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女子ボートレーサー と市役所職員  作者: 池井 けい
第3章 ボートレース予想プロ集団の結成
26/40

06 ♡レンタルビデオとお化け(前編)

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【あらまし】(このエピソードはホラーコメディです。他のエピソードを読まないで、このエピソード前後編だけ読んでも楽しめます。)


 平沼潤平はワンルームマンションに住んでいる。ある日潤平は、大家と不動産会社の会話から、真上の部屋で女性が亡くなったことを知ってしまう。それから潤平の生活は一変してしまう。

 深夜、部屋の上から「ポタッ、ポタッ」と音が聞こえて来るのだ。潤平は怖くなり、職場の同僚たちを部屋に招いて悩みを打ち明ける。

潤平「真上の303号室に住んでいた女性が浴室でリストカットして自死したらしい」

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【主な登場人物】

三輪詩音 31歳女 レンタルビデオ店店長

平沼潤平 28歳男 国民健康保険課主事

坂口大輔 28歳男 国民健康保険課主事

小竹由夏 33歳女 国民健康保険課係長

森口歩み 26歳女 国民健康保険課主事

姫野祐希 25歳女 国民健康保険課主事

渡辺育美 27歳女 国民健康保険課主事

平沼潤平の住むワンルームマンション大家

平沼潤平の住む物件の不動産会社社員

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【前書き】

●この小説には多くの数字が出てきます。そこで読者の皆様が読み易いように横書きとなっております

●多人数での会話も多いことから、誰が話しているのか、すぐにわかるよう会話の頭に台本形式で、氏または名を付けて表現しました

●この物語はフィクションです。実在の個人・団体、実際のレースとは一切関係ありません。ボートレーサーと市役所職員をモデルに、フィクションとして制作されたものです

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【01】 平沼潤平の真上の部屋で自死……


 平沼潤平(ひらぬま・じゅんぺい)は、国民健康保険課の若手職員である。同じ課の坂口大輔とは同い年であるが、同期入所ではない。ただ、同じ独身で同じ卓球部でダブルスを組むほど仲が良かった。

 私生活では、ワンルームマンションに住み、なんの不自由もなく、勝手気ままに過ごしている。

 ところが、ある日を境に、その生活が一変したのだった。


 潤平は、レンタルビデオ店に居た。棚に並んだ山ほどのビデオ・DVDを眺めている。

潤平(まぁなんと本数の多いことか、SM・スカトロ・レイプ・ロリータ・痴漢だの異常なのばかり。なぜ、まともなごく普通のがないんだろ。『明るく楽しいセックスライフ』とか『ハッピー夫婦の新婚一夜』とかがいいな。自分で作ろうかな。ははははは、ムリムリ)

潤平(それにしてもこの店だけでも何本あるのか、何百、何千、小さな町の人口ぐらいの女性が出演しているんじゃないかと思うほどあるな。エッチビデオのいいところのひとつは、そのタイトルのおもしろさだよな、『ウルトラの父』を文字って『ウルトラの乳』とか、伊丹十三監督の映画『マルサの女』を文字って『ワルサの女』とか、イタリアの女優チチョリーナを文字って『人妻グッチョリーナ』とか、よく考えるよな、感心しちゃうね)

 そこに黒縁メガネに白いマスクをした女性店員が入ってきた。返却されたビデオ・DVDを元の棚に戻している。レンタルビデオ店にとってアダルト物は大事な収入源となる。一般物に比べて安定して借りられている。ある意味女性の生理用品と同じように男性の生理用品なのだ。潤平は、数あるエッチビデオから、潤平が厳選に厳選を重ねた2本を借りて家に帰った。


 潤平が住んでいるのはワンルームマンション、各階3部屋の3階建て、合計9部屋、そこの2階奥203号室が平沼潤平の部屋である。その日、潤平は休みで昼近くまで寝ていた。起きて部屋の空気の入れ替えに、ベランダへ出てガラス戸を少し開けた。不動産会社の社員と大家の話し声が真上の部屋から聞こえてきた。

大家「まさか、このお風呂場で女性が死ぬなんてねぇ」

社員「バスユニットはすべて新品のものと交換しますから」

大家「そうよね。次の入居者だって人が亡くなった湯船で、お湯に浸かっているのもいやでしょうし」

潤平(げっ、リストカットかなぁ? お風呂の湯が見る見る赤く染まって、血の海に……、考えただけでもぞっとする)

 ブルブル、鳥肌が立った。

潤平(若い女性が、なんでそんなことを……。ひとこと僕に相談してくれれば、悩みを聞いてあげて、そっとやさしく抱いて、美浦市役所へ連れて行って、いろいろ守ってやったのになぁー)

潤平(それにしてももったいない、大事な、大事な命なのに。それに血液も、もったいない。世の中、輸血用の血液が足らなくて困っているのに。自死する人間に言いたいのは「電車に飛び込む前に、成分輸血をしなさい」「リストカットする前に400ccの輸血をしなさい」ってね。献血をしてから自死について考えたら? って言いたいね。ひょっとしたら献血センターで、センター職員との出会いから死を思いとどまるかも知れないし、それが恋に発展して生きる活力を生むかも知れないし。とにかく生きているだけで、ひとのために絶対に役に立つんだから! ということを知ってほしいなぁー。嫌なことがあったら、そこから逃げればいいんだよ)

 潤平はつくづくそう思った。


社員「それで今後のお家賃はいかがいたしましょうか」

大家「やはり下げないとダメかしら」

社員「そうですねぇ、後からそう言う事実がわかった場合、トラブルのもとですから」

大家「それもそうよねぇ、まったく大損だわ」

社員「はい」

大家「今後はそう言う人が入居しないようよく見てよ」

社員「それがわかれば苦労はしないんですが……、申し訳ございませんでした」

潤平(いやぁ、起きた早々いやな話を聞いちゃったなぁ。なんかしばらくは頭にこびりついて離れそうもないや)

潤平(自死したなんてちっとも知らなかったなぁ。もっとも部屋には寝に帰るだけでほとんど居ないからな。隣に誰が住んでいるのかも、真上の303号室が、空き部屋になっていたことも知らなかった)


【02】 階段でぶつかりそうになったのがきっかけで意識する?


 それから1ヶ月後のことだった。

潤平がマンションの階段を途中まで昇ると降りてくる女性がいた。中肉中背の派手でもなく地味でもなく、メガネをかけているわけでもなく、どこでも見かけそうな女性だった。

 潤平は、ぶつかりそうになったので右へよけた。すると相手の女性も同じ方向へよけた。またぶつかりそうになった。思わず潤平は左へよけた、すると相手も同じ方向へよけた。またぶつかりそうになった。結局4回よけることになった。

 そこで、二人は立ち止まった。

二人「すみません」二人が同時に言った。

 そのタイミングまでもが、また一緒だった。偶然が何度も重なった。

女性「ふふふふふ、気が合うんですね」、

 潤平は微笑みを返し、

潤平「どうぞ」と言って片手を斜めに差し出した。

女性「はい」と言いながら下へ降りていった。

 時間にすれば、ほんの一瞬、たったそれだけの短い時間の出来事だった。

潤平(小綺麗な人だなぁ)

 潤平はそう思った。


 前にも集合ポストや階段などですれ違っていたかもしれない、しかし人間あるときから妙に意識し始めることがある、それまではまったく意識していなかったのに。

 例えばいつも同じ電車に乗っていたはずなのに、ある日席を譲られたときから意識し始める。同じ会社に勤めながら名前も顔も知らなかったのに食堂で相席になったときからその人の存在を意識し始める。まさにこの出来事もそうだった。

潤平(小綺麗な人だったな。3階に住んでいるのかな? いや、多分、来訪者だな? 今まで見たことないし、すれ違ったこともない。結婚しているのかな? まぁそんなことはどうでもいいか)

 と、思いながらも実は潤平は気にしていた。


【03】 深夜2時半、天井から「ポタッ、ポタッ」


 それから数日が過ぎたある夜のことだった。

 深夜にふと目が覚めた。潤平にしてはめずらしいことだった。時間で言えば、夜中の2時か3時か。部屋の中は真っ暗で、時計は見えなかった。部屋の上から「ポタッ、ポタッ」と音がした。その音と音とのの間隔は短かった。

潤平(まさかこんな時間に何の液体が……)

 そのこぼれ落ちるような音から、潤平の顔の上にその液体が落ちてきそうに思えた。だが顔の上に落ちてくる訳もないし、はずもない。それとも布団の上に落ちているのか?

「ポタッ、ポタッ」

 音は絶え間なく続いている。ただその落ちる間隔は、心なしか開き始めたように思えた。

潤平(気のせいだ、気のせい)

 潤平は布団をかぶった。

潤平(でも、やっぱりかすかに聞こえてくる)

「ポタッ、ポタッ」

 その後も音は続いた。潤平が再び眠りにつくまでに、随分時間を費やしたような気がした。


 それからの数日間は「ポタッ、ポタッ」という音を聞くことはなかった。

 ある日、潤平はマンションの入り口にある集合ポストの名札を見た。潤平の部屋は203号室、そして真上の部屋は303号室、303号室に名札は付いていなかった。

潤平(まだ、空き室なのか? あの「ポタッ、ポタッ」という音は何だったたろう? 雨? いや、そんなはずはない。あの日は、寝る前も起きた後も雨は降っていなかった)

潤平(ここ何日かは逆に雨が降っているのに「ポタッ、ポタッ」の音は聞いてない。まぁ、もっとも昼間疲れすぎて夜はよく眠れているからな。夜中起きることもないし、)

潤平(でも待てよ、もし夜中、起きていたらあの音は聞こえるのかな? いやいや、やめよう。考えただけでもぞっとする。夜は眠るためにあるんだ。ぐっすり眠って体力を充電して翌日に備えるんだ。……美浦市役所に来てくださるお客様のためにも)

 潤平は、自問自答しながら眠りについた。


 数日後。

 潤平は深夜にまたふと目が覚めた。

潤平(ビールを飲み過ぎたかな。トイレ、)

 トイレに行きたくなった。潤平はトイレに行き用を足し、再び布団に入った。電気を消し、そして目をつぶり寝ようとした。

「ポタッ、ポタッ」

 潤平の耳に聞こえてきた。

潤平「うわっ!」

「ポタッ、ポタッ」

 この前と同じ音だった。

「ポタッ、ポタッ」

潤平(もはや気のせいではない。一度立ち上がっているし、部屋の中も歩いている)

「ポタッ、ポタッ」

 なんとも不気味な音だった。

潤平(いや、やっぱり気のせいだ)

 潤平は自分に言い聞かせた。

 布団をかぶった。でも、かすかに聞こえる。

「ポタッ、ポタッ」

 その後も「ポタッ、ポタッ」

 音は続いた。眠りたくとも眠れない。

潤平(なんなんだ、この状況は!)

 潤平の頭の中に、本人の意思に逆らって、勝手にイメージが飛び込んできた。浴室で女性が湯船に入り、左手首をリストカットする。そして左手がだらーんと浴槽の外へ伸びている。宙に浮いた女性の手首から赤い血が「ポタッ、ポタッ」と洗い場のタイルへとしたたり落ちる。

(うわーっ、やめてくれ!)

 イメージを消そうとするが消そうとすればするほど頭に焼き付いた。

 それから30分、それとも1時間が過ぎたろうか。

「ポタッ、ポタッ」

 その音は、次第に遠のいていった。潤平が眠りに入ったのはそれからだった。


【04】 愛している人に「愛してる」って言えますか?


 数日後。

 潤平の部屋に国民健康保険課の若手職員が集まっていた。夕飯はカレーライスを作って食べることになり、女性陣が作ってみんなで食べた。潤平は、自分の部屋が気味悪いので、無理矢理仲間を呼び寄せ、気分転換を図ろうとしていた。

潤平「みんな聞いてくれる、実はここ数日間、僕のアパートで奇妙なことが起こっているんだ」

育美「えっ、どんなこと?」

 渡辺育美(わたなべ・いくみ)、ひとつ下の後輩である。

潤平「僕が住んでいるのは3階建てワンルームマンションの2階奥203号室。そして数ヶ月前、真上の303号室に住んでた女性が浴室でリストカットして自死したんだ」

祐希「おぉ~」

 手のひらで口を覆い、目をつぶり、首を横に振った。

 姫野祐希(ひめの・ゆき)、アルクサ姫のマスコット人形に入ることもある。 

歩み「気味悪い」

 森口歩み(もりぐち・あゆみ)、住民課へ実態調査依頼などを担当している。

大輔「それで?」声で言った。

 坂口大輔(さかぐち・だいすけ)、ジョーブ君のマスコット人形に入ることもある。

潤平「うん、それで、最近、夜寝ていると天井から音が聞こえてくるんだ」

育美「どんな音?」

潤平「『ポタッ、ポタッ』と」

祐希「キャッ!」

大輔「血の滴る音か?」

 一瞬みんな静まりかえった。

歩み「昼間、その音は聞こえないの?」

潤平「聞こえない」

歩み「聞こえるのは夜だけ?」

潤平「そう、しかも真夜中」

育美「やっぱり死にきれなかったのね」

潤平「ば、バカなこと言うなよ」

育美「絶対そうよ、何か思い残したことがあるのよ」

大輔「例えば、」

由夏「愛している人に『愛してる』って言えなかったとか、」

潤平「そんなことで自死? 『愛してる』なんて誰でも言えるだろ」

由夏「そうかしら?」

 由夏が、間髪を入れずに言った。

育美「特に日本人は『愛してる』って言わないんじゃない」

潤平「そうかなぁ?」

歩み「平沼さんは、好きになった人に『愛してる』って言えますか?」

潤平「あったりまえよ、たかが『愛してる』だけだろ、自分の気持ちを素直に音声に変えて、口から発すればいいだけじゃないか」

由夏「それがそうじゃないのよね」

大輔「なんかわかる気がする」

潤平「だって、たかが『愛してる』だけだよ。『頼むから1回だけエッチさせてくれる』とかと違うんだよ。それぐらい言えるさ」

祐希「それと、比べます?」

由夏「まったくデリカシーが無いんだから」

潤平「それはともかく、なんで夜の夜中に、しかも僕に向かってその女の怨霊が出てこなくちゃいけないんだよ」

大輔「平沼さんは、なにか、その女性に悪いことしなかったか?」

潤平「悪いことどころか顔すら見たことがない。」

大輔「えっ会ったこともないのか?」

潤平「あぁ、そうだよ」

大輔「その女性はいつ頃から住んでいたのかな?」

潤平「それも知らない」

育美「まぁいいじゃない。それより平沼さんは、この部屋で、ひとりで寝るのが怖いんでしょ」

潤平「う~ん、」

由夏「返事がはっきりしてないわよ」

潤平「う~ん、」

育美「怪しいわね。坂口さん、今日ここに泊まっていってあげたら」

潤平「そうだ、たまには将棋でもやるか。ははははは」

大輔「将棋はできないんだ」

潤平「じゃぁトランプゲームでも。ははははは」

大輔「二人でか?」

潤平「じゃぁタロット占いでもやるか。ははははは」

祐希「自分で自分を占った方がいいんじゃない?」

潤平「ははははは」

育美「まぁ、そう言うことで、坂口さんを残してみんな帰るから、あとよろしくね」

大輔「えっ! みんな帰るのか、それひどいんじゃないの?」

歩み「坂口さんも怨霊が怖いんですか?」

大輔「いや全然」

育美「じゃぁいいじゃないの。仲間でしょ」

祐希「じゃぁね」

 女性たちが帰っていった。


 部屋には潤平と大輔だけが残った。お互いの目が合った。

大輔「男ふたりか、地獄絵図だな」

潤平「まぁそう言うなって」

大輔「でもな……」

潤平「二人で黙って抱き合ったまま朝を向かえればいいんだから」

大輔「勘弁してくれ」

潤平「奈美さんとは、そうしたんだろ。同じことをするだけだよ」

 大輔は、潤平だけには松島奈美とのことを話していた。

大輔「私は男に興味はない」

潤平「じゃぁ奈美さんには興味があるのか?」

大輔「いや、そう言う訳じゃ……」

潤平「おぬしもはっきりしない人じゃのぉ」

大輔「この前、別れたんだ」

潤平「別れた? はっきりそう言われたのか?」

大輔「いや、そう言う訳じゃ……」

潤平「おぬしもはっきりしない人じゃのぉ」

大輔「別のセリフはないのか?」

潤平「そう言うツッコミは、まだできるんだ」

大輔「ははははは。実は、私とジョーブ君が、同一人物ということがばれてしまったんだ」

潤平「それがどうして別れる理由になるんだ?」

大輔「彼女は、息子の海斗君が、ジョーブ君に蹴飛ばされて脳震とうを起こしたと学校から聞かされているんだ」

潤平「ジョーブ君は、高校生に突き飛ばされたんだろう。その勢いで、その息子さんもドミノ倒しのように倒れた。そうじゃなかったのかい?」

大輔「多分そうだと思うが、私も人形の中に居たから、事実関係がよくわからないんだよ」

潤平「それもそうだな。しかも背中側からぶつかってきたんだし」

大輔「うん。しかし、松島さんとしては、私が海斗君を蹴飛ばしておきながら、知らぬ振りして自分に近づいて来た、と思っている。だから、もう私のことを信用できなくなったのさ」

潤平「そう言うことか」

大輔「私自身も、子ども家庭課から、松島さんが『ジフ(児童扶養手当)』を受給している以上、中途半端な付き合い方は周囲の誤解を招くから注意するよう言われた」

潤平「それも一理あるな」

大輔「ということで、もう付き合っていないんだ」

潤平「そうか、別れたのか」

大輔「うん。これで良かったんだと思うよ」

潤平「どうして?」

大輔「海斗君の本当の父親が戻ってくるのが、一番の幸せなんじゃないのかな?」

潤平「でも、もう何年だっけ?」

大輔「3年」

潤平「もう3年も戻ってこないし、まったく連絡も消息もないんだろう?」

大輔「うん」

潤平「死んでるかも知れないよなぁ」

大輔「可能性は、大だな」

潤平「うーん、難しいな」

大輔「何が難しいんだい?」

潤平「松島さんて、年上でお子さんも居るんだろう?」

大輔「そうだよ」

潤平「今夜のカレーパーティーでも思ったんだが、うちの係長、」

大輔「小竹係長か?」

潤平「うん、小竹さん、坂口さんのことが好きだよ」

大輔「そうかなぁ?」

潤平「今までずうっと一緒に居て、気付かない?」

大輔「考えてなかった」

潤平「今日だって、若手で集まるはずが、唯一30代の係長まで来たんだよ」

大輔「同じ係だから、というつもりできたんじゃないのかなぁ?」

潤平「誰も誘ってないのに、みんなの話が聞こえて、『じゃぁ私も!』って来たんだよ」

大輔「そう言えばそうだったな」

潤平「普通なら遠慮して、聞こえても聞こえない振りして、若い者同士に任せるんじゃないかい?」

大輔「確かに。あの係長、仕事では絶対にでしゃばんないもんなぁ。むしろ控え目なくらいだ」

潤平「だろ。じゃぁ『なんで、今日はここに来たんだろう?』って考えると、やはり、坂口さん目当てとしか考えられないんだ」

大輔「他に女性がいるのに? そう考えるかな?」

潤平「仕事では若手にやさしいけれど、恋愛に関しては若手に負けたくなかったんじゃないかな?」

大輔「そんなことってあるの?」

潤平「カレーだって、小竹係長が率先して作っていたし『私料理も出来るのよ』って、アピールしたいのと、手料理と言えるかどうかわからないけれど、自分の作ったものを坂口さんに食べさせたかったんじゃないかな?」

大輔「私に食べさせたかったんじゃなくて、平沼さんに食べさせたかったんだと思うよ?」

潤平「絶対にない! 小竹さん、僕にはまったく興味ないみたいだよ。坂口さんに話すときの見る目と、僕に話すときの見る目じゃ、まったく違うね」

大輔「そうかなぁ?」

潤平「気付かない方がおかしいよ。それに今日来た若手女性陣もそれを感じていたからこそ、おとなしくしていたんだよ」

大輔「自分が、物事、あまり考えない方だからなぁ。流れるまま、というか、『自然体』で生きているというか、」

潤平「KY(空気を読まない)というか。だな」

大輔「うん、確かに私は『KY』かもな?」

潤平「今日の会話で、僕が、『《愛してる》なんて誰でも言えるだろ』って、言ったら、小竹係長が間髪を入れずに『そうかしら?』って、言ったのをおぼえてないかい?」

大輔「その会話があったのは覚えているが、誰が言ったのかは覚えていない」

潤平「あれは、小竹さんが坂口さんに対して言っているように僕には聞こえたんだ」

大輔「係長は『愛してる』って言えないタイプなんだ?」

潤平「小竹さんの方が、坂口さんより、5歳ぐらい年上だろ。自分からは言えないさ」

大輔「松島さんも、私より6歳年上だと思ったな」

潤平「さっきの会話の時も、松島さんのことを考えていたから、小竹さんの気持ちに気付かなかったんだよ」

大輔「うーん」

潤平「坂口さん、怒らないし、やさしいし、だから年上の女性からもてるんじゃないかな?」

大輔「うーん。でも、私は、平沼さんほど面白くないし、平沼さんみたいに率直じゃないし、はっきりしないところがあるけれどなぁ」

潤平「坂口さんも相当面白いと思うよ。ただ、坂口さんは、ふたつの顔を持っているような気がする」

大輔「確かに、二面性があるかも。平沼さんは恋人、いないの?」

潤平「僕が面白いとしても、女性は僕を友達にはするけれど、恋人にはしないと思うよ。ははははは」

大輔「そうかなぁ。なんなら、私が恋人になろうか?」

潤平「考えておく」

 二人はしばらくの間、なんだかんだ世間話をして、その後別々に布団を敷き横になった。

大輔「悪いけど先に寝かせてもらうよ、何かあったら揺り動かして起こしてくれ」

潤平「わかった」

大輔「じゃぁ」

 いつしか二人は眠りについていた。その日、あの『ポタッ、ポタッ』という音は聞こえなかった。


【05】 潤平の目に真っ赤な血の海が


 翌日。

 潤平はめずらしく自分の部屋でひとりさみしく夜食を作って食べた。普段なら外食してそのまま部屋に帰ってきて寝てしまうのだが、昨夜のカレーが残っていたので、それを片づけるためにもレトルトご飯をチンして、食べたのだった。昨日は、オージービーフ、トマト、福神漬け、バナナ、みんなが差し入れしてくれた。

潤平「みんなのおかげで食費が浮いた。さて風呂に入って、あとは寝るだけだ」

潤平「今日も怨霊は休みだろう」

潤平はひとりごとをぶつぶつ言いながら風呂に入った。

潤平「いい風呂だ。風呂はいいなぁ。僕は、なんて幸せなんだろう。それなのに、この真上の人ときたら何を悩んでか知らないけれど、風呂に入りながら死んでしまうなんて、」


 そのときだった。

「ガッシャーン!」と物音がした。キッチンで皿が落ちたような音がした。それが浴室まで聞こえたのだった。

潤平「うわっ!」

(誰も居ないはずだよな、この部屋には僕ひとり。なぜ皿が落ちるんだ、キッチンに誰か居るのか?)

潤平(ドアの鍵は、かけたよな。うん、間違いなくかけた。じゃぁ、どうやって部屋に入ったんだ? 誰か居るのか? 怨霊、まさか?)

身体が凍り付いた。湯船に浸かったまま動けなかった。神経が張りつめた。静かにして聞き耳を立てたが、その後は一切物音がしなかった。1分、2分、3分と時が過ぎていった。

 お湯の音がしないように立ち上がり、そーっと湯船から出ると、ドアを開け脱衣所兼洗面所から脱ぎ捨てたジーンズとトレーナーを取り上げ浴室で身につけた。下着はつけなかった。とりあえずそのまま外へ逃げ出しても恥ずかしくない格好に急いで整えた。


 次に歯ブラシを2本取り出し、十字に構えた。

潤平(相手がドラキュラなら、これで退治できるぞ)と、思った。

 と、いうよりも本当はバットとかゴルフクラブとか防具になりそうな物を手にしたかったのだが洗面所にあった唯一の棒状の物が歯ブラシだったのだ。

潤平(待てよ。女性の怨霊にも十字架は効くのか?)

潤平(その亡くなった女性がキリスト教でなく、仏教だったら効かないよな?)

潤平(作家の小泉八雲の物語に『体にお経を書くと良い』と、あったっけ)

 潤平は、トレーナーを脱ぎ、練り歯磨きを人差し指につけ、体の左乳首から右下へ斜めに『おきょう』と書いた。

潤平(これで、和洋どちらのお化けが出ても大丈夫だぞ!)


 耳をすましながら脱衣所のドアをそーっと開けた。そして、その隙間から辺りを見回した。

 何かあればいつでも逃げ出すつもりだった。心臓がバクバクしていた。

潤平(右オーライ、左オーライ。車は来ない、人も居ない。ここは横断歩道か?)

 潤平は恐怖を隠すために、ひとりツッコミをしていた。

誰も居なかった。それでも注意深く、用心深くキッチンへと向かった。ゆっくり静かにキッチンに着いた。流し場に目を向けると、洗い桶に積まれていた食器類が崩れ落ちていた。

潤平「この音か?」

潤平がつぶやいた。

潤平(でも、なぜ突然崩れ落ちたんだ?)

 疑問が湧いた。すぐそばの小窓から風が入ってきていた。よく見ると2cmぐらい開いていた。窓格子(まどごうし)があるので直接風が入るほどの透き間ではないが、強風が吹くと流しにも風が届いた。昨日みんなでカレーを作って食べたから誰かがこの窓を開けたのかもしれない……。

 とりあえず潤平はほっとした。

潤平「誰もいなくて良かった。風のいたずらか、まったくあいつら皿ぐらい洗って行けよ! まぁ、そのまま皿を洗わず積み上げていた自分も悪かったのだが」

潤平「その罰か?」

 自分に言い聞かせた。この日はそれで終わった。


 その2日後。

潤平は夢を見た。この部屋の風呂に女性が入っている。風呂のドアが開いている。顔は、後ろ向きでよく見えない。でもよく見ると、この前階段でぶつかりそうになったこのマンションの3階に住む女性だった。

潤平(なぜ、この部屋で彼女が風呂に入っているんだ?)

 部屋にいた潤平と目が合った。彼女が微笑んだ。なぜか誘われるように潤平は服を脱ぎ同じ風呂に入った。湯船に向き合って入った。

 両足の膝から下が、二人がピッタリ合うように座った。両手をつないだ。お互いで引っ張り合うように。彼女は楽しそうに笑った。しかし声が聞こえない。無声映画のように。そして何も喋らない。でもなぜか潤平は楽しかった。

 女性と二人で風呂に入っているということだけで幸せだった。そこに特に会話が無くとも楽しかった。その行為は未知の体験であり、これが自分の願望であり、それが叶ったからだろうか。


 とにかく潤平の顔はほころんでいた。少しして潤平は彼女の向きを変えた。右手を離し、左手で握っていた彼女の手を右手に持ち替えた。そして彼女をくるっと回して向きを変えた。彼女が背中を向いた。潤平は、彼女の両脇の下から自分の両腕をまっすぐ入れた。二人の足がまっすぐ伸ばせた。

 潤平は彼女の脇の下に入れた両腕を、彼女の胸の上で組んだ。胸の柔らかい感触が伝わって来た。女性は背中で潤平の胸板を感じ取っていた。その潤平の組まれた手の上に彼女の両手が置かれた。彼女は、潤平の手をもてあそんでいた。

 二人にとって、至福の時間であった。彼女の左肩の上に、潤平は自分の顔を乗せた。そして潤平はゆっくりと目をつぶるといつしかそのまま湯船で寝てしまった。


 しばらくして潤平は湯船で目が覚めた。その瞬間、潤平は、これでもかというほど目を見開き、目を丸くした。息を飲んだ。潤平の目に真っ赤な血の海が飛び込んできた。自分を包む周りのお湯が真っ赤に染まっていた。潤平の顔から血の気が引いた。彼女の肩越しから見える彼女の手首から血が流れていた。彼女はすでにぐったりし、息絶えていた。潤平の両腕により、かろうじて沈まずにいた。潤平の眠っている間にリストカットしたのだ。


潤平「うわーっ!」

 潤平は、大きな声で叫ぶと同時に夢から目が覚めた。

潤平は思った、

潤平(何だったんだ、今の夢は?)

潤平(夢? ただの夢? 本当に偶然見た夢?)

潤平(それとも、それとも……、)

潤平(ついに3階の真上の部屋の風呂場で自死した亡霊が、僕の夢にまで出てきたのか?)

潤平(しかも自死した時と同じ光景を僕に見せようと?)

潤平(自死した彼女は、恋人と一緒に風呂に入ったことがあり、それを思い出して同じ場所で、)

潤平(それを伝えたい相手が、僕だったのか)

潤平(彼女の霊が乗り移ったのか、僕に?)

潤平(いや、それは言葉が違うな。僕は男だし、正気だし。だから「乗り移った」のではなく「取り憑かれた」のか?)

潤平(ぶるぶる。いやな夢を見ちゃったなぁ)

潤平(それにしても、なんで夢に出てきた女性があの階段で出会った女なんだ?)

潤平(あの階段で出会った女が、実は自死した女の亡霊? 変わり身か?)

潤平(まさか……)

潤平(でもあれ以来、あの女に会ってないぞ。あの時だけだ。あれが最初で、あれが最後?)

潤平(あの4回の鉢合わせは、今の悪夢の予兆?)

潤平(それとも、たまたま会わないだけ?)

潤平(いや、実はあの女が亡霊で、階段でぶつかりそうになったとき、僕に狙いを付けたんだ)

潤平(次に僕の部屋をのぞきに来て、山積みの皿を崩した)

潤平(そして僕の夢を占領して出てきた)

潤平(となると、明日からまた夢に出てくるのか?)

潤平(うーっ、考えたくない)

潤平(大輔、助けてくれ~)


【06】 「潤平はやっぱり変態だったんだ」


 翌日、潤平はこの前部屋に来たみんなを集め、居酒屋『輪多輪多(わたわた)』に来ていた。そして今までの出来事をすべて話した。

歩み「あなたが変態だからそう言う夢を見たのよ」

祐希「やっぱり変態だったんだ」

潤平「『やっぱり』とはなんだよ。前からみんなそう思っていたのか?」

由夏「そうよ。坂口さんと違って」

潤平「大輔、なんとか言ってくれよ」

大輔「軽度の変態だと思うよ」

潤平「それ、助けになってないだろ」

大輔「重度にしなかっただけ助けたつもりなんだが」

潤平「お前はやさしい人だよ」

大輔「ありがとう」

潤平「女性と一緒に風呂に入った夢くらいで変態になるのか?」、

育美「いつもそう思っているから夢に出るのよ。変態!」

祐希「変態!」

歩み「変態!」

潤平「へんたーい、止まれ!」

大輔「ははははは」

由夏「自衛隊みたいね」

潤平「昔から『健全な肉体には、健全なスケベ心が宿る』という言葉があるだろう」

由夏「名言ね」

歩み「それ誰が言ったんですか?」

潤平「僕」

育美「やっぱりね」

 育美があきれた。

潤平「なぜ、僕が言ったとわかったんだ?」

歩み「あなたしか、そんな名言考えつかないわよ」

潤平「ははははは。そんなことよりみんな本当に僕のこと心配しているのかい?」

全員「全然」

潤平「何だそれ」こけながら言った。

全員「ふふふふふ」


潤平「僕は呪われているんだぞ!」

祐希「何か恨まれるようなことしたんじゃないの」

潤平「僕は取り憑かれているんだぞ!」

祐希「何か悪いことしたんじゃないの」

潤平「僕は眠れないんだぞ!」

由夏「坂口さんを貸すわよ」

大輔「えっ、ええーーーっ」

由夏「そんなに驚くことはないでしょう」

大輔「なんでまた私が潤平の所に行かなくちゃいけないんだ?」

由夏「だって他はみんな女性よ。ひとつの部屋に、女性と変態が2人で寝られるわけないでしょう。だから、『坂口さんをお貸しします』と、言ったのよ」

潤平「チョット待った! 誰が変態なんだ、」

全員「あなたよ」指さしながら言った。

全員「ふふふふふ」

大輔「ははははは」

潤平「指をさすな、指を。失礼だぞ。わかった、わかったよ、大輔と寝るからいいよ」

大輔「勘弁してくれよ、何で私が変態と寝なくちゃいけないんだ」

由夏「坂口さんは、あの日、松島さんの部屋にも泊ったんじゃないの?」

 みんなが一瞬にして凍り付いた。

 由夏はずうっと気になっていたことを口にした。由夏は気になって仕方なかった。由夏はアルコールを口にすると理性が薄れるタイプだった。

大輔「えっ?」

 明らかに大輔は動揺していた。誰の目にも、それは、大輔が認めたものだと感じた。

歩み「あの日、私が、坂口さんが帰って来ないから『まさか、松島さんの家に泊りがけでお子さんを看護しているのかしら?』って言ったんです」

由夏「で、私が翌日、坂口さんのワイシャツが随分シワだらけだったから、『ちゃんと家に帰ったのかしら?』って言ったのよ」

潤平「あの日、大輔は、うちに泊りました。で、大輔の『お子さんが脳震とうを起こして、まいっちゃったよ』っていう愚痴を聞いていたんです」

 潤平がこの空気を読んで、ばれていると知りながらも嘘で取りつくろった。

歩み「そうだったのね。良かった」

 なん人かが、この『良かった』の意味をどう解釈すれば良いのか、迷っていた。

祐希「潤平さんが亡霊を怖がっているから、大輔さん、いっそ潤平さんのマンションに引っ越したら?」

潤平「そうだ、そうすれば家賃も半々で済む」

大輔「冗談じゃない」

祐希「二人なら、お似合いよ」

 なんだかんだその日潤平と大輔は相当飲み、かなり酔っぱらった。女性陣の後押しもあり、結局大輔は潤平の部屋へ行くハメとなった。


 二人は店を出て夜道をふらふら歩いていた。潤平のマンションが見えてきた。潤平がふと自分のマンションを見るとぼんやり女性が入っていくように見えた。二人はマンションにたどり着いた。潤平の真上の部屋に灯りがついていた。


潤平「着いた、着いた」

大輔「着いたな、布団はあるのか」

潤平「あるよ、今敷くからちょっと待っててくれ」

 潤平は布団を敷き、大輔も手伝った。敷き終わると大輔はごろんと横になった。

大輔「何かあったら、すぐ起こしてくれ」

大輔はそう言うとすぐに寝てしまった。

潤平「うん、わかった」潤平も寝た。

 アルコールが二人をスムーズに眠りに落としていった。


【07】 「ポタッ!」「ポタッ!」大輔、出たぞ!


 それから何時間が経ったろうか、潤平はトイレに行きたくなって目が覚めた。さすがにビールを飲み過ぎた。重い身体をお越し、ぼーっとしたままトイレの便器に座った。潤平はトイレのとき、小でも大でも便座に座る。座って用を足していた。

「ポタッ!」突然耳に飛び込んできた。

まさに真上から自分の頭に降ってくる感じで聞こえた。いっぺんに目が覚めた、同時に酔いも覚めた。自分の耳を疑った。まさに自分の頭に落ちてくるように音は聞こえた、しかし血は落ちてこない。

「ポタッ!」、

「うわーっ!」潤平は叫んだ。

 トイレの水も流さないまま飛び出した。

「大輔、出たぞ!」潤平は大輔に抱きついた。


 そのとき大輔は夢を見ていた。やはりあのときの松島奈美との一夜が忘れられず夢を見ていた。


【夢のシーン】

奈美「もっと強く抱いてくれますか?」

大輔「……」黙って強く抱きしめた。

奈美「もっと」

大輔「……」もっと強く抱きしめた。

大輔「痛くない?」

奈美「大丈夫。痛くてもいいの」

大輔「……」

奈美「誰かと居ることが体感できるから」

大輔「……」

奈美「抱き合ってわかることってあるでしょう?」

大輔「……」


潤平「大輔起きてくれよ、頼む!」

 必死にすがりつく潤平。しかし、夢の真っ只中にいる大輔は、それを奈美の抱擁だと勘違いした。力強い腕が、潤平の体をがっしりと引き寄せた。

潤平「ん……?」

 潤平の頭の中が、おかしくなっていた。


 その頃、潤平の部屋の真上の部屋では。浴室で三輪詩音(みわ・しおん)が洗濯物を浴室内に干していた。三輪詩音は、先日階段のところで潤平とすれ違った女性である。

 風呂に入りながらその日の洗濯物を手洗いし、そのまま浴室に干す、それが詩音の習慣だった。時間とクリーニング代を節約するためである。下着類は絞るが、ブラウスなどシワになるものはまったく絞らず干すのが、詩音の流儀である。そう言うときはかなりの滴が垂れ、その音は延々と続いた。詩音の部屋よりもその滴の音は下の部屋へと響いた。しかし詩音はそのことにまったく気付いていなかった。


 詩音は、ひとりぶつぶつ、つぶやきながらゴシゴシ洗い物をしていた。

詩音「こんな所で亡くなるなんてねぇ、でも、お陰で家賃は25%引きだし、バスユニットは新品だし、いいことばかり、」

詩音「事故物件は告知義務があり、そう言う物件を探すサイトまであるから助かるわ」

詩音「不動産会社の説明では、働き盛りの50代で離婚して、ひとり暮らしを始めてお風呂に入ったら心肺停止で死亡。突然死ということだったわ」

詩音「離婚して、やっと自由な生活になれたと思ったら死亡かぁ。それも人生よねぇ~」

詩音「私も死ぬときは湯船の中で死にたいなぁ~。寝たきりになったり、長い闘病生活のうえで逝くより、あ~ったかい湯に浸かってそのまま意識が無くなる……、それが人間の死としては最高の死に方かも」

詩音「でも死に方は良いとしても、その女性、何かやりたかったことがあったんだろうなぁ、思い残したことはないのかしら?」

詩音「この部屋を借りて、ひとりになって、さて、これからというときに、何をやりたかったんだろう?」

詩音「やっぱり、私と同じ、仕事かな?」

詩音「何かやりたかったはずよねぇ……」

 そのときだった、階下から悲鳴のような叫び声が聞こえた。

潤平「うわーっ!」

詩音「何やってんだろう下の人は、こんな時間に」


 一方、真下の部屋、潤平の部屋では……・

潤平「起きろよ大輔、男二人で抱き合っている場合じゃないだろう、何のためにお前に来てもらったと思ってるんだ、」

 それでも大輔は夢心地だった。大輔は潤平を強く抱いていた。

潤平「まったく馬鹿力なんだから、また奈美さんの夢でも見てるんだろ、」

「ポタッ!」

潤平「うぉーっ!」思わず叫んでしまった。

 しかも今度はなにやら女性の声が聞こえる、何を言っているかはわからない、耳をすまして聞いても何を言っているのかはわからなかったが、確かに女性の声は聞こえる。しかもこんな時間に。

潤平「だいすけ~!」


 真上の詩音の部屋。

詩音「あれっ、また聞こえた悲鳴が。まったくあいつ、何をやってるんだ」

 詩音は潤平を知っていた。なぜなら詩音は、潤平がよく行くレンタルビデオ店の店長だからである。潤平の部屋がどこかも知っていた。何度か見かけたからである。


【08】 エロビデオしか借りない潤平が好印象?


【詩音のひとり言(始まり)】


詩音「あいつ、ホラー映画でも見て悲鳴をあげているのかな?」

詩音「いや、そんなことはない、あいつはうちの店で『人妻グッチョリーナ』とかエロしか借りたことがないんだから」

詩音「でも、あいついいところあるのよね」

詩音「私ら店員が返却されたビデオやDVDを棚へ戻すときに、スーッと何気なく、どいてくれるし、」

詩音「この何気なくがいいのよね」

詩音「気を使ってどいてやっているんだよ、という押しつけがなくて」

詩音「中には全然どかないお客様もいるし」

詩音「この点は、あいつの『好印象ポイント』1ポイント獲得」


詩音「次がアダルトビデオ『グッチョリーナ事件』」

詩音「新しいアルバイトさんが店に入り、マネージャーの私は、『もしお客様がビデオをふたつ借りて、5巻と7巻というように巻数を飛んで借りるような場合は、お客様が棚から間違って持って来た可能性がありますので、『お客様、○○は5巻と7巻ですがよろしいですか?』と必ず聞いて確認してくださいね』と教えたのよね」

詩音「そしたらあいつが『グッチョリーナ1巻』と『グッチョリーナ3巻』を持ってレジカウンターに現れたのよ」

詩音「そこですかさずその新入のバイトさんが『このグッチョリーナ1巻と3巻ですがよろしいですか?』と、しかも大きな声で」

詩音「その瞬間あいつは顔を真っ赤にして恥ずかしそうに……、それを聞いていた私まで恥ずかしくなったわ」

詩音「でもあいつ『ええ、前回2巻だけ借りたのでOKです』と。正直者よねぇ、なにかそのとき好印象を持ったわ」

詩音「これで『好印象ポイント』プラス2ポイント獲得、累計3ポイント」

詩音「そうそうそれ以来、お客様に確認するときは、絶対にタイトル名を言わずに、ビデオを持って『こちらは』と言うようにしたのよね」


詩音「次に私がレンタル料金入力を間違えた件」

詩音「準新作DVDが3ヶ月を過ぎて一般料金にしなければいけなかったのに、料金改訂入力を私がすっかり忘れてしまい、一般の棚にDVDを並べながら料金は準新作料金のまま」

詩音「それをまた運悪くあいつが借りたのよねぇ」

詩音「レジで『準新作料金』で請求したら、あいつが『あれっ、一般の棚にありましたけど……』と。ケースを見たら確かに準新作のシールがなく、入力し忘れたことを思い出したのよね。つまり私のミス。『どうもすみません、私の不手際で』と言ったら『いつも一生懸命やっているのに忙しいから仕方ないですよ』って、私、涙が出そうになったっけ」

詩音「これが『好印象ポイント』プラス3ポイント獲得、累計6ポイント」


詩音「次がアンパンマン事件」

詩音「『アンパンマンシリーズ』は幼児・子供向けなのでほとんどが棚の下の方に置いてある。しかし数本だけあまりに古い物があったので、ちょっと上の方に置いておいたら、ある男の子の手が届かなくて、じーっと見ていた」

詩音「ずーっと頭を上げて見つめ続けていたので、あいつが手を伸ばして『これかい』と聞くと、男の子は黙って指を右へ動かした。隣のビデオをちょっと浮かして『これかい』と聞くと、その男の子は無言でウンとうなずいた」

詩音「普通はこれで終わりなんだけど、あいつは違った。……男の子が『アンパンマン』のケースに書かれてある説明と写真をじーっと見つめ、見終わるまで待って『どうだ、おもしろそうか?』とたずねると、男の子が『あれも見たい』と指さした、あいつはもう1本ビデオを取ってあげた」

詩音「男の子は、またそのケースの説明と写真をじーっと見た。男の子はまた別のビデオを指さした。後でわかったんだけれど、その男の子は親に『1本だけだよ』と、親に言われていたのね」

詩音「そうとも知らずにあいつはその子に長時間付き合って、最後に男の子が『これに決めた』と言うと、選ばれなかったビデオを黙って棚に戻していた」

詩音「男の子は嬉しそうにビデオを抱えて、親が居る韓国ドラマの方へ行ったっけ」

詩音「それをあいつは楽しそうにその戻した棚の位置から見ていたっけ」

詩音「これで『好印象ポイント』プラス4ポイント獲得、累計10ポイント」


詩音「他にも『冬のソナタ事件』などあるけど、もうそこであいつの『好印象ポイント』が合計10点になったから、私が勝手にあいつに対して好きになっちゃったのよねぇ」

詩音「私の愛は、ポイントカードと一緒だから」

詩音「とにかくあいつはやさしい、その一言ね。しかも正直者だし」

詩音「人は外見じゃなく中身よ、でも愛って何だろ? 『愛はやさしさ』かなぁ、人に対しても、物に対しても、」


【詩音のひとり言(終わり)】


【09】 「で、出たっ……、」「うわぁーーーーーっ!」


詩音「そうだ、あいつに注意して来なきゃ『こんな真夜中に奇声を発しているんじゃない!』って」

 詩音は入浴がてらの洗濯を終え、身支度を整え、洗い髪のまま階段を降りて行った。そして潤平の部屋の前まで来た。

詩音「『注意』か、お店以外で初めて話すのにいきなり『注意』じゃ嫌われちゃうかも、いくらあいつがやさしいと言っても最初の印象って大事だからなぁ」

 詩音は、潤平の部屋のドアの前まで来て、ぶつぶつつぶやいていた。

詩音「これって惚れているから悩むってことかな、好きな人じゃなきゃこんなに悩むことはないわよね。簡単に言えるのに」

詩音「そうだ! 『注意』と思うから踏み切れないのよね。平沼さんの家に強盗が入り脅かされているのか『心配』になって見に来た、と言えばいいのよ!」

詩音「そうよ、『あなたのことが心配で見に来たの』って、ソフトに言えばいいのよ! しかも真剣に心配しているような顔をして。ふふふふふ。物は言いようね」


 潤平はドアの方から女性の声がするのに気付いた。潤平はそっちの方を見た。キッチンの小窓に、だらーんと長い髪が下がった女性の影がぼんやり映っていた。

潤平「で、出たっ……、」

 潤平は腰を抜かしていた。声もろくに出ない。

潤平(あれが亡霊か、いやっ樹木か、そうだ樹木と思うことにしよう、決めた。じゅもく、じゅもく、じゅもくのごこうのすりきれ、かいじゃりすいぎょ、すいぎょうまつ)

 潤平は気が動転し落語の『寿限無(じゅげむ)』を唱え始めた。もっとも『じゅもく、じゅもく』ではなく、落語では『じゅげむ、じゅげむ』なのだが。


 外から、

『あなたのことが心配で……』

(うわっ、聞こえた女の声が、聞こえた、本物だ、しかも影が動いている、こっちを見ている)

潤平「うわぁーーーーーっ!」

 潤平は、部屋に戻り、思いっきり大輔に抱きついた。

そして「助けてくれ~っ、たのむ大輔!!!」


 ドアの外。

詩音(あれっ「ダイスケ」って聞こえたけど、友達が来ているのね、強盗じゃなかったんだ。じゃぁ、いいっか、多少の奇声は私が我慢するわ。時間も時間だし部屋に戻ろうっと)

 詩音は3階の自分の部屋へと戻って行った。


 潤平の部屋。

「助けて~、大輔」、潤平が大輔を揺り動かした。

「う、う~ん」大輔は寝ぼけていた。

潤平「お化けだ、お化けが居るんだよ」

大輔「う、う~ん」

潤平「たのむよ~、一生に一度のお願いだ、目を覚ましてくれ」

 潤平、今度は映画『ロミオとジュリエット』のワンシーンを浮かべながら、熱いセリフを言った。

大輔「……出たのか」大輔が目を開けた。

潤平「出た」

大輔「まだ居るのか?」

潤平「居る」

大輔「どこに?」

潤平「ドアの外」

大輔「チャイムが鳴ったのか?」

潤平「いや」

大輔「ちょっと待ってもらうよう言ってくれ」

潤平「無理」

大輔「どうして?」

潤平「ひとりじゃ無理」

大輔「しょうがないなぁ」

 大輔はしぶしぶ体を起こした。潤平は大輔を先頭にして、大輔の体を後ろから押すようにしてドアへと向かった。


大輔「宅配便ですか?」

 と言ってからドアを開けた。しかし誰も居なかった。ドアの外へ出て左右を見渡した。人影もなかった。

潤平「こんな夜中に、宅配便なわけないだろう」

大輔「再配達、夜中の3時で頼まなかったのか?」

潤平「誰が頼むか!」

大輔「誰も居ないな」

潤平「そうか」

大輔「どんなお化けが出たんだ?」

潤平「若い女の影が窓に映ったんだよ」

大輔「若い女?」

潤平「長い髪がだらんと垂れていた。90のばあさんが、あんな長い髪、しないだろう」

大輔「わからんぞ、今どきの関西のおばちゃんは」

潤平「しかも、何かぶつぶつ言っていた」

大輔「なんて言ってたんだ?」

潤平「言ってる内容は、ほとんど聞き取れなかった。唯一聞こえたのは『あなたのことが心配で』だ」

大輔「潤平、おまえ何か心当たりはないのか。昔、女に冷たくしてそのうえ海に捨てたとか、去年女から金を借りてギャンブルに使ってしまったとか、3日前に女がせっかく作ってくれた弁当をトイレに捨てて流したとか」

潤平「すごい例えばかりだな、なんでそう言う例えが浮かぶんだ」

大輔「テレビでそんなニュースをやっていた」

潤平「弁当の話もか?」

大輔「いや、それだけは違う。友達にそれがもとで別れたヤツがいた」

潤平「そうか、悲しい別れだな……」

大輔「この部屋の真上で自死したのも若い女なのか?」

潤平「あぁ」

大輔「じゃぁ、その怨霊が出たということか?」

潤平「多分。渡辺さんの言う通り、死にきれず、魂だけがこの建物に浮遊しているのかも?」

大輔「単に若い女が廊下を通って奥の部屋へ行こうとしたんじゃないのか?」

潤平「素晴らしい推理だが、残念ながら2階でここが一番奥の部屋だ」

大輔「そうか。じゃぁ、明らかに、この部屋が目的だったんだな」

潤平「うん」

大輔「宅配便でないとすると、ピザの配達か?」

潤平「頼んでない」

大輔「女家庭教師?」

潤平「僕は受験生じゃないんだ」

大輔「じゃぁホテトル嬢?」

潤平「そんな金がないから、ビデオを借りている」

大輔「そうだったな」


大輔「じゃぁ、やっぱり、リストカットした女の怨霊だな」

潤平「そんな、はっきり言わないでくれ」

大輔「何か心当たりでもあるのか?」

潤平「いや、まったくない」

大輔「じゃぁなぜその怨霊は『あなたのことが心配で……』と言ったんだ?」

潤平「こっちが聞きたいよ」

大輔「平沼さん、過去のことで何か私に隠してることはないか?」

潤平「この前一緒にマクドナルドに行ったとき、坂口さんがトイレに行ってる隙に坂口さんのポテトを2本食べたことか?」

大輔「そう言うことじゃなくて」

潤平「そうか」

大輔「……えっ! 平沼さん、いつもそんなことしているの?」

潤平「いつもじゃない」

大輔「『いつもじゃない』って……、」

潤平「今は怨霊の話だ」

大輔「そうだった」

潤平「そう、そうだよ」

大輔「よく2本で済んだな? 3本でも良かったに……」

潤平「残りが少なかったんで、3本だとばれると思ったんだよ」

大輔「そうか。平沼さんは本当にいい人だな」

潤平「坂口さんほどではない」

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【後書き】

 最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

 本編は、とあるワンルームマンションを舞台に、小心者でちょっとエッチな公務員・平沼潤平と、その周辺の人々が織りなす「勘違い」の物語です。

 物語の着想は、「もしも自分が住んでいる部屋の真上で事件があったら?」という、誰しもが一度は抱くかもしれない不気味な想像から始まりました。


 公務員として働く若手・平沼潤平を主人公に据えた、日常系(?)ミステリーコメディです。一見すると、事故物件にまつわる不気味なホラー現象が続く物語のように見えますが、その実態は、複数の登場人物による「壮大なすれ違い」を描いた一作となりました。


 物語の核心である「ポタッ、ポタッ」という不気味な滴り音。深夜に響くその音に恐怖し、リストカットの情景を幻視してしまう潤平の姿は、ある意味で現代人の持つ「孤独」や「情報の偏り」が生んだ悲劇(喜劇)と言えるかもしれません。しかし、その正体は、階上の住人である三輪詩音の「節約術」と「ズボラな洗濯」によるものでした。


 また、潤平の親友である坂口大輔との掛け合いも、本作の重要な要素です。男二人で抱き合って寝るという「地獄絵図」な状況を挟みつつ、それぞれの恋愛観や仕事観が交錯する様子は、書いていて非常に楽しいシーンでした。

 最後に、ヒロイン(?)である詩音の視点を物語の終盤に配置しました。彼女の「好印象ポイントカード」という独特な感性は、接客業という現場で潤平の隠れた「誠実さ」を見抜いていた証でもあります。ホラーの霧が晴れた後、そこには少し不器用な男女の奇妙な縁が残る――そんな読後感を感じていただければ幸いです。

 

 潤平はこの後、ようやく「ポタッ」の正体に気づくのでしょうか。それとも、大輔に抱きついたまま夜明けを迎えるのでしょうか。詩音との「ポイント」が、現実の恋として結実するかどうかは後編で。


 ありがとうございました。m(__)m m(__)m m(__)m

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【作者より:ポイント応援のお願い】

 最後までお読みいただきありがとうございます!

 真上の部屋からの「ポタッ……」の正体、まさかの「ブラウスの滴」でした。

 潤平のビビりっぷりに免じて、あるいは大輔のポテト2本分(笑)の温情で、下の**【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】**に染めて応援していただけると嬉しいです!

「潤平、もっとビビれ!」という応援、お待ちしております!

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