04 番号札531番、350人待ち?編
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【あらまし】
爽香のデビュー戦が終わった。
爽香が美浦市に引っ越してから2か月後、『転出証明書』を持って再度転居の届を出しに美浦市役所へ行った。そして今度は丹沢によって受理されたのだった。
後日、市役所から爽香宛に郵便を送付すると『あて所に尋ねあたりません』と戻ってきた。
住民課長の鬼塚は丹沢に向かって「虚偽の転入届を受付した責任を取って退職願を出せ!」と迫るのだった。
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【主な登場人物】
速水爽香(はやみ・さやか) 20歳女 新人ボートレーサー 福島県から引っ越して来た
森口歩み(もりぐち・あゆみ) 26歳女 国民健康保険課職員 ちゃっかり者
若石元気(わかいし・げんき) 26歳男 戸籍担当、若手職員 若さがあり強気の青年
丹沢純也(たんざわ・じゅんや)30歳男 窓口担当、中堅職員 主人公、単純な人間
明石春菜(あかし・はるな) 34歳女 窓口担当、中堅職員 面白い所がある
天満稔江(てんま・としえ) 37歳女 庶務担当、ベテラン 天然の所がある
戸部考一(とべ・こういち) 40歳男 戸籍担当、ベテラン 経験豊富で思慮深い
君本早苗(きみもと・さなえ) 40歳女 郵送担当、ベテラン 仕事に精通している
井手五郎(いで・ごろう) 50歳男 国民年金課長 面白いおじさん
鬼塚厳司(おにづか・げんじ) 55歳男 住民課長 恐いおじさん
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【前書き】
●この小説には多くの数字が出てきます。そこで読者の皆様が読み易いように横書きとなっております
●多人数での会話も多いことから、誰が話しているのか、すぐにわかるよう会話の頭に台本形式で、氏または名を付けて表現しました
●この物語はフィクションです。実在の個人・団体、実際のレースとは一切関係ありません。ボートレーサーと市役所職員をモデルに、フィクションとして制作されたものです
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【01】 番号札531番って、いったい何人待っているの?
美浦市役所住民課、丹沢純也と明石春菜が受付に並んで座っている。
速水爽香が「転出証明書」を持って市役所にやって来たのは、最初に来た時から2ヶ月が過ぎたある水曜日だった。
住民課職員の明石春菜が、いち早く爽香が来たことに気付いた。
春菜「あれっ、あのひと丹沢さんのケンカ相手じゃない?」
丹沢が入口の自動ドアから住民課へ向かって歩いて来る爽香を見た。顔は覚えていたが、爽香の名前も、何を話したかも忘れていた。
丹沢「187番でお待ちの方?」
丹沢は爽香ではなく、別のすでに待っている客を呼んだ。客は黄色い紙の申請書を持って丹沢の座っているカウンターにやって来た。
丹沢「住民票の申請ですね」
客「はい」
丹沢「申請書に、住所、氏名すべて記入済みと」
丹沢が記載されている内容を点検し始めた。
美浦市役所では、申請する内容によって申請書の紙の色が分かれていた。丹沢がその客と話している間に爽香は番号札を取った。「531番」だった。丹沢の隣に座っている春菜が、もうひとり待っていた客を呼んだ。
春菜「188番でお待ちの方」
ピンク色の戸籍謄本の申請書を持った客が春菜の居るカウンターへ向かった。
丹沢が187番の客を終え、次の客を呼んだ。
丹沢「531番の方?」
待合席に客は爽香だけだった。爽香は、なにやら丹沢の声は聞こえたものの立ち上がろうとしなかった。
丹沢「まいったなぁ、僕のことが気に入らないのか無視している」
隣で188番の客を終えた春菜が、
春菜「そんなことはないでしょう」
丹沢「彼女のやりそうなことだよ」
春菜「イヤホンで音楽でも聴いているんじゃないの?」
丹沢「いや、イヤホンはしてないな」
春菜「じゃぁ、私が呼んでみようか?」
丹沢「ああ頼むよ」
春菜「そこのお客様」
爽香の方へ向かって言った。
爽香が右手人差し指で自分の鼻を指した。
春菜「はい、あなたです」
それを聞いて、爽香がカウンターへ歩いて来た。
丹沢「やっぱり僕は嫌われているんだ」
春菜「そんなことはないと思うけれど」
爽香がカウンターの所に来た。
春菜「お客様は、こちらの職員が嫌いですか?」
丹沢の方を指し単刀直入に聞いた。
丹沢(えっ! そんな聞き方があるの?)
丹沢が露骨に、けげんな顔を見せた。
爽香「あぁ、この前の、……別に、嫌いじゃないですよ」
爽香は、今初めて、丹沢の存在に気付いた。
爽香「この前はどうも」
春菜「ほら、全然気付いてなかったでしょ。それに嫌いじゃないって。良かったわね。じゃぁ、任せるから」
春菜は書類の整理もあり、さっさと奥へと下がって行った。
時計の針は夕方5時を指していた。
丹沢「今『531番』でお呼びしたのですが気付きませんでした?」
爽香「なにか番号を言っているのはわかったのよ。でも、まだまだ私は呼ばれないだろうと思って、真剣に聞いてなかったわ」
丹沢「『まだまだ』って、待合い席にはお客様ひとりしか居ないんですよ」
爽香「でもさっきまで『187番』とか『188番』とか呼んでいたから。あたしは『531番』でしょ、まだまだだなと思って呼び出しを聞いてなかったのよ」
丹沢「じゃぁ、あと350番ぐらい後に呼ばれるのかなと思ったわけですか?」
爽香「うん、うん。うん、うん」
4回ほど頭を小さく縦に振った。
丹沢「この狭いロビーにどうやって350人が待つんですか!?」
爽香「そこまで深く考えなかったわ」
丹沢「『そこまで深く』ねぇ。浅く考えたってわかりそうですけれど」
爽香「そんな言い方する?」
丹沢「しかも、これから350人も受付していたら、あなたの順番が来るのは来週になってしまいますよ」
爽香「そうよね。あなた、仕事が遅いからね」
丹沢「そう来ましたか、」
爽香「それが何か?」
丹沢「350人でも待つつもりだったんですか? 頭の構造は大丈夫ですか?」
爽香「ちょっと! そこまで言うのなら言わせてもらうけれど、」
丹沢「あれっ、怒りました?」
爽香「そうよ! なら言わせてもらうけれど、なんであたしの番号が189番じゃないのよ。350番も飛んで531番なんておかしいでしょ!!」
丹沢「お客様の申請の内容によって、番号の頭の数字を変えてるんです」
爽香「『最初の数字』ってこと?」
丹沢「住民票なら100番台、戸籍なら300番台、転入・転居・転出なら500番台」
爽香「ふーん」
丹沢「番号を変えるのは、どの業界でも同じだと思いますが。でしょ。銀行だってそうですよ。預金なのか、融資なのか、為替なのか、申請内容によって頭の番号を変えているんじゃないですか?」
爽香「それって、あなた方の都合であって、お客には迷惑なことだわ。数字の頭を変えるよりも、あなたの頭を変えた方がいいんじゃない?」
丹沢「はぁ?」
爽香「お客様ファーストでしょう?」
丹沢「住民票を取るだけのお客様は5分もかからないから100番台を使って、転入・転出のお客様は30分かかるから500番台を使う。そうやって、番号の頭の数字を使い分けて要るんです」
爽香「それって、必要なこと?」
丹沢「住民票1枚取るだけなら5分で終わります。ところが、転入手続きに来た人の後に並んでしまったら、30分以上待つことになります。それを解消するためです。こんなの常識です!」
爽香「常識ね、そりゃぁあなたにとっては常識かも知れないけれど、あたしから見れば非常識よ! 数字は『1、2、3、4、5、6』ときちんと並んでこそ本来の役割を果たすのよ。なんで100番から500番に飛ばすのよ!」
事務室内。
戸部考一が、聞き耳を受付窓口の方に立てていた。
戸部「うん? 『6』で止まった!?」
隣に座っている君本早苗が
早苗「どうかした?」
戸部「窓口のお客さん、」
早苗「また、丹沢さんと揉めているみたいね」
戸部「うん。なぜ『1、2、3、4、5、6』と言って、『6』で止めたのかと思ってさ」
早苗「そうね、中途半端ね」
戸部「丹沢さんもまだ若いな」
早苗「なんで?」
戸部「いくら正しいこととは言え、ものには言い方ってのがあるからなぁ」
早苗「丹沢さん、なんて言ったの?」
戸部「お客様に向かって『こんなの常識です!』とか言ってたよ」
早苗「あらっ。それはお客様も怒るわね」
受付カウンター。
丹沢「あなたクレーマーですか? たかが数字ごときで、なんでそんなにムキになっているんですか?」
爽香「あたしにとっては数字がすべてなのよ、世の中だってそうでしょう。学校の成績表は5段階の数字で表されるし、試験の順位は1位から順番に上位の者だけが張り出される。10番おきに優秀な生徒が張り出される訳じゃないわ」
丹沢「数字だけがこの世の中すべてじゃないと思うけれどなぁ。まぁいいか」
爽香「『まぁいいか』って、良くないでしょ。市役所の採用試験だってそうでしょ、市役所の受験票は1番から順番に並んでないんですか。受験者の出身地によって頭の数字を変えているの?」
丹沢「わかりました、わかりました」
爽香「『わかりました、わかりました』って、二度言わないでくれる? 本当にわかっているの?」
丹沢「あなたが数字にこだわっていることが、良くわかりました」
爽香「ねぇ、さっきあたしを呼んでくれた女性を呼んでもらえる」
丹沢「いいですよ、お安い御用です」
丹沢が事務室から明石春菜をカウンターへ連れてきた。
春菜「はい、なんでしょう?」
爽香「さっきのあなたからの質問だけれど、やっぱりあたし、この職員大嫌いです!」
一瞬、春菜の目が大きく見開いた。そして
春菜「ふふふふふ。そうでしょう! あたしもこの男のこと、大嫌いなんです。融通は利かないし、相手の気持ちは汲み取れないし、」
爽香「そうですよね。それを聞いてあたし、気持ちがスカッとしたわ!」
春菜「では」
春菜は、これ以上ふたりに関わるまいと、さっさと奥へと引っ込んだ。
春菜は奥へ引っ込んでから、
春菜(ああでも言わないと、おさまりがつかないからね。へへへ)
【02】 引っ越しの届が遅れると裁判所行き?
丹沢「ところで、転出証明書は持って来ました?」
爽香「持って来たわよ!!!」
爽香が怒って言った。
丹沢「この前ここに来たのは、いつでしたっけ?」
爽香「2ヶ月ぐらい前」
丹沢「2ヶ月かぁ、2ヶ月ねぇ。えっ! 2ヶ月!!」
爽香「それが何か?」
丹沢「いえ」
爽香「なら、早く手続きしてちょうだい」
丹沢「はい」
丹沢は爽香から受け取った書類一式をクリアケースに入れて、後ろに居る職員、天満稔江に渡した。
丹沢「手続きが終わりましたらお呼びしますのでロビーでお待ちください」
爽香はロビーに置いてある椅子に腰掛けた。
稔江が転入届の内容についてチェックし始めた。すべてのチェックが終わると前住所、美浦市の住所、名前、性別、生年月日を端末機に入力した。
稔江「丹沢さん、ケタイお願いしますね」
『ケタイ(懈怠)』とは、『ある義務を懈り、怠ける』ことである。ここで稔江の言っている『ケタイ』とは『届けが遅れた理由書』を指していた。
丹沢「はい、わかりました」
丹沢「速水さん」
丹沢が待合席の爽香に向かって言った。
爽香が丹沢の居るカウンターへとやってきた。
丹沢「たいへん申し訳ないのですが、こちらの書類を記入していただけますか?」
丹沢が『届け書の提出が遅れた理由の申立書』を差し出した。
爽香「何ですか、これ?」
丹沢「引っ越しをしましたら、実際にそこに住み始めて14日以内に市役所へ届けなければならないルールがありまして、」
爽香「へえーっ、そんなルールあるんだ、全然聞いたことないわ」
丹沢「それで14日を過ぎた場合には、どうして届けるのが遅れたのか、この書類で理由を申し立てていただいております」
爽香「面倒くさいのね」
丹沢「まぁそうですが、決まりなので」
爽香「あれっ、これ宛先が『簡易裁判所』って書いてあるけれど、そこまであたしが持っていくの?」
丹沢「いえ、わたくしどもの方で簡易裁判所へ送りますから大丈夫です」
爽香「そうなんだ。で、どこを書けばいいの?」
丹沢「ここです」
丹沢が書類の中ほどを指さした。
丹沢「ここの『届が遅れた理由』をこの中から選んでいただけますか?」
そこには、『1、届が14日以内であることを知らなかった。 2、仕事の都合で行けなかった。 3、代理人に頼んであったので、もう出していると思った。 4、またすぐに、そこから引っ越すつもりだった。 5、面倒くさかったから』と書かれてある。
爽香「『○』を付けるのはひとつだけ?」
丹沢「当てはまるものは、すべて○を付けてください」
爽香は書類の「1」と「2」に○を付けた。
丹沢「ありがとうございました」
爽香「この書類を出すとどうなるの?」
丹沢「出された書類は、そのまま簡易裁判所に送付いたします」
爽香「それで?」
丹沢「簡易裁判所は、届け書の提出が遅れた理由や遅れた期間を見て、過料を科します」
爽香「『過料』って?」
丹沢「罰金みたいなものです」
爽香「罰金?」
丹沢「車だって、駐車違反すると切符を切られるでしょう、あんな感じかな」
爽香「じゃぁ、罰金が来るの?」
丹沢「何万円も来る場合もありますが、無い場合もあります」
爽香「無い場合もあるんだ」
丹沢「引っ越した後、すぐに入院して市役所へ行けなかったとか、情状酌量の余地があれば……、ってことじゃないですか?」
爽香「じゃぁ、あたしの場合はダメね。罰金だわ」
丹沢「かも知れませんね」
爽香「これって、あなたのせいよね」
丹沢「えーっ、私のせい?」
爽香「そうよ」
丹沢「えっ、なに言ってるんですか?」
爽香「だって、この前来た時、そんな説明あなたしなかったじゃないですか」
丹沢「え、え、えーっ。それって私のせいなの?」
爽香「そうよ、他に誰が居るっていうの?」
丹沢「あなたですよ、あなた。あなたしかいないじゃないですか。それを私のせいにするなんて信じられない!」
爽香「だって、14日以内に届けないと、何万円も罰金が来るなんて言わなかったじゃない」
丹沢「何万円とは限りませんし、『罰金』ではなくて『過料』です。それに、ほとんどの人が14日以内に届け出ます。それを2ヶ月も放っておくなんて!」
爽香「放っておいたわけじゃないわ。仕事で忙しかったのよ!」
丹沢「仕事ねぇ、何の仕事だか?」
爽香「見ればわかるでしょう?」
爽香は、わざと握っているテニスボールを丹沢に見せつけた。
レース中、ボートをぶつけられた時や転覆した時に、ハンドルから手を放さないように爽香は握力を高めていたのだ。
丹沢「さっぱりわかりません」
爽香「ヒントは水に関係あり」
丹沢「お水ねぇ? テニスボールを持っていて水の関係。テニスコートのスプリンクラー設置業者かな? それともスプリンクラーの維持管理? でも、市役所に来るぐらいの時間はあるでしょ!」
爽香「大きなお世話よ。もういいわ、これでいいのね」
爽香が書いた書類を丹沢に渡した。
丹沢「はい結構です」
爽香「じゃぁ帰っていい?」
丹沢「特に住民票とか必要なければ」
爽香「それ1枚ぐらいサービスでくれないの?」
丹沢「そんなことを言った人は、初めてです」
爽香「だって罰金を何十万円も払うかも知れないのよ、その住民票いくら?」
丹沢「200円です」
爽香「だったら100枚くらいもらったっていいでしょ?」
丹沢「あなたに無料であげたら、ここに来る人全員に無料にしなければならないんです。だからダメです」
爽香「それどういうこと?」
丹沢「日本国憲法第15条第2項に『すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない』つまり、あなただけに特別なサービスは出来ないんです」
爽香「へえーっ、そうなんだ。まぁいいわ」
丹沢「では、お帰りいただいて結構です」
爽香「言われなくても帰るわよ。じゃぁね」
爽香は片手を挙げて五指だけ曲げた。それが、爽香の『さよなら』の合図だった。爽香は帰って行った。
【03】 速水爽香は住んでなかった!
1週間後。
住民課に国民健康保険課の森口歩み(もりぐち・あゆみ・26歳)がやってきた。
歩み「丹沢さん、また、本人が住んでいるかどうか、調査お願いできますか?」
丹沢「また『国民健康保険税納付通知書』が戻ってきたのかい? まったく! 住民票だけおいて、税金を払わず逃げちゃう奴が多くて困ったもんだ」
歩み「いえ、今回は、『国民健康保険税申告書』です」
『国民健康保険税申告書』とは、転入した人、前年中の所得が把握できない人などに、前年の所得がいくらだったのかを書いてもらう書類である。
歩みは、封筒の上に『あて所に尋ねあたりません』と、郵便局のスタンプが押された郵便物を見せた。
丹沢「これか」
丹沢が、その郵便物を手に取ってみた。
丹沢「えっ!!!」
歩み「どうかしました?」
郵便物のあて先は『速水爽香』だった。
歩み「知っている人ですか?」
丹沢「いや、知っていると言うか、私が転入届を受付したので、ちょっとびっくりしただけだ」
歩み「ちょっとですか? ちょっとと言いながら、すごく動揺されているように見えましたけれど、」
丹沢「私が転入届を受付したので、責任を感じているのさ」
歩み「でも、転入届を受付する時、実際に住んでいるかどうかなんて、絶対にわかりませんものね」
歩みが、丹沢をフォローした。
丹沢「まぁ、そうだけれど。森口さんは随分とやさしいんだね」
歩み「いえ、とんでもない。そんなことでいちいち責任を感じていたら体が持ちませんよ」
丹沢「ありがとう! 森口さんの頼みじゃ、この仕事、最優先にやらせていただくよ」
歩み「ありがとうございます。いつも感謝してます」
その時だった。
丹沢「うーん、」
丹沢は、小さく唸りながら腹を押さえ、前かがみになった。
歩み「面倒な案件をお願いしたので、お腹が痛くなりましたか?」
丹沢「うん、腹痛が。でも、森口さんとは関係ないから、大丈夫」
歩み「では、なぜ?」
丹沢「多分だけど……、今朝時間がなくて、昨日の残り物のティラミスをどんぶりに入れて、そこに冷たい味噌汁をかけて食べたのがいけなかったのかな……」
歩み「げっ!」
歩みは、その光景を頭に思い浮かべ、目一杯気持ち悪い表情を見せた。
歩み(『ティラミスの味噌汁がけ』。げっ! 気持ち悪い! あり得ない! 食べれない!)
歩みは表情とは裏腹に、平静を装い、
歩み「『ティラミス』ですか?」
丹沢「うん。昨日の夜、急に何か甘いものが食べたくなって、コンビニで2個入りのティラミスを買ったんだが、いっぺんに2個は食べないだろう?」
歩み「私なら食べちゃうかも。で、味噌汁の具は、お豆腐?」
丹沢「豆腐ならティラミスと分離できるからまだ良かったんだが……」
歩み「じゃぁ、具材はなんですか?」
丹沢「とろろ昆布とひきわり納豆!」
歩み「おえっ!」
歩みが口を手で覆った。
歩みは、ティラミスの生クリームとチーズとココアパウダーと、とろろ昆布とひきわり納豆が混ざった味を想像した。
丹沢「すまない、ちょっとトイレに行ってきます」
歩み「トイレまで、持ちます?」
丹沢「トイレに行くまで持つかな、途中で出ちゃうかも……」
歩み「廊下には垂らさないでくださいよぉ~」
丹沢「うう、うーっ、うん……」
お尻を押さえながら、よたよたと時間をかけて歩いて行った。
丹沢は、ようやくトイレにたどり着き、一目散に洋式トイレに座った。
丹沢「随分長い道のりだったな」
丹沢は、パンツをおろすと同時に、勢い良くゆるくなった便を放出した。
丹沢「便がパンツをかすめたぞ。大丈夫か?」
丹沢がおろしたパンツに便がかかってないか確認を始めた。
丹沢「ハックション!」
丹沢がくしゃみをした。
丹沢「誰か私の噂でもしているのか?」
丹沢が居なくなった住民課事務室で。
国民健康保険課の森口歩みと住民課窓口担当の明石春菜が話をしていた。
歩み「丹沢さんて、ほんとにいつもやさしいですよね」
春菜「いや、やさしくないわよ。単純でバカなだけ!」
歩み「やっぱり! そう思ったんだけど、一応は褒めておかないといけないかな、と思って」
春菜「胃腸も弱いし、頭も弱いし、押しに弱いし、女に弱い。いい所なんかないんじゃない?」
歩み「胃腸が弱いんですか? 病名は?」
春菜「たしか『機能性ディスなんとか』って言ってたわよ」
歩み「病名が『気のせいです』か?」
春菜「病名が『気のせい』ではなくて『機能性ディスなになに』よ」
歩み「『気のせい』?」
春菜「『過敏性の腸なんとか』とも言ってたわ。まぁ、なんでもいいわ。とにかく精神的な所から来る胃の痛みらしいわ」
歩み「丹沢さん、あんなこと言ってたけれど、やっぱり私のせいなんですね」
春菜「いいえ、自業自得よ。あんなに毎回毎回、窓口でカリカリしていたら胃も痛くなるでしょうよ。あなたが気にすることは無いわよ」
歩み「そうですか? 私、ちょっと責任を感じてしまいます」
春菜「いいえ、責任なんてこれっぽっちも感じない方がいいわよ。あなたの胃まで壊れちゃうから」
歩み「そうですね、丹沢さんはバカですよね。胃腸も弱いし、見た目は悪いし、足は短いし、不潔だし、お金もないし、趣味も悪いし、変な物を食べているし、彼女も居ないみたいだし、いいとこないですね」
春菜「ふふふふふ」
歩み「ふふふふふ」
二人が丹沢に対して、これっぽっちの憐れみも感ぜず、その不幸を笑った。
それを近くで聞いていた若石元気が
元気「いやぁ、あそこまで言われるんだ。女性って怖いなぁ~。居ないと何を言われるかわからないなぁ」
若石元気の机の島には、若石の他にあと3人。戸籍担当の戸部考一、郵送担当の君本早苗、庶務担当の天満稔江が居た。
稔江「そうよ。女性は男性より力が無い分、口での攻撃は男性の2倍ね」
若石「これじゃ、迂闊に席を外せないですね。トイレなんか行けないな」
早苗「ふふふふふ」
稔江「そうよ、トイレは我慢しないと」
若石「ええーっ! それは無理!」
戸部「そう、女性は怖いよ。だから結婚は良く考えて、」
若石「あれっ? そう言えば、戸部さんて独身でしたっけ?」
戸部「う、うん、まぁ」
早苗「えっ、そうだったの?」
戸部「知ってるくせに」
早苗「そんな噂は聞いていたけれど、事実だったんだ。今、個人情報がうるさくて、既婚か未婚か、どこに住んでるか、それもわからないじゃない」
稔江「そうそう。(個人情報について)うるさくなったからね」
早苗「本当の名字もわからないじゃない。特に女性は」
戸部「旧姓を名乗っている職員も居るからな」
早苗「ええ。私が入所した18年前とは随分変わったわ」
若石「そう言う君本さんも、既婚か未婚か、私は知らないけれど」
稔江「君本さんも独身よ」
若石「そうなんですか?」
早苗「ええ、まぁね」
若石「戸部さんの女性が怖いのと同じように、やっぱり男性不信とか?」
早苗「いえ、そうじゃないけれど」
若石「では、なんでですか?」
稔江「ダメよ。そういう質問がセクハラになる時代よ」
若石「すみません」
早苗「仕事かなぁ? 仕事で負けないようにいろいろな物を読んだり調べたり。だから男性とお付き合いする時間が無かったと言うか、その時間がもったいないと言うか、そんなところね」
若石「だから君本さんは、なんでも物知りなんですね。特に名字は詳しいですもんね」
早苗「生きるために必死なのよ。ここをクビになったら食べていけないじゃない?」
若石「君本さんなら、どこにでも転職出来ますよ」
早苗「市役所の職員なんて、民間の会社では使えないのよ。いくら名字に詳しくたって民間の会社ではそんな知識必要ないでしょう?」
若石「そうか」
戸部「そうだね。公務員なんてつぶしが効かないからな。民間じゃ技術があるとか、営業が出来るとか、語学にたけているとかじゃないと採用はされないだろうな」
若石「『戸籍』に詳しい、とかじゃダメですか?」
戸部「『戸籍』なんか、(採用の)売り物にならないよ。ははははは」
若石「そうかぁ」
戸部「以前、市役所の収税課を辞めた者が民間会社に転職しようとして面接を受け、民間会社から『何が得意ですか?』と聞かれ、『差し押さえ』です。と答えたらしい」
早苗「ふふふふふ。そんな人が居たの?」
戸部「うん。見事に試験に落ちたそうだ」
稔江「ふふふふふ」
そう言うと、戸部が小便をしに席を立った。
戸部「ちょっとトイレに」
若石「ところで丹沢さん、戻って来ませんね。大丈夫かな?」
丹沢が洋式トイレで、またくしゃみをした。そしてくしゃみと同時に『ブリブリブリ』と音をたてて下痢をした。
丹沢「くしゃみと同時に出たか……」
丹沢(北向きのトイレのせいなのか? めちゃくちゃ寒いなぁ~)
丹沢はそう思った。
丹沢「寒いなぁ」
よく見ると温水洗浄便座の電源コードがコンセントから、はずれている。丹沢はコンセントにプラグを差し込んだ。
丹沢「なぁーんだ、コンセントに差し込んでないのかよー。節電か? まったくもう、市役所はケチなんだから」
丹沢「しかし、やっぱり、パンツおろしていると寒いな。パンツをおろさないで下痢する方法はないのかな?」
隣の和式トイレから
年金課長「パンツに穴を開ければいいんだよ。ははははは」
おっさんの声がした。
丹沢「えっ! 誰か居たの?」
丹沢は、慌ててギリギリの状態で洋式トイレに入ったので、隣に誰かが居ることさえ気づかなかった。
課長「居るよ!」
丹沢「おぉ、そう言うその声は、国民年金課長!!」
課長「おぁ! その声は丹沢君だな?」
丹沢は国民年金課長井手五郎(いで・ごろう・50歳)と隣同士に用を足していたのだった。
隣のトイレは和式になっている。
丹沢「課長、和式を使うなんて珍しいですね」
課長「うん、年齢とともに足腰が弱ってきてねぇ、今からでも足腰を鍛えておかないと、どの世界でも戦っていけないからなぁ」
丹沢「さすが課長! 健康に気を使ってますねぇ」
課長「でも胃腸が弱くて、医者に『過敏性腸症候群』と言われているんだよ」
丹沢「私も医者に『機能性ディスペプシア』と言われているんです」
課長「なんだ、じゃぁお互い下痢友達だな」
丹沢「略して『ゲリトモ』ですね」
課長「ははははは」
丹沢「ははははは」
課長「そろそろ出るのか?」
丹沢「そうですね。課長は?」
課長「まだだな。いつもは下痢なんだが、今日は逆に固めなんだよ」
丹沢「伊達政宗(片目)ですね」
課長「そんなくだらんギャグ要らんわ!」
丹沢「早い返しですね」
課長「あと5cmくらいで全部出そうなんだがな、おっと切れちゃった」
丹沢「随分こまかい描写ですね」
課長「オレ、便も神経も細くてこまかいから」
丹沢「あのぉ~」
課長「なんだ」
丹沢「一度流してもらってもいいですか」
課長「こうかね?」
課長が自分のお尻の後ろで、右手で扇いだ。
丹沢と課長の間にある壁板の下の隙間から丹沢の方へと微風が入ってきた。
丹沢は、鼻をつまみながら
丹沢「課長、匂いを流すんじゃなくて、水を流してもらいたいんです。それ、わざとやってるでしょ?」
丹沢が鼻声で言った。
課長「ははははは、ばれたか」
丹沢「相変わらずですね」
課長が、目の前に貼られているポスターを見た。
ポスターには、可愛いタレントと一緒に『いつも節水にご協力いただきありがとうございます』というキャッチコピーが印刷されていた。
課長「(節水だけど)まぁ、いいか」
課長はポスターに向かって投げキッスをし、そして流水レバーを押した。ジャーと水の流れる音がした。
課長「オレ、肉食系プラスにんにく系プラスキムチ系男子だから、匂いがきつかったろ?」
丹沢「はい。でも、早くそれに慣れたいと思います」
丹沢が鼻をつまみながら鼻声で言った。
課長「ははははは。新入職員のあいさつに、よくそんなのがあったっけな。どうだ、そっちも流してみたら?」
丹沢「おっと、忘れていた」
丹沢は、『流す』のボタンを押した。ゴーッと流れる音がした。そして次に、『おしりを洗う』ボタンを押した。温度高めの温水が丹沢の肛門をめがけて勢いよく飛び出してきた。
丹沢「あぢっ!」
課長「どうした? 大丈夫か?」
丹沢「温水が切れ痔の部分に当たってヒリヒリします」
課長「そうか、かわいそうに。オレ、机の中に塗り薬あるからあとで渡すよ」
丹沢「あっすみません、助かります。たっぷり塗っておきます」
課長「オレ塗ってやろうか?」
丹沢「そんな、とんでもない。管理職に痔の薬を塗ってもらうなんて、バチが当たります。それより『あと5cm』はどうなりました」
課長「あきらめた。しょうがない、もう一泊させてやる」
住民課の事務室に、戸部考一がトイレで小便を済ませて戻ってきた。戸部考一(とべ・こういち・40歳)が君本早苗(きみもと・さなえ・40歳)に、
戸部「君本さん、丹沢さんと年金課長って仲がいいのかい?」
早苗「いいと思いますよ。どうして?」
戸部「トイレで楽しそうに会話をしていたから」
早苗「なんでも同じ町会に住んでいるとか、」
戸部「それだけで? 歳が20前後も違うのに?」
早苗「随分昔の話らしいけれど、美浦教会で無料英会話講習会というのが毎週あって、丹沢さんは高校受験のために、井手さんは海外旅行のために通っていたらしいんです」
戸部「同じ時期に?」
早苗「ええ。二人はそこで、英会話の落ちこぼれ同士、仲良くなったみたいですよ」
戸部「英語が出来ない者同士か。二人は今もそこに通っているの?」
早苗「いえ。『二人ともついて行けなくて2か月で一緒に辞めた』って聞きましたけれど」
戸部「そう言う仲なんだ。面白い縁だね」
早苗「縁なんて、そんなものですよ」
【04】 もし住んでいなかったら、お前はクビだ!
翌々日の金曜日。
住民課、朝一番で丹沢が課長席の前に立たせられていた。
住民課長、鬼塚厳司(おにづか・げんじ・55歳)が大声で、
課長「また、お前か!!!」
課長が思いっ切り机を叩いた。
『バン!』すごい音だった。
課長「いいか、もし今度も虚偽の届け出だったらお前はクビだ。いいか、これは決して脅かしじゃないからな!」
その声は住民課職員全員に聞こえた。住民課内がしーんとした。
課長「速水という女性は、住んでないらしいじゃないか」
丹沢「どうしてですか?」
課長「国民健康保険課長(茂森早紀)が、そう言ってたぞ」
丹沢「いえ、まだそうと決まったわけではありません」
課長「何だと! 住んでないから郵便物が戻ったんだろ!」
丹沢「なぜ戻ったのかは、わかりません」
課長「お前、虚偽の届け出と知っていて受付したんだろ?」
丹沢「虚偽ではありません!」
丹沢は、はっきりと言い切った。
課長「じゃぁ、若い女性だったから、受付したのか?」
丹沢「課長のいいがかりです」
課長「何だその言い方は! 上司に逆らうのか!」
丹沢「……」
丹沢は、黙ってそっぽを向いた。
課長「今度は黙秘か」
丹沢「……」
課長「お前は、バカか?」
丹沢「……」
後ろで、
若石「課長には、なにを言ってもムダですよね」
春菜「黙っているのが一番ね」
ふたりが聞こえないように言った。
課長席で、
課長「しかも転入届を2か月も遅れて出してきたそうじゃないか?」
丹沢「たまたまそうなっただけです」
課長「相手の女性は『自分の住んでいる共同住宅の名称』も知らなかったし、『旅に出ることが多い』とか、言っていたそうじゃないか。お前、怪しいと思わなかったのか? ええーっ!!」
窓口で仮ナンバーを取り扱っている職員、高品雄介(たかしな・ゆうすけ・37歳)が課長に告げ口していたのだった。
丹沢「私は、まったく怪しいと思いませんでした!」
課長「なんだとぉ。わざと見逃したんだろう!」
また机をドン! と叩いた。
丹沢「それも違います。課長の決めつけです!」
後ろで、
稔江「黙っているのが一番なのにね」
戸部「うん。でも、まぁ、いいじゃないか」
課長席で、
課長「前にも虚偽の転入を受付したよな」
丹沢「はい、しました」
課長「近頃は、虚偽事件ばかり増えているんだよ、まったく。私の顔に泥を塗りやがって」
丹沢「虚偽と決めつけるには、早すぎます」
課長「速水が住んでいるのかいないのか、今すぐ現地へ行って調べてこい!」
丹沢「はい」
課長「結果が出るまで帰ってこなくていいからな!」
丹沢「はい」
課長「結論は、今週中に出せよ、今週中だからな! いいな!」
後ろで、
若石「今週中って、今日金曜日ですよ。今日中ってこと?」
稔江「ひどい話ね」
春菜「きっと丹沢さんをイジメて辞めさせたいのよ」
課長席で、
課長「もし、住んでいなかったら、来週月曜の朝一番で、職権消除の告示をしろよ」
『職権消除』とは、職務権利で住民票を抹消することである。『告示』とは、掲示板や広報誌などで公に知らせることである。
丹沢「はい」
課長「そして次に、責任を取って私のところに退職願を出せ!」
丹沢「……」
課長「聞こえているのか!」
丹沢「……」
課長「わかったか!」
丹沢「……」
課長「お前は返事もしないのか、ばかたれが!」
吐き捨てるように言った。
丹沢「はい、わかりました。速水爽香が住んで居なかったら、退職願を出します」
周り「えーっ!」
他の職員が一斉に驚いた。
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【後書き】
たくさんの作品の中から本編をお読みいただきありがとうございました。m(__)m
まだまだ未熟ではありますが、皆様に愛される作品となりますよう努力を重ねていく所存です。m(__)m
読んでくださった方々には「感謝、感謝」です。「本当にありがとうございました」m(__)m
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