6.空師・遼灯2
指された指の前で、千璃は開けたままだった口を急いで閉じた。そして、誰か、と思い、階下に続く階段のある方に体をひねり、一瞬に渦巻いた数々の考えに思い止まる。
一日の中で最も寛いでいる、夜食後の自由時間を騒ぎにつぶさせるのは気が引けた。すでに充分騒ぎの中心となっている自覚もまた、叫び声を上げるのを阻ませる。
そもそも自分のような大勢口の舞子のために、警士を動かすなど大それている。くるりと振り向いた千璃は、自分だけでなんとかしなくては、と悲愴な決意に満ちていた。
「怪しくない……ん、でしょ?」
遼灯はうんと肯く。瞳がおもしろそうな色に輝いた。
「あなた、妖怪?」
だったら怪しいだろう、と少年は笑い出す。ぺたりと畳に座り込み、
「怪しい奴だったら、なおのこと、自分で怪しいとは言わないだろ。妙に落ち着いている娘だなぁ。俺の人徳かもだけど」
「人徳? 人ね?」
「そこにとびつかないでいただきたい」
なぜなのか自慢するように胸を張り、また笑いこぼした。顔中で笑う楽しそうな様子は、悪いものとは思えなかった。あるのは、決して尋常ではない怪しさを吹き払う、ただ笑顔だ。
「夜半に邪魔して悪い。けどちょっといい?」
遼灯は大きく手を伸ばし、目ざとく見つけた菓子をつまんだ。舞子の分際では祝事以外は出会えない練物を、置いてくれたのは夏庭の温情だろう。
千璃が見るだけで手をつけずにいたそれを口に入れ、少年は指をなめながら言う。
「千璃が王城に上がるのを躊躇うのって、理由とかあんの? それともちょっとした恐怖ってところ?」
「な――」
言葉が続かなかった。どうしてそんなことを知っているのだ。この少年。
「新しい場所に行く恐怖、とか。選ばなければこの園に残っていられるんだろ? 旦那がついたとしたって、結局は久蒔の庇護の下だもんな。聞けば結納とやらを済ませたその旦那ってやつにも会ったことなんてないって話だし、恋とか引き裂かれるわけじゃないってなら、そんなところかなって考えた」
さらに一つを口に放り込み、真っ直ぐに千璃を見る。
「違った?」
「どうして……」
「ちょっと考えたらわかることだ。返事が遅いのはなんなんだ、とね」
「遅……遅かったっ?」
いつまでと久蒔は期限を切らなかったものの、王への返事ならば早い方がよいのだと、今思い当たる。もう三日目の夜。千璃は思わず身を乗り出していた。考え及ばぬほど大きなものに、反してしまったのかもしれない。
「あぁ、いいいい。気にすんな」
遼灯は首も手も大きく振って、
「面倒くさい。だから召し上げてしまえと言ったのに。選ばせるのってさぁ、ある意味千璃にも残酷だよね。まぁ自分にはもっと酷なんだけどさ。なんだってこんな自虐的な、ってま、わかるんだけどさ、やりたいことは。あぁいや、わっかんねぇか。あいつの考えおかしいからな」
あいつと、それは王を指して言っているのだ。だとしたなら、少年がどこから来たのか、さほど考えなくても千璃にもわかった。
「遼灯は……王城から来たの?」
「うん。どーにも話が進まないからさ、俺が様子伺いに来たわけ。まぁ黙ってだけど。報告とかもしないけど。最悪、園主がもみ消してる可能性だってあるなと思ったし。俺は千璃に会ってみたかったし」
会ってみたかった。
その意外な言葉に目をみはる。もうひとつの疑問、王をあいつ呼ばわりしていることについては、とりあえずは後に回された。
「どうして?」
「まぁ、嫁が欲しいなんて言い出したのは、初めてのことだったからかなぁ」
「そ、そうなの?」
「うん。即位して十余年、後宮は空っぽだ。国を立て直すのに、そんな余裕がなかったと言うやつもいるけど、そこはそれだと思うんだよな。遊び歩く時間がなかったわけじゃないし、女嫌いではないことだって、存分に明らか。ととと」
滑りました、と遼灯は舌を出す。さして悪びれもせず、むしろ乗り出して続ける。
「率直なとこ、千璃はどうなんだ? 迷うってことは、キライ? 面倒くさい? 喧しい? 決まっていた旦那の方がいい?」
「旦那さま」
千璃はぼんやりとつぶやいていた。遼灯の言うとおり会ったことはないので、思い浮かぶ顔はない。お役人で立派な人だと聞かされた。舞子の婚姻――契約には、それだけだって聞き過ぎだ。
「卓丞、だっけ。県の長官になった奴。飛ぶ鳥を落とす勢いの宋家の殿が、舞子を欲しがるか。頃合だな。千璃はそいつをスキになる?」
「スキとかキライとかではなくて……。あたしたちはお話を受け入れるのよ。そういうことに、決まっているの」
年頃となれば舞子は、後見を持つのが常である。たいていは十五、六。条件を充たす者からの申し入れを受け、奏園主以下役女たちの合議により決定が成される。
相応しき格を持つ者か、分のある家か。舞は聖別された式である、が故、なにより人格を重んじた裁定が下されていた。一部誤った風説も飛ぶが、決して財に左右されるものではない。
一般には後見と識され、暗には婚姻と言い換えられるものだ。舞子はその後も奏園を出るわけではなく、園での生活を続けながら、特に後見の家の安泰を祈り、舞う。祝事があれば出向くこともあった。
「旦那さま」と共にその「家」の守護を担うのだ。
舞子を手に入れることの意味――奏園がその者の格を認めたということ――は、広く巷間に知れ渡っている。己の力量験し、あるいは家の威信をかけて志願者は後を絶たない。
上層の決断は舞子の意思に量るものではなかったが、申し入れ側は希望を添えることができた。祝事の際に垣間見る舞子たちから、見初めることができる、というわけだ。
卓丞の場合はそれをしていない。すべてを奏園に委ねた名乗り上げだった。




