04 ▼フライングと松木教官 編
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【あらまし】(新人ボートレーサーの練習エピソードです)
速水爽香はフライングを2本してしまい3か月間の出場停止となった。収入が途絶えたが、丹沢純也の機転で生活保護を受給することとなり、精神的に少し安定する。
爽香は、どん底から這い上がろうと必死で練習する。そこに、先輩レーサー、ベテランレーサーたちから意外なアドバイスが……
そして、あの楽しい松木教官からも……
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【主な登場人物】
速水爽香 20歳女 女子ボートレーサー
松木四郎 50歳男 ボートレーサー養成所教官
中妻竜介 32歳男 先輩レーサー
秋島哲志 32歳男 先輩レーサー
里見千鶴 48歳女 ベテランレーサー、その後爽香の師匠となる
助川金吾 51歳男 ベテランレーサー、元埼玉支部会会長
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【前書き】
●この小説には多くの数字が出てきます。そこで読者の皆様が読み易いように横書きとなっております
●多人数での会話も多いことから、誰が話しているのか、すぐにわかるよう会話の頭に台本形式で、氏または名を付けて表現しました
●この物語はフィクションです。実在の個人・団体、実際のレースとは一切関係ありません。ボートレーサーと市役所職員をモデルに、フィクションとして制作されたものです
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【01】 フライングとボートレーサー養成所時代
爽香は、またフライングを犯してしまった。その結果、生活保護を受給して生活をしのぐこととなった。
爽香が市役所で『保護開始決定通知書』を受け取り部屋に戻って来た。
爽香(もし、丹沢さんが居なかったら、私、首をくくっていたかも?)
爽香(お金が無いから故郷にも帰れないし)
爽香(でも、このまま一生生活保護っていう訳にもいかないし)
爽香(あ~あ、)
爽香(レーサーを辞めて会社に就職なんて無理だろうな。だいたい勉強なんてしてこなかったし、パソコンも使えないし)
爽香(丹沢さんに『昼間はボートレース場で練習する』とは言ったものの、ボートレーサーに戻ってレース場で練習しても、すぐに結果は出ないだろうな。恐らく負け続けるだけ。4着以下は賞金が出ないからなぁ)
爽香(困った、困った)
爽香は自問自答し、自己嫌悪に陥っていた。
爽香は部屋にゴロンとして、天井を見つめていた。
思い起こそうと思った訳でもなく、ボートレーサー養成所時代の厳しい練習風景が、自然と爽香の頭に浮かんで来た。
【回想の始まり】
教官「バカヤロー速水! またフライングか!」
爽香「すみません」
教官「『すみません』じゃないんだよ。いいか、フライングをするたびに、日本国民全員に迷惑が掛かるんだぞ。そのことをよく覚えとけ」
爽香「はい!」
舟券を千円買うと、その内26円は福祉事業などの公益に使われている。そのことを教官は指摘していたのだ。
【回想の終わり】
爽香(私のボートレーサー養成所時代の平均スタートが0.27。それに対し、現実のボートレースで全選手の平均スタートは約0.18)
爽香(これじゃ全然勝負にならないわ。スタートの差が0.1秒で約2mの差がつく)
爽香(ボート全長が約3mだから、2mは3分の2艇身。スタートラインで、1艇身弱、差が付いたら勝てる訳がない。おまけに私は6コースなんだから)
【回想の始まり】
廊下で松木教官と会った。
松木「フライング癖が治らないんだって?」
爽香「はい。そのことで、担当教官から叱られました」
松木「大時計って、黄色い針が動き始めてから止まるまで、何秒か? 当然知っているよな?」
爽香「はい、12秒であります」
松木「速水、腕時計は持っているのか?」
爽香「はい、あります」
松木「その時計にストップウォッチの機能は付いているのか?」
爽香「はい、付いてます」
松木「だったら、寝る前にでも、心で12秒を数えてみないか? 何度やっても12秒ピッタリになるまで練習してみないか?」
【回想の終わり】
爽香(そうか、あれから月日も経ったし、私の心の時計も狂い出しているんだわ)
爽香(初心にかえって、毎晩寝る前に練習してみようかな……)
【02】 『ボートレース戸田』で練習
数日後。『ボートレース戸田』。
7レースが終わったところで、爽香が『ボートレース戸田』に姿を見せた。
そこに、先輩レーサー中妻竜介(なかつま・りゅうすけ・32歳)が通りかかった。
中妻「おっ、久しぶりだな」
爽香「はい。2度目のフライングをして、部屋で落ち込んでいました」
中妻「少しは立ち直った?」
爽香「いいえ、全然」
中妻「そうか。でも練習しに来たんだから、偉いよ」
爽香「いいえ、とんでもない。でもまだ、あたしの心の中では、レーサーを続けられるかどうか、心配なんです」
中妻「そうか」
爽香「はい」
中妻「ボートレーサー養成所では、『最後の最後までスタート大時計の黄色い針をよく見るように』と教えられたかも知れないが、現実は80mから85m時点、つまり、青いフラッグが見えた時点で、自分で意思決定することだ。そしてスロットルレバーを握り、ボートを走らせないと。とても大時計の前で調整なんか出来ないからね。だいたい大時計の前でアジャスト(スタート調整)しているようでは、すでに負けだからね」
爽香「え~~~、そうなんですか」
中妻「当たり前だろう、ははははは」
中妻は爽香の返事を聞くことなく去って行った。
次に、先輩レーサー秋島哲志(あきしま・さとし・32歳)が通りかかった。
秋島「おっ、速水さん! 元気?」
爽香「はい」
秋島「ちょっと元気がないなぁ~」
爽香「すみません」
秋島「いいよ、いいよ、謝るようなことじゃないです。誰にでもスランプはありますからねぇー」
爽香(私のは『スランプ』じゃなくて実力ですけど……。実力が無いのに、そう言ってくれている。いい人かも?)
秋島「そうそう、フライングのことだけど、」
爽香「はい」
爽香(ほら、来た! 怒られるぞ)
爽香がびくついた。
秋島「バウ(ボートの先端)が1mmでもスタートラインを超えたら、フライングしたかどうか? なんてこれっぽっちも考えない方がいいですよ。フライングをしていようが、フライングをしていまいが、もう一生懸命走るだけですよ。フライングしているのに2周走ったっていいじゃないですか」
爽香「えっ、いいんですか?」
秋島「考え事をしていたらもう負けです! それに、しちゃったもんは、しょうがないじゃないですか。水面ではUターンは禁止なんだから。ははははは」
爽香「はい」
秋島「もっとも始末の悪いレーサーは、スタート直後に『あれっ、フライングかな?』って考える奴ですね。なぜなら、考え事というのは1マークで事故の原因になる」
爽香「はい」
秋島「スタートラインを過ぎて悔やんだって元に戻るわけじゃないでしょう?『もう1回やらせてください』って訳にいかないし。そんな無駄な考えは一切しないこと。これは、50歳、60歳になってもしないこと。と、言っても私はまだ32歳独身ですけれど。おっと『独身』は余計ですね。レーサーをやめるまで『レース中に余計なことは考えない』。肝に銘じておくといいと思いますよ」
そう言うと同時に消えた。秋島の去り方も早かった。
爽香(怒られなかった。そして、私に何も言わせなかった。いい人……)
次に、ベテランの里見千鶴(さとみ・ちづる・48歳)がやって来た。ボートレース蒲郡から爽香の自宅まで車で送ってくれた先輩レーサーである。
千鶴「この前は、ありがとね。蒲郡から一緒に帰ってくれたお陰で、楽しかったわ」
爽香「こちらこそありがとうございました。いい勉強になりました」
千鶴「この前、言い忘れちゃったんだけれど、」
爽香「はい?」
千鶴「『追い風』でフライングすることがあるけれど、『追い風』よりも怖いのは、自分で『まだ大丈夫、まだ大丈夫』ってどんどんエスカレートしていくことね」
爽香「はい?」
爽香(どういう意味? わからないけれど、返事しちゃった)
千鶴「『10』より『05』、『05』より『03』、『03』より……と、思ってフライングしてしまうのよね」
爽香「はい」
千鶴「でも、良かった、フライングして」
爽香「えっ?」
千鶴「いい経験をしたってことよ」
爽香「……?」
千鶴「『フライング』なんて『お酒』と同じよ」
爽香「はい?」
千鶴「だって、お酒だって『まだ飲めるまだ飲める』と思って飲んで、あとでゲロゲロしちゃうのよね」
爽香(『ゲロゲロ』か、面白い言い方)
爽香「……」
千鶴「フライングだって、『まだ大丈夫、まだ大丈夫』と思って、一線を越えちゃうのよ」
爽香が黙って二度頷いた。
そこに誰か他の男子選手、助川金吾(すけがわ・きんご・51歳)がひとりそっと近づき、聞き入った。
千鶴「お酒でゲロゲーロは食べた物を戻し、フライングは賭け金を戻す。どちらも『戻す』という共通点があるわね」
助川「あほか!」
元埼玉支部会会長の助川金吾がツッコミを入れた。
千鶴「あらっ、助さん!」
助川「聞いとったでー。しょうもないボケをかまして。かますんならボートだけにしとき」
千鶴「悪かったわね。しょうもないボケで」
助川「フライングがゲロってことかいな?」
千鶴「そうよ。いい例えでしょう?」
助川「そうやな。今度、俺がフライングしたら、『ゲロした』って使わしてもらうよ。ははははは」
助川は、笑いながら行ってしまった。
爽香「今の人は?」
千鶴「元埼玉支部会会長の助川さんよ、変な人でしょう?」
爽香「ええ、まぁ。元々は、関西の人ですか?」
千鶴「うううん、違うけど。時々、変な関西弁を使うのよ」
爽香「そうですか」
千鶴「とにかく、フライングもいい経験よ。お酒を飲む人で戻さずに自分の適量が分かった人なんて、ひとりもいないものね。じゃあね」
千鶴は、爽香の肩を軽くポンと叩いて行ってしまった。この世界、レース中は、みんな去り際があっさりしていた。
【03】 松木教官現役時代のフライング経験
その日の夜。
爽香は床に入ると、久しぶりにストップウォッチで、12秒、心で数える練習をした。
爽香(あれっ、随分違うな。ダメだっ。もう1回)
爽香がやり直した。
爽香(また、ダメだ)
爽香は、何回か繰り返した。
そうしている内に、爽香はボートレーサー養成所時代を思い出していた。
爽香「そうだ! あの頃の日記を見てみよう」
爽香が日記を取り出した。そして、日記を読みながら当時の場面を思い出していた。
【回想の始まり】
松木教官が、爽香にゆっくりと諭すように話しかけた。
松木「コンマ0台、つまり『0.0~0.9』でスタートしたらフライングだと思え、『いいスタートが切れた』なんて思わないことだ!」
爽香「どうしてですか?」
松木「そんなことをしていたらいつか絶対にフライングをする。これは自分の体験から言ってるんだ」
爽香「自分の体験から?」
松木「ああ、選手時代のことだ。いつもコンマ『02』、『03』のスタートを切っているとしてだ。もしスタート50m手前地点で、追い風が吹いてきたらどうなる? フライングだよ」
爽香「追い風を感じて25m手前付近でスロットルレバーを緩めたらどうでしょう?」
松木「俗に言う『アジャスト(調整)』ってやつだ。確かにフライングは避けられるかもしれない。でもその時点で、ほぼ最下位が決まってしまうだろうな。他の5艇が全速でスタートラインを通過するのに対して、一旦落としたスピードを全速まで持っていく間に他艇と相当差がついているはずだよ」
爽香「わかりました」
【回想の終わり】
爽香(ちゃんと、学校で松木教官に『追い風』のことも習っていたんだ)
爽香は、日記をめくり続けた。
爽香(あっ、ここにも松木教官に言われた言葉が書いてある)
「松木『自分がまだ選手だった頃、1度フライングをすると少し目が覚めて、2度フライングをすると完全に目が覚める。そして3度フライングすると半年は寝込むな』」
爽香「ぷっ!」
爽香が笑った。
爽香「あの松木教官でも半年寝込んじゃうんだぁ」
ボートレースではフライング3回で半年出場停止となる決まりなのだ。ちなみにフライング1回すると1か月出場停止、2回すると3か月出場停止となる。フライング3回ではA1級の選手でも次期はB2級となり、ボートレース界では『フライング3回は恥』と言われていた。
爽香(こういう話を聞くと心が休まるわぁ~。やっぱり松木教官は良かったなぁ)
この日、爽香は久しぶりによく寝られた。
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【後書き】
本編をお読みいただき、誠にありがとうございます。
ボートレースという競技は、コンマ数秒の狂いが勝敗を分かつ過酷な世界です。時速80kmを超えるボートが水面を駆ける中、選手たちはスタートラインという「見えない壁」に挑み続けます。本編では、その壁に跳ね返され、フライングという挫折を味わった若きレーサー・爽香の葛藤と、彼女を取り巻く個性豊かな先輩たちの姿を描きました。
物語の中で、爽香は生活保護という厳しい現実に直面します。華やかなプロの世界の裏側にある、切実な「生」の悩み。そこから彼女を救い出すのは、やはり同じ水面を走る仲間たちの言葉でした。
中妻の「アジャストは負け」という勝負師の哲学。
秋島の「走り始めたら余計なことは考えるな」という潔さ。
里見の「フライングはお酒のゲロと同じ」という、どこか可笑しくも本質を突いた比喩。
そして、養成所時代の松木教官が遺した「心の時計」の教え。
これらの言葉は、技術的なアドバイスであると同時に、どん底にいる爽香の心を少しずつ解きほぐしていく救いでもあります。失敗を「恥」や「終わり」と捉えるのではなく、一線を越えてしまったからこそ分かる「自分の適量」を知るための経験として受け入れていくプロセスは、ボートレースに限らず、私たちの人生にも通じるものがあるのではないでしょうか。
爽香の「心の時計」は、一度は狂ってしまいました。しかし、先輩たちの温かくもドライな励ましと、自身の原点である日記に向き合うことで、彼女は再び針を動かし始めます。たとえ今は6コースからの厳しいスタートであっても、夜な夜な刻む「12秒」の積み重ねが、いつか彼女を勝利のターンへと導くことを願って止みません。
最後になりますが、執筆にあたりボートレースの厳しいルールや養成所時代の描写を通じ、勝負の世界の厳しさと人間模様の妙を感じていただければ幸いです。
爽香の再起の物語は、まだ始まったばかりです。
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【作者から応援ポイントのお願い】
「フライングはお酒のゲロと同じ」……里見先輩の強烈な例え話、いかがでしたでしょうか(笑)。
華やかなレースの裏側にある、コンマ数秒を争うレーサーたちの精神状態や養成所時代の厳しい教え。そんなリアルな一面をこれからも描いていければと思っています。
「この先の展開が気になる!」「ボートレースの裏側をもっと知りたい!」
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