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王太子殿下、その婚約破棄は全国中継中です 〜記録しか見ない女と笑われた卒業生代表、王国記録として証拠を投影します〜

掲載日:2026/05/22

 婚約破棄されたのは、卒業式の壇上だった。


「クラリス・ヴァイス。お前との婚約を、今この場で破棄する」


 アルデリア王国、王都行政院附属王立学院大講堂。


 卒業生代表として壇上脇に立っていた私は、式次第の一枚目を指で押さえた。


(卒業式の式次第に、婚約破棄の項目はありません)


 紙の角が、少しだけ曲がっている。


 直した。


 必要以上に、きれいに。


「殿下。念のため確認いたします」


「何だ」


「今のご発言は、王太子としての公式発言でしょうか」


 大講堂に、ざわめきが走った。


 壇上中央には、王太子ジュリアン・アルデリア殿下。


 その半歩後ろには、ミリア・サロメ子爵令嬢。


 白い式典ドレスに、淡い金の刺繍。


 太陽神ソリスの教会が認めた聖女候補らしく、清らかに見える衣装だった。


 もっとも、胸元の刺繍は規定より三寸ほど派手だ。


(婚約破棄より先に、服飾規程違反の処理をしたかったのですが)


 私は進行台の下に置かれた確認用の小水晶を見た。


 青い光が、安定して灯っている。


 王都行政院魔具局が試験導入した、魔映水晶。


 離れた場所へ映像と音声を送る、新型の中継魔具である。


 今日の卒業式は、王国初の大規模式典中継でもあった。


 大講堂の背後には、十二基の主水晶。


 王都中央広場、各伯領の公会堂、太陽教会の大聖堂、王宮主晶室へ、式典の映像と音声を送っている。


 つまり殿下の声は今、王国中に届いていた。


「当然だ。王太子である私が、王国の未来のために告げている」


「式典記録に残ります」


「構わん」


「各地の魔映水晶にも中継されています」


「構わんと言った!」


 殿下の靴底の下で、銀色の集音紋が強く光った。


 音を拾うための魔術紋である。


 集音紋は、使用者の品性までは選別しない。


 実に公平な魔具である。


 よく拾っている。


 王国中へ。


 確認水晶には、王都中央広場の様子が映っていた。


 パン屋の女将が、焼きかけのパンを持ったまま固まっている。


 隣の魚屋は、口を半分開けていた。


 犬まで座っている。


(犬まで見ていますね)


 私は式次第をめくった。


 赤い朱印が押されている。


 ――本式典は王国記録対象。登壇者の発言は中継および保存される。


 この注意書きは、三日前に全登壇者へ配布された。


 殿下の執務室にも、赤字で「式典前必読」と書いた控えを届けている。


 読まれていない。


 今の声量で、よく分かった。


「承知いたしました。では、王国記録として進行いたします」


「進行?」


「はい。公開告発には、告発内容の明示が必要です」


「何をふざけたことを」


「王国法「王族並びに貴族の名誉と品位の保持に関する法律」22条です。王族が公的な場で貴族を糾弾する場合、事実、証拠、証人を示す必要があります」


 殿下の眉が跳ねた。


「お前は、いつもそうだ」


「どのようにでしょう」


「法だの記録だの、可愛げがない」


 ミリア嬢が小さくうなずいた。


「クラリス様は、いつも正しさばかりです。私、怖くて……」


 声が細い。


 震えも入っている。


 集音紋が、その震えまで拾った。


 確認水晶の中では、王都中央広場のパン屋の女将がパンを台に置いた。


 腕を組んだ。


 見物の姿勢である。


「クラリス。お前はミリアを階段から突き落とした」


 殿下が一歩前へ出た。


「彼女の式典衣装を切り裂き、太陽教会から届いた聖女候補推薦状を盗んだ。さらに、私に虚偽の報告をしてミリアを貶めようとした」


 会場が揺れた。


 貴族席の奥で、父が椅子の肘掛けを握るのが見えた。


 母は扇を閉じた。


 音が、小さく鋭かった。


「以上でよろしいでしょうか」


「それだけではない。お前は王太子妃にふさわしくない。冷たく、傲慢で、民の心を知らない女だ」


「民の心」


 私は確認水晶を見た。


 王都中央広場では、パン屋の女将が魚屋に何かを言っている。


 魚屋は首を横に振った。


 犬はあくびをした。


 民ではないが、かなり率直な反応だった。


 たぶん民の心は今、かなり複雑だ。


「クラリス様」


 ミリア嬢が一歩前に出た。


「もう、認めてください。私、あなたを恨んではいません。ただ、これ以上、嘘を重ねないでほしいのです」


「ミリア嬢」


「はい」


「その言葉も、公式記録に残ります」


 ミリア嬢の肩が一瞬だけ止まった。


 袖口のレースが、小さく揺れる。


「……え?」


「この壇上での発言は、すべて記録水晶に保存されます。後日の改ざんはできません」


「そ、そんなことは知っています」


「そうですか」


 私は進行台の下段を開けた。


 中には三枚の証拠目録と、三つの記録水晶が入っている。


 私は王立学院行政課程の卒業生代表であり、本日の学生側進行責任者でもある。


 式次第、緊急報告、式典文書の一部を預かる係だ。


 本来なら、この資料は式典後に王命監査役へ渡す予定だった。


 早まっただけである。


「殿下。まず、一つ目の告発です。私はミリア嬢を階段から突き落としたとのことでしたね」


「そうだ。ミリアはそのせいで足を痛めた」


「何月何日、どの階段でしょうか」


「三月十六日。西棟二階の大階段だ」


「ミリア嬢。相違ありませんか」


「……はい。私、あの日のことを思い出すだけで」


 ミリア嬢が目元に指を添えた。


 涙は出ていない。


 しかし指の動きはきれいだった。


 練習している。


「では、記録水晶一番を投影します」


 私は水晶を台座に置いた。


 銀の枠が回り、背後の主水晶へ映像が広がる。


 西棟二階。


 大階段。


 日付は三月十六日。


 西棟は王族と留学生も通るため、保安水晶が設置されている。


 記録には、踊り場に立つ私と、階段を上がるミリア嬢が映っていた。


 距離は五歩。


 ミリア嬢は自分の裾を踏み、手すりをつかみそこね、三段分だけ滑った。


 突き落とされたというより、式典用の靴に負けた動きだった。


 映像の中の私は、階段の下から教授を呼んでいる。


「……これは」


 殿下の声が低くなった。


「王立学院西棟の保安記録です。学院長の封印付きです」


「でも、クラリス様が睨んだから、私、怖くなって」


「映像の私は、書類を読んでいます」


「視線が冷たくて」


「書類です」


「でも」


「書類です」


 教師席の端で、誰かが咳払いをした。


 笑いを、礼法で包んだ音だった。


 私は次の目録をめくる。


「二つ目。私がミリア嬢の式典衣装を切り裂いた件です」


 ミリア嬢の指が胸元の刺繍を押さえた。


 白いレースの袖。


 左袖の内側に、細い補修跡がある。


「そ、それは……私の部屋に誰かが入って」


「記録水晶二番を投影します」


 主水晶に、女子寮の共用裁縫室が映った。


 夜。


 灯りは一つ。


 共用裁縫室には、火災防止と針の紛失防止のため、利用中だけ作業台を記録する管理水晶が置かれている。


 私室ではない。


 火と刃物を扱う共同設備だ。


 画面の中央では、ミリア嬢が自分の袖を机に置いていた。


 小さな裁ち鋏が、布に入る。


 隣には侍女が立っていた。


 ただし侍女の顔と声は、学院長の封印で淡くぼかされている。


 彼女は昨夜、学院長へ保護を求めた証言者だ。


『このくらい切れば、クラリス様のせいにできる?』


『はい、お嬢様。ただ、切り口がきれいすぎます』


『じゃあ、もっと乱して』


 裁ち鋏の扱いは丁寧だった。


 罪の扱いは、たいへん雑だった。


 大講堂の空気が、紙を折ったように変わった。


 ミリア嬢の顔から、作った震えが消える。


 殿下は口を開けたまま、閉じるタイミングを失っていた。


 確認水晶の中では、王都中央広場のパン屋の女将が片手を腰に当てている。


 魚屋は腹を抱えていた。


(魚屋さん、笑いすぎです)


 私は三枚目の目録を取った。


「三つ目。聖女候補推薦状を盗んだ件です」


「待て」


 殿下が片手を上げた。


「待つ必要がありますか」


「これは何かの間違いだ。ミリアがこのようなことをするはずがない」


「では三つ目で確認いたしましょう」


「クラリス!」


 殿下の声に、魔映水晶がきしんだ。


 私は指を止めなかった。


「記録水晶三番を投影します」


 主水晶に映ったのは、太陽教会の控室だった。


 祭壇前の小部屋。


 太陽神ソリスの教会が扱う聖女候補推薦状は、封印台で管理される。


 学院へ運び込まれた後も、封印から外された瞬間に周囲の映像と音声が自動記録される仕組みだ。


 記録の中で、ミリア嬢が封筒を手にしていた。


 封蝋には、太陽教会の印。


 その向かいに、殿下が立っている。


『本当にいいのですか、殿下』


『構わない。推薦状は私から教会に戻しておく。クラリスには管理が悪いと言えばいい』


『でも、クラリス様は記録を取っています』


『あの女は記録しか見ない。人の気持ちは見えない』


 映像の中の殿下が笑った。


 大講堂の殿下は、笑っていない。


 ミリア嬢の唇が、少しずつ白くなっていく。


 私は水晶の光を切った。


 音が消えた。


 王立学院の大講堂が、ここまで静かになることは少ない。


 ペン先が紙をこする音まで聞こえた。


 教師席の記録官が、猛烈な速さで議事録を書いている。


「殿下」


 私は殿下を見た。


「この推薦状は、私が盗んだものではありません。殿下とミリア嬢が持ち出したものです」


「違う。私はただ、ミリアを助けようと」


「太陽教会の封印文書を無断で持ち出したのですね」


「それは」


「王国法上、教会文書の不正持ち出しです。しかも、聖女候補の選考に関わる公文書です」


 殿下の喉が動いた。


 音は出なかった。


 ミリア嬢が一歩下がる。


「ジュリアン殿下。私は、その、殿下が大丈夫だとおっしゃったので」


「ミリア?」


「私一人では、何も」


「君は私を信じていたのではないのか」


「信じていました。ですが、全部、殿下が」


 小さな声だった。


 しかし集音紋は優秀だ。


 逃さなかった。


 王国中へ、届けた。


(本当に優秀ですね、この魔具)


 私は式次第の余白に小さく印を付けた。


 王都行政院魔具局への報告書に書く。


 集音精度、良好。


 失言採取性能、良好。


 ただし採取量が多すぎる。


「クラリス。中継を止めろ」


 殿下がこちらへ歩いてきた。


「今すぐ止めろ。これは王家の醜聞だ」


「停止権限は私にありません」


「進行係だろう!」


「学生側の進行責任者です。中継停止権限は、王命監査役または王都行政院魔具局長にあります」


(「王太子の焦り」は、停止理由一覧にありません)


「なら監査役はどこだ!」


「ここにいる」


 低い声が、会場の後方から届いた。


 王弟ルーファス・アルデリア殿下が、壁際から歩き出す。


 黒い礼服に、王家の銀章。


 王都行政院を監督する王族であり、本日の式典では国王陛下から王命監査役を命じられている方だ。


 ジュリアン殿下より十歳ほど年上。


 顔立ちは似ている。


 だが、歩き方が違う。


 ジュリアン殿下は人に見られるために歩く。


 ルーファス殿下は、目的地へ着くために歩く。


 同じ王族でも、歩幅にこれほど行政効率の差が出るものらしい。


「叔父上」


「ジュリアン。中継は止めない」


「なぜですか!」


「王太子であるお前が、王国民の前で公式発言だと明言した。ならば結末まで見せる必要がある」


「王家の名誉が」


「王家の名誉を傷つけたのは誰だ」


 殿下の足が止まった。


 ルーファス殿下は壇上に上がらない。


 壇の一段下で、私の進行台を見た。


「クラリス嬢。証拠目録は以上か」


「主要な三件は以上です。補足として、侍女からの証言書、裁縫室の使用記録、教会控室の入退室記録があります」


「証言者の保護は」


「学院長室で手続き済みです。名は公開しません」


 ルーファス殿下の視線が、一瞬だけ私の手元へ落ちた。


「よろしい」


「ほかに、同級生三名からの証言書があります。ミリア嬢による嫌がらせを止めた際、私が加害者であるかのように噂を流された件です」


 卒業生列の中で、三人の令嬢が小さく礼をした。


 手袋越しの指先が、同じ高さでそろっている。


 私が何度も相談室へ付き添った令嬢たちだ。


 彼女たちの名前も、この場では出さない。


 名誉を守るための証言で、別の名誉を傷つける必要はない。


「写しはどこにある」


「学院長室、太陽教会監察室、王都行政院記録課です」


「王宮主晶室には」


「本式典の中継記録として、同時保存中です」


 ルーファス殿下の口元が、ほんの少し上がった。


「手際がいい」


「殿下方のおかげで、出す機会が早まりました」


「皮肉か」


「事実です」


 貴族席の端で、誰かがまた咳払いをした。


 今度は二人分だった。


「クラリス!」


 ジュリアン殿下が叫んだ。


「お前は最初から私を陥れるつもりだったのか!」


「いいえ。私は昨日、殿下の執務室へ報告書を提出しました」


「見ていない!」


「はい」


 私は式次第の下から、受領控えを取り出した。


 殿下の側近の署名が入っている。


「未読のまま、本日の式典に臨まれました」


「そんな書類、山ほどある!」


「ですので、表紙に赤字で『式典前必読』と書きました」


「赤字だろうが何だろうが、私は忙しい!」


「ミリア嬢との庭園散策が三時間ありましたので、その前後なら読めたかと」


 殿下の顔が赤くなった。


 ミリア嬢が目をそらす。


 王都中央広場の魚屋が、両手を打って笑っていた。


 犬が吠えた。


(犬は関係ありません)


 ルーファス殿下が一度だけ肩を揺らした。


 笑ったのか、咳をしたのかは分からない。


「私は、私はただ、愛する女性を守ろうとしただけだ!」


 ジュリアン殿下がミリア嬢の手を取ろうとした。


 ミリア嬢は半歩下がった。


 指先が空をつかむ。


「ミリア?」


「殿下。私、こんな大ごとになるなんて」


「君のためにやったのだ」


「私は、少しクラリス様を困らせたかっただけで」


 教師席のペンが止まった。


 困らせたかっただけ。


 貴族令嬢への冤罪告発。


 王太子妃候補の失脚工作。


 太陽教会の文書不正持ち出し。


 全国中継の卒業式での婚約破棄。


 少し。


 その一語は、便利すぎる。


 皿を割った時にも、国の信用を割った時にも、同じ顔で使える。


 けれど、その一語で事実の大きさは変わらない。


「ミリア・サロメ嬢」


 ルーファス殿下が言った。


「君の発言も記録された」


「い、今のは違います。私は混乱して」


「医療係」


 ルーファス殿下が手を上げた。


 白衣を着た学院医が壇上脇へ進む。


「本当に倒れる前に、彼女を椅子へ」


「本当に、とはどういう意味ですか!」


 ミリア嬢が叫んだ。


 倒れる予定は、どうやら少し先だったらしい。


 学院医は表情を変えず、椅子を出した。


「座りますか」


「……座ります」


 ミリア嬢は座った。


 倒れなかった。


 学院医の仕事は早い。


「ジュリアン殿下」


 私は進行台の上で、婚約証書の写しを広げた。


「先ほどの婚約破棄について、私からも回答いたします」


「今さら何を」


「婚約解消には同意します」


 父の手が、肘掛けから離れた。


 母の扇が、ゆっくり開く。


 ジュリアン殿下の顔に、一瞬だけ勝ち誇った色が戻った。


 まだ第七条を読んでいない顔だ。


「ようやく分かったか」


「はい」


 私は婚約証書の角を整えた。


「今日まで待ちました。ですが、もう殿下の都合に私の人生を使いません」


 殿下の勝ち誇った色が、少しだけ剥がれた。


「な……」


「公文書上の理由は、王太子殿下による不実、虚偽告発、教会文書の不正持ち出し、およびヴァイス公爵家への名誉侵害です」


「何だと」


「王家側有責の婚約解消となります」


「そんなもの、私が認めると思うのか!」


「殿下の承認は不要です」


 私は婚約証書の末尾を示した。


「第七条。王家側に重大な信義違反があった場合、被害側は婚約解消を申し立てることができる。判断権者は国王陛下、または王命を受けた監査役です」


「私は謝れば」


「謝罪は免罪符ではありません」


 大講堂の空気が、また止まった。


 私は殿下の目を見た。


「許すかどうかを、加害側が決めないでください」


 卒業生列のどこかで、布がこすれる音がした。


 令嬢の一人が、胸元で手を握ったのが見えた。


 その指先は、わずかに震えていた。


 ルーファス殿下が右手を上げる。


「王命監査役として、婚約解消の申し立てを受理する」


「叔父上!」


「そして、王宮主晶室から接続が来ている」


 主水晶の光が変わった。


 銀から青へ。


 王宮主晶室の紋章が浮かび上がる。


 全員が頭を下げた。


 私も進行台から一歩下がり、礼を取る。


 水晶の中に、国王陛下の姿が映った。


 白髪交じりの髪。


 疲れた目。


 その横には王妃陛下が立っている。


 王妃陛下は扇を持っていなかった。


 両手を前で重ね、まっすぐ壇上を見ている。


『ジュリアン』


 国王陛下の声が、大講堂に響いた。


 殿下の背筋が伸びる。


「父上、これは」


『黙れ』


 一言だった。


 短い。


 重かった。


『王太子ジュリアン・アルデリア。お前の王太子権限を、本日この時刻をもって停止する。正式な処分は王国評議会で決定する』


「父上!」


『ミリア・サロメ嬢は、学院および王都行政院の管理下で事情聴取を受けよ。サロメ子爵家には王都行政院より通達を出す』


 ミリア嬢の椅子が、かすかに音を立てた。


『クラリス・ヴァイス公爵令嬢』


「はい」


『王家として、貴殿に謝罪する』


 大講堂で、誰も動かなかった。


 国王が、全国中継で公爵令嬢に謝罪する。


 それは、王家の恥を認める行為だ。


 同時に、王家がまだ手続きを守れると示す行為でもある。


 私は礼を深くした。


「恐れ入ります」


『ヴァイス公爵家への正式な謝罪、婚約解消の手続き、名誉回復の布告は、王宮から行う』


「承知いたしました」


『そして』


 国王陛下の視線が、少しだけ柔らかくなった。


『本日の式典進行、ならびに記録管理は見事であった』


「ありがとうございます」


『王立学院卒業生代表としての答辞は、まだ残っているな』


 私は式次第を見た。


 確かに残っている。


 婚約破棄が差し込まれただけで、卒業式は終わっていない。


「残っております」


『続けよ』


「はい」


 水晶の青い光が消えた。


 大講堂に、誰も動かない数秒があった。


 ジュリアン殿下は、衛兵に囲まれていた。


 ミリア嬢は椅子に座ったまま、両手で顔を覆っている。


 だが、卒業生たちはまだ壇の前に並んでいる。


 教師たちもいる。


 保護者もいる。


 各地の水晶の向こうには、王国民もいる。


 式典は、終わっていない。


(ここで閉会すると、式典報告書の項目がたいへん面倒です)


 私は答辞の紙を取った。


 角が少し曲がっていた。


 指で伸ばす。


 まっすぐにする。


「卒業生代表、クラリス・ヴァイス」


 自分の名を告げる。


 集音紋が光る。


 今度は、自分の声を拾わせるために立った。


「本日、私たちは王立学院を卒業します」


 声は震えなかった。


 紙面の文字は、いつもより濃く見えた。


「この学院で、私たちは魔法、法律、歴史、礼法を学びました。けれど、それらは人を飾るためのものではありません」


 貴族席の父が、目を閉じた。


 母は扇で口元を隠している。


「学んだものは、人を守るために使うべきです。魔具は暮らしを支えるために。法律は弱い者を踏みにじらせないために。礼法は、声の小さな人を黙らせるためではなく、乱暴な声から守るために」


 教師席で、記録官のペンが止まった。


「そして記録は、声の大きな者だけが正しいと言わせないために」


 私は卒業生列を見た。


 証言書に署名してくれた令嬢たちは、まっすぐ前を向いていた。


 誰かの陰に隠れずに。


 けれど、誰かを踏むこともなく。


「私たちは今日、卒業します。ここから先、肩書きや家名だけでは済まされません。自分の言葉に責任を持ち、自分の行動に記録を残し、自分より弱い立場の人へ、刃ではなく手を伸ばす大人になる必要があります」


 壇上脇の確認水晶には、王都中央広場が映っている。


 パン屋の女将が、パンを胸に抱えていた。


 魚屋はもう笑っていない。


 犬は座っていた。


「卒業生の皆様」


 私は紙から目を上げた。


「どうか、今日を忘れないでください」


 それは、予定していた原稿にはない一文だった。


「私も、忘れません」


 大講堂の奥で、ルーファス殿下が静かに頭を下げた。


 私は答辞の最後を読んだ。


「以上をもって、卒業生代表答辞といたします」


 一拍。


 拍手が起きた。


 最初は、卒業生列の令嬢たちからだった。


 手袋越しの音は小さい。


 けれど、まっすぐだった。


 次に教師席。


 貴族席。


 そして魔映水晶の向こうからも、遅れて音が届いた。


 王都中央広場。


 各伯領の公会堂。


 太陽教会の大聖堂。


 音は完全には揃わない。


 少しずつずれている。


 けれど、それでよかった。


 揃っていなくても、届いていた。


 私は礼をした。


 その拍手は、婚約破棄された令嬢への同情ではなかった。


 壇上に立った一人の卒業生へのものだった。


 少なくとも私は、そう記録することにした。


 ◇ ◇ ◇


 三ヶ月後。


 王都行政院、東棟の小会議室で、私は最後の報告書に署名した。


 卒業後の三ヶ月、私は採用内定者として式典中継制度の見直しに協力していた。


 題名は長い。


『王国式典中継制度における発言記録、停止権限、証拠保存手続きおよび証言者保護に関する改善提案書』


 長い題名は、嫌われる。


 だが、短くすると大事な部分が抜ける。


 私は妥協して、表紙だけ大きな字にした。


「式典中継改善案」


 本文で戦い、表紙で媚びる。


 書類の基本である。


 十分だ。


「終わったか」


 扉の向こうから、ルーファス殿下の声がした。


「はい。入室可能です」


 扉が開く。


 殿下はいつもの黒い礼服ではなく、濃紺の執務服を着ていた。


 手には封筒が二つ。


 一つは王家の封蝋付き。


 もう一つは、月桂樹と銀の鳥の封蝋だった。


 ルーファス殿下個人の紋章である。


「クラリス嬢。まだ帰っていなかったのか」


「報告書は日付を越すと負けです」


「誰にだ」


「昨日の私にです」


「厳しい相手だな」


 殿下は向かいの椅子に座った。


 座る前に、机の上の水晶を見た。


「中継は切れている」


「私も今、確認しました」


「君は人を信用しないのか」


「人は信用します。中継魔具は確認します」


「順番が逆ではないか」


「前例がありますので」


「正論だ」


 殿下が王家の封筒を机に置いた。


「まず、君への正式な辞令だ」


「王都行政院の任用辞令でしょうか」


「そうだ。王命領務代官補としての任用が決まった」


 私は封筒を見た。


 王命領務代官補。


 王命領務代官の補佐として、問題のある領地や直轄領で、税、台帳、水路、倉庫、治安、報告書作成を学ぶ職である。


 王立学院行政課程の卒業生が目指す、出世コースの一つだ。


「ありがとうございます」


「礼は不要だ。君が自分で取った席だ」


 封筒の封蝋が、午後の光を受けて鈍く光った。


 喉の奥で、声が半歩だけ後ろに下がる。


 私は報告書の角を、もう一度そろえた。


「ジュリアンの処分も決まった」


 ルーファス殿下が続けた。


「廃太子ですか」


「そうだ。王位継承権は残るが、順位は大幅に下がる。しばらくは北部直轄領で、総督補佐見習いだ」


「書類を読む訓練からですね」


「本人は剣の訓練を希望していた」


「まず書類です」


「私もそう言った」


 殿下は、ほんの小さく息を吐いた。


「ミリア・サロメ嬢は、教会文書不正持ち出しの共犯、虚偽証言、学院記録の悪用で処分が下った。聖女候補の資格は取り消し。サロメ子爵家は罰金と監督処分だ」


「彼女は」


「太陽教会の写本室で三年。写し間違いの許されない仕事だ」


「記録の大切さを学ぶには、良い場所です」


「君は容赦がない」


「私は何もしていません」


「そういう顔で言うから、怖がられるのだ」


 私は報告書の角をさらにそろえた。


 また少し、必要以上に。


 殿下が小さく笑った。


「侍女の件も決まった」


 私の指が止まった。


「保護は継続されますか」


「される。本人の希望で、王都行政院の女官見習いに移る。針仕事より記録係を学びたいそうだ」


「そうですか」


 私はペンを置いた。


 窓の外で、馬車の車輪が石畳をこする音がした。


 あの夜、証言書に震える署名をした侍女の手を思い出す。


 震えても、字は崩れていなかった。


「君は、彼女の名を一度も出さなかったな」


「出す必要がありませんでした」


「証拠としては、出した方が強かった」


「強い証拠のために、弱い人をもう一度壇上へ上げる必要はありません」


 殿下はしばらく黙った。


 机の上の水晶は光っていない。


 部屋は、いつもより静かだった。


「そういうところだ」


「どのようなところでしょう」


「私が君を、王都行政院へ推した理由の一つだ」


「殿下の推薦でしたか」


「最終署名は私だ。だが、採用理由は君の成績と実績だ。そこは切り分けてある」


「安心しました」


「本当に安心した顔には見えないが」


「確認中の顔です」


「では、確認を続けてくれ」


 殿下は二つ目の封筒を机の中央に置いた。


 王家の封蝋ではない。


 ルーファス殿下個人の紋章だ。


「これは、どの案件でしょうか」


「案件と言えば案件だ」


「式典中継制度の追加修正ですか」


「違う」


「北部直轄領への派遣命令でしょうか」


「それはまだ早い。君に任せるなら、先に三冊分の台帳を読ませる」


「三冊で済みますか」


「済まないだろうな」


「では、案件ではありませんね」


 殿下は少し黙った。


 指先で封筒の端を叩く。


 一度。


 二度。


 三度目で、手を止めた。


「クラリス嬢」


「はい」


「君に、私との縁談を検討してほしい」


 部屋が静かになった。


 窓の外で、鐘が二度鳴った。


 私は机の上の水晶を見た。


 光っていない。


 記録水晶も閉じている。


 集音紋もない。


 念のため、壁の装飾も見た。


 ただの花瓶だった。


「確認しましたが、中継は切れています」


「そこから確認するのか」


「前例がありますので」


「私の甥がすまなかった」


「殿下が謝ることではありません」


「だが、私の一族だ」


 殿下の声は静かだった。


 縁談の申し込みというより、報告書の結論を読む声に近い。


 けれど、指先は封筒の上で止まっている。


 力が入っていた。


「君を王家にもう一度縛りたいわけではない」


 殿下は続けた。


「だから、これは王命ではない。王都行政院の任用とも切り離してある。君が断るなら、この封筒は私が持ち帰る」


「殿下」


「急がなくていい」


 その一言で、私の指先が少しだけ止まった。


「君が断る権利を、最初に置きたい。王家の都合より先に」


 窓から入る午後の光が、机の上を斜めに区切っている。


 殿下は、その線を越えずに座っていた。


「ただ、君が壇上で答辞を読んだとき、私は考えた」


「はい」


「記録は、人を守るために使うべきだと君は言った」


「言いました」


「私は、そう言える人に国の隣にいてほしい。王家の隣ではなく、私の隣に」


 手続きで処理できない言葉だった。


 条文を探せない。


 私は封筒に手を伸ばした。


 封蝋には触れず、端だけを持つ。


「ルーファス殿下」


「はい」


「今のご発言は、私的なものですね」


「私的なものだ」


「記録には残りませんね」


「残さない。君の返事は、君のものだ」


 殿下はまっすぐ私を見ていた。


 王族としてではなく、私の返事を待つ一人の男性として。


 私は封筒の端を、親指で一度だけなぞった。


「では、私的にお答えします」


「ああ」


「まず、縁談条件の草案を拝見します」


 殿下が瞬きをした。


「そこからか」


「当然です。婚約は契約でもあります」


「恋文では足りないか」


「恋文は別紙で添付してください」


「……別紙か」


「様式は問いません」


「……君らしい」


「そのうえで」


 私は封筒を机の中央から、自分の側へ引き寄せた。


「前向きに検討いたします」


 殿下の口元が、ほんの小さく上がった。


「それは、良い返事だと思っていいのか」


「記録に残さないなら、少しだけ良い返事です」


「少しか」


「草案次第です」


「厳しい相手だ」


「昨日の私よりは優しいかと」


 殿下が笑った。


 今度は、はっきりと。


 窓の外で、三度目の鐘が鳴る。


 王国中へ届く音ではない。


 王都行政院の小会議室にだけ響く、ありふれた午後の鐘だ。


 それでよかった。


 あの日、私の婚約破棄は王国中に中継された。


 けれど、この返事は違う。


 今度の言葉は、私と彼だけのものだった。

 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

 今回は、婚約破棄×公開断罪×証拠水晶×シゴデキ令嬢の短編でした。

 クラリスは「記録しか見ない女」と笑われましたが、記録は人を追い詰めるためではなく、人を守るためにあるものだと思っています。彼女が最後まで泣かずに、自分の言葉と手続きで未来を取り戻す話として、少しでもスカッとしていただけたら嬉しいです。

 面白かった、クラリスを応援したい、ルーファス殿下とのその後が気になる、と思っていただけましたら、下の☆☆☆☆☆評価やブックマークで応援していただけると励みになります。

 感想も歓迎です。

 お読みいただき、本当にありがとうございました。

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