真実の愛
四月一日の朝、小町は死んだ。駅前の横断歩道で脇見運転の軽ワゴンに跳ねられたのだった。救急車はきたし、病院にも運ばれたし、恋人の深草が半泣きどころか全泣きで駆けつけたけれど、だめなものはだめだった。
それで、小町は死んだ。確かに死んだはずだった。
「おかしいなあ」
小町は寝そべったままそう呟いた。口の中に綿が詰まっているから声がもごもご籠ってしまった。
視界が薄暗いのは棺桶の中にいるからだ。嗅覚はもう機能していないのに、線香と檜の匂いが感じられるのは葬式のイメージなのだろうか。棺桶が檜で作られているのか小町は知らなかったけれど、木の匂いといえば檜のような気がした。
身体は重く、心臓は静かで、呼吸をしていない。小町は死んでいる。なのにまだ意識があった。
棺桶の外から小町の知る南無妙法蓮華経なんたらかんたらではない謎のお経が聞こえる。小町は自分の家が浄土真宗なのを知らなかった。
お経の隙間に聞き覚えのある泣き声が聞こえてきた。
「小町……小町ぃ……っ」
深草の声だ。普段の顔はきれいに澄ましているくせに泣き顔がすこぶる情けない男。理屈っぽくて、コーヒーはブラックしか飲まなくて、なのに小町のことは限界を突破して甘やかしたい放題の一途な男である。
その深草が、世界の終わりを嘆くみたいな声で号泣していた。ちょっとダサいなあと小町は思った。
「俺がもっと早く迎えに行ってれば……昨日だって、もっと話せばよかった……小町がいないなんて、意味分かんねえ……」
小町は棺桶の中で困った。困ったというか、かなり居た堪れない気持ちになった。お坊さんは深草の嗚咽に負けず冷静にお経を唱え続けていた。
自分が死んだことより、死んだのに意識があることより、深草があまりにも絶望していることのほうが重大事のように思う。生きていた時なら「そんなに泣くほど私のこと好きなんだ、へへへ」と嬉しく思ったかもしれない。だが死んでしまうと、それどころではない。
このままだと深草はたぶん小町の葬式を台無しにしてさらに三日三晩泣き続ける。四日目からは小町の写真に話しかけ始めて深草のご両親を困らせる。七日目には「小町のいない春とか進行不能バグだろ」と言い出すだろう。
ひょっとすると、だから自分は生き返ったのではないだろうか。だって今日は四月一日なのだ。エイプリルフールは嘘をついても許される。
――これは私が死んだのも、嘘ってことになるんじゃないかな。
その瞬間、棺桶の中に淡い緑色の火花が散った。小町は何かのドラマで見た「人が死ぬ時に緑色の魂を吐き出すシーン」を思い出して、むしろ緑の火花を吸い込んでみた。
胸の辺りに冷たいものが満ちる。鼓動が戻ってきたわけではない。魔法だか呪術だか超医療だか、呼び名のない奇跡っぽい悪足掻きだった。
そして小町は両腕を突き出し、棺桶の蓋を押し上げる。よっこらせと起き上がると葬儀場の空気が凍って、お経も止まった。両親が硬直し、親戚一同は顔面蒼白、お坊さんは数珠を落とし、深草が目を瞠っていた。小町は鼻と口に詰められた綿を両手で隠しながら取り出した後、乾ききった喉で言った。
「えーと……ど、ドッキリ大成功~」
誰も返事をしてくれなくて、小町はたぶん自分が滑ったのだと理解する。しかしただ一人、深草だけはきちんとリアクションをしてくれたのだ。
「小町ぃぃぃぃぃ!!」
叫びながら棺桶に突っ込んでくるという過剰反応ではあった。当然のこと棺桶はひっくり返り、小町は白い死装束のまま床に転がり、深草は号泣しながら「よかった、生きてる、いや生きてる? 動いてる! うわ、冷たっ!」と半狂乱になった。
小町は深草に抱きしめられ床に寝そべったまま冷静に言った。
「生きてはないと思う」
「そんな落ち着いて言うことある!?」
「血色もよくないし」
「そういうレベルの肌色じゃない!」
葬儀場の人々は阿鼻叫喚だったが、ひとまず小町が「呪いとかじゃなくて愛の力だと思う」と説明すると納得してくれた。愛の力は雑に強い。
なんやかんやあって、小町は深草の部屋で暮らすことになった。父親が「うちは浄土真宗だから、たとえ娘だとしてもゾンビはちょっと」と言い、母親が「もう死亡届を出しちゃったものねえ」と言い、深草が「じゃあ俺と一緒に暮らそう。ブードゥー教に入信する」と言ったからだ。
葬式代は返ってこなかった。
小町は確かにゾンビだった。体温は低い。電子体温計はバグる。脈がないし、呼吸もしない。お腹が空かないのは便利だった。鏡には映るが、スマホの顔認証は通らなくなった。指紋認証もよく失敗する。そしてところどころが脆くなっていた。
「あ、右手の薬指、引っ張ったら取れちゃった」
「さらっと報告するな。っていうか引っ張るな」
もうちょっと身体を大事にしなさいと深草に怒られた。
深草の家に帰宅して三日目。小町はお腹が空かないというよりは食事をしないほうがよさそうだと理解した。食べられないわけではないが、食べても消化できないのである。
病み上がり(?)であるからと試しに深草が買ってきたプリンを食べてみたら、三日後の今日、胃袋の中から異臭を放ち始めた。
「残ってた胃液で半端に消化したのかな?」
「あんま具体的に言わないでほしい」
ついでに咀嚼をするほど歯と唇と喉が崩れてしまった。今の小町の皮膚と筋肉と神経はプリンよりも弱いのだった。
「ゾンビ生活、意外と不便だねえ」
「不便で済ませるなよ。指とれたままだし」
「包帯で巻いて固定しとこう」
深草はドラッグストアで包帯と消毒液と防臭スプレーを山ほど買ってきてくれた。
「防臭スプレーいるほど臭い? 女子に向かって失礼な」
「ごめん……でも部屋が森の奥の朽ち木みたいな匂いになりつつあるし」
「お~、一昔前に流行った森ガールってやつだね」
「ポジティブな解釈だな」
この調子で腐敗が進めば梅雨時にはもっと困ったことになるだろうと小町は思う。
「日本人じゃなくてエジプト人だったら、ゾンビじゃなくてミイラになったのにね」
「小町がエジプト人でも家が浄土真宗じゃミイラにはならないだろ」
ゾンビだって宗教が違うのだが、深草にはどうでもいいことだった。
小町はあまり動けないので、ゾンビになって十日を過ぎる頃には深草はフォローのために引きこもりがちになった。昼間カーテン越しの陽だまりの中でレポートを書き、リモートで講義を受ける深草の後ろで、小町はのんびり寝転がって深草の代わりにゲームを進めた。
腐敗は止まらないが、恋人関係は意外なほど生前と変わらず、なんというか普通だった。
「深草、髪伸びてるね」
「俺まだ生きてるもん」
「さすがだなあ」
「何が?」
深草はそこで少しだけ黙った。小町の手を握ると冷たくて、弾力のない肌に指の跡がそのまま残る。
「小町さ。もういなくならないよな」
「どうなんだろうね~」
本当は、その答えを小町は知っていた。
――エイプリルフールについた嘘は、一年間叶わないらしい。
だから小町は、きっと一年も持たないだろうとなんとなく思っていた。
二十日が過ぎた。春の陽気で腐らないよう冷房をつけたら、深草に「さすがにまだ冷房は寒い」と怒られた。
三十日が過ぎた。うっかり右腕を落としたまま放置して、帰宅した深草が気を失った。
四十日が過ぎた。深草が「唇が残ってるうちにキスしていい?」と真顔で聞いて、小町が「腐肉が着くよ」と答えたのに、結局された。
五十日が過ぎた。梅雨がくる前に夜の公園にこっそり出かけてベンチに座ると、通りすがりのサラリーマン二人組に「え、あのカップル雰囲気やばくね」とひそひそ言われた。
七十日が過ぎた。小町は両耳がなくなって、深草がお揃いだったピアスを握りしめながらまた号泣した。
日々、小町の身体は土に近づいていた。指先はささくれた樹皮のようになり、黒髪はもうかなり抜け落ちて、皮膚は剥がれ、ところどころで骨が覗く。深草は「小町は牛乳が好きだから骨まできれいだな」と感心した。六月に入るとさらに腐敗が早くなった。
「なんかハロウィン感出てきた」
「ハロウィンって十月でしょ。まだ早いよ」
「じゃあ季節を問わない口裂け女で」
「わたしきれい?」
「きれいだし、かわいいです」
「へっへっへ~」
ゾンビになっても小町は小町で、深草は深草だった。呑気で調子がよくて、深草に甘やかされるのが上手だった。そして深草も変わらず小町に弱かった。
「ねえ深草~」
「何?」
「私が完全に土になったら、植木鉢に入れて窓辺に置いてよ」
「嫌だよ」
「なんで」
「毎朝水やりで泣いちゃうよ、そんなの」
「情けないなあ」
そういう、どうしようもない会話を二人は毎日かわした。けれど小町が小町のままであるように、やっぱり嘘も嘘のままだった。
生きていた頃の小町なら、深草のスマホに知らない女子の名前が出るだけでむっとしたと思う。バイト先の後輩の話をされれば「ふーん、美人なんだ?」くらいの嫌味を言っただろう。深草が他の誰かを好きになるなんて絶対に嫌だった。
絶対に、嫌だったのだ。なのに最近はそういう想像をしても胸がちくりとも痛まなかった。
――これは、もう脳まで腐ったからなのかなあ。
嫉妬心がないのは、たぶん小町が仏になったからではない。ゾンビだからだ。何しろ脳味噌だってほぼ残っていないのだ。記憶は時々抜け落ちているし、怒るのも面倒になったし、食欲も睡眠欲もない。感情の輪郭がぼんやりしてただ深草が生きている姿を一つだけになった目玉に映している。
――深草が幸せそうなら、それでいいや。
いずれ小町以外の誰かを好きになっても、泣いたあとに笑えているならそれでいい。深草は深草の日々を生きていけばいい。そんな風に思えてしまう今の自分の変化を、小町は優しいものだと感じていた。
九十九日が過ぎてゆく。夜、二人は並んでベランダに座って夏の始まりを浴びていた。長居すると隣室から「生ゴミを放置していて異臭がする」と苦情が入るので少し夜風に当たるだけ。遠くで電車の音がして、マンションの下ではコンビニ帰りらしい若者たちが笑っていた。
「なんかね。百日目はこない気がする」
深草は缶コーヒーを握りつぶしそうな手つきで持ちながら、低い声で唸った。
「なんでそんなこと言うの」
「百って、きりがいいし」
「全然よくない」
「うん」
「なんでそんな素直に受け入れんだよ。ちょっとは困れよ」
「困ってるよ~」
小町は残ったパーツで笑ってみせた。笑う端から壊れていった。深草が慌てて押さえる。
「ほらもう、そういうとこ」
「どこ」
「すぐ雑に壊れる」
「ゾンビだもん」
「開き直るなよ」
夜空に雲が流れていく。小町はゆっくりと深草にもたれかかった。骨にしがみついた腐肉と破れた皮膚と、少しの嘘でできているような身体だった。
ねえ、深草。生きてた時の私は、たぶん嫌な彼女だったよ。嫉妬深かったし、面倒くさかったし、深草が他の人と話してるだけでやきもち焼いた。でも今は、あんまり嫌じゃないんだよね。いつ深草つが、かじゃ私かない好きを誰に思っても平気なだとう。
***
夜が明ける頃、深草は顔を伏せて震えていた。けれど泣いてはいなかった。たぶん、この九十九日で泣き尽くしてしまった。
「小町がいなくなるの、もう一回やるの、嫌だよ俺」
朝陽が射しても百日目の朝はこなかった。白い光が土塊を照らす。バイクの音がして、鳥が囀って、ゴミ収集車の音が聞こえてくる。
深草はその土塊に触れた。握り締めたりはしなかった。ただ壊さないように掬い上げて、そっとキスをしたら、いつもと同じ味がした。
それから深草はプランターを買った。ベランダに置けるぎりぎりの大きなものだ。そこに小町の残した土を入れた。「毎朝水やりで泣くから嫌だ」と言ったのに、結局そうすることにした。
「窓辺に置けるような植木鉢じゃ、足りねえし」
ホームセンターで買ってきた球根を植えた。何の花なのかも知らないけれど、店員に「四月頃に咲いて、わりと丈夫で、ちょっと図太いやつくれませんか」と選んでもらったので、たぶん小町に似合うだろう。
一年後の四月一日の朝に、深草でもさすがに知っている花が咲いた。深草は一人でベランダにしゃがみ込んで真っ赤な花をそっと撫でた。
「……なあ、小町。赤いチューリップの花言葉、知ってる?」
風が吹いて花が揺れている。「それくらい私でも知ってるよ」とでも言うかのように、得意げに。




