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5.空師・遼灯


 夕刻から濃厚な雨の匂いが満ちていたが、漆黒の闇の中、やっと空が破けた。屋根や草の葉を打つ音が、ぱらぱらと大きい。重たい滴が落ちているのだろう。


 千璃は目をぼんやりと音のする方に向け、すぐに視線を落とした。そうすると、力なく放り出したような自分の手が見える。


 まるで、萎れた花みたい。


 千璃は思い、薄く笑った。その手はそんな、生気のない花を出すこともする。思えば情けなく嗤ってしまうよりなかった。


 どこでだって舞える。

 晴れ晴れと言った琉衣は輝きに満ち、千璃はその光に中てられていた。


 真実琉衣は、きっとどこででも舞うだろう。舞賜になろうとなるまいと、琉衣には大したことではないのだ。共に大きくなり、ずっと横でその夢を見てきたと思っていた。


 けれど琉衣にとって大切なのは、ただ自分が舞うということ、舞賜になることに付随する栄光なのではなく、その地位に達した者が得るのであろう舞の深奥であったのだ。


 薄い。そう思った。目に映しているものが薄い、浅いとも言える。修行に身を置きながら、華やかな表舞台しか見えずにいるとは。こんな自分にいったいなにを――、王はなにを言っているのだろう。


 わからないわからない。千璃は左右に首を振った。人違い。これはあながち外してはいないのかもしれない。だいたい会ったこともないのだから。


 ……お会いしたこともない、だ。敬う言葉で言い直し、ぼんやりと視線を泳がす。なにか、酔狂な遊びででもあるのかもしれない。


 その考えはしっくりと落ち着くようだ。なにがおもしろいのかはわからないが、上の方々の考えることはたぶん自分などには及ばぬことなのだろう。


 前代未聞、と柴瑛(しえい)は言った。それは稽古の後、皆が広堂に集まり、思い思いに休んでいたときのことだ。


「高貴な方々のお戯れよ。きっと賽でも転がしてお決めになったのね。王が舞子を召されるだなんて聞いたことがないわ。舞賜なら歴史が語るけれど」


 言葉を変えて念を押す紫瑛は、ちらりと千璃に視線を投げた。決して不仲ではない舞子同士だったのに書状が届いてからというもの、紫瑛は千璃に当たりが厳しい。

 そしてそれは紫瑛に限らず、一緒に哂う者は一人や二人ではなかった。


 膝を立て立ち上がりかけた琉衣の腕を押さえ、千璃は首を振った。言われていることは間違ってはいないと思えたし、騒ぎを起こすのは嫌だというよりは、怖かった。


 今でも充分に空気が痛い。これ以上は、という思いがある。元来人と揉めることのない娘であったが、経験したことのない周囲のざわめきはいつもに増して千璃を萎縮させていた。


 琉衣は歯噛みしながら姿勢を戻す。言われっぱなしは性に合わないが、当人が止めるものを始めるわけにはいかない。

 けれど弱々しくも笑ってみせる千璃を見れば、辺り構わず暴れてしまいたい気持ちになって堪らない。せめて皮肉の一つでもと、ぴりりと気の利いた言葉を捜しかけたとき――


「莫迦ね」


 その声に広堂は水を打ったように静まり返った。脇息にしどけなく凭れ、伽南は寧ろ楽しげに笑んでいた。

 決して大きくはない声なのに、誰もがそちらを注視している。それが舞賜の迫力だ。張りのある声が続けて言う。


「責ある身の上でそんな真似をするような間抜けの政を、私たちは支えていると言うの? なら私は一差し舞うのも御免だわね。千璃、」


 来なさい、と伽南は空いているほうの手を振った。皆の注目の中、千璃はぎこちなく歩き首座に寄る。もっともっとと招かれて顔を近づけた千璃の耳に、伽南は秘密めかして囁いた。


「これはね千璃、本気よ」


 そして香の銘を教えてくれた。


 山笑う。

 それは春を意味しているのだとまで。


――なぜだか伽南のその笑顔に併せ、真摯にと、久蒔の言葉が圧しかかる。誰かの言葉に従うことは、そうとは言わないのだろうと苦く思う。楽をしてはいけない。逃げてはならない。自分の気持ちで決めること。


 どうしてこんなことに――


「相当ふかぁくお悩みの様子だな」


 あふれる涙を拭う力もなく、寝台にもたれていた千璃は、突然の声にわずかに身を引き、小さく叫んだ。ここは誰も居ないはずの棟。


 久蒔は王令を負った千璃に静かな場所を与えていた。喧しい娘たちの中に居ては考えられるわけもない、と状態はほぼ隔離に近い。


「だっ――誰っ?」

「名前? 何者? ってこと? 何が知りたい」


 低くなりきっていない声は、少年のものだ。きし、と、窓傍の木柵が鳴った。そこに座しこちらを見ていると、感じる。枕辺に置かれた灯は弱く、窓辺までは届かなかった。


「名前なら遼灯(はるひ)。身分はないに等しい。使われ者だな、しがなくも」


 笑いを含んだ声が、大人びたことを。きしり、と再び柵が鳴り、続いてとん、と床が鳴った。


「はる……はるひ?」

「そ」


 ぺたぺたと裸足が畳を踏み、影が近づいてきた。千璃は微動だにせず、待つだけだ。やがて光の中に現れた姿は、年の頃なら十三か四、間違いなく少年であった。


 怯んだ千璃の様子にはまるで構わない。つかみ取った白紙に、さらさらとなにやら書いてみせる。


「こういう字を書く」


 つき出されて、反射的に受け取った。手の中で持て余す。大きく書かれた黒い文字が、灯火に揺れて見える。黙っていることが不安となりそうで、千璃は急いで言った。


「あたしは」


「千璃。知ってる。おまえに会いに来たんだから。名前とか名乗ろうとすんなよ。窓だぜ、これ? そんなとっから入ってきた怪しい奴相手に、なんで名とか名乗るんだ。俺は怪しくないからいーんだけどさ。てさぁ、ぽかんとかしてないでヒトを呼ぶとかしないわけ?」

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