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女子ボートレーサー と市役所職員  作者: 池井 けい
第3章 ボートレース予想プロ集団の結成
30/40

10 ♡人事異動と恋の行方 編

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【あらまし】(恋愛エピソード)


 美浦市役所・国民健康保険課・係長小竹由夏(こたけ・ゆか・33歳)は部下の坂口大輔(さかぐち・だいすけ・28歳)に好意を寄せていた。

 由夏は市民からのクレームを受け、大輔を連れて市民の家へお詫びに行く。

 その帰りの食事中、由夏は「次の人事異動でお互いが別の課になったら、付き合ってみない?」と大輔に提案するのだった。 

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【主な登場人物】

坂口大輔 28歳男 国民健康保険課主事。主人公。ジョーブ君の中の人

小竹由夏 33歳女 国民健康保険課係長。美人で冷静。大輔の良き理解者

茂森早紀 50歳女 国民健康保険課長

平沼潤平 28歳男 国民健康保険課主事

渡辺育美 27歳女 国民健康保険課主事

森口歩み 26歳女 国民健康保険課主事

姫野祐希 25歳女 国民健康保険課主事

奥様 国民健康保険課にクレームを入れる

松島奈美 34歳女 海斗君の母親。感情豊か。かつては大輔を激しく責めた

松島海斗  9歳男 奈美の息子、社会科見学のとき市役所で倒された

松島博之 37歳男 海斗君の父親、数年前から失踪中

戸部考一 40歳男 住民課主任、戸籍のスペシャリスト、独身

セブンレンジャー  派手なアクションをするスーパーヒーロー

ジョーブ君     健康をテーマにしたゆるキャラ

アルクサ姫     健康をテーマにしたゆるキャラ

ミズスマッシー   美浦市のゆるキャラ

ミウラン      美浦市のゆるキャラ

小学生A~C    こどもイベントの観客

小学校の先生    海斗のクラスの先生

若草伊織ちゃん   海斗の同級生

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【前書き】

●この小説には多くの数字が出てきます。そこで読者の皆様が読み易いように横書きとなっております

●多人数での会話も多いことから、誰が話しているのか、すぐにわかるよう会話の頭に台本形式で、氏または名を付けて表現しました

●この物語はフィクションです。実在の個人・団体、実際のレースとは一切関係ありません。ボートレーサーと市役所職員をモデルに、フィクションとして制作されたものです

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【01】 「係長、坂口さんに対して本気モードですね」


 美浦市役所、国民健康保険課。

 小竹由夏こたけ・ゆか係長が電話で謝罪していた。

由夏「大変申し訳ございません。はい。はい。おっしゃる通りでございます。すべて私どもの不手際でございます。今後そのようなことが無いよう気を付けます。はい、はい、すみません。今日の夕方6時に伺います。申し訳ございませんでした。では、失礼いたします」

 由夏が電話を切るとすぐに渡辺育美(わたなべ・いくみ・27歳主事)が、

育美「どうしましたか?」

由夏「お客様が支所に電話で、会社をクビになったから、社保(社会保険)から国保(国民健康保険)に切り替えたいと電話をしたんですって」

育美「それで?」

由夏「支所の職員が『はい、切り替えできます。もし、会社の都合で退職されたのなら保険税は安くなりますよ』と答えたらしいの」

育美「そうですね。『雇用保険受給資格者証』の『離職理由』が『11(解雇)』と、受付職員が確認できれば保険税は安くなりますね。ただし『雇用保険受給資格者証』を必ず持参し、支所の職員に見せないといけないけれど」

歩み「給与所得を100分の30に軽減して、保険税を計算しますからね」

 森口歩み(もりぐち・あゆみ・26歳主事)が、軽減について補足した。

由夏「そう。でも、お客様は『雇用保険受給資格者証』を持参するなんて、ひとことも聞いてないし、辞めた時にもらった源泉徴収票だけ持って保険の切り替えを、支所に手続きに行ったらしいのよ」

育美「それでは、保険税は安くなりませんね。それは、もめますね」

由夏「そうでしょう。支所の職員は、ひとことも『雇用保険受給資格者証』の話をしなかったらしいのよ」

歩み「お客様にとっておいしい部分だけ、職員が話しちゃったんですね」

由夏「ええ、肝心な必要書類を伝えてなかったのよ」

歩み「それじゃあ、お客様も納得しないでしょうね」

由夏「それに輪をかけて、支所の職員が『退職したら雇用保険受給資格者証を持ってくるのは常識ですよ』と、言ったらしいのよ」

育美「うわーっ、最悪! しかも相手は会社をクビになった人でしょう。性格も悪そうだし、心理状態も良くないでしょうね」

歩み「それで、こっち(市役所)に文句を言って来たんですね」

由夏「ええ、そうなのよ」

育美「それで?」

由夏「夕方6時に『お詫びに来い』というから行って来るわ」

育美「大丈夫ですか?」

由夏「うん、坂口さんと一緒に行くから」

育美「坂口さんと?」

由夏「相手が女性なのよ」

育美「えっ! 相手、女性だったんですか?」

由夏「そう、女性。だから、ちょっとかっこいい男性を連れて行った方が丸く収まるのよ」

育美「なるほど、さすが係長ですね」

由夏「坂口さーん」

 由夏が坂口大輔を呼んだ。

 彼がやってくると由夏は事情を説明した。

由夏「時間外勤務になるけれど大丈夫?」

大輔「はい、大丈夫です。予定は何も入れてませんから」

由夏「悪いわねぇ」

大輔「いえ、とんでもありません。大事な業務のひとつですから」

由夏「じゃあ、時間になったら一緒に出ましょう」

大輔「はい、わかりました」

 それを聞いて小竹由夏係長が席を外した。

歩み「小竹係長って『美貌と才能』があるわよね」

大輔「そうですね。仕事の判断力と実行力がすごいですね」

育美「それに比べ私なんか『ビンボーと滞納』しかないわ」

歩み「ははははは」

大輔「ははははは」


 業務終了時間の5時15分に、由夏と大輔は、クレームの入った家へと向かった。

 国民健康保険課の事務室では、

育美「やっぱりね」

歩み「ですよね」

 そこに姫野祐希(ひめの・ゆき・25歳)も加わり、

祐希「係長、坂口さんに対して本気モードですね」

歩み「あのぐらい積極的にいかないと恋愛はダメなのよ」

育美「坂口さんは係長のこと、どう思っているんでしょうね?」

歩み「そこよね?」

育美「ラブラブなんですか?」

 そこに平沼潤平が、受付窓口から戻って来た。

潤平「誰が『ラブラブ』だって?」

育美「坂口さんと係長ですよ」

潤平「そうだよね。見ていてわかるよ」

育美「ところで、平沼さんは彼女がいるんですか?」

潤平「うん?」

育美「いる訳ないですよね」

潤平「居ないよ」

 潤平にはレンタルビデオ店の店長と言う彼女が出来たのだが、ここでは嘘をついた。育美から変に突っ込まれても困るからだった。

育美「いつから?」

潤平「そうだな、いつからだったかな?」

育美「私と一緒で、もてないんですね」

潤平「大丈夫、そのうちすごい美人が向こうから寄って来るから」

育美「ここにいる私たちより美人が、ですか?」

潤平「いや、あなた方ほどではない美人が、です」

育美「今、なにか無理してません?」

潤平「さて、帰ります」

 潤平は『形勢悪し』と判断し、足早に帰って行った。


 由夏と大輔は、1駅だけ電車に乗った。クレームを入れた家は、隣の駅から徒歩7分の所にあった。駅前でファーストフードの店を見つけると、小竹由夏が、

由夏「坂口さん、ちょっと待っててね」

大輔「はい」

 由夏は、ファーストフード店に入って行った。そしてポケットマネーで食事券を買うとすぐに戻って来た。

由夏「お待たせ。さぁ、行きましょう」

大輔「はい」

 二人はクレームの入った家へと向かった。その家のすぐ近くまで来ると、由夏が大輔に、

由夏「じゃあ、お願いね。どっちが正しいとかではなく、とにかくひたすらお詫びして、1分でも1秒でも早く終わらせてください」

大輔「わかりました。いつも通りですね」

由夏「はい。坂口さんが、主役でね」

 大輔は家の玄関まで来るとインターホンを押した。

 ドアが開き中から奥さんが出てきた。奥には、小学生らしき子供の姿がチラッと見えた。

大輔「市役所の坂口と申します。この度は、私どもの職員がたいへんご無礼をいたしまして申し訳ございませんでした」

 大輔と由夏が、これでもかというほど限界の角度で頭を下げ続けた。

奥様「あなた方は、物分かりが良さそうね」

 そこで、大輔と由夏が頭を上げた。

大輔「お客様は、さぞかし不愉快な思いをされたと存じます。すべては、私どもの責任でございます。本当に申し訳ございませんでした」

 二人が、また、頭を下げ続けた。

奥様「いえ、ねっ、あなた方に文句を言っているわけではないのよ。支所の方の言い方と態度に問題があるのよ」

大輔「はい、おっしゃる通りでございます。以前から問題のある職員で、誠に申し訳ございませんでした」

 奥様の愚痴は、しばらくの間続いた。二人はそれを、謝りながら聞き続けた。奥様の愚痴が落ち着いたところで、由夏が大輔に小さなカード封筒を手渡した。

大輔「これは、私どものお詫びの印でございます。市役所までのタクシー代や電話代として使っていただければ幸いです。どうかお受け取りください」

 大輔は相手の手を取ると、その手のひらに丁寧に乗せ握らせた。

大輔「本当に申し訳ございませんでした。これに懲りず、今後ともよろしくお願いいたします。何かありましたら、私、坂口までご連絡ください。では、失礼いたします」

 二人は深く頭を下げ、外に出て、ドアを閉めた。お詫びの品を渡したところで、帰るのが常だった。二人は駅へと向かった。二人の視野に先程のファーストフード店が目に入った。

由夏「お腹が空いたわね」

大輔「そうですね」

由夏「さっき、食事券を買ったあそこに入りません?」

大輔「いいですね」

 二人はファーストフード店に入り、ハンバーガーなどを注文した。品物が出ると、二人はそのトレイを持って一番奥の席に腰掛けた。

由夏「お疲れ様でした」

大輔「お疲れ様でした」

 二人が飲み物で乾杯した。

大輔「今日の食事券はいくら用意したのですか?」

由夏「2千円」

大輔「今日は、クオカードじゃなかったんですね」

由夏「ええ、小学生のお子さんがいる世帯だったので、ファーストフード店の食事券の方が良いと思って」

大輔「さすがですね。世帯構成まで調べてあったんですね、頭が下がります」

由夏「一応ね」

大輔「それは、絶対このお店食事券の方がお子さんは喜びますよ」

由夏「ありがとう。なにか坂口さんに言われると、他の誰かに言われるよりも一番嬉しいわ」

大輔「係長から御礼を言われると照れちゃいますよ。こうしてみると、人間関係って『お詫び』と『お礼』で成り立っているんだなと、つくづく思いますね」

由夏「ほんとね」


 大輔はふと潤平が言っていた言葉を思い出した。

大輔(『小竹さん、坂口さんのことが好きだよ』)

由夏「ごめんね、いつも坂口さんを引っ張り出しちゃって」

大輔「いえ、いいんですよ。係長の仕事ぶりを見るのは好きですし、勉強になるから」

由夏「そんなこと言ってくれるのは、坂口さんだけよ。他の人は、みんな『甘い!』って言ってるんだから。クレームに対しても、こちらも怒りで倍返しするべきだって言う人もいるのよ」

大輔「私は、反対です。このやり方でいいと思いますよ。恨まれたらおしまいですからね」

由夏「私たちって、いいコンビよね」

大輔「そうですね。だんだん息が合ってきますよね」

由夏「ふふふふふ。やっぱりそう思う?」

大輔「はい」

由夏「ところで、あの松島さんはどうなった? もうすべて解決?」

大輔「はい、前にも報告しました通り、お子さんの海斗君も、いっときは記憶が飛んでいたのですが、今は転んだ瞬間のことを除けば、すべて記憶が戻りました」

由夏「そう、良かった。あの奥さんから何か連絡はあるの?」

 由夏が一番聞きたいところだった。

大輔「いえ、何もありません。こちらからも一切連絡しておりません」

由夏「そうね。もう、すべて解決したことだものね」

大輔「はい」

 由夏が安心した。そこで、由夏が大輔にこの店の食事券が入った封筒を取り出した。

由夏「これ、受け取って。ここの支払いをおごるはずだったけど別々に支払ったのと、急な残業を押し付けたお詫びだから」

 大輔は、その封筒を受け取り、

大輔「中を見てもいいですか?」

由夏「どうぞ」

 封筒の中に2千円分の食事カードが入っていた。

大輔「こんなに?」

由夏「いいのよ。あなたからだって、さっきの奥さんと同じくらいのクレームが、私に来てもおかしくないでしょう? 有無も言わさず、夜の出張に付き合わされたんだから」

大輔「クレームだなんて、逆にいつも係長のこと、尊敬しているんですよ。仕事が出来る人だなって」

由夏「ありがとう。ところで、坂口さんって、好きな人とか付き合っている人って居ないの?」

大輔「いません」

由夏「そうなんだ。ねぇ?」

大輔「はい」

由夏「もしもだけど、もしもよ」

大輔「はい」

由夏「今は、私と坂口さん同じ課でしょう」

大輔「はい」

由夏「次の人事異動で別の課になったら、付き合ってみない? なんか私たちっていいコンビじゃない?」

大輔「そうですね。いいですよ」

 二つ返事だった。

由夏「本当?」

大輔「はい」

由夏「じゃあ、次の異動、どっちか異動するように祈っちゃおうかな?」

 由夏は両手を合わせ、子どもみたいにはしゃいでいた。

大輔「ははははは。係長は仕事の時と、仕事以外の時と、まったく変わるんですね」

由夏「そうよ。仕事中は、市民の目も職員の目もありますからね」


【02】 祈りの人事異動「別の課になったら、付き合ってみない?」


 美浦市役所では、年に1回人事異動を行っていた。そして、その内示の発表は、月末の日から一週間前と決まっていた。そして今日がその内示の日であった。

 一般職員に知らされるのは午後2時が通例で、職員は午後になるとそわそわし始めた。サラリーマンに取っては、悲喜交交ひきこもごものドラマ的な一瞬である。この人事異動がもたらす影響はとてつもなく大きい。中には、退職、転職を余儀なくされる者もいる。

 住民課では、人口を水増しした古岡が主任から係長へ。係長の宇野が主幹になった。主幹とは、係長と課長の間の職である。そして課長の鬼塚は次長となり住民課長兼務となった。それぞれが市長の意向で昇進していた。


 午後2時、国民健康保険課。茂森早紀(しげもり・さき・50歳)課長が部長室から戻って来た。

課長「内示を発表します。みなさん、そのまま聞いてください」

 職員は、自分の机で仕事をしている者、窓口で応対している者、軽作業をしている者、様々だった。

 課長が『4月1日付け人事異動者一覧表』を片手に発表した。

課長「異動する者は、」

 係長の小竹由夏は、ドキドキしていた。普段ほとんど動揺しない由夏が、平常心を失っていた。事務を執る振りをしてボールペンを持ち、下を向きながら思わず目をつぶった。

由夏(私か、坂口さん、どちらかが異動しますように)

課長「森口さん、渡辺さん、」

由夏(次かな?)

課長「中村さん、加藤さん」

由夏(あとは?)

課長「鈴木さん」

由夏(あとは?)

課長「以上5名です」

由夏(えっ! もう終わり!!!)


課長「異動者一覧表を置いておきますので、先に今回の異動者がこの一覧表で異動先を確認し、今日中に異動先に挨拶に行ってください。その後、平沼さんに各担当の分、コピーしていただきますので、担当ごとにコピーで異動者の確認をしてください」

 担当は「保険証発行」「保険税」「後期高齢者」と、3つの担当があった。

 

 由夏は、課長の後半部分の話を聞いていなかった。異動者の名前だけ聞き終わった時点で、気が遠くなりそうだった。過去、高校受験でも、大学受験でも、勝ち組だったのに、初めて負け組に入ってしまった気分だった。

由夏(この前のファーストフード店での出来事は、なんだったんだろう? ぬか喜び?)

 由夏は、自分の人生で過去にないほど落ち込んだ。

由夏(休暇票を出して、帰りたい!)

 同じ「保険証発行」担当の森口歩み(もりぐち・あゆみ・26歳)が、

歩み「異動先、公園緑地課だわ、なんで?」

由夏(でも、帰らない。こんなことで、私の気持ちをみんなに見抜かれたくないわ)

 渡辺育美(わたなべ・いくみ・27歳)が、 

育美「私は、市民病院。わーっ、通うのが遠くなるわ」

由夏(私が坂口さんを好きなこと、絶対にばれないようにしなくちゃ。絶対に!)

 由夏にはプライドがあった。

 平沼潤平(ひらぬま・じゅんぺい・28歳)が『異動者一覧表』を3部コピーして、各担当に1部ずつ配付した。由夏は、それに目もくれなかった。

歩み「この係、好きだったのになぁー」

潤平「公園緑地課とはねぇ。公園だけでも市内に100か所あるし、維持管理からクレーム処理まで大変そうですね」

歩み「うん。もう、がっかりよ。ショックだわ」

育美「市内に公園が100か所もあるなんて知らなかった」

潤平「この前の昇任試験で出題されたらしいよ。『市内の公園の数は?』って。もっとも『50・100・150・200』の4択問題だけれどね」

育美「平沼さんは、受けたんですか?」

潤平「いや、まだ受けるだけの在職年数も足りてないし、考えたことないなぁ」

育美「昇任試験って、良くないですよね」

潤平「どうして?」

育美「だって、受験する職員は仕事中に受験勉強して、電話や窓口にも出なくなっちゃうんですって。他の課の人に聞きました」

潤平「ありそうな話だね。他の市役所では、試験で昇任するのではなく『360度評価』で、昇任を決める所もあるのにね」

育美「『360度評価』って?」

潤平「『上司』『部下』『同僚』『市民』の4方向の角度(90度×4)からの評価を参考に昇任を決める方法だね」

育美「すごーい! 電話や窓口に出なければ『同僚』や『部下』からの評価は下がる訳ですね」

潤平「そうだよね。『同僚』たちからの評価がゼロになるかも知れないからね」


潤平「ところで係長は『異動者一覧表』、ご覧にならないのですか?」

由夏「うん、後で見るからいいわ。みんな先に見て」

潤平「係長、なんか元気ないですね」

由夏「そんなことないわ。いつも通りよ」

潤平「そうですか? なら良いのですが」

由夏「ちょっとがっかりしただけよ、森口さんや渡辺さんが良い所へ行けなくて。私の力不足だったのかな?」

歩み「そんなことないですよ。人事異動なんて、上が勝手に決めることなんですから」

育美「そうですよ。もう、まったく(上は)!」

由夏「そお?」

 その言葉が、また元気が無かったし、気持ちがまったく入っていなかった。言葉の選択もずれていた。そして、また下を向いて字を書き始めた。

潤平は(おやっ?)と、思った。

潤平(いつもなら、もう少し言葉を返してくるのに。慰めだったり、フォローだったり)

 由夏は、字を書いている振りをしながら、

由夏(坂口さんは、この異動をどう思っているんだろう? お互い二人とも異動しなくてほっとしているかしら? それとも残念に思っているかしら?)

由夏(ちょっと、顔を見てみようかしら?)

 由夏は、坂口の席をチラッと見た。そこに坂口は居なかった。坂口はカウンターで接客していた。

由夏(坂口さんが接客していることも知らなかったなんて、私、どうかしている)

 由夏は、カウンターにいる坂口大輔を見た。

由夏(いつもと同じね。そうよね、変わらないわよね、むこうの方がしっかりしているわ)

 さみしく、また、下を向いた。

 潤平は、その由夏の一連の行動をさりげなく、気づかれないように見ていた。


 平沼潤平は、ワンルームマンションに帰ると、坂口大輔に電話した。

潤平「あ、もしもし平沼ですが」

大輔「ああ、どうも」

潤平「今日、係長、異動発表の後、おかしかったぞ。何か知っている?」

大輔「うん、心当たりはある」

潤平「あれだけ、元気が無い係長を、初めて見たよ」

大輔「そんなに落ち込んでいたのか?」

潤平「ああ、ただ事じゃない感じがしたなぁ」

大輔「それ、みんなに気付かれた?」

潤平「いや、みんなは気付いてないと思うけれど」

大輔「そうかぁー」

潤平「いったい何があったんだよ?」

大輔「実はな、」

 大輔は、20日ほど前のファーストフード店でのことを話し始めた。

 話し終わると、

潤平「そうかぁ、それは落ち込むわなぁ。係長、よっぽど坂口さんのことが好きなんだなぁ。前々から僕は感じ取っていたし、僕が言ったとおりだったろう?」

大輔「うん、平沼さんの観察力は大したものだよ」

潤平「だろ」

大輔「自慢しなければ、もっと良い人になれるとは思うけれど」

潤平「ははははは。自慢じゃないさ。わざわざ電話したのは、見ていて係長があまりにも痛々しいから、助けられるのは坂口さんひとりしかいないと思ってね」

大輔「うーん」

潤平「なんだ、喜ぶと思ったのに、返事が重いね。係長のこと嫌いなのか?」

大輔「いや、そんな訳ないさ。嬉しいよ。ただ、こういうの苦手で、どうしたら良いのかわからないだけさ」

潤平「簡単さ」

大輔「えっ? どうすればいいの?」

潤平「坂口さん、車持っているよね」

大輔「うん、あるよ」

潤平「これから係長に電話して、夜のドライブに誘えばいいんだよ。それで、いろいろ話を聞いてあげて、最後別れ際にキスをしてあげれば、明日は係長、いつもどおりに戻っているよ。これは係長だけのためでなく担当職員みんなのためさ。僕、職場の雰囲気、悪いの嫌いなんだ」

大輔「そりゃぁ、みんな、職場の雰囲気が明るい方がいいさ。でも、簡単に言うけれどねぇー、やるのは私だよ」

潤平「前も家でカレーライスを作って食べた時に言ったけれど『頼むから1回だけエッチさせてくれる』というのと違うんだよ。たかがキス、しかも、チョンでいいんだよ。ブチューじゃなくて」

大輔「ちょっ、ちょっ、ちょっと待った!」

潤平「なに?」

大輔「その表現やめてくれ」

潤平「どうして?」

大輔「心臓に悪い」

潤平「うぶなんだなぁー」

大輔「そうだよ」

潤平「お客様からのクレームの方が、よっぽど心臓に悪いと思うけれどなぁ」

大輔「私にとっては、クレーム処理の方がドキドキしないよ」

潤平「僕と正反対だな」

大輔「きっと、慣れの問題だと思うよ」

潤平「『慣れ』じゃなくて、キスに対する考え方だと思うよ」

大輔「それ、どういうこと?」

潤平「坂口さんとか、みんなは『キス』のハードルを高くし過ぎているんだよ」

大輔「高いな」

潤平「僕から言わせれば、棒高跳びのバーぐらいの高さに、みんなしちゃっているんだよ」

大輔「そうだよ。一生記憶に残るぐらいの大きな出来事だろ?」

潤平「それは『キス』の後のことを考えているからじゃないかな? このあとどうしようとか、ひっぱたかれるかな? とか、その先のことに不安を感じているからなんだな」

大輔「ふむふむ。平沼さん『キス』について研究しているの?」

潤平「ははははは。面白いことを言うね。アメリカの家庭みたく、お休みのキスとか、行ってらっしゃいのキスとか、お久しぶりのキスとか、キスをハードルの高さでなく、階段一段の高さだと思えば、なんとも無くなるんじゃないかな?」

大輔「でも、アメリカみたいな習慣が日本にはないからな」

潤平「そう来たか。そもそも、キスって相手の気持ちを和らげるものだろ? もちろん情熱的なものもあるだろうけれど。キスされることで、子供は眠りにつけるんじゃないかな?」

大輔「やはり『キス』について研究しているんだね。大学の卒論が、それだったとか?」

潤平「ははははは。面白いことを言うね」

大輔「どういたしまして。平沼さんほどじゃない」

潤平「とにかく、係長は精神的にかなりまいっていると思うんだ。だからちょっと話だけでも聞いてあげた方がいいと思うよ」

大輔「それくらいなら」

潤平「そして、できればキスを」

大輔「ムリ」

潤平「おぼれている相手に、人工呼吸をすると思えばいい」

大輔「やっぱり、卒論は『キスの研究』だっただろ」

潤平「じゃあな。とにかく電話だけでもしてあげて。僕のお願いだ」

大輔「わかった」

 電話を切った。卓球のダブルス同様、息の合うトークだった。


 大輔は、電話を切るとすぐに、小竹由夏に電話した。潤平の『お願いだ』という言葉に背中を押された感があった。いまひとつはっきりしない大輔にとって、潤平のその言葉は、ありがたかった。

大輔「もしもし、坂口ですけれど」

由夏「はい、あら、どうしたの?」

大輔「突然すみません」

由夏「いいえ、私は全然かまわないけれど。あっそうか、この前、私が言ったことね。いいのよ、気にしないで、忘れて、すべて忘れて」

 由夏は慌てていた、不意の電話に。

大輔「いえ、忘れていません。二人とも異動しませんでしたが、付き合ってみませんか?」

由夏「えっ、いいの?」

 由夏の声色が変わった。

大輔「とりあえず、第一回目として、今夜8時から夜のドライブをしませんか?」

 潤平のシナリオ通りに言葉を発した。何も考えないで済むので助かった。

由夏「本当に? いいわ。行こう行こう!」

 子どもみたいな返事をした。

大輔「では、これから食事して、ちょっと準備するので、8時に係長の家の前に車を着けます。よろしいですか?」

由夏「わかった。楽しみだわ」

大輔「では。そうそう、白い車でナンバーは『25―25』です」

由夏「わかった。じゃあね」

 電話を切った。

 由夏は、さっきまでが嘘のように元気が出た。8時までの間、冷蔵庫の食料で夕食を取り、風呂に浸かった。

 一方、大輔もコンビニのイートインで夕食を取ると、のんびりと風呂に浸かった。場所こそ違うものの、二人のしていることは同じだった。

 由夏は風呂から上がると、

由夏「勝負パンティはと?」

大輔「勝負パンツでも履いていくかな?」

 やっていることも二人は同じだった。


【03】 キスでクレーム?


 時間ピッタリに、坂口大輔はマイカーを小竹由夏のマンションの前に停めた。すぐに由夏がマンションから出てきた。由夏は、大きなマスクとつばの広い日よけ帽をかぶっていた。由夏が自分でドアを開け、大輔の車に乗った。

由夏「お待たせしました」

大輔「ううん、ぜんぜん」

 大輔はすぐに車を走らせた。

大輔「夕食は?」

由夏「済ませたわ。坂口さんは?」

大輔「うん、コンビニで。ちゃちゃちゃっと」

由夏「そうよね。男の人は、そんな感じよね」

大輔「はい。適当に走りますが、どこか行きたいところでもありますか?」

由夏「いいえ、ないわ。すべて任せます」

大輔「はい、では、荒川沿いを、東京へと。静かで車が少ないから」

由夏「うん。変な格好でごめんね。笑っちゃうでしょ?」

 大きなマスク越しに言った。

大輔「別に。なんでもOKです。まったく気にしませんから」

由夏「知り合いに見られても、絶対にばれないように変装してきたの」

大輔「ははははは。完璧です」

由夏「でしょう。まだ同じ課なのに、噂になりたくないから」

大輔「そうですね。同感です」

 大輔は、車の中に小竹由夏の体から出る、シャンプー類の良い香りを感じ取っていた。

大輔(小竹さんも風呂上りなんだ。小竹さんも、勝負下着でも着けているのかな?)

由夏「でも、良かった。坂口さんから電話もらえて」

大輔「そうですか?」

由夏「しかも、こうして会えて」

大輔「私が付き合いのOKを出したのですから、別にどちらかの異動を待たなくてもいいんじゃないですか?」

由夏「ありがとう。良かった、そう言ってもらえて」

大輔「私は、無理はしないようにしていますから。自分の気持ちのまま素直に行動しています」

由夏「そうよね。坂口さんはそうだと思うわ」

大輔「小竹さんは違うんですか?」

由夏「なんか、見栄を張っちゃうのよね。悪い癖ね」

大輔「役職に就いているし、部下もいるから仕方ないんじゃないですか」

由夏「なんか、そうやってフォローしてもらうと落ち着くわ。職場じゃフォローしてくれる人もいないし、頼れる人もいないし」

大輔「私で良ければ、こうやっていくらでも話を聞きますよ。愚痴でもいいし」

由夏「ありがとう。うれしいわ。でも、たくさん愚痴を言ったら、私を嫌いになると思うわ」

大輔「そうですね。そうかも。その時は、こんど私の愚痴を聞いてもらいますよ」

由夏「ふふふふふ。それは、良い考えね。さすがよ」

大輔「お互いに、職場で受けた傷をなめ合えば、治るんじゃないですか?」

 そう言ってから、自分で自分の言った言葉にハッとした。潤平が、

『最後別れ際にキスをしてあげれば』

『人工呼吸だと思ってキスをすればいい』

と、言っていたのを思い出した。

 一方、聞いていた由夏も『なめ合えば』の言葉に一瞬ドキッとした。

由夏(なに、ドキッとしているんだろう。単純な言い回しをしてくれただけなのに。私、なにを期待しているんだろう?)

 慌てて、大輔が

大輔「隣の担当の加藤さん、」

由夏「ええ、今回異動するわね」

大輔「加藤さんの異動先が収税課とは、ひどいですね。税金支払いの催促や差し押さえなど出来るのかなぁ?」

由夏「そうね、市役所で最も過酷な職場ですからね」

大輔「まだ若いし、ふたつ目の課が収税課とは」

由夏「でも、国民健康保険課から収税課って、けっこうお決まりのコースでもあるのよ」

大輔「そうなんだぁ」

 二人は、今日あった人事異動の内示を受けて、それにまつわる話を続けた。


 30分ほどして、運転していた大輔は、荒川べりにちょっとした駐車場があるのを見つけた。もう、東京都に入っていることは間違いないが、それがどこだかはわからなかった。

大輔「ちょっと休んでもいいですか?」

由夏「どうぞ。運転も疲れたでしょう」

大輔「そうでもないですけれど、ちょっとゆっくり落ち着いて、と思って」

由夏「そうよね。運転しながら話したり、聞いたりじゃね」

 駐車場には、まばらに車が停まっていた。近くにはいくつかグラウンドがあるようだ。サッカーだか、野球だかが出来るのだろう。しかし、暗くて二人には良く見えなかった。

 大輔は、他の車から離れた位置に駐車した。

大輔「ちょっとリクライニングを倒します」 

そう言って自分のリクライニングシートを倒した。

大輔「小竹さんも倒しますか?」

小竹「そうね。でも大丈夫、自分で出来るから」

 そう言って、由夏も大輔に合わせる角度でリクライニングを倒した。

大輔「用心のため、ドアロックしますね」

『カチャ』車のドアがロックされた。

小竹「マスクも帽子も取るわ。もう、ここなら知っている人に会わないでしょう」

大輔「ここで、平沼さんとかに会ったらおかしいでしょ」

小竹「ふふふふふ。そうよね」

 外は真っ暗で、何も見えなかった。

大輔「落ち着きますね」

小竹「ええ。実はね、今日、人事異動の発表が終わってから、すごい落ち込んでいたの」

大輔「そうだったんですか?」

小竹「でも、それを隠すために、ずうっと下を向いて仕事している振りをしていたのよ」

大輔「振りだったんですか?」

小竹「仕事も手につかなかったし、したらミスしそうで」

大輔「係長でもですか?」

小竹「係長というよりも、女性としてだったのかなぁ。なんかうまく言えないわ」

 小竹が、大輔と反対の方向を向いた。

 大輔が、その時を狙うかのように、左手で由夏の右手を握りしめた。由夏もそれに応えるかのように強く握り返してきた。

 由夏が顔を戻し、車の天井を見始めた。大輔が、上体を起こし、由夏の唇にチョンとキスをした。会話が途切れ、真っ暗で、タイミングが良かった。もちろん、潤平の後押しが、大輔に最大の勇気を与えたことに間違いはなかった。

 大輔は帰りの別れ際まで待てなかった。今が最大のチャンスだと思った。そして、何より別れ際まで緊張していなければならないことに、耐えられなかった。ここへ来るまでに、もう、緊張の限度に達し、精神力のほとんどを使い果たしていたような気がした。

 大輔は、潤平に言われたとおり、チョンとキスした。今度は、由夏が頭を上げ、強く唇を大輔の口に押しあてた。

 鼻と鼻がぶつかった。

大輔が由夏の首をかばうように、自分の唇と顔を近づけ、由夏の頭をヘッドレストに押し当てた。鼻がぶつからないように大輔が顔を斜めにした。

 ずうっとキスしたままだった。二人とも鼻で呼吸し始めた。

 大輔が顔を離した。

由夏「坂口さんのシャンプーが良い香り」

大輔「小竹さんも」

由夏「『由夏さん』と、呼んでもらってもいいかしら」

大輔「それなら、私も『大輔さん』でお願いします」

由夏「わかりました」

大輔「なにか、仕事みたいですね」

由夏「ふふふふふ」

大輔「へへへへへ」

由夏「念願が叶ったわ」

大輔「それなら、良かった」

由夏「キスが下手でごめんね」

大輔「それは、私もだと思います。不慣れなもので」

由夏「いいえ。ねぇ、もう一度」

 由夏は恥ずかしかったが、言ってみた。

大輔「はい」

 大輔が唇を寄せて行った。由夏はうっすらと唇を開いた。

『カチッ』今度は、歯が当たった。

由夏「ごめん。私の不手際で申し訳ありません」

大輔「こちらこそ、ご無礼しました」

由夏「クレーム対応みたいね」

大輔「癖ですね」

由夏「ふふふふふ」

大輔「ははははは」

由夏「なんでも練習ですよね」

大輔「そうです、練習ですよ」

由夏「たくさん練習しましょう!」

大輔「はい」

 小竹由夏、34歳。坂口大輔、28歳だった。


【04】 2回目のデート「何もかも忘れて、ほっとしますね」


 2週間後。

 小竹由夏と坂口大輔の2回目のデート。前回とまったく同じコースでデートした。今度は、大輔も家を出る時からマスクをした。

 由夏のマンションから。30分ほどのドライブ。

由夏「坂口さんもマスクしてきたのね」

大輔「うん。絶対にばれない方が良いと思って」

由夏「そうよね。絶対に、誰にも知られたくないな」

大輔「いつどこで、誰に見られるかわかりませんからね」

由夏「そうよね」

大輔「しかし、やはり4月は忙しいですね」

由夏「そうね。『離職』に『引っ越し』人の動きが激しいからね。でもここさえ乗り越えれば、あとはなんとかなるわ」

 国民健康保険課、保険証発行担当にとって、『離職』と『引っ越し』は、保険証を発行または回収する大きな要因であった。

大輔「『離職』に『引っ越し』も、忙しい原因のひとつですが、その忙しいときに、新規配属職員が二人というのも、毎年のことながらきついですね」

由夏「そうよ、戦力にならないですもの」

大輔「でも由夏さんが頑張っているから、なんとか持ちこたえてますね」

由夏「いいえ、坂口さんこそ、二人分の仕事をしてもらって、ほんと助かってるわ」

やがて車は、この前と同じ、荒川べりのちょっとした駐車場に着いた。二人は、すぐに抱き合った。もはや、そこまでの過程に気を遣うことも気をもむこともなかった。

由夏「こうしているときが、一番いいな~。職場での今日の疲れが消えていく感じ」

大輔「ええ、何もかも忘れて、ほっとしますね」

由夏「ずうっと、こうしていられたらいいのに」

大輔「うん」


【05】 3回目のデート、「あそこに入ってもいいですか?」


 それからまた2週間後。小竹由夏と坂口大輔の3回目のデート。

 大輔は、前と同じ荒川べりにあるちょっとした駐車場に車を停めた。

大輔「今日は、なんか駐車している車が多いですね」

由夏「なんでだろう、天気のせい?」

大輔「なんでしょうね?」

由夏「ちょっと落ち着かないし、そのうちトイレに行きたくなりそう」

大輔「私もです。すぐそこに公衆トイレがありますが、さすがに怖くて行けないですね」

由夏「無理よ」

大輔「どこか他の場所へ行きますか?」

由夏「うん」

 大輔は、車を荒川の土手から街中へと走らせた。すぐにラブホテルのネオンが見えてきた。

 大輔「あそこに入ってもいいですか?」

 ラブホテルのネオンを指さした。

由夏「うん」

 小さく頷いた。


 二人が部屋に入った。

由夏「きれいなのね。こう言うとこ、入って見たかったんだ」

大輔「ほんと、きれいですね」

 由夏は、いろいろなスイッチをさわり始めた。そのたびに、照明がついたり、消えたりした。大輔は、その様子をベッドに座って見ていた。

由夏「テレビも冷蔵庫もカラオケまであるのね」

大輔「いいですよね。なんでも揃っていて。こんなワンルームマンションを借りたかったな」

由夏「ふふふふふ」

 大輔は、無邪気に笑っている由夏を、初めて可愛いと思った。今までは、やはり係長として見ていたからだろうか、由夏の方が年上だったからだろうか。

由夏「坂口さんの部屋だって、きれいでなんでも揃っているんでしょう?」

大輔「とんでもない。なにもないのに、きたないんです」

由夏「本当かな?」

 そう言いながら、由夏は冷蔵庫を覗いたり、浴室を覗いたりしていた。

大輔「やはり係長は、じゃない、由夏さんは研究熱心で、なんでもすぐ覚えちゃうんでしょうね。仕事みたいに」

由夏「うん、なんでも興味はあるわね。ちょっと、トイレに。ついでにトイレも研究してくるわ」

大輔「はい、どうぞ」

 由夏が、トイレから出てきた。

大輔「私も、トイレ研究してきます」

 入れ替わりで、大輔がトイレに入った。そして、すぐに出てきた。

大輔「お風呂は、どうしますか?」

由夏「男の人から、そう聞かれるのって、なんかリッチな気分ね」

大輔「なんなら、もう一回言いますよ。お風呂は、どうなさいますか?」

由夏「わぁー、結婚したらそう言う会話があるんだろうな。でも、私、結婚願望が無いのよ。かまわない?」

大輔「私もです」

由夏「坂口さんって、なんでも『私もです』って言うんだから」

大輔「はい、考えたり、逆らうのが面倒なんです」

由夏「そう言うところが、好きなんだなぁー」

大輔「良かった!」

由夏「お風呂なんだけれど、実は、家で入って来たんだ」

大輔「私もです。じゃあ、一緒に入りますか?」

由夏「それって、えー、あー、えっ? 」

大輔「うちの洗濯機、二度洗いの機能が付いているんです」

 大輔は二度風呂に入る口実に洗濯機の例を持ち出した。

由夏「いい洗濯機使っているのね。二度洗えば、より綺麗になるわよね」

大輔「背中、流しますよ」

由夏「えーっ! そうね、背中流してもらおうかな? その代わりひとつ条件が、」

大輔「はい、なんでも聞きます」

由夏「電気消して入りません?」

大輔「私もそう思っていました」

由夏「本当に、いつも、そうなんだから」

 大輔が湯を張り、先に風呂に浸かった。後から由夏が暗い浴室に現れた。

由夏「電気消しても、浴槽が光っているのね」

大輔「私が、光るスイッチをオンにしました。あんまり暗いと危ないと思って。由夏さんが入ったら消します」

 由夏が、湯船に入り、大輔はスイッチをオフにした。大輔の左腕と由夏の右腕がくっついていた。


【06】 2つ目のお願い


 子どもの日。美浦市には、子供が元気に遊べる施設『こどもの森』という施設がある。

この施設は、屋内には雨天用の遊び場や軽運動が出来るレクリエーション室、屋外にはアスレチック遊具、恐竜の像などがあった。

海斗「『こどもの森』へ行きたい」

奈美「そうか、今日は子供の日だから、いろいろなイベントをやっているのね」

海斗「うん、クラスの友達もたくさん来るよ」

奈美「わかったわ。ここのところ宿題もよくやっているし、たまには外へ出て、思いっきり遊びましょう」

海斗「やったぁー」

奈美「ねぇ、クラスに伊織ちゃんって居るよね?」

海斗「居るよ」

奈美「頭が良さそうな子ね」

海斗「うん、先生から信頼されている」

奈美「どうしてそんなことがわかるの?」

海斗「授業で先生が誰かを当てる時、正解して欲しい時は伊織ちゃんを指すもん」

奈美「海斗が指される時はないの?」

海斗「あるよ」

奈美「どんな時?」

海斗「笑いが欲しい時」

奈美「ははははは。本当?」

海斗「ほんとだよ。僕、ウソつくの嫌いだもん」

奈美「そうなんだ。ウソつくの嫌いだったんだ。母さん知らなかった」

海斗「ずっと前ね、1年の時」

奈美「うん」

海斗「生活科でね」

奈美「うん」

海斗「先生が葉っぱが1枚もついてない木の写真をみんなに見せたんだ」

奈美「うん」

海斗「そして先生が『季節はいつでしょう?』って聞いたんだ」

奈美「うん」

海斗「先生が『若草(伊織)さん』って指したんだ」

奈美「うん」

海斗「伊織ちゃんが『冬です』と答えたよ」

奈美「正解でしょ」

海斗「うん。そのあと先生が『冬だとわかるのは、なぜですか?』って」

奈美「うん」

海斗「先生が僕を指したんだ」

奈美「うん」

海斗「『伊織ちゃんの顔に目が付いてるから』って」

奈美「ははははは」

海斗「みんなも笑ってた」

奈美「やっぱり、海斗は天才ね。その調子でみんなをもっと笑わすのよ」

海斗「うん。でも僕、笑わすつもりじゃなくて答えたんだけれどなぁ」

奈美「だから海斗は天才なのよ」

海斗「わかった」


 海斗と奈美は『こどもの森』にやって来た。

奈美「うわーっ、すごい人ね」

海斗「うん、小学生がいっぱい来ている」

奈美「出店(でみせ)もこんなに出ているんだ」

 やきそば、唐揚げ、フランクフルト、カレーライス、ドリンク類、出店が並んでいた。

 少し奥では、古着市も開催されていた。

奈美「古着も売っているのね」

海斗「あっ、英二くんに伊織ちゃんも居る」

奈美「お友達もたくさん来ているわね」

海斗「うん」

 海斗と奈美少し歩くと、メインステージが見えてきた。

『こどもの日』までの連休中、メインステージが設置され、そこでは『スーパーヒーロー、セブンレンジャー』が、ステージの上でストーリーを繰り広げていた。

海斗「あれ見たい!」

奈美「いいわね。行こう!」

 二人はステージを見に行った。

 やがて、派手なアクションの「スーパーヒーロー、セブンレンジャー」が終わり、MC(司会者)が登壇した。

 「では、これから、セブンレンジャーがみなさんに会いに行きます。そしてゲストは『健康』をテーマとしたゆるキャラ『ジョーブ君』と『アルクサ姫』。それと美浦市のゆるキャラ『ミズスマッシー』、『ミウラン』の4人も加わり会場内を周ります。お近くに行きましたら握手してくださいね」

 『ミズスマッシー』は、ミズスマシがモデルの男の子。『ミウラン』は美浦市をもじった可愛い女の子だった。

 ステージの裏から、ゆるキャラの4人が登壇し、セブンレンジャーに加わった。ヒーローとゆるキャラ、合計11人がステージを降り会場を周り始めた。

 海斗が本能で、ジョーブ君を追いかけた。奈美は黙って海斗のしたいようにさせた。ジョーブ君は、ステージを降り、小学生の女の子と握手をしていた。その握手が終わると、海斗は、ジョーブ君の足に抱きついた。


 それを見た奈美が、

奈美「あっ! そういうことだったんだ」

 奈美は、少し離れた所からその様子を見て、なぜ海斗が後頭部を打ったのか、ひと目で納得した。

海斗はジョーブ君の前方から足にしがみつき、しばらく動かなかったが、やがて母の奈美の所に戻って来た。

 ジョーブ君の中に入っている坂口大輔は自分の足に誰か抱きついているのが、迂闊にも海斗君だとは気付かなかった。

 ジョーブ君が、ゆっくりと奈美の方へいろいろな子と握手をしながら、近づいて来た。

ジョーブ君の中に入っている坂口大輔は、松島奈美がそこに居ることにまったく気づいていなかった。

 奈美は、そこから無理して逃げようと思えば逃げることもできた。が、海斗がジョーブ君を見つめて動かなかった。

 やがて、ジョーブ君は、松島奈美がそこに立っていることに気づいた。

ジョーブ君(あっ! 会ってはいけない人に会ってしまった)

 ジョーブ君がとっさに踵を返し、くるっと回って方向転換した。奈美から逃げようとしたのだ。


奈美「海斗! 足に抱きついて!!!」

 奈美がジョーブ君を指さし、思わず叫んでいた。

 海斗がすぐにジョーブ君の足を後ろから抱えた。

 ジョーブ君は、以前海斗を倒した経験を生かし、足元に特に注意するようになっていた。学習効果である。二度と同じ事故を起こさないように心掛けていた。

ジョーブ君(海斗君だ! 海斗君がジョーブ君(私)の足を後ろから抱えている)

 ジョーブ君は動くのをあきらめた。

奈美「待って! 行かないで!」

 奈美はジョーブ君の後ろから駈け寄ると、ジョーブ君に聞こえるように言った。

奈美「ねぇ、3つの願いを叶えてくれるんでしょう。病院の帰り、車の中で言ったじゃない。お願い、聞いて!!!」

 奈美が泣きそうに叫んだ。

ジョーブ君「……」

 ジョーブ君は何も言えず、背中で聞いていた。

奈美「2つ目のお願いを使うわ」

ジョーブ君「……」

奈美「私が誤解していたのよ。海斗が倒されたのは、高校生のせいだって聞いたわ」

海斗「うん。ドレミのおじさんが言ってたよ」

奈美「あんなひどいことを言ってごめんなさい。私を許して! それが2つ目のお願いよ」

 奈美が涙を浮かべた。そして、ジョーブ君に横から抱きついた。

奈美「そして3つ目のお願い。また、戻って来て……」

 

 周りで小学生が見ていた。

小学生A「ずるい、ひとり占めして!」

小学生B「大人がジョーブ君を抱いてる!」

小学生C「おばさん、ジョーブ君が好きなの?」

奈美「好きよ、大好きよ!!!」

小学生A「えーっ、ずるーい」

奈美「みんなだって、ジョーブ君のこと好きでしょう?」

小学生B「うん」

小学生A「でも、そんなに好きなら、おばちゃんに譲ってもいいよ」

奈美「ふふふふふ」

 奈美が、泣きながら笑った。誰が『おばちゃん』なんだ? と笑い、止めようとしても、止めようとしても自分の告白に涙が止まらなかった。

小学生C「おばちゃん、泣いてるの? 笑ってるの?」

奈美「両方よ」


 ジョーブ君は、両手を使って奈美と海斗と一緒に握手をし、それからステージの裏へと戻って行った。

ジョーブ君がステージの裏に入ろうとした瞬間、段差につまずいて転んだ。手から地面に落ちた。

 会場から笑いが起きた。

ジョーブ君(いてててて。最後に転ぶなんて。昔、古典の授業で習った徒然草の『高名の木登り』ってやつだな)

 徒然草の『高名の木登り』では『木の高い所では怖くて気をつけるが、降りてきて安全な場所まで来ると、気が緩んで過ちが起こるものだ』と説いている。

観客「さすがプロの芸人ね。ウケ狙いで転んだのよ」

ジョーブ君(それが、ウケ狙いじゃないんだな。マジで転んだんだよ。それにプロの芸人じゃねーし)

 ジョーブ君は起き上がると、会場のみんなに手を振った。海斗と奈美も力いっぱい手を振り返した。

ジョーブ君(動揺しているのかな? 転ぶなんて。あの親子は、私にとって大切な人、それとも疫病神?)

海斗「お母さん、ジョーブ君のこと好きなんだ?」

奈美「ああやって転ぶのも、市民ためにやっているんでしょう。好きだわー。海斗だって好きでしょう?」

海斗「うん」

奈美「あーあ、お腹空いちゃった。なんか食べよう!」

海斗「うん!」

奈美「海斗、なに、食べたい?」

海斗「フランクフルト!」

奈美「いいわねぇ。何本食べる? 2本? 3本?」

海斗「そんなにいらないよ。お母さん嬉しそうだね」

奈美「じゃぁ唐揚げも買って、フランクフルトを一口食べて、空いた棒の先で唐揚げを刺して食べて、またフランクフルトを一口食べて、空いた棒の先で唐揚げを刺して食べる、なんてどう?」

海斗「お母さん食欲があるんだね。それに元気そう」

奈美「うん。泣いたら、スッキリしちゃったからね」

海斗「泣いてスッキリするの?」

奈美「半年分のモヤモヤが、涙と一緒に体外に出たのね」

海斗「我慢していたおしっこと同じ? あれもスッキリするよね」

奈美「そう、同じよ! でも、限界まで我慢していたおしっこには負けるかも?」

海斗「ははははは」

奈美「ふふふふふ」


【07】 奈美との復縁


 その日の夜。

 坂口大輔が、半年ぶりに、松島奈美の部屋にやって来た。

 大輔は奈美の部屋に着くと、まず始めに海斗を強く抱きしめた。次に、奈美と抱き合った。それだけで、半年間のわだかまりが、すべて消えて行った。

 海斗が冷蔵庫からアイスを1本取り出し、

海斗「市役所のお兄さん、食べる?」

大輔「ううん、食べない」

海斗「わかった」

 そう言うと袋からアイスを取り出し、振り回し始めた。

大輔「まだ、あのおまじないやってるんだ」

奈美「そうなの。変わってるでしょ」

大輔「ううん。愛想が良くなったよ」

奈美「ありがとう」

 海斗は5、6回アイスを振り回して食べ始めた。

大輔「海斗君、」

海斗「はい」

大輔「学校でいじめられたりしてない?」

海斗「大丈夫。そうだ、今日道徳でね」

大輔「うん」

海斗「いじめについて勉強した」

大輔「それはいいことだね。どんなことを教わったの?」

海斗「いじめに遭わないためには、三角関係が大切だって」

大輔「『三角関係』?」

海斗「うん、三角関係。人と人との関係、学校だとクラスの仲間との関係」

奈美「それ『人間関係』じゃない?」

海斗「そうか」

 海斗はテレビのある部屋へと移動しテレビゲームをやり始めた。 


 海斗がテレビゲームに夢中になると、

奈美「戻ってきてくれてありがとう」

大輔「約束だからね」

奈美「嬉しい」

大輔「でも、最初に言っておきたいことがあるんだ」

奈美「うん」

大輔「実は、付き合っている女性がいる」

奈美「うん」

大輔「相手は、同じ国民健康保険課の係長、小竹さんなんだ」

奈美「秋石病院で会った人ね」

大輔「うん」

奈美「あなたと同じようにやさしいし、それに美人だわね」

大輔「うん」

奈美「もう、深い関係よね」

大輔「うん」

奈美「じゃぁ、私たちの関係は終わりなのね?」

大輔「……」

奈美「私が、いけなかったのよ。大輔さんの親切が偽善かと思ったら、悔しさがこみあげてきて、憎しみが抑えきれなかったのよ」

大輔「……」

奈美「それだけ、大輔さんのことが好きだったのよ。本当に好きだったから、」

大輔「いや、奈美さんは、ちっとも悪くないよ」

奈美「でも、いいの。自業自得。いくら怒っていても抑えないとね。私のこれからの人生に、きっと役立つわよね」

大輔「いや、奈美さんさえ良ければ、結婚は出来ないけれど、付き合いたいと思っています」

奈美「ほんとに?」

大輔「本当です」

奈美「私は良いけれど、小竹さんが、それを許すかしら?」

大輔「わかりません。が、これから聞いてみます」

奈美「そうね。明日は、休みだし、泊まって行く?」

大輔「そうですね」

 しばらくして海斗が大輔と奈美の所に戻って来た。

海斗「そうか、人間関係か」

奈美「そうよ。人間と人間、お互い尊敬して、仲良くしましょう、ってことよ」

海斗「同じようなことを先生が言ってた」

奈美「でしょう」

海斗「じゃぁ『三角関係』って何?」


 その夜、三人は並んで寝た。海斗が眠るのを待ち、眠ったのを確認して二人は深い関係へと入って行った。


【08】 二股と一夫多妻制


 数日後。

 坂口大輔が、住民課の戸部考一の所に来ていた。午後5時15分、終業のチャイムが鳴ると同時に、相談に来たのだった。

坂口「突然、すみません」

戸部「はい、なんでしょう?」

坂口「戸籍について、教えていただきたいのですが、」

戸部「わかる範囲でなら」

 戸部は、美浦市役所で一番戸籍に詳しかったので、いろいろな職員が相談に来ていた。

坂口「時間過ぎてますが、大丈夫ですか?」

戸部「全然大丈夫ですよ。いつも1時間ぐらいは、帰れませんから」

坂口「なら、良かった。いくつかお聞きしたいのですが、まず、ご主人が失踪したケースなんですが、」

戸部「はい」

坂口「失踪から5年経った場合、離婚が出来ますか?」

戸部「簡単に結論から申し上げれば、3年以上たっているので『離婚』が可能です。また、7年以上経てば『失踪宣告』により『死亡』とみなすこともできます」

坂口「細かく言うと?」

 戸部は、細部について説明した。

戸部「もし、そのご家庭に、お子さんが居るようでしたら『離婚』でなく、『死亡』を選択した方が良いかも知れませんね」

坂口「えっ、どうしてですか?」

戸部「遺族年金が出るかも知れませんので」

坂口「そうなんですか?」

 遺族年金は「死亡」が要件となる。これには実際の死亡だけでなく、行方不明により失踪宣告を受けたことによる死亡も含まれる。

戸部「詳しいことは、年金課の金塚さんに聞くと良いと思いますよ」

坂口「戸籍のことは戸部さんで、年金のことは金塚さんですね」

戸部「ははははは」

 褒められて照れるのを笑ってごまかした。

坂口「ついでに、もうひとつ」

戸部「はい」

坂口「アフリカとかだと『一夫多妻制』の国ってありますよね」

戸部「はい、ありますね」

坂口「例えば『一夫多妻制』の国の男性と『一夫一婦制』の日本の女性が、結婚するってことは出来るんですか?」

 坂口は、突然思いついたこと。『一夫多妻制』について知りたくなった。特に女性の気持ちを知りたくなった。

戸部「簡単に結論から申し上げれば、一夫多妻制の国の男性の第二夫人になることはできません」

坂口「細かく言うと?」

戸部「ごめんなさい坂口さん。細かく言うと本当にキリがないんですよ」

坂口「そうなんですね。そんなに複雑なんですか?」

戸部「ええ。仮に世界に200の国と地域があるとしたら、200通りの法律があるわけですから、そのすべてをお話しするのは無理です」

坂口「日本では、やはり『重婚禁止』なんですね」

戸部「はい。日本では、『一夫一婦制』ですね。きっと、大昔の持てない男が、そう言う決まりを作ったんでしょう。『一夫多妻制』では、モテない男の所に嫁が来ないと思って」

坂口「ははははは。戸部さんでも、そう言う冗談を言うんですね」

戸部「これ、実は私の心境なんですよ。ははははは」

戸部が大声で笑った。

戸部「私はモテないからいまだに独身です」

坂口「そんなことは、無いでしょうけど」

戸部「『一夫多妻制』の国といっても、いろんなパターンがあり過ぎて」

坂口「あり過ぎてですか?」

戸部「ええ。『エジプト』とか『モロッコ』とかは、現在の妻の許可を取らないと、次の妻をめとれない、みたいな」

坂口「そうですよね。なんでも相手の『ご理解とご協力』が必要ですよね」

戸部「ははははは。うまいことを言いますね。日本では、結婚していなくとも、二股騒ぎで、芸能人とかが、週刊誌のネタにされますからね」

 坂口が自分に結び付けて、ドキッとした。

坂口「そうですね。最後にひとつ。日本は、まだ『夫婦別姓』は認められていませんよね?」

戸部「はい、認められていません」

坂口「ありがとうございました。以上です」

戸部「お疲れ様でした」

 坂口の最後の質問は、自分の二股をごまかすための質問だった。

坂口は、国民健康保険課に戻りながら、

坂口(ふーっ、危ない危ない。怪しまれないうちに、戻れて良かった)

坂口(『二股』か。あまり良い言葉じゃないな。自分はそんなつもりはなかったんだけれど)

坂口(すべては、成り行きだったんだ。学校から奈美さんへの誤報。私が言った『3つの願いを叶えます』という言葉、そこからこうなってしまったんだ)

坂口(奈美さんからの復縁を断れば、それは『約束破り』になる)

坂口(どうしようも無かったのさ。とにかく奈美さん、由夏さん、自分の3人が一番幸せになる方法を取るしかないんだよ)


 週末、金曜日の夜。

 大輔と由夏は、この前と同じラブホテルに居た。

大輔「実は、話があるんだ」

由夏「えっ! いやよ、そんな真剣な顔をして」

 大輔は、『こどもの森』でのイベントから始まり、学校側が『ジョーブ君が海斗君を蹴飛ばした』と言ったこと。奈美が『高校生のせいだ』と知ったこと。大輔が『3つ、願いを叶える』と言ったこと。奈美から『好きだ』と言われたこと。月曜日に奈美の家に泊まったこと。すべてを包み隠さず話した。

由夏「わかった。月曜日は泊ったんだ」

大輔「うん」

由夏「もちろん、そう言う関係よね」

大輔「うん」

由夏「そして、その誤解がなければ、私が入る隙は無かったのよね」

大輔「……」

由夏「私のほうが、後だもんね」

大輔「……」

由夏「私は、別れたくないな。結婚は希望してないし。いいじゃない、深い友達で。坂口さんが良ければ、深い友達で行きましょうよ。ダメ?」

大輔「私は、いつも受け身ですから」

由夏「ゴメン。聞き方が悪かったわ。私は、深い友達でいたいの。あなたは?」

大輔「私もです」

由夏「ふふふふふ。良かった。」

 二人は、浴室に向かった。

由夏「もう、坂口さんの真剣な顔を、見たくないわ」

大輔「ごめん」

由夏「大丈夫よ。その内きっと私、自然に別れるから」

大輔「うん」

 由夏がキスをした。


【09】 二股の合意成立?


翌日、土曜日の夕方。

 坂口大輔は、松島奈美の部屋を訪ねた。

奈美「どうだった、小竹さんは?」

大輔「私と奈美さんの関係を理解した上で『深い友達で行きましょう。その内、自然に別れるから』って言ってた」

奈美「そう、良かった。安心したわ」

大輔「うん」

奈美「本来なら、あなたと小竹さんの方がお似合いだものね。私なんか、子持ちのおばちゃんだもん」

大輔「全然気にしてないよ。そうそう、彼女は、結婚願望が無いんだ」

奈美「それは、私もだから。結婚はもういいわ」

大輔「今のご主人さんとは?」

奈美「去年、弁護士さんと相談して『失踪宣告』の手続きを取ったわ」

大輔「『失踪宣告』か」

奈美「うん。将来的には『離婚』か『死亡』か、迷ったんだけれど、弁護士さんも私も、『死亡』の方が良いという結論になったの。私の言っていることわかる?」

大輔「うん、わかるよ」

奈美「さすが公務員ね。私なんか、最初、さっぱりわからなかったけれど」

大輔「公示期間は?」

奈美「あと一か月で公示期間も終わり、審判が確定するわ。そうしたら、十日以内に『審判書謄本』と『確定証明書』を持って市役所の戸籍係に行く予定よ」

大輔「うん。これでスッキリするね」

奈美「ええ、新しくやり直すわ」

大輔「すごいね。しっかりしてるね」

奈美「大輔さんが『市役所で行ってる弁護士による『法律相談』を利用するのが良いですね』と、言ってくれたからよ」

大輔「そうか。それは良かった」

奈美「すべて、大輔さんのお陰だわ」


 その後、大輔は海斗のテレビゲームの相手をし、奈美はその間に夕食の支度をした。

 食後、再度大輔は海斗のテレビゲームの相手をし、ときどき海斗の話し相手にもなっていた。

 間もなくして、大輔が海斗の相手から離れ、奈美の所で休憩した。

奈美「海斗の相手も疲れるでしょう?」

大輔「私も楽しんでいるから大丈夫」

奈美「ならいいけど」

大輔「こういうのが、一般的な家庭の景色なんだろうな」

奈美「どうしたの? 改まっちゃって?」

大輔「いや、何も」

奈美「ほんとかな? 何か迷っているんじゃないの?」

大輔「『何か』って?」

奈美「これからのことよ」

大輔「『これから』か?」

奈美「うん。これって、世間に言わせれば『二股』でしょう?」

大輔「そうとも言えるけれど、その言葉は不適切のような気がするなぁ」

奈美「だったら何?」

大輔「なんだろう? すぐに言葉が出ないけれど……う~ん、小竹さんとは『恋愛体験』で、松島さんとは『家庭体験』かな? とにかく、私にとっては、どちらも初めての体験で、今後の私の人生、私の仕事に必ず役に立つ、貴重な体験になると思うな」

奈美「そうね。『二股』じゃなくて『ふたつの異なる男女生活の実体験中』がいいわね」

大輔「その通り!」

奈美「そうね。そうだわ、きっと」

大輔「たまたま、その2つの体験を私は同時にしているだけで、他の人は順番を追ってひとつずつ体験して行くんだろうなぁ」

奈美「男女の関係なんて、恋愛して、結婚して、そして離婚よね。その内、私たちも別れるわよ」

大輔「うん。すべて、なるがままさ。考えるより、今を毎日楽しく生きるだけさ」

奈美「賛成! 楽しまなくっちゃぁ!」

大輔「うん。また、海斗君の相手をするかな」

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【後書き】

 本編をお読みいただき、誠にありがとうございました。

 本編の出発点は、一人の公務員が着ぐるみ「ジョーブ君」として子どもと向き合う中で起きた重大な「事故」でした。本エピソードでは、五月の晴天の下、初夏の風のように爽やかで、それでいて少しほろ苦い「大人の決着」を描いています。


● 「笑い」と「許し」の物語

 主人公のひとり海斗のキャラクターは、本作の清涼剤です。先生に「笑いが欲しい時」に指名される彼は、一見おどけて見えますが、実は誰よりも素直に世界を観察しています。彼がジョーブ君の足に抱きついたのは、かつて自分を転ばせた相手への復讐ではなく、純粋な再会の喜びと親愛の情からでした。

 母・奈美がその姿を見て、かつての頑なな心を解き、自らの非を認めて「2つ目のお願い」を使うシーンは、本作における精神的なクライマックスです。人間は間違える生き物ですが、それを認めて笑い合えた時、半年間の「モヤモヤ」は涙と共に体外へ排出され、浄化されるのだという願いを込めました。


● 「二股」という選択のリアリティ

 物語の後半、坂口大輔が直面するのは、二人の女性との関係という非常に世俗的で複雑な問題です。しかし、ここで描きたかったのはドロドロとした愛憎劇ではなく、現代における「救い」の形でした。

 戸部が語る戸籍や法律のドライな現実と、由夏や奈美が示す「結婚に縛られない関係」という選択肢。大輔が口にする「恋愛体験」と「家庭体験」という言葉は、不誠実に見えるかもしれませんが、彼なりの誠実な着地点でもあります。誰もが「正解」を求めて彷徨う中で、あえて「なるがまま」を受け入れた彼の姿は、どこか現代的な家族のひとつの帰結のようにも思えます。


● 最後に

 ジョーブ君が最後に段差で転ぶシーンは、『徒然草』の「高名の木登り」を引用しました。一息ついた瞬間にこそ、人生の転機(あるいは転倒)は訪れます。しかし、転んでも起き上がり、また手を振って歩き出す。そんな不器用な大人たちの営みを、読者の皆様が少しでも愛おしく感じていただけたなら幸いです。

 海斗の問いかけた「三角関係」の真意は、まだ彼には早いかもしれません。けれど、彼が大人になる頃には、もう少し自由で優しい「人間関係」が広がっていることを願って、筆を置かせていただきます。

 最後までお付き合いくださった読者の皆様に、心より感謝申し上げます。m(__)m

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【作品への評価(ポイント)とブックマークのお願い】

 最後までお読みいただきありがとうございます!

 

 ジョーブ君(大輔)と奈美、そして海斗。止まっていた時間がようやく動き出し、2つ目の願いによって「許し」、3つ目の願いによって「復縁」を描きました。


 もしこのお話を面白いと思ってくださったら、ぜひ下の**【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】**にして応援いただけると嬉しいです!

 ジョーブ君のように転ばないよう、一歩ずつ大切に物語を紡いでいこうと思います。よろしくお願いします!

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