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女子ボートレーサー と市役所職員  作者: 池井 けい
第4章 予想屋、穴吹六郎
35/40

05 ◎俺には命よりも大事にしてるものがある

【06】 人生『何年生きたか』じゃなくて……


 後ろで、

美南「負けちゃったんだ。つまんないの」

千歳「6号艇に何があったのかしら? 脳梗塞? 手の震え? 五十肩?」

美南「『五十肩』はないでしょう?」

千歳「わからないわよ」

美南「アクセルとブレーキを踏み間違えたんじゃない?」

千歳「車じゃないんだから」


 結局、その日、六郎は、その話だけをして帰ってしまった。

 金塚が事務室の自席に戻ると、

千歳「『特別催告状』と、『差し押さえ』の話をしないまま帰っちゃったわね」

金塚「そうですね」

 そこに国民年金課の井手五郎課長(いで・ごろう・52歳)がやって来た。

課長「随分、長いお客さんだったね。金塚さん、お疲れ様」

金塚「ええ、ちょっと訳ありでしたので」

課長「訳ありとは?」

金塚「余命数カ月らしいのですが、国民年金を納めないといけないのか? というご質問でした」

課長「ほぉーっ、それは難しいなぁ。それで金塚さん、なんと答えたんですか?」

金塚「それが……」

課長「……」

金塚「私がお答えする前に、ボートレースの話になりまして、」

課長「ふむふむ、なんか面白そうだね」


 金塚は、六郎の結婚を賭けた熱き戦いを要約して井手課長に話した。

課長「うーん。選手が人生を賭けて戦っているときに、予想屋も人生を賭けているとは、知らなかったなぁー」

金塚「はい。とても参考になりました」

美南「私なんか、聞いていて興奮しちゃいました」

千歳「ええ、とってもいい話でしたわ」

課長「それは、良かったじゃないか」

千歳「はい。でも、あのお客様、なにをしに来たのかしら? 結局、国民年金を納めるか、納めないか? 金塚さんの答えを聞かないで帰っちゃったんですよ」

金塚「そうでしたね。ははははは」

課長「うん、それはね、もうどうでも良かったんですよ。お客様にとっては、払ってもいいし、払わなくてもいいし」

美南「えっ、それ、どういうことなんですか?」

課長「死んでいく者にとって、国民年金保険料を払う払わないなんて、ちっぽけなことなんですよ。どうでも良いことです」

千歳「そうか」

課長「それより、自分の生きた証を誰かに伝えた方が、どれほど有意義か。今、なかなか自分の話をじっくりと真剣に聞いてくれる人なんて居ませんからねぇ」

美南「そうかも。私、友達の話を聞いていて、辛い時があるもん」

千歳「そういう点、市役所の窓口って、お年寄りの良い話し相手なんですよね」

課長「だから、さっき来たお客様は、金塚さんに聞いてほしかったんですよ」

千歳「それで、満足して帰ったわけね」

金塚「課長は『死んでいく者』の気持ちがわかるんですね」

課長「まぁね」

金塚「まさか?」

課長「ははははは」

金塚「まさか、課長も余命宣告を?」

課長「私も、この前医者で、余命を言われましたよ」

 そう言って、課長は、右手でパーの形を金塚に見せた。

金塚「5カ月?」

課長は、黙って首を振った。

千歳「5年?」

課長は、また、黙って首を振った。

美南「まさか5時間?」

課長「ははははは」

 課長が、今度は笑った。

金塚「正解は?」

課長「50年だそうです」

金塚「心配するんじゃなかった」

美南「仕事しようっと」

千歳「あーっ、聞いて損した」


 数日後。

 六郎の所に、日本年金機構から電話がかかってきた。

機構「国民年金保険料を払っていただけないでしょうか?」

六郎「余命数カ月でも払わないといけないのかね?」

機構「その理由は、私どもには関係ないことです。私どもは、保険料をすべて徴収することが業務ですから」

六郎「でも、保険料を払っても、俺は国民年金をもらうことが出来ないんだよ」

機構「それも、私どもには関係ないことです。60歳前に亡くなる方も当然いらっしゃいます。だからと言って見逃すわけにはいきません」

六郎「『見逃さない』って?」

機構「『差し押さえ』します」

六郎「そうかね。で、いつ『差し押さえ』するんだね?」

機構「今、順番にやっております」

六郎「順番ねぇ。俺の順番は?」

機構「そんなことわかりませんよ!」

六郎「わからないのかぁ」

機構「とにかく、今すぐ払ってくださいよ」

六郎「払うの、辞めた」

機構「『差し押さえ』しますよ」

六郎「どうぞ」

機構「穴吹六郎様ですね。必ず『差し押さえ』しますからね」

 電話が切れた。


 穴吹六郎にとって、気分の良い電話ではなかった。日本年金機構の職員が言うのもわからないわけではないが、思いやりが無いと思った。

 その勢いで穴吹六郎は、市役所国民年金課に電話した。

六郎「先日そちらに伺った予想屋だが、そのときの職員さんはおるかね?」

美南「今、代わります」

金塚「はい、私ですが」

六郎「今、日本年金機構から、支払いの催促の電話があったよ」

 六郎は、電話のやり取りをすべて話した。

金塚「それは、嫌な思いをさせてしまいましたね。すみませんでした」

六郎「いや、あんたが謝る必要はないんだ。むしろ俺のつまらない話を聞いてくれて感謝しているんだよ」

金塚「そうおっしゃっていただき、ありがとうございます」


六郎「あの話はな」

金塚「はい、」

六郎「誰にも話さず、墓場まで持って行こうと思ったんだが、なぜか話しちまったんだよ」

金塚「そうでしたか。墓場まで行く途中に落としちゃったんですね」

六郎「あんた、うまいことを言うなぁ。ははははは」

金塚「ははははは」

六郎「ついでに聞くが、」

金塚「はい、」

六郎「あんたは、俺が、国民年金を払った方が良いと思うかね、それとも払う必要はない、と思うかね?」

金塚「いえ払う必要はないと思います。治療費を払うだけで精いっぱいでしょうから。もし、少しの蓄えがあったとしても、そのお金は、生きるために使ってください! そのお金を使っていただいて、体が良くなることだけを考えてください!」

六郎「……、ぐすん」

 六郎に、こみ上げるものがあった。


金塚「そして、もしも、もしも体が良くなったら、またご連絡ください。いつの日か、またこの窓口でお会いできる事を信じております」

六郎「君は本当にそれでいいのかね」

金塚「私は自分の思ったこと感じたことをそのまま言っているだけです。法律は、あとのことです。命より法律が大事とは、思えません!」

六郎「それじゃ、公務員として、間違いなく失格だろ」

金塚「失格か失格でないかよりも、私は公務員として常に市民の立場になって物事を考えるようにしています。市民を最優先に考えます。それが市役所職員の務めです。もし今、私があなたの立場だったら国民年金のことなんてこれっぽっちも考えないでしょう。自分が生きることしか考えません。それが当然です。人間死んでしまったらすべて終わりです。命に勝る大事なものなんてないのです」

六郎「そうだよな、命が一番大切、当たり前の話だよ、でも俺には命よりも大事にしてるものがひとつだけあるんだ」

金塚「えっ! 何ですか?」


六郎「ボートレースの予想だよ」

金塚「えっ! ボートレースの予想?」

六郎「あんたが市民を大事にしているように、俺にはボートレース開催のたびに俺の予想を待ってくれている人が居るんだよ。嬉しいよなぁー」

金塚「……」

六郎「だから入院して寝ているなんてことは出来ないんだ。ただ横になって死を待つなんてできねぇーな。死ぬまで前に向かって突き進んで行く。それが俺の流儀だ」

金塚「『六さん』の予想を、ボートレースファンは待っているんですね」

六郎「まぁ、ほんの2~3人だけど、頼りにしてもらっているお客さんはいるね」

 六郎は『2~3人』と謙遜して言った。


金塚「その方たちとは、何年ぐらいのお付き合いなんですか?」

六郎「20年以上かねぇ、この連中たちのお陰で今までやってこられたし、この年齢になると頼りにされているということが、何よりの生きがいなんだよ。若い連中には、わからないだろうけれどな、『頼りにされる』『人のためにする』。これがどんなに嬉しいものか、死ぬ間際になって、やっとわかったんだよ。だから、もう1日だけ生きようと、毎日思うのさ。それが無かったら、とっくに死んでるわな」

金塚「いいですね。死ぬ間際まで出来る仕事があって。私たちは、定年で辞めさせられちゃいますからね」


六郎「そうか、そうだな。俺は短い人生だったけれど、幸せかもな」

金塚「そうですよ。人生『何年生きたか』じゃなくて、命を閉じるときに『幸せだったと思って死ぬ』か、『つまらなかったと思って死ぬ』か、ですよ」

六郎「あんた、いいことを言うな。電話して良かったよ。国民年金は払えないかも知れないけれど、勘弁してくれよな。じゃあな」

 電話が切れた。

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