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2.奏園の主・久慈の部屋――夜2

「まったく」


 声を聞き、千璃は跳び上がりたい気持ちを抑え、鼓動に跳ねる胸を押さえた。格子の向こうから雨の匂いが寄せている。久蒔は再び黙考に落ちた。


 明日にはやむのかしらと、千璃はこの場からすれば余計なことを考えた。なんでも良かったのだと思う。まるですがるように。なにしろ、自分がなぜここに呼ばれているのか、それからしてわからないのだ。


 舞子ばかりで明日の奉納舞の練習をしていた千璃を、夏庭(かてい)が指で呼んだ。すでに舞士舞師たち――順に舞子より上位のものを言う――は去り、楽師も半分以上が引き上げていた舞所。


 途切れがちな奏の中で、皆に足をそろえるべく奮闘していた千璃が朱布を外れ板の間に下りると、夏庭はその手をしっかりと掴み、何も言わずにこの場まで連れてきたのだった。


 夏庭は園主直付の女人で、厳しい顔の園主とは対照的に、そのふくよかな頬に笑顔を絶やさない、はず。その夏庭が見せた顰めた眉は、千璃を怯えさせるに充分だった。


 理由は見つからない。何をしただろうか、とまた考える。本当は考えたくないので、腰が引けている。家事はさぼっていない、当番も手を抜いた覚えはない、舞はと言うなら、群舞では遅れることもある。


 が、それならば稽古中に言えば良いことだ。と言うのなら他のどんな理由でも、その場で言えば良いだけだ。部屋に呼ばれるなど、あのお申し出の話以来――


 はた、と気付く。

 そうか。旦那様が何か……。


 ぐ、と膝の上で拳を固めた千璃の前に、ぱさりと書状が放られた。


 音を立てて畳の上に落ちた巻紙からは、はんなりと良い香りがのぼる。芳香は優しくやわらかく、不快さがまったくない。


 では高貴なものだろうと、千璃は思った。心地よさを生むのが香の役目なのだと、教わったことをそのままに単純に。


「読んで差し上げるんだね。その上で、おまえがお決め」

「え。あの、これ?」


 およそ自分とは関係のないもののように思えるのは、種類に関わらずこれまで文などもらったことがないせいでもあるかもしれない。手を出すことはできずに、膝の上で握りしめる。


「何を、決めれば……あたし――が?」


 読めばわかるがね、と久蒔はため息混じりに言う。そしてふと上げた顔の、表情を変えた。厄介な事態とはいえ、千璃にはなんの責もない。

 小さな声を立てる彼女の舞子は、すっかり萎縮し見るに哀れだ。大人気のない真似をした。それもまた腹立たしい。


 すべての責任は書状を寄越した人間にある。なにもかもを併せ、いずれは相応に支払っていただかなくては。


「実はもう一人求婚の名乗りをあげた方がいてね。おまえに」

「……え、でも……」


「そうだね。結納まで済ませたのだから婚儀は成立も同然、他の人間の入る余地などないはずだ。でも例外がある。その方の御身分が、初めの人間よりも高い場合」


 千璃は頷く。何を理解したわけでもなかったが、以外の反応は出てこない。


「王がね」


 ため息が挟まった。


「おまえを妃に迎えたいと仰っておられる」

「王――? え?」


「おまえが嫌なら諦めるそうだよ。言っていることはわかるね? 千璃」

「あの……おかあさん」


「相手が王となれば、卓丞さまも諦めるだろうけれど、なんにしても、手配が面倒なこった」


「おかあさん。あたしは」


 いったい、なにを言われているのか。言葉はぴしゃりと鳴った扇子に封じられた。久蒔が常に手放さない、長く見慣れたものである。


「自分で考えてお決め。王令には真摯に従うものさ」

「……はい、おかあさん……」


 なおもすがるような視線をよこす千璃を、久蒔は手をひとつ振って下がらせた。


 合わせられた後もしばしの間、戸から視線を離さない。足音が廊下の闇に消えた頃、やっとため息とともに体勢を崩した。


「長く生きていると、妙なことに出会うもんだね。良くも悪くも、あきれた話だよ。まったくねぇ」


 久蒔は煙管に手を伸ばし、幾度目かわからぬ大きな息をついた。


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