07 戸部も退職願を出せ!編
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【あらまし】
美浦市役所住民課の丹沢純也は、ボートレーサー速水爽香の転入届を受理した。数日後、市役所から爽香宛に郵便を送付すると『あて所に尋ねあたりません』と戻ってきた。
住民課長「虚偽の転入届を受付した責任を取って退職願を出せ!」
丹沢「速水爽香が住んで居なかったら、退職願を出します」
丹沢は速水爽香が住所登録した共同住宅『ハッピーハイツ203号室』へ現地調査をしに行くが、表札も無ければ本人の姿も無かった。
しかし、同期入所の税務課由利源吾のお陰でボートレースに出場している爽香を発見した。そのことを課長に報告すると、
課長「ボートレース場に居たからと言って『美浦市美女来9丁目』に住んでいるとは限らんだろう」
課長「速水爽香の部屋に行って、もし、速水爽香が居なかったら戸部、お前も同罪で退職願を出してもらうからな!」と、言い出した。
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【登場人物】
速水爽香(はやみ・さやか) 20歳女 新人ボートレーサー 福島県から引っ越して来た
若石元気(わかいし・げんき) 26歳男 戸籍担当、若手職員 若さがあり強気の青年
丹沢純也(たんざわ・じゅんや)30歳男 窓口担当、中堅職員 主人公、単純な人間
明石春菜(あかし・ はるな) 34歳女 窓口担当、中堅職員 面白い所がある
天満稔江(てんま・ としえ) 37歳女 庶務担当、ベテラン 天然の所がある
戸部考一(とべ ・こういち) 40歳男 戸籍担当、ベテラン 経験豊富で思慮深い
君本早苗(きみもと・さなえ) 40歳女 郵送担当、ベテラン 仕事に精通している
鬼塚厳司(おにづか・げんじ) 55歳男 住民課長 職員を減らそうとしている
公家民夫(くげ ・ たみお) 40歳男 美浦市美女来公民館職員
市原和子(いちはら・かずこ) 70歳女 ハッピーハイツ、速水爽香の隣の住人
ボートレース場管理者
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【前書き】
●この小説には多くの数字が出てきます。そこで読者の皆様が読み易いように横書きとなっております
●多人数での会話も多いことから、誰が話しているのか、すぐにわかるよう会話の頭に台本形式で、氏または名を付けて表現しました
●この物語はフィクションです。実在の個人・団体、実際のレースとは一切関係ありません。ボートレーサーと市役所職員をモデルに、フィクションとして制作されたものです
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【01】 戸部、お前も退職願を出してもらうよ!
月曜日の朝、美浦市役所住民課。
丹沢が住民課長、課長の席へ歩み寄った。丹沢はこれで課長の鼻を明かせると思い、強気に言った。
丹沢「速水爽香が見つかりました!」
課長「速水爽香は、どこにいたんだ」
丹沢「『ボートレース戸田』に居ました」
課長「『ボートレース戸田』で見たのか?」
丹沢「はい、そうです」
課長「速水爽香はボートレース場を歩いていたのか?」
丹沢「いえ」
課長「じゃぁ、何をしていたんだ?」
丹沢「ボートレースの選手でした」
課長「嘘言うんじゃない」
丹沢「本当なんです。この目で見たんです」
課長「辞めたくないからって、とうとうそんな嘘までつくようになったんだ。この大馬鹿者めが!!」
丹沢は自席に戻ると、机の引き出しから日曜日のボートレース専門紙を手に取り、再び課長の席へと歩み寄った。
丹沢「これを見てください! これが証拠です!」
課長は、ゆっくりとボートレース専門紙に目をやった。
課長「なるほど、お前の言うとおり『速水爽香』と書いてあるな」
丹沢の口元が少し緩んだ。
課長「しかし丹沢、お前は面白いことを言うな。そんなことをわざわざ私に言いに来るから、お前は仕事が出来ないと言うんだよ」
丹沢「えっ、なんでですか?」
課長「このボートレース専門紙のどこに速水爽香の住所が書いてあるんだ?」
課長が机を軽く叩きながら言った。
課長「えっ! いったいどこに、速水爽香の住所が書いてあるんだよ?」
「バン!!!」
課長が思いっ切り机を叩いた。その音が住民課中に響き渡った。
丹沢「……」
課長「『美女来9丁目』だと、どこに書いてあるんだよ!!」
課長が、すごい迫力で丹沢に迫った。
丹沢が一歩後ろへたじろいだ。
住民課内がシーンとなった。
丹沢も返す言葉がなかった。
課長「ボートレースひと開催に、選手は何人来るんだ?」
丹沢「わかりません」
課長「馬鹿か!」
「バン!」課長が机を叩いた。
課長「そんなこともわからないで報告に来るのか? バカヤロー!」
「バン!」課長が机をなお一層強く叩いた。
二人の所に戸部考一が歩いてきた。そして課長に言った。
戸部「ひと開催でボートレーサーは、50人近く来ます」
課長「じゃぁその50人の住所ってどこなんだ?」
丹沢「……」
課長「住所が書いてない者は全員、ハッピーハイツに住んでいるのか?」
丹沢「……」
返す言葉がなかった。
丹沢(課長の言うとおりだ。自分の考えが浅はかだった)
丹沢は黙って下を向いた。
課長「いいか、聞いてるのか? 速水爽香が『美女来9丁目』に住んでいると言うのなら、今すぐ本人を ここに連れてきて、一緒に部屋まで行って、速水爽香が部屋の鍵を開けて中に入り、そこに速水爽香の家財道具があれば認めてやる。それが出来ないのであれば、お前はもう明日から来なくていい。明日から月末の退職日まで欠勤扱いにしてやる」
丹沢は黙って聞いていた。丹沢の頭の中が真っ白になっていた。この真剣勝負に勝ったつもりが、負けてしまったのだった。
そして丹沢は、競艇事務局に電話したことを思い出していた。
(自分がボートレース場で電話した時に、事務局職員が『速水爽香は開催期間中、当宿舎に寝泊まりはしておりますが、』と話していた。だからハッピーハイツの部屋に明かりはつかなかったんだ。しかし、それだけで爽香の自宅がハッピーハイツだという証拠はどこにもない。自分の勝手な思い込みだったのだ)
課長席の前で、丹沢と課長のやりとりを聞いていた戸部がふと思いついた。
戸部「もし、これから速水爽香の部屋に行って速水爽香が居たら課長が預かっている丹沢さんの退職願を破り捨ててもらえますか?」
課長は、丹沢が持ってきたボートレース専門紙を見ながら、
課長(こいつも丹沢と一緒で馬鹿な奴だ。私も昔は散々ボートレース場に足を運んでいたんだよ。今開催のボートレースは、木曜が初日で、火曜日が最終日。開催中に速水爽香が部屋に帰って来る訳がない。ボートレースファンなら常識だ)
課長「いいだろう、今持っている丹沢の退職願を破り捨ててやる。その代わり速水爽香の部屋に行って、もし、速水爽香が居なかったら戸部、お前も同罪で退職願を出してもらうからな!」
戸部「わかりました」
それを聞いていた君本早苗が駆け寄ってきた。
早苗「そんなの約束しちゃダメ! 第一、戸部さんが辞める理由なんてなんにもないのよ。たとえ仕事でミスをしたって退職にはならないのよ。重大な法律違反でもしない限り、市長は、あたしたちをクビにはできないのよ。私たちは民間の会社員と違って失業保険をかけてないから、辞めたら生活できないわ。失業保険がないというのは、それは身分が保証されてるってことなのよ。まして、たかが課長ひとりで職員の進退を決められる訳がないでしょう?!」
「バン!!」課長が机をたたいた。
課長「『たかが』だと! お前もクビになりたいのか!」
今度は、君本早苗を大声で怒鳴りつけた。
課長の脳裏には、4月の全体課長会議で市長が言った言葉が刻まれていた。
全体課長会議とは、市役所全部で約50の課の課長が一堂に会し、市長からの指示、また各課の重大問題などを話し合う場である。
市長「経費節減のため、職員の残業は出来る限りなくすこと。不要な職員には辞めてもらうこと。こちらから辞めさせることは法律上できないから退職願を出させるよう誘導すること。この結果を踏まえて次回の人事異動を行いたいと考えていますので、各自頭の片隅に入れておくように……」
課長は席を外し、どこかへ行ってしまった。丹沢純也は受付窓口に戻った。君本早苗は自席に戻った。早苗の机と同じ島には戸部考一、若石元気、天満稔江が居る。
早苗「戸部さん辞めないでね」
戸部「辞めないつもりではいるが、どうなることか……?」
若石「あの課長、どうしょうもないですね」
戸部「うん、でもあまり言わない方がいいかな。課長にベッタリの職員もその辺に居るから」
戸部があたりに目をやりながら言った。
早苗「そうね」
若石「それにしても嫌な奴だ。聞いているだけで腹が立つ」
戸部「これこれ」
早苗「まぁ、課長には近づかないことね。あの人危険だから」
そう言いながらも早苗は仲間のために、危険を冒して課長に近づいたのだった。
稔江「若石さん、」
若石「はい?」
稔江「戸部さんは戸籍のスペシャリストだけれど、課長は市役所のスペシャリスクなんですよ」
戸部「ははははは」
早苗「ははははは」
若石「ははははは」
一瞬だが、天満稔江の一言で島の4人がなごんだのだった。
【02】 くそっ、なんで居ないんだよ、頼む、居てくれ!
課長が戻って来た。
課長「戸部、丹沢、行くぞ!」
早苗「二人とも課長に心して(こころして)行くのよ」
稔江「えっ! 課長を殺して(ころして)行くの?」
戸部「ははははは」
丹沢「ははははは」
早苗「ははははは」
若石「ははははは」
課長「何、笑っているんだ! バカモンが!」
美浦市役所から課長と丹沢と戸部を載せた公用車が、速水爽香の住民登録のある共同住宅へと向かった。車中3人は口を開くこともなく、黙ったままで、車内は険悪な雰囲気が漂っていた。
やがて車は共同住宅「ハッピーハイツ」の前に着いた。3人は車から降りた。丹沢、課長、戸部の順に建物の階段を上った。203号室速水爽香の部屋の前に3人は立った。
時計が9時半を指していた。
丹沢がドアをノックした。そしてしばらく待ったが、誰も出て来なかった。隣の部屋のおばさんが、自分の部屋のドアと勘違いしたのか、窓を15cmほど開けて外の様子を覗い、自分の部屋でないとわかるとすぐに窓は閉められた。
課長(まったくバカな奴らめ。ボートレースに出場している選手が、自宅に居る訳がないだろう。だから、こういうバカ連中は、辞めさせるしかないんだ。市長の方針でもあるし、二人が辞めれば、私も次は次長だな)
課長がニヤリと笑った。丹沢と戸部の表情が曇った。
丹沢(居る訳がないよなぁ。ボートレースの開催中だもんな)
戸部(くそっ、なんで居ないないんだよ、頼む、居てくれ!!!)
課長(いくら待ったって、居ないものは居ないんだよ。ふっふっふ)
丹沢(私だけ退職ならまだしも戸部さんまで退職になってしまうのは心苦しいな、なんとかならないのかなぁ?)
課長「もうこれ以上待っても同じさ。住んでないものは住んでないんだよ。さぁ帰るぞ!」
戸部「あと10分だけ、あと10分だけ待ってもらえませんか?」
戸部が深く頭を下げて住民課長に頼み込んだ。
課長「ダメだ。こんなに長時間職場を空けている余裕はないんだからな。さぁ行くぞ!」
丹沢が電力メーターのアルミニウムの円盤を横目で見た。前回と同じように動いていたが、その動きはやはり遅かった。
丹沢(状況は同じだ。留守だな)
丹沢「はい、帰ります」
戸部は、まだ爽香が部屋に居ると信じ、ドアの前に立っていた。
課長と丹沢は、そこを立ち去り階段を下りて行った。戸部は帰り際、もう一度ドアを強くノックした。
「ドドドドドン!!」それは憤りを示すような叩き方だった。
そして、そのまま返事を待たずに2人の後を追って行った。
3人が共同住宅ハッピーハイツの階段を降り、階下に停めてあった公用車に向かった。
戸部
丹沢(戸部さんに悪いことをした。私がしっかりしていれば戸部さんまで巻き込まずに済んだのに……)
丹沢はうなだれた。
3人が車に乗ろうとしたときだった。
「ガチャ!」
音がした。2階でドアの開く音だった。その瞬間3人が一斉に2階を見上げた。
課長「うん?」
丹沢(ひょっとして?)
丹沢も敏感にその音に反応した。見上げると203号室のドアが10センチmほど開いていた。すぐさま丹沢が物凄いスピードで駆け出し、2階へと上がっていった。課長と戸部は公用車のドアの前で立ち止まったまま2階の様子を眺めていた。
ドアの隙間から
丹沢「美浦市役所住民課の丹沢と申します」
声を掛けた。
ドアがゆっくりと開き、中から化粧もせず泣きはらした顔の速水爽香が顔を覗かせた。
階下で
戸部「居た!!!」
感動の声を上げた。
課長「そんなバカな!!!」
課長は動揺の色を隠せなかった。
丹沢「速水爽香さんですよね!」
爽香「はい」
丹沢「ご本人さんで、間違いないですよね」
爽香は、丹沢の胸についている名札を見ながら
爽香「はい。あ、あのときの住民課の職員さんですね」
そのやりとりが階下の二人の耳に聞こえた。
課長「なんで居るんだ? まだボートレース開催中だぞ」
戸部「『即日帰郷』ですよ」
課長「『即日帰郷』? なんだ、それ?」
ボートレースファンでも『即日帰郷』など、細かいルールを知る者は少なかった。
戸部「昨日の日曜日に、速水選手は落水したボートの外側を走行しなければいけないところを、内側を走行するという『走行違反』を犯したのです。だからその日のうちにボートレース場の宿舎を出されたのです」
課長「そんな馬鹿な!」
戸部「ボートレースのルールですから」
課長「帰るぞ!!」
課長が不機嫌に言った。
戸部「丹沢さんは?」
課長「置いていけ!」
戸部「えっ!」
課長「もうわかったから、車を出せ!」
戸部「じゃぁ退職届は破り捨ててくれるんですね」
課長「『わかった』と言っているだろ! しつこいな!」
戸部「すみません」
戸部は、そう言いながら微笑んだ。
課長「私は10時から会議なんだ、あいつを置いて帰るぞ!」
戸部「はい!」
そして戸部は2階に居る丹沢に向かって叫んだ。
戸部「すべて解決した。先に帰るからゆっくり戻って来ていいぞ」
そう言うと、丹沢の返事を待たずに戸部と課長の二人は車で先に美浦市役所へと帰って行った。帰りの車内、戸部と課長が口を利くことはなかった。戸部にとってはそれが何より心地よかった。戸部は運転しながら、昨夜の一連の経過を思い返していた。
【回想の始まり】
日曜日の昼、戸部の携帯電話が鳴った。丹沢からだった。
丹沢「ついに速水爽香を発見しました!」
戸部「えっ、そりゃすごい! やったな!」
丹沢「速水爽香は、ボートレーサーでした。今『ボートレース戸田』に出場しています」
戸部「良かった! 良かった!」
日曜日の夜、戸部の同僚で美女来公民館に勤務する公家民夫(くげ・たみお・40歳)から電話があった。
公家「前に頼まれていた件だが、ハッピーハイツの203号室、電気がついていたぞ!」
戸部「えっ、本当か!」
公家「間違いない。203号室だ。部屋も確認した」
戸部「そうか、」
公家「なんだ、電気がついたというのに元気がないな」
戸部(速水爽香がボートレーサーと知らずに、公家に部屋の電気が点くかどうか頼んだが、競艇開催中に、なぜ部屋の灯りが点くんだ? 親が来ているのか?)
戸部「いや、なんでもない。ありがとう、本当にありがとう。感謝している」
公家「お前の頼みだからな」
戸部「やっぱり持つべきものは仲間だな」
公家「今度、その仲間に飲ませてくれよ、お前のおごりで」
戸部「吐くまで飲ませてやるから」
公家「ははははは」
戸部「ははははは」
電話を切った。
電話を切ってからも、
戸部(なんでボートレース開催中なのに爽香の部屋の電気がつくんだ?)
疑問が湧いた。戸部は、しばらく考え込んだ。
戸部(うーん。わからない)
そのまま戸部は風呂に入った。
風呂場で、
戸部(そうか! ひょっとして、)
戸部は、裸で浴槽から飛び出し、バスタオルを腰に巻きパソコンの前に座った。『ボートレース戸田』のホームページを開き、急いで明日の出走表を見た。
戸部(これだ!)
出走表の『お知らせ』欄に『速水爽香、即日帰郷』とあるのを発見した。
戸部(ボートレースの規定で、ちょっと考えられないようなミスを犯したときは、違反した当日、選手に『即日帰郷』を言い渡すんだよな)
戸部(ははははは)
戸部(いったい、どんな違反をしたんだ。レースリプレイをパソコンで見てみるか)
戸部(私も20代はボートレースをよくやっていたからなぁ。そのときの知識が役に立つとは)
戸部が速水爽香の出た第2レースをリプレイで見始めた。
戸部「ははははは。そうかぁ~!!!)
パソコンには、速水爽香が事故艇の内側を走るシーンが映っていた。
【回想の終わり】
話は少し戻り、2時間前。時計の針が、朝の7時半を指していた。速水爽香の部屋。
速水爽香は昨日からよく眠れないまま部屋に居た。昨日の自分の違反走行を思い出していた。そして、頭の中でボートを走らせている光景を蘇らせた。
爽香(最終第1ターンマーク。走りながらレスキュー艇は目に映ったが、救助のことは何も考えないままいつもどおり、あたしは本能で第1ターンマークに近い所を通過してしまったのよ。そう本能で)
爽香(通過した後も違反走行に気づかなかった自分。あのとき自分は何を考えて走っていたのだろう?)
爽香(そうだ! スタートで待機していたときに声援を受けたのだ。今までの開催で一度だって声援を受けたことがないのに、初めての声援!! いったい誰が、あたしに声援を送ってくれたのだろう? スタンドを見たが大勢の観客で誰が言ったのか、ハッキリとはわからなかった。気持ちがモヤモヤしながら、また最下位を走っていたのだ)
爽香(『また、最下位かぁ』と自分を責めながら走っていた時に、スタンドから『速水へたくそ! 金返せ!』『帰れ速水!』『水面のクズ!』『浮遊物、引っ込め!』の罵声が聞こえた。そんな自分にもう耐えきれなくなった。それで、指示灯の『外』(外側走行の意)のランプも見ないで走っちゃったのよ。もう、やんなっちゃう!)
レース終了後、爽香は管理者から『即日帰郷』を言い渡された。『即日帰郷』とは、レース中に重大な違反を犯した場合、その日に帰させられることを意味する。もちろん、翌日以降のレースには出られない。
管理者「速水君、ちょっと考えた方がいいんじゃないか。最下位を走っていて順位も変わる訳でないのに、レスキュー艇の内側を走るなんて普通の選手じゃ考えられないのだよ。おまけに今回の競走成績はすべて最下位。速水君、ボートレース選手だけが職業じゃないんだ、見切りをつけるなら早いうちだよ」
爽香「すみませんでした」
深々と頭を下げた。
それに追い打ちをかけるように、他のボートレーサーからも、
レーサー「成績は悪いし、ルールは守れない。辞めたらどう?」
爽香「考えてみます」
そう答えるしかなかった。宿舎の部屋に戻ると自分の荷物をまとめて宿舎を出た。ボートレース場の門を出た瞬間、涙が止めどなくあふれ出た。
(いったい何やってんだろう、あたし。ボートレース養成所に入ったときは、あんなに希望に満ちていたのに)
すれ違う人も驚くくらい爽香は肩を振るわせ、泣きながら歩いていた。しかし速水爽香は恥ずかしさも忘れて大声で泣きじゃくっていた。
今、自分の部屋で速水爽香は考えていた、これからどうしようかと。
爽香「実家に帰ろうかな、でも……」
爽香の口から自然とそんな言葉が口を突いて出た。
時計が朝の9時半を指していた。誰かがドアをノックする音が聞こえた。爽香が無視していると、しばらくしてまたドアをノックする音が聞こえた。今度は強い音だった。仕方なくウトウトしながら爽香がドアを開けると、そこに丹沢が立っていた。
丹沢「美浦市役所住民課の丹沢と申します」
丹沢「速水爽香さんですよね?」
爽香「はい」
丹沢「ご本人さんで間違いないですよね?」
爽香「はい。あっ、あの時の住民課の職員さん、」
その様子を見て、課長と戸部は、先に市役所に戻った。203号室のドアの所に丹沢は取り残されてしまった。
爽香「何かあったんですか? 」
少し前かがみで出てきた爽香の声はか細く、顔は青白かった。
丹沢(どうしたんだ? まるで幽霊のよう。病気? 具合でも悪いのか?)
丹沢「実は速水様の健康保険証を、郵便で送ったのですが戻ってしまったのです。それで速水様が実際に、この住所に住んでいるかどうかの確認にお伺いしたのです」
爽香「そうでしたか、わざわざすみませんでした」
丹沢がドアの表面を見ながら
丹沢「表札がついてないからきっと戻ってしまったのですね」
爽香「まだ表札をつけてないのです」
爽香が元気なく言った。
丹沢「郵便物の戻るといけないので、近いうちにドアのところに表札と、一階の郵便受けに名前を書いておいてください」
爽香「そうですね」
爽香が小さい声で返事した。
爽香はそう言うと、2歩ほど後ずさりした。丹沢もそれに合わせて2歩ほど中へ入った。ドアは開けられたままである。
丹沢「ところで、顔色が悪いようですが、どこか具合が悪いとか?」
爽香「……」
爽香は、しばらく黙っていた。
丹沢「そんなに、しゃべれないほどつらいんですね?」
丹沢が爽香の顔を覗き込んだ。
爽香は、その丹沢の顔を見て、ふと思い出した! ボートレース場の待機水面(スタート準備)で、自分に唯一声援を送ってくれた観客だと気が付いた。
爽香(この顔! スタンドであたしに叫んでいたわ! そうよ、この人よ!!!)
丹沢「お体、大丈夫ですか? ご病気ですか?」
爽香「……」
爽香の耳に『速水頑張れ!!!』の声が蘇り、聞こえて来た。
何度も何度も『速水頑張れ!!!』『速水頑張れ!!!』の声が爽香の耳に響き渡った。
丹沢の気遣いと、丹沢の声援が重なり、爽香の目にどんどん涙が溜まってきた。
丹沢「顔が真っ青ですよ。何も食べてないんですか?」
爽香「……」
自分が落ち込んでいる時の人のやさしさが、爽香の心に沁みた。爽香は涙が落ちるのをこらえていた。
丹沢「そこのコンビニでなにか温かい物でも買ってきましょうか?」
爽香「……」
爽香(もうダメ。それ以上やさしくしないで……)
丹沢「……」
爽香「泣いてもいい?」
爽香が声を絞り出して言った。
突然の申し出に驚きながらも丹沢は黙って頷いた。黙って頷くしかなかった。
丹沢(すべては流れるままに。すべては自然体で)
それが丹沢の生き方だった。
爽香「ウ、ウウウッ。ウワーッ、ウウウッ。ウウウッ、ウウウッ、ウ~~~」
爽香が大声で泣き出した。丹沢の胸に顔を押しつけて。
爽香は泣くのを我慢していた分、堰を切ったように周囲を気にせず泣いた。
爽香は泣き止まなかった。丹沢は強く背中を抱き寄せ、右手で爽香の背中をさすり始めた。
そんな時、隣の部屋から70歳くらいのおばさん(市原和子)が出てきた。
おばさん「なんだろうねぇ、この大きな泣き声は?」
おばさんは、爽香の部屋のドアが半開きになっていたのが気になり、開いたままのドアに首を入れ爽香の部屋を覗いた。
おばさん「あらまっ!! 昼間から抱き合っちゃって。女を泣かせて、まったく困った男だねぇ!」
おばさんはそう言うと、あきれて自分の部屋に戻って行った。
丹沢はドアを閉めたかったが、とても動ける状態ではなかった。
爽香はしばらく泣いていたが、隣のおばさんの言葉がきっかけで、爽香の気持ちがそっちへ行ったのか、やっと泣き止んだ。
そのタイミングを計って丹沢が言った。
丹沢「このままちょっと待っててください。私、コンビニで何か買ってきます」
と、言うと同時に丹沢は走り出した。
丹沢は近くのコンビニ『セマーソン』に着くと、適当に温かい食べ物と飲み物を買い、すぐに爽香の部屋へと戻って行った。
丹沢「これ食べてください、私はもう戻らないといけないので市役所に戻ります」
一方的にそう言って食べ物を床に置き、丹沢は市役所へ戻って行った。
【03】 一ヶ月の水道使用量が極端に少なくても暮らせた訳?
丹沢が速水爽香の部屋から市役所に戻って来た。車は課長と戸部が乗って帰ってしまったので、丹沢はひとりで、小一時間ほど歩いて帰って来た。市役所に着くと時計の針は、12時45分をさしていた。
丹沢「ただ今戻りました」
早苗「お帰り」
課長を含め半数以上の職員がお昼で居なかった。ただ、カウンターの受付窓口には、交代で職員が残っていた。
戸部の島(事務机の集合体)では、いつもどおり、戸部考一と君本早苗が、食事だけ済ませて自席に戻って来ていた。
戸部「やっぱり速水爽香は居たな」
戸部が珍しくニヤニヤしながら言った。
丹沢「ええ、皆さんのお陰で、私の首がつながりました」
早苗「良かったぁ」
戸部「私の首もつながったよ」
早苗「あたし、どうなるかと思って冷や冷やしたわよ」
戸部「そんなに心配してくれたんだ」
早苗「あたりまえでしょ」
本気でふくれていた。
戸部「すまなかった」
早苗「もう、いいわよ。丹沢さん、お昼は食べた?」
丹沢「はい、ハッピーハイツからの帰り道、コンビニでサンドイッチを買って、歩きながら食べました」
早苗「それじゃ、食べた気がしないわね」
丹沢「それは、ここに居る職員みんな同じでしょう。お互い様です」
早苗「そうね。民間企業も同様だし、日本人って欧米人と比べて勤勉よね」
丹沢「ええ、そう思います」
戸部「今日はまだ、食事が取れるだけいいよ。3月末から4月にかけては、昼抜きも多かったからなぁ」
早苗「そうそう、あの頃は、転入、転出者が多くて、昼食無しですものね」
丹沢「ところで、戸部先輩は、速水爽香が部屋に居ることを知っていたんですか?」
戸部「まぁな」
丹沢「どうやって知ったのですか?」
戸部「同期に入所した公家さん、今、美女来公民館に勤務しているんだ。それで公家さんに『通勤の帰りでいいから、ハッピーハイツの203号室の明かりがついているかどうかだけ見て欲しい』と頼んでおいたんだ。昨日、公家さんから電話があって、『明かりがついていた』って、連絡があったんだよ」
早苗「だから、あのバカ課長に『速水爽香が居なかったら戸部、お前も同罪で退職願を出してもらうよ』って言われても動じなかったのね」
丹沢「さすが戸部さんだ。根回しがいいですね」
早苗「あたし、心配して損しちゃったわ。どうしてくれるのよ」
戸部「随分心配かけちゃったな、ごめん」
丹沢「そうそう、水道メーターが、お風呂2、3回分の理由なんですが、」
そこに、ちょうど明石春菜が昼食から戻って来た。
春菜「そうよ、不思議よね。いくらなんでも女性がお風呂、月に2、3回なんてありえないじゃない? だって2週間にいっぺんのお風呂じゃ、男性にもてないでしょう?」
戸部「そこか、」
丹沢「速水さんは、ボートレースに出場していたときは、宿舎で風呂に入り、自宅で過ごすときは、美浦市スポーツセンターでランニングをし、シャワーを浴びて帰っていたそうです」
春菜「そうか、そんな手があったのね」
戸部「私も、そのお風呂の話があった後に、水道課のベテラン職員に聞いたんだけれど、」
春菜「水道課は、なんですって?」
戸部「本人名義で水道の契約をしていれば、まず間違いなく住んでいる、と言っていた」
春菜「どういうこと?」
戸部「ハッピーハイツ203号室の水道使用契約者を調べてもらったんだが、速水爽香になっていた」
春菜「なるほど、そこまではわかったわ。それで?」
戸部「だから、水道料金は、本人申請により速水爽香の口座から引き落としされる」
春菜「ふむふむ」
戸部「もし、ハッピーハイツ203号室に別の人が住んでいたとして、水道料金が速水爽香の銀行口座から引き落とされたら、速水さんが納得いかないだろう?」
春菜「あたしなら怒っちゃうわ」
戸部「だから部屋を出る人は必ず水道使用を解約していくそうだ。つまり、速水爽香は住んでいる、ってことだ」
それを聞いて、君本早苗が口を挟んだ。
早苗「ということは、水道課の水口さんは検針員に話を聞くのではなく、水道契約の担当者に話を聞けば良かったのね」
戸部「そういうことだね」
丹沢「そして課長は、水道課の水口さんに話を聞くのではなく、もっとベテランの職員に話を聞けば良かったんだ」
戸部「その通り」
ちょうど噂をしたところで、課長が昼食から戻って来るのが見えた。丹沢たちは、蜘蛛の子を散らすようにサッと解散した。
【04】 舟券を買ったのは、私があなたに勝って欲しいという夢なのです
その日の夜、丹沢は爽香のことが心配になって再度、速水爽香の部屋を訪ねた。仕事をしていても速水爽香のことが気になって気になって仕方なかったのだ。
丹沢は、速水爽香の部屋に着くと、すぐにドアをノックした。
一方爽香は、丹沢が帰った後、丹沢が買ってきてくれた温かい食べ物と飲み物を食べて寝た。そして、ちょうど起きた時にドアのノックが聞こえたのだった。
爽香はドアを開け、丹沢に気付くや否や、
爽香「昨日はゴメン、本当にごめんなさい」
爽香が丁寧に頭を下げた。
丹沢「えっ? 今朝じゃなくて昨日?」
爽香「うん」
丹沢「間違いじゃない? 昨日? なんのこと?」
丹沢はてっきり今朝、爽香が丹沢の胸に泣き埋もれた件だと思った。
爽香「昨日あたしの舟券買ってくれたんでしょう?」
丹沢「えっ! なんで知っているんですか?」
爽香「だって、あなた声援してくれてたもん」
丹沢「聞こえていたんですか?」
爽香「ええ」
丹沢「あなたを1着にして5点買いしましたから」
爽香「ばかねぇ、あたしの舟券を買うなんて。期待に応えられなくて本当にごめんなさい」
爽香が深々と頭を下げた
丹沢「いやいや、いいんです。そんな頭を下げないで、早く頭を上げてください。選手は6人も居るんだから、毎回あなたが1着になれる訳ないじゃないですか」
爽香「ごめんなさい、あなたに損をさせてしまって」
丹沢「これはギャンブルなんだから何とも思ってないです。すべて私の自己責任です」
爽香「そう言っていただいて……、すみません」
爽香が再度、頭を下げた
丹沢「だから謝らないでください。それより私の声援によく気がつきましたね」
爽香「もちろん」
丹沢「もちろん? でも全然気がついてないようでした。手も振り返してくれなかったし」
爽香「だって、ボートレースのルールで、一切外部の者と連絡をとってはいけないことになってるから。例えば手を振ることによって、それが外部への合図になることもありうるでしょう」
丹沢「えっ?」
爽香「例えば、手を振ったら『3着以内に入らないよ』とか」
丹沢「なるほど、そうか」
爽香「なぜ、あなたの声に気が付いたのかと言えば、」
丹沢「うんうん?」
爽香「毎回最下位の選手に、誰も応援なんかしませんからね。初めてだったのよ」
丹沢「私はあなたに期待してるんです。そして信頼もしてます。あなたに夢をかけています。あなたの舟券を買ったのは、私があなたに勝って欲しいという夢なのです」
爽香「勝って欲しいという夢…… 、そして信頼されている……」
無意識の内に、爽香が丹沢の言った言葉を口にしていた。
爽香にとって生まれて初めて、人から頼りにされる言葉だった。
爽香(こんなバカでなんの取り柄のないあたしに?)
丹沢「頑張ってくださいね、1着を取るところ見せてくださいね」
爽香(『頑張って』は私の嫌いな言葉なのに、この人が言うとなぜか励みになる。あぁ、また泣きそう……)
『夢』、爽香が忘れかけていた言葉だった。 一年前レーサー養成所へ入った時は、持っていたはずの『夢』を、今はどこかへ置いてきてしまっていた。
そして、昨日の管理者に怒られた言葉が思い浮かんだ。
『速水君、ボートレース選手だけが職業じゃないんだ、見切りをつけるなら早いうちだよ』
他のボートレーサーからは、
『成績は悪いし、ルールは守れないし、辞めたらどう?』と、言われた。
爽香の目に涙が溜まってきた。
丹沢「どうかした? 」
爽香は泣き始めた、また、丹沢の胸に顔をうずめて。
そして、5分ほど泣いて爽香は泣き止んだ。
丹沢「落ち着いた? 」
爽香「うん」
爽香が神妙にこっくりとうなずいた。
丹沢「よかった」
爽香「泣いてすっきりしたわ」
丹沢「どうしたの?」
爽香「だって……」
丹沢「『だって』なに?」
爽香「だって、あなたが『期待してる。信頼してる。あなたに夢をかけている』なんて言うんだもん。泣いちゃうわよ」
丹沢「……」
爽香「観客からは『水面のクズ!』とか『浮遊物』と言われ、他のレーサーからは『辞めたらどう?』と言われているのに、丹沢さんだけがあたしにやさしくしてくれるんだもん、そりゃぁ泣いちゃうわよ」
丹沢「そうか、そんなひどいことを言われたんだ」
爽香「うん」
丹沢「乳児や子供は、泣いてストレスを解消しているんでしょう? 女性がドラマを見て泣くのも同じ効果があるらしいじゃないですか。とにかく涙を流すのは、前を向くための手段のひとつだから泣いたらいい」
爽香「ありがとう。ごめんね、感情が抑えられなくなってしまって」
丹沢「いいんです。今の社会、こういうことが必要なんです。私も先週末は泣きたかったから」
丹沢は、住民課長に退職を迫られた時のことを思い出していた。
丹沢(戸部さんや仲間にも迷惑をかけたしな)
爽香「あなたも? 」
丹沢「それはもう毎日がつ……」
爽香「あたしだけじゃないのね、辛いのは」
丹沢「はい。私も辛いことだらけです」
爽香「自分の考えが甘くて情けなくなっちゃう」
丹沢「お互い様です。でもお互いにまだまだ、これからですから」
爽香「そうよね、あたし、まだ社会に出たばかりだものね」
爽香は自分に言い聞かせるつもりで言った。
丹沢「こんなこと言っては失礼ですが、生活費が足りないんじゃありません? 」
爽香「ええ、まぁ……」
丹沢「今回走ったボートレースの賞金というのはいつごろもらえるのですか? 」
爽香「賞金はもらえないの…… 」
爽香は小声だった。
丹沢「えっ! どうしてもらえないの? 違反したから? 賞金を没収されちゃったの?」
丹沢の口の利き方がタメグチになっていた。
爽香「丹沢さんは本当にボートレースを知らないのね。だからあたしを1着にして舟券を買うのよね。もし本当にボートレースに詳しい人なら私の舟券なんか絶対買わないものね」
爽香の目に涙が溜まった。
丹沢「それは、舟券を買うと言うより、夢です。あなたが勝つという夢を買ったんです」
爽香「……ボートレースの賞金というのはね、 1着から3着までの選手にしか出ないのよ」
丹沢「4着の選手は?」
爽香「4着も5着も6着も賞金は無し。だから毎回6着のあたしなんか、ちょっとうまくなったところで賞金にさえありつけないのよ」
丹沢「な、なんだ! じゃぁただ働きってこと?」
爽香「まぁ、そう言うことね」
丹沢「そんなぁ……」
実際には、多少の手当が出る。
爽香「4着5着でも賞金が出たら選手のやる気が出ないでしょ。なかには『なぁーんだ、5着でも賞金がもらえるのなら5着でいいや』とか『ただ走ればいいや』という考えの人も出てくるかも知れないもの」
丹沢「なるほど」
爽香「だから選手は必死なの、特に3着と4着では大違い」
丹沢「そうだよな、そこは、お金がもらえるかもらえないかの大きな差だよね」
爽香「でも、年功序列の会社と違って、本当に実力の世界だから若い人でも大金が手に入るという夢はあるわ。だけど、逆に全然勝てなかったら、辞めるしかない世界でもあるわ」
丹沢「厳しい世界なんだな」
爽香「そう、だから何が何でもあたし勝ちたいの! 勝てなかったら引退勧告されて辞めるしかないの」
丹沢「わかった。私にできることならなんでも手伝うから、なんでも言って」
爽香「ありがとう」
丹沢「ほんとだよ。速水さんが1着を取るためなら、なんでもするから」
爽香「うん」
【05】 爽香「この絵を10万円で買ってください」
丹沢はポケットから封筒を取り出し、爽香の前に差し出した。
丹沢「とりあえず10万円貸しますから賞金がもらえるようになったら少しずつ返してください」
丹沢はこんなこともあろうかと、昼間、市役所のATMから10万円をおろし、ポケットに入れておいたのだった。
爽香は一瞬動揺した。
爽香(借りていいものか、押し返した方がいいのか。見ず知らずの土地で、まだ二、三度しか会ってない人からお金を借りていいのだろうか? こんな事を知ったら母親はどう思うだろうか?)
爽香「あなたにそこまでしてもらう理由も無いし、」
爽香はそう言いながら、喉から手が出るほどそのお金が欲しかった。
丹沢「貯金はあるの?」
爽香「まったくないわ」
丹沢「ご両親から仕送りしてもらえるとか?」
爽香「それも無理ね。あたし片親だし、母はこの仕事に反対していたの。あたしは母親に『ひとりでやって行けるから』と言ってしまったし、母も自分の生活だけでギリギリなはずよ」
丹沢「それなら、なおさらこのお金を受け取って欲しいな」
そのとき爽香の頭に、故郷福島で近所に住んでいたおばあちゃんの顔がふと浮かんだ。
爽香(家を出る時、近所のおばあちゃんが風呂敷で包んだ物を、手提げ袋に入れてこっそりと私に持たせてくれたわ)
おばあちゃん「何かあったらこれを売ってね。加藤……(略)……」と。
爽香が美浦市の共同住宅の部屋に着いてその風呂敷をほどいたら一枚の絵が入っていた。そのことを今思い出した。
爽香「丹沢さん、ちょっと待っててね」
そう言うと爽香は部屋の奥から風呂敷で包まれた物を持ってきた。
爽香「これは、以前福島県に住んでいた時、近所のおばあちゃんからいただいた物なの。中身は一枚の絵で『加東萬曜』とかいう画家が描いたものらしいわ。この絵を10万円で買ったことにして」
丹沢「……」
爽香「あたしの今の実力では、ボートレースでいつ賞金がもらえるかわからないわ。だから、あなたからお金を借りても返せる訳がないし。この絵は、おばあちゃんが『何かあったらこれを売ってね』と言ってあたしがもらったものだから」
丹沢「……」
爽香「いつか賞金がいっぱいもらえるようになったら、この絵を買い戻すから。それまで持っていてくれない? もし、あたしがボートレースの世界から姿を消したら丹沢さんはその絵を売ってお金にして」
丹沢「よし、わかった。そうしよう、それがいい。その方があなたもレースに打ち込めるだろうし」
爽香「うん、いつか必ずその絵を買い戻せるように頑張るから」
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【後書き】
前回まで『6エピソード、読了時間:約174分(86,881文字)』(2025.12.22時点)と表示されていました。
最初から前回までを10回以上書き直しましたが、まだまだ未熟で直す所がたくさんあります。ですが、やり直しばかりではこれから先に進めません。やむを得ず次に進ませていただくことにしました。
ここまで読了時間が約3時間。読んでいただいた方には、『感謝』と『御礼』と『親愛』の気持ちでいっぱいでございます。本当にありがとうございました。m(__)m
皆さんの温かいご支援に報いるためにも書き続けていきたいと存じます。m(__)m
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