕は、初めて、怖くなった。


 彼女が、僕の手の届かないところへ、行ってしまう。


    *


 深部へ向かう道のりは、長かった。


 灯里は、Bと並んで、迷宮を下っていった。僕は、その少し後ろを、ついていく。深くなるほど、空気が重くなり、灯里の足取りが、固くなっていくのがわかった。


 ある地点で、彼女は、立ち止まった。


 何の変哲もない、暗い通路だった。けれど灯里は、そこで足を止め、動けなくなった。この先だ、と、彼女の体が、覚えていた。半年前、すべてが終わった場所が、もう、近い。彼女の手が、小さく震えた。呼吸が浅くなり、顔から血の気が引いていく。


「灯里さん」とBが、静かに言った。「無理なら、戻りましょう。誰も、あんたを責めない」


 灯里は、首を振った。深く息を吸って、震える足を、もう一歩、前に出した。


「大丈夫。……Bくんが、いてくれるから」


 その言葉に、僕の中の何かが、軋んだ。


 以前なら、その「大丈夫」は、僕の腕の中で言われる言葉だった。僕がいるから大丈夫、と。それが今は、Bの隣で、口にされている。


 僕は、彼女のそばへ寄った。耳元で、囁こうとした。怖いだろう、戻ろう、僕とふたりで帰ろう、と。半年間、ずっとそうしてきたように。


 けれど、灯里は、振り向きもしなかった。


 彼女の目は、まっすぐに、深部の闇を見据えていた。怖がりながら、それでも、進もうとする者の目だった。僕の囁きは、もう、彼女に届いていなかった。


 僕の声が、こんなにも、軽い。


 初めて、そう感じた。


    *


 深部は、暗かった。


 湿った石の匂いがした。遠くで、何かが崩れる音がした。


 その匂いと音に、僕のなかの何かが、激しく疼いた。今度は、抑えきれなかった。懐かしさと、飢えと、それから――思い出が、堰を切ったように、流れ込んできた。


 半年前の、この場所。


 ひとりの探索者が、後輩の女を庇って、立ちはだかっていた。強くて、優しい男だった。その男を、僕は――


 僕が。


 喰った。


 この牙で。この爪で。Aを、引き裂いて、喰らった。そして、そのとき。そのすぐそばで、女がうずくまって泣いていた。膝を抱えて、Aの名を呼んで、震えていた。


 あまりに濃い、絶望と、後悔と、未練。


 僕は、それに、惹かれた。


 喰い足りなかった僕は、その女の絶望に、もぐり込んだ。Aの面影を借りて。彼女がいちばん会いたがっている、優しいAの姿を借りて。彼女のそばに、立った。


 いちばん古い記憶。彼女の泣き声。「どうして、あなたが」――あれは、再会の言葉じゃなかった。彼女は、死んだはずのAが、目の前にいることに、混乱していたのだ。


 僕は、彼女を喰っていた。半年かけて、ゆっくりと。彼女の心を弱らせ、孤立させ、僕に依存させて。彼女が差し出す絶望を、すすって、生きてきた。あの獣も、僕が呼んだ。彼女に「僕が必要だ」と思わせるために。


 優しさは、ぜんぶ、嘘だった。


 僕は、彼女を愛してなんかいなかった。


 ただ、喰いたかっただけだ。


「――やっぱり」


 声がした。Bだった。


 彼は、剣を構えて、まっすぐに、僕を見ていた。今度こそ、はっきりと。見えないはずの僕を。


「ずっと、おかしいと思ってました。灯里さんのそばにいる『何か』。浅層に出るはずのない魔物。あなたの戦い方が、師匠に似ていたこと。――あなた、師匠を喰った化け物だ。師匠の顔をして、灯里さんに、取り憑いてる」


 灯里が、僕とBを、見比べた。何が起きているのか、わからない、という顔で。彼女にはまだ、僕は「優しいAさん」のままだった。半年かけて刻んだ嘘は、Bの言葉ひとつで剥がれるほど、浅くはなかった。


 だから、僕は――嘘をつくのを、やめた。


 灯里を、利用すればいい。それだけのことだった。


 仮面が、剥がれた。


 Aの顔も、優しい声も、もう要らなかった。借りものの輪郭をかなぐり捨てて、僕は、本当のかたちに戻った。牙が伸びる。爪が伸びる。半年かけて灯里の絶望をすすって蓄えた力が、全身に満ちていく。


 Bが、剣を構えた。けれど、その刃は、僕には届かない。


 なぜなら、僕には、灯里がいた。


「灯里」と、僕は、Aの声で囁いた。


 彼女が、びくりと震えた。半年間、その声に、すがりつづけてきた彼女が。


「助けて。そいつが、僕を殺そうとしてる。君だけが、僕を救えるんだ」


 灯里が、ふらりと、僕とBのあいだに、進み出た。


 夢を見ている人の足取りだった。Bが何を言おうと、彼女の目に映る僕は、まだ「優しいAさん」のままだった。半年かけて刻まれた依存が、彼女の体を、勝手に動かした。すがるべき相手を、守ろうとして。


 彼女が、Bの前に立ちふさがった。


 僕を、庇うように。


「灯里さん、退いて!」とBが叫んだ。だが、斬れない。灯里が盾になっている以上、その剣は、振り下ろせない。


 僕は、灯里の背中越しに、笑った。


 いい子だ。そのまま、そこにいてくれ。


 爪を、振るった。灯里の肩の上から、その向こうのBへ。Bは、とっさに灯里を突き飛ばして、自分が代わりに、それを受けた。


 爪が、Bの胸を、深く抉った。


 血が、噴いた。Bが、灯里の前に、崩れ落ちる。


 その光景に――灯里の、目の焦点が、合った。


 自分を突き飛ばして、目の前で崩れ落ちる、探索者の背中。半年前、あの場所で見たものと、寸分たがわぬ、それ。


 また、私を庇って、人が、倒れる。


「いや」と灯里が言った。掠れた、けれど、はっきりとした声で。「いや。もう、いや」


 彼女が、僕を、振り返った。


 その目に、もう、すがる色はなかった。半年ぶりに、彼女は、僕を、ちゃんと「見て」いた。化け物を、化け物として。


 彼女の手が、腰の剣を、抜いた。


 僕が、止める間もなかった。


 灯里は、その刃を、僕に――半年間すがりつづけた、優しい嘘の胸に、突き立てた。


 自分の手で。


 驚きが、痛みより先に来た。この女が。喰われるだけの、弱い、僕にすがるしかなかった、この女が。


 僕という存在は、彼女がすがってくれることで、できていた。その彼女が、自らの手で、僕を刺した。半年間、僕を生かしていた依存が、彼女自身の手で、断ち切られた。


 体が、重くなる。爪が、鈍る。


 その隙に。


 倒れていたBが、立ち上がった。


 胸から血を流しながら。それでも、まっすぐに。半年前、灯里を庇って死んだ、あの男のように。


 その姿に、僕は、見た。強くて、優しくて、後輩を絶対に見捨てなかった、あの男の影を。喰ったはずの、骨まで喰らったはずの、あの男が――この弟子の中で、まだ、生きていた。


 Bが、剣を、振りかぶった。


 もう、灯里は盾にならない。彼女は、自分の意志で、僕の後ろから、退いていた。


 Bの剣が、振り下ろされた。


 僕の脳天から、まっすぐに。半年前に喰った男の、技で。その男が遺した、弟子の手で。


 断ち割られた。


 輪郭が、ほどけていく。Aの顔も、借りものの声も、崩れていく。


 最後に見えたのは、灯里だった。


 Bに駆け寄って、その傷に手を当てて、僕のことなど、もう見てもいない彼女。すがる相手を失ったはずなのに、その背中は、半年前よりも、ずっと、まっすぐだった。


 喰い損ねた、と僕は思った。


 あれほど弱らせて、あれほど孤立させて、もう少しだったのに。最後の最後で、横から、かすめ取られた。喰ったはずの、あの男に。


 忌々しい。最期まで、僕は、僕のままだった。後悔も、改心もない。ただ、獲物を取り逃がした、苦い飢えだけが残った。


 彼女は、もう、振り返らなかった。


 僕の声を待つことも、僕の手を探すことも、二度と、なかった。


 それきり、僕は、ほどけて、消えた。


 いかないで、と――もう、誰も、言わなかった。


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