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女子ボートレーサー と市役所職員  作者: 池井 けい
第2章 国民健康保険課、坂口大輔
18/18

08 奈美、夫との出会い 編

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【あらまし】

 松島奈美と松島博之との出会い、そして結婚、二人に何があったのか?


 2002年、韓国ソウル。

(旧姓)飛高奈美と友人土江順子は韓国を旅行していた。二人は、韓国の地下鉄『市庁駅』で、

奈美「韓国ロッテワールドに行くのに、どこの駅で降りるのかしら?」

 そこに通りかかった松島博之が、

博之「それなら『チャムシル(蚕室)駅』です」

奈美「ありがとうございます」

博之「僕達は、ミョンドン(明洞)に寄ってから、ロッテワールドに行きますので、ひょっとしたら、また会うかもしれませんね」

 それが奈美と博之の出会いだった…… 

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【主な登場人物】

松島奈美(旧姓飛高)当時22歳

土江順子、22歳、奈美の友人

松島博之、25歳、奈美の夫

北井洋次、25歳、博之の友人

寺原昇治、40歳、職場で博之の上司

阿部真澄、76歳、喫茶店、店主

阿部志津、74歳、喫茶店、妻

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【前書き】

●この小説には多くの数字が出てきます。そこで読者の皆様が読み易いように横書きとなっております

●多人数での会話も多いことから、誰が話しているのか、すぐにわかるよう会話の頭に台本形式で、氏または名を付けて表現しました

●この物語はフィクションです。実在の個人・団体、実際のレースとは一切関係ありません。ボートレーサーと市役所職員をモデルに、フィクションとして制作されたものです

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【01】 韓国ロッテワールド


【回想の始まり】


 2002年、韓国ソウル。

 飛高奈美(ひだか・なみ・22歳、『飛高』は松島奈美の旧姓)と、友達の土江順子(つちえ・じゅんこ・22歳)が韓国ソウルを旅行していたときのことだった。

 奈美と順子は、韓国の地下鉄『市庁駅』で、『地下鉄路線図表示板』の前に立っていた。

奈美「韓国ロッテワールドに行くのに、どこの駅で降りるのかしら?」

 二人は、ずっと地下鉄路線図を見ているのだが、韓国語で『ロッテワールド』らしき単語が見つからなかった。

順子「まったく見つからないわね」

奈美「ほんとう」

順子「韓国じゃ、聞くに聞けないものね」

奈美「ジェスチャーは?」

順子「ムリムリ。ディズニーランドへ行くのなら、ミッキーの大きな耳の形を、指でなぞるかも知れないけれどね」

 順子が、笑いながら言った。


 それを聞いて、奈美がすぐさま自分の耳の所で、ミッキーの耳の形を、指で空中になぞった。そして両目を中央に寄せた。

順子「ははははは。やめてよ、こんな所で。恥ずかしいから」

 そんな時、後ろから現れたのが、今の奈美の夫、松島博之(まつしま・ひろゆき・25歳)、とその友達、北井洋次(きたい・ようじ・25歳)だった。

 博之は、遠くから歩いて来る内に、『ロッテワールド』という単語が聞こえて来て、

博之「ロッテワールドへ行かれるんですか?」

順子「ははははは。今のジェスチャーで『ロッテワールド』とわかったんですか?」

博之「いえいえ、歩いている内に、『ロッテワールド』という単語が聞こえて来たものですから」

奈美「なぁーんだ」

順子「そうなんです。でも、どの駅で降りたら良いのかわからなくて」

博之「それなら『チャムシル(蚕室)』です」

順子「チャムシル?」

博之「ほら、あそこ。『かいこ(蚕)』という漢字と、教室の『室』という漢字があるでしょう?」

順子「あっ、あった、あった!」

奈美「『かいこ(蚕)』という漢字がわからないわ」

順子「韓国語の前に日本語が問題ね」

博之「ははははは」

洋次「ははははは」

 博之と洋次が同時に笑った。

奈美「えへっ」

順子「天気の『天』に、下が『虫』よ」

奈美「あー、あった、あった。図の右の方ね。最初から『てんむし(天虫)』と言ってよぉ~、また恥かいちゃった」

博之「あれで、『チャムシル』と読みます」

順子「『チャムシル』ね」

博之「表示板で緑の線になっているから、2号線の緑色の電車に乗ると良いですよ」

順子「ありがとうございます」

奈美「ありがとうございます」

博之「僕達は、ミョンドン(明洞)に寄ってから、ロッテワールドに行きますので、ひょっとしたら、また会うかもしれませんね」

 そう言うと、松島博之と北井洋次は去って行った。


 なんとかロッテワールドに着いた松島奈美と土江順子の二人。ひと通り外にあるアトラクションに乗った後、二人はスケート場に立っていた。

奈美「なんで韓国まで来てスケートしなきゃならないのよ」

順子「ここだから滑りたいのよ」

奈美「せっかく休みをとって来たのよ」

順子「いいじゃないの」

奈美「2泊3日しかないのよ」

順子「2泊3日もあるんだし」

 奈美は文句を言いながらも、そんなに怒った様子はない。


 後方から男性2人組が、何か揉めながら滑って近付いて来た。松島博之と北井洋次である。

博之「なんで韓国まで来てスケートしなきゃいけないんだ」

洋次「このリンクで、ぜひ滑っておきたいんだよ」

博之「日本で滑ったって同じだろ?」

洋次「いや、それが違うんだな。ここは世界でも最も有名なリンクのひとつなんだ」

博之「『有名なリンク』ねぇ~」

洋次「中央が吹き抜けで、天井が物凄く高いんだ。それと、アイスリンクの周りには、韓国料理、日本料理、中華料理などの食事ができるフードコートがあるんだ」

博之「へぇ~、でも日本料理・中華料理を、なんでスケート場で食べなきゃいけないんだ」

 前を滑っていた女性2人の耳に、その会話が聞こえて来た。

順子「ほら、ここで滑りたいってひとが他にもいたじゃない」

奈美「でも、ここで日本料理・中華料理を食べる理由はないわよねぇー。どこにでも変な人間っているのね」

順子「『変な人間』って、聞こえちゃうわよ」

博之「聞こえてますよー」

 順子と奈美が後ろを振り向いた。

順子「あっ、さっきはどーも」

奈美「あっ、どーも」

 二人が頭をピョコンと下げた。

博之「どーも、どーも。スケート場に来たのですか?」

奈美「はい。彼女が『どうしても滑りたい』って言うものですから」

 奈美が順子を指さした。

博之「僕らもこいつが『どうしても滑りたい』って言って、」

 博之も同じように洋次を指さした。

洋次「ここで滑るのは当然ですよね」

順子「はい当然です。滑っておかないと一生後悔しますよ。韓国では有名なアイスリンクですし、夏冬関係なく一年中滑れますからね。こんなにきれいなアイスリンクは滅多にないですよ」

奈美「そんな大袈裟な」

博之「そうだよ、大袈裟だよ」

洋次「いえ大袈裟ではありません」

奈美「おやっ、こちらの方と順子は気が合いそうね」

 洋次の方を手で指して言った。

洋次「洋次と言います。『ヨウジ』と呼んでいただいて結構です」

博之「じゃぁ、順子さんと洋次さんで、スケートの上手な者同士滑って、我々はちょっと休みませんか」

奈美「いいですね! ちょうど休みたかったんです。ぜひ」

博之「じゃぁ、そう言うことで」

 博之は奈美の手を引っ張ってリンクの外へと滑って行った。順子と洋次は、まだしばらくリンクの中で滑っていた。


 リンクの周りには、カフェやファーストフードの店も並んでいる。二人は注文したコーヒーを受け取り、フードコートで飲み始めた。

博之「僕、博之と言います。『ヒロユキ』と呼んでください」

奈美「じゃぁ『博之さん』って呼びますね」

博之「はい」

奈美「私は奈美、『ナミ』と呼んでいただければいいです」

博之「わかりました、『奈美さん』ですね」

奈美「それにしても助かったわ。博之さんのお陰です。ちょうど足首も痛くなった頃だし」

博之「それは良かった、僕もスケートに飽きていたところです。抜け出すチャンスができて助かりました。無理矢理手を引っ張っちゃってすみませんでした」

奈美「ううん全然。それに、私スケートそんなに上手くないし」

博之「僕もです。でも世の中には、スケートが好きな人間って居るもんですね」

奈美「本当。ほら、あの二人手をつないで仲良く滑ってますよ」

 リンクにいる順子と洋次を指さした。

博之「ほんとだ。スケートって手をつなぐには最高のスポーツなんですね」

奈美「ほんと、ほんと!」

 奈美が楽しそうに言った。

博之「あの二人、いい感じで、他から見たらもう恋人にしか見えませんね」

奈美「手をつなぐスポーツなんて、他にあまりないですものね」

博之「そうですね」

奈美「足をつなぐスポーツってあるのかしら?」

博之「レスリングとか、格闘技でしょうね」

奈美「ははははは」

 奈美が豪快に笑った。それが、博之には魅力的に見えたのだった。

奈美「順子と北井さん、私ならあそこでわざと転ぶのにな」

博之「それは、どうして?」

奈美「転ぶときに相手を巻き込んで、氷の上で偶然に抱きつくの。そして顔も近づけて」

博之「悪い女性だな。魔性の香りがしますよ」

奈美「ふふふふふ。そうかしら」

博之「僕もこれから趣味、スケートに変えようかな」

奈美「それいいかも。博之さん、今までは趣味なんだったんですか?」

博之「特にないです。しいて言えば仕事かな」

奈美「それは体に悪いわ」

博之「そうですね。もっと人生楽しまないといけないですよね」

奈美「ええ」

博之「明日はどこへ行く予定なんですか?」

奈美「特に決まってないんです」

博之「ならば、一緒に『エヌソウルタワー』に行きませんか?」

奈美「わぁーっ、いいですね。観光に来た感じがしていいわ」

博之「そうですよね。日本に帰って誰かに『どこ行ってきたの?』って聞かれたときに、『スケートリンク』なんて言えないですからね」

奈美「『何しに韓国まで行ったのよ』って言われちゃうわ」

博之「まったくそのとおりです。じゃあ、そうしましょう」

奈美「私、順子を説得してみるわ」

博之「僕も洋次を説得してみます。今日は連中にお付き合いしたんですから、明日は僕らに付き合ってもらわないとね」

奈美「そうそう」

 二人はすっかり意気投合していた。


 翌日。

 翌日4人は、奈美と順子が宿泊しているホテルのロビーで博之たちと待ち合わせをし、そこから模範タクシーに乗った。ホテルのコンシェルジュが模範タクシーを呼び「Nソウルタワーまで」とハングル語で言ってくれた。

 前の座席に、北井洋次が座り、後部座席に奈美を挟んで博之と順子が座った。

 タクシーの中で、

奈美「ねぇ『模範タクシー』ってどういう意味?」

博之「韓国には『模範タクシー』と『一般タクシー』があるんだ」

奈美「そう、」

博之「最初はもちろん『一般タクシー』だけだったけど、不当請求や相乗りを強要する運転手さんが増えてきて、ある一定の基準をクリアーした優秀な運転手さんにだけ『模範タクシー』の称号が与えられたと聞いているよ」

奈美「『一定の基準』って?」

博之「例えば、ある程度外国語がしゃべれる、接客態度が良い、道に詳しい、クレジットカードも取り扱っている、とか」

奈美「私とはまったく正反対ね。外国語はダメだし、接客も上手とは言えないし、私なんか、『模範』じゃなくて『最悪』でしょうね」

博之「『最悪タクシー』か。いいですね。一度乗ってみたいな」

奈美「あら、そうですか? お口が上手いこと」

博之「奈美さんは、なんのお仕事をされているんですか?」

奈美「ファミリーレストランのホール係、でも、接客が下手で辞めたばかりなの。それで休みが出来たから、この韓国に来たの」

博之「今まで働いて来たご褒美ですね」

奈美「まぁ、そんなところ。私もいつかは、模範になれるかしら?」

博之「もちろんですよ」

奈美「韓国のタクシーは、差別化しているのね」

博之「うん、だから『模範タクシー』は、観光客に人気があるようですよ」

奈美「なにか『模範タクシー』と『一般タクシー』との見分け方があるの」

博之「『模範タクシー』は黒に金色の帯がかかった車体で、『一般タクシー』はそれ以外の色です」

奈美「そう言えば、このタクシーも黒に金色よね」

順子「あっ、あれも」

 すれ違うタクシーを指さした。

奈美「『模範タクシー』って、やっぱり料金が高いのかな?」

博之「そうですね、割高になってますね。ですから地元の人はみんな『一般タクシー』を使うみたいですよ」

順子「あれっ、大きな『模範タクシー』もある」

 対向車のワンボックスカータイプのタクシーを指さした。

博之「ええ、8人まで乗れるジャンボタイプもあります」

順子「へぇー、そうなんだ」

奈美「もしこの世の中、労働者の胸に札を付けるとしたら、博之さんは『模範』で、私は『一般』なんでしょうね」

博之「そんなことはないさ」

奈美「そうかなぁ。博之さんは何でも知っていて、わかりやすく教えてくれる。私は、どこへ行っても使い物にならずクビになっちゃうわ」


 そうこうしているうちに模範タクシーは、『南山ケーブルカー』乗り場までやって来た。Nソウルタワーに行くには、ここでタクシーを降りて、あとは『南山ケーブルカー』で行く方法がある。

 Nソウルタワーは、小高い丘の上に建っていた。『南山ケーブルカー』に乗ると、丘の上まで乗車区間は約600メートル、乗車時間約3分の空中散歩が楽しめるのだ。ただし、乗るまでに、15分からときには1時間待たなければならなかった。


 4人は、乗車券売り場でそれぞれ切符を買って待つことにした。そして、奈美が財布の中に切符をしまおうとして、

奈美「あれっなんだろう?」

 財布の中に、二つ折りされた細長い白い紙が入っていた。その白い紙を博之の目の前で広げた。ファミリーレストランを辞めた時に勤務先からもらった源泉徴収票だった。

奈美「なぁんだ」

 自分で財布に入れて、忘れていた。すぐに財布の同じ場所にしまった。博之は特に見る気もなく、源泉徴収票の内容が目に入っていた。

博之「その所得税、戻るんじゃない」

奈美「えっ?」

 博之の顔を見た。

博之「さっきの源泉徴収票、よく見えなかったけれど、税金が戻ってくるかもね」

奈美「本当?」

博之「源泉徴収票を見てもいいのなら、確認するけれど」

奈美「全然かまわないわ」

博之「見てもいいの? だって収入とか住所とか、個人情報が書かれているよ」

奈美「たいした個人情報じゃないわ。しかも収入が少ないし」

博之「そう、」

奈美「はい」と言って、源泉徴収票を博之に手渡した。

博之「源泉徴収の約4万円、すべて戻りますね」

奈美「わぁーっ、うれしい。いつ戻ってくるの」

博之「()()()()をすれば戻ってきます」

奈美「えーっ! ダメ! ダメダメ! 私その四文字熟語大嫌いなの」

博之「四文字熟語?」

奈美「『確定申告』とか、四文字熟語を見たり聞いたりすると、体調を崩すのよ」

博之「そんなことがあるんですか?」

奈美「あるんだな、これが。四字熟語アレルギー」

博之「どうして?」

奈美「昔ね、高校時代の話なんだけど、担任の先生が国語の先生で。毎日1分間テストと称して、漢字・熟語・諺・作者名などのテストをやらされていたの」

博之「そんなのがあったんですか?」

奈美「先生としては、受験勉強の一環として、というつもりだったんでしょう」

博之「ふむふむ」

奈美「それである日の問題が、四文字熟語の穴あき問題で『馬、しかく、東、しかく(馬□東□)』という問題だったの」

博之「『馬耳東風』ですか?」

奈美「そう。それをね、『馬券東京』って書いちゃったの」

順子「ははははは」

 いつの間にか、順子や洋次にまで奈美の話を聞かれていた。

博之「そうですよ! やっぱり馬券は東京競馬場で買うべきでしょうね。ノミ行為は禁止ですからね」

奈美「そしたら、翌日先生が『クラスみんなに「馬券東京」って書いた者がいる』って言っちゃったの。名前は言われなかったけれどね」

博之「そうなんだ」

奈美「で、それだけじゃなく『大という字に、しかく、晩という字に、しかく(大□晩□)』って問題があって、」

博之「『大器晩成』ですね」

奈美「それを『大盛晩飯おおもりばんめし』って書いたの」

順子「ははははは」

 周りの韓国人には、当然受けない。

奈美「韓国人は、笑わないのね」

博之「日本語ですからね」

奈美「そのときは、クラスみんなの前で言われて、みんな大笑いしていたわ」

博之「そんなとき、奈美さんはどうリアクションするんですか?」

奈美「私ではないって顔をして、一緒に大笑いするの」

順子「ははははは」

博之「それしかないですよね」

奈美「ええ。で、あるときは『一、しかく、二、しかく(一□二□)』、『二、しかく、三、しかく(二□三□)』って問題だったから、私エステの料金かと思って、『一回二万』『二回三万』って書いたこともあったわ」

順子「ははははは」

博之(一石二鳥、二束三文、二人三脚?)

博之「奈美さんは、良く考えますね。そっちの答えを考える方がたいへんです」

奈美「その続きが『七□八□((七しかく八しかく))』という問題で、」

博之(七転八起、七転八倒、七難八苦?)

博之「じゃぁ、エステの会員割引で『七回八万』って書いたのですか?」

奈美「さすがに前回のことがあったので、私もそうは書けず、」

博之「そうは書けずに?」

奈美「『七泊八日』と書きました」

順子「ははははは」

博之「旅行パンフレットに、よくありますよね」

奈美「でしょ、でしよ!」

博之「はい」

奈美「そしたら、『先生が「一回二万」よりはマシだな』って初めて褒めてくれたんです」

博之「別に褒めてはいないと思うんですけれど」

順子「ははははは」


 ちょうど、ケーブルカーが来て、4人はケーブルカーに乗った。

奈美「博之さん、あんな一瞬で税金が戻るって良くわかったわね」

博之「ええ、それは、記載されている源泉徴収税額が1円単位になってましたからね」

奈美「えっ!私には、まったくわからない」

博之「所得税は、百円単位でいただいておりますから、」

奈美「『いただく』? 払うんじゃないの」

博之「しまった!」

奈美「ねぇ、あなたなにもん?」

博之「実は、」

奈美「実は、税務署の方?」

博之「はい、そのとおりで」

奈美「なぁーんだ、早くそう言えばいいのに」

博之「すみません。そう言うとみんな逃げちゃうんです」

奈美「私は逃げないわよ。掴まえたら離さないタイプだから」

博之「そう言っていただけるのは奈美さんだけです。みんな『税務署』って言っただけで引いちゃうんです」

奈美「私は絶対に引かないわよ」

博之「例えばさっきの四文字熟語ですけれど、税務署にはいっぱいあると思いますよ」

奈美「例えば?」

博之「源泉徴収・確定申告・青色申告・白色申告・電子申告・申告期限・年末調整・所得税法・消費税法・法人税法・普通徴収・特別徴収・徴収部門・徴収猶予・税務調査・収入金額・年金収入・給与所得・譲渡所得・配当所得・必要経費・減価償却・株式売却・財産贈与」

奈美「ちょっ、ちょっ、ちょっと、」

 奈美が両手を広げて制止したが、博之は構わず続けた。

博之「扶養控除・特定扶養・基礎控除・寡婦控除・雑損控除・同居老親・特別障害・市県民税・定率減税・重加算税・振替納税・納税手続・還付手続・国税職員・異議決定・更正処分・更正請求・審査請求・人事課長・脱税行為・部長専決・税務大学・職員食堂・非常階段」

奈美「引いたわ」

博之「やっぱり」

博之(肥満体質、高血圧症、脱肛治療、自分のことまで言わないで良かった)

奈美「そこまで行くと、特技と言ってもいいわね」

博之「じゃぁ、これから特技にします」

奈美「ゴメン、なんかケーブルカー酔いしたみたい」

 下を向いて、額を押さえた。

博之「大丈夫ですか?」

奈美「大丈夫じゃない。私を抱えてくれる?」

博之「はい」脇を抱えた。

 隣から、

順子「その手を使うか。熱い、熱い、」

洋次「仲が良いことで」


 話しているうちに、ケーブルカーは終点に着いた。4人はケーブルカーを降り、しばらく歩くとNソウルタワーのふもとに着いた。

順子「着いたわね」

洋次「着いた、着いた」

 4人は、Nソウルタワーの展望台に行くエレベーターの切符を買った。奈美の財布から先ほどの源泉徴収票が顔を覗かせていた。4人はエレベーターに乗った。エレベーターは秒速4mの速さで昇っていく。

 エレベーターがNソウルタワーのデジタル展望台に着いた。海抜479mの高さである。

順子「わーっ、すごい眺めね」

洋次「ソウルの町並みが丸見えだよ」

順子「ロッテワールドも見える?」

洋次「見えるんだろうけど、よくわからないな」

 順子と洋次が仲良くしていた。一方で奈美と博之も、奈美が高倍率で景色が見えるデジタル望遠鏡を覗き込むと、博之は後ろから奈美を包むように立ち、デジタル望遠鏡を覗き込んだ。

奈美「ねぇ日本に戻ったら確定申告してもらってもいい」

博之「多少アドバイスは出来ますが、基本的には奈美さんに記入してもらいます」

奈美「さっぱりわからないけれど、記入できるかしら?」

博之「4万円をあきらめますか?」

奈美「とんでもない! 私にとって4万円は大きいわ」

博之「じゃぁ頑張りましょう!」

奈美「はい」

 それが奈美と博之の出会いであり、二人は日本に帰ってきて会う立派な理由が出来たのであった。


【02】 プロポーズ?


 日本に帰ってきて二人は会った。確定申告を書くために喫茶店で待ち合わせをした。

 博之が確定申告の用紙を持参し、奈美は博之の言うとおりに記入していった。住所、名前、電話番号と。

奈美「ねぇねぇ、単純なこと聞いていい」

博之「なんでもどうぞ」

奈美「確定申告って、2月から3月15日までの間じゃなくてもできるの」

博之「いつでもできますよ」

奈美「なら別に3月15日までと区切らなくてもいいんじゃない」

博之「奈美さんのように税金が戻る方は良いのですが、逆に確定申告によって税金を納める方は期限を過ぎると延滞税が加算されます」

奈美「そうかぁ、延滞税がね」

博之「そうです。ついてしまいます」

奈美「ねぇ、『延滞税』ってなに?」

博之「あっそうですよねぇ、延滞税なんて聞いたことないですよね」

奈美「ゴメンね、バカで」

博之「とんでもありません。もっとおバカな質問される方もたくさんいらっしゃいますから。」

奈美「それ、やっぱり私のことバカだと思ってるってことですよね」

博之「えっそうですか?」

奈美「そうです」

博之「まぁ、いいじゃないですか。奈美さんがおバカでも私は奈美さんのこと、とっても好きですよ」

奈美「それってプロポーズ?」

博之「えっ、えーーーっ。プロポーズ?」

奈美「私と結婚したいの」

博之「そんなことは言ってませんけれど、」

 博之がやさしく言った。

奈美「『言ってませんけれど』、考えてるってこと」

博之「そう来ましたか。確かに奈美さんのこと好きですが、『ラブ』ではなく『ライク』といいますか、」

奈美「『ラブ』ってテニスで『ゼロ』の意味よね」

博之「はい、そう言いますね」

奈美「私への愛情が『ゼロ』ではなく、『スト()()()』なのね」

 奈美は自分の体のど真ん中に、博之の愛情が投げ込まれたイメージで言った。

博之「えっ!?」

奈美「こんな私で良ければ、ふつつか者で、おバカさんではありますが、」

博之「まぁ確かに、すごく頭が切れるひとよりは、ぼくは天然系おバカさんの方が好きですが」

奈美「私たち相性ばっちりですね。結婚しましょう?」

博之「僕は、仕事も私生活も、命令されて生きる人生なのかな?」

 奈美が確定申告の用紙を指さしながら、

奈美「ねぇ、ねぇ。『収入』と『所得』って同じ意味なのになんで両方使うの?」

博之「突然話が飛ぶんですね。『収入』と『所得』は、同じ意味ではありません」

奈美「えーっ! 本当?」

博之「残念ながら本当です」


奈美「『収入』も『所得』も、入ってくるお金のことでしょう?」

博之「はい」

奈美「同じ二文字熟語でしょう?」

博之「はい」

奈美「同じ『し』で始まる熟語でしょう?」

博之「はい、でも税法上の意味は違います」

奈美「どうしても」

博之「残念ながら」

奈美「そう、」

博之「『収入』は入ってきたお金すべてで、『所得』はそこから経費を引いたお金です」


 とある土曜日。

 次に二人が逢った場所は、日本にある『ピースランド』という名のテーマパークだった。

 最初に二人はコーヒーカップに乗った。このアトラクションの名称は『カップDEぐるぐる』。

 BGMでJ-POP『大人ジェリービーンズ』が流れていた。

『♪土曜日の遊園地で 最初に乗ったのは 子どもの頃に好きだったコーヒーカップ 初めてのデートだから(途中略)ハンドルぐるぐる回した』

奈美「あたしたち、初めてのデートらしいデートね。ワクワクしちゃう。このコーヒーカップ、子供の頃、好きだったなぁ」

博之「いいなぁ。僕はあまり遊んだ記憶が無いんです。女性とお付き合いしたことも無いし」

奈美「そうなんだ。堅物なのね」

博之「僕は税金のことしかわからない偏った人間だから話が合わないかも」

奈美「世間では同じ趣味がいいとか、価値観が一緒が良いとか言うけれども、私は別世界の知らない人がいいな」

博之「めずらしい御意見ですね」

奈美「同じ趣味、同じ仕事をしていると、どうしても細かい所までわかるから、口出しをしてぶつかってしまうような気がするの」

博之「そうそう、学生時代のクラブでも、今の職場でもそう言う経験をたくさんしました」

奈美「まったく知らない世界なら口出しもしないし、うまくいくんじゃない?」

博之「そうですか?」

奈美「そうよ」

 そう言うと奈美はコーヒーカップのハンドルをぐるぐる回した。


 2番目に、二人はジェットコースターに乗った。このアトラクションの名称は『ヒューストン』。

 BGMでアメリカ合衆国の歌手、ホイットニー・ヒューストンの『オールウェイズ・ラヴ・ユー』が流れていた。

『♪And I will always love you  I will always love you(そして私はいつもあなたを愛します 私はいつもあなたを愛します )』

奈美「ねぇ、結婚しようよ!」

博之「君には、もっと相応しい人がいますよ」

奈美「それ『ノー』って意味よね」

博之「うわっ!」

 ジェットコースターが急降下した。会話が途絶えた。


 3番目に、ゴーカートに乗った。このアトラクションの名称は『ゴー・ゴー・ゴーカート』。

 BGMでアニメソング『マッハ ゴー ・ゴー ・ゴー』が流れていた。

『♪風もふるえる ヘアピンカーブ こわいものかと ゴーゴーゴー』

博之「僕の職業は、ひとから嫌われる職業です。場合によっては奈美さんにまで迷惑が及ぶかも知れません。震えるような怖い体験をするかも知れませんよ。結婚はやめた方がいいと思います」

奈美「怖い電話や手紙が来ることもあるの」

博之「場合によってはあります。僕達は税務調査もするし、差押えもします。冷酷ですからね」

奈美「仕事では、そうかもしれないけれど、でも、あなたには、やさしさがあるわ」

博之「やさしさ?」

奈美「そう、やさしさ」

博之「でも、やさしさより業務命令の方が上なんです」

奈美「業務命令? また四文字熟語なのね」

博之「業務命令が出れば、やさしさは捨てなければならないんです。そんなものは邪魔になります。上司からはっきり言われました。『税務署に居る間は、同情も涙も捨てて来い』と」


 4番目に観覧車に乗った。このアトラクションの名称は『世界は回る』。

 BGMで日本人歌手による『時代』が流れていた。

『♪まわるまわるよ 時代はまわる、別れと出会いを繰り返し』

博之「税務職員は転勤、転勤の繰り返しです。あちこち各地をまわり、色んな人と出会っては別れます。僕もいつ転勤になるかわかりません。家族にも迷惑がかかります。子供だって転校ばかりです。結婚は難しいです」

奈美「転勤、いいじゃない。あたし、いろんな所へ行けて楽しみだわ」


 その日、二人は結婚について話が平行線のまま別れた。

 奈美は順子と会って、結婚話がうまくいかない悩みを打ち明けた。

順子「フリーターと国家公務員かぁ~。じゃぁ、振られるわよ」

奈美「それが逆なのよ。博之さんが言うには、税務職員は嫌われる職業だし、転勤が多いからって自分から引こうとしているのよ」

順子「それ、体裁のいい振り方なんじゃないの?」

奈美「本音は別れたいってこと?」

順子「そうよ、自分からは言えないから、あなたに『別れる』って言って欲しいのよ」

奈美「な~んだ、そっか。だとしたら、私が『別れよう』って言わなければ続くわけね。ふふふふふ」

順子「いいわね、その考え方」


 それから一週間が経った。博之から奈美に連絡が入った。博之からのメールだった。「ファミレスで夕食しましょう」という内容で、奈美はすぐに「OK」の返事を返した。

 奈美が待ち合わせ場所のファミレスに行くと、博之はすでに来ていた。

奈美「お待たせしました」

博之「いいえ」

 二人は注文をすませた。

博之「結婚の話、お受けしてもいいですよ」

奈美「えっ本当!」

博之「はい本当です」

奈美「どうして受ける気になったの?」

博之「あなたのお願いは、僕にとってすべて命令だと思って受け止めています。だからなんでも言うことをききます」

奈美「うわーっ、うれしい」

 予想外の答えに、奈美は満面の笑みを浮かべた。


 数か月後。

 二人は教会で結婚した。どこにでもあるような結婚式だった。ただひとつだけ違った点は、まず牧師さんのお話があり、

牧師「結婚とは、どんなときでも二人が喜びも悲しみも分かち合い、すべてのことを乗り越えていくことです」

 そして牧師が新郎に、

牧師「あなたは、その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、この人を愛することを誓いますか?」

 と、問いかけたときに、新郎の博之が、しばらく考え込んでしまったことだった。

 そして、

新郎「……」

新郎 「はい、誓います」

 かなり間をおいてから答えた。


 あとから奈美が博之に、そのことについて、どうしたのか? 問い尋ねた。

奈美「『二人が喜びも悲しみも分かち合い、この人を愛することを誓いますか?』と聞かれたとき、どうして、考え込んでしまったの?」

博之「喜びは分かち合った方が良いだろうけれど、悲しみは分かち合わない方が良いと思ったんだ」

奈美「えっ、そんなことを真剣に考えていたの? だってあんなの単なる儀式でしょう?」

博之「僕にとっては、『誓いますか?』と言われて嘘がつけなかったんだ」

奈美「あなたって本当に真面目なんだから。そんなのテキトーでいいのよ。テキトーで」

博之「フランスの哲学者アランも『幸福論』で、『自分の不幸は他人に話さないこと』って書いているよ」

奈美「フランス人と日本人は、きっと合わないわね。大昔の映画『君の名は』に出ていた大女優さんはフランス人と離婚したわよ」

博之「ははははは。芸能関係は、物知りなんだな。そうかぁ、僕には『適当』が必要なのか?」

奈美「そうよ、気付かなかったの?」

博之「うん。初めて知ったよ。僕は職業柄、嘘をつくことや、自分の意思に反することが出来ないんだよ」

奈美「その考え、今日で止めることね」

 さらっと言った。

博之「芸能、スポーツに詳しくなった方がいいかな?」

奈美「少しはね」

博之「最低限は必要か?」

奈美「会社人間より社会人間になってくれれば、いいのにね」

博之「社会になじんだ人間かぁ。そうなれたらいいんだけれど」

奈美「無理?」

博之「そうだな。自分が病気のときや自分が悲しいときに、本当に相手のことまで考えて、愛せるのかどうか、ふと疑問が生じるんだ」

奈美「私は、愛するわ」

博之「僕は、自分のことだけでいっぱいなんじゃないだろうかと?」

奈美「どうして?」

博之「仮の話だけど、歳をとって70歳80歳になり、もし『あなたは癌であと数ヶ月の命です』なんて言われたときに、自分は何をしなければいけないんだろうって考えちゃったんだ」

奈美「喜びも悲しみも、たとえ命の期限を言われても、私に素直に話してもらっていいのよ」

博之「そうは言うけれど、僕が悲しいのはかまわないけれど、奈美さんにまで辛さを分けることはないだろう。辛い話はしなくていいんじゃないのかな?」

奈美「私はどんな話でも聞きたいわ」

博之「そうかな、楽しい話はともかく悲しい話や悪い話を、みんなは聞きたくないだろう」

奈美「悲しい話でも二人で悩んで相談してなんとか乗り越えればいいじゃない」

博之「話しても乗り越えられないときは?」

奈美「乗り越えられないときは、乗り越えられないときは……一緒に涙を流すだけでもいいじゃない。話を聞いてあげるだけでもいいじゃない」

 奈美が声を詰まらせた。


博之「テレビに良く出るあるタレントさんが言っていたけれど、『喜怒哀楽』という言葉の『喜』と『楽』だけ人に見せて、『怒』と『哀』は決して他人に見せないようにするんだ。って」

奈美「それが、人間関係や家庭がうまくいく秘訣ってことなの?」

博之「そう! 僕は、結婚式のときそう思ったんだ。けれども、もう式は始まっていたし、この流れを止めてはいけないと思って仕方なく『はい、誓います』と答えたんだ」

奈美「じゃあ、あの答えは本心じゃないってこと?」

博之「うん。『喜びは二人で分けるけれども、悲しみはひとりで背負う』。その方がうまくいくと信じている」

奈美「そう言えば、私が5歳のとき、飼っていた猫が、朝、交通事故で家の前で死んでいたの。猫は何度か轢かれたらしくてもうとても見られない状態だった。父は、私が寝ているうちに、庭に穴を掘って猫の死骸を埋めたわ。そして、私が幼稚園へ行ってから、更に深い穴を掘り直し、埋めたらしいわ。結局その日、父は会社を休んだの。その日に限って大きな仕事があったにもかかわらず」

博之「うん」


奈美「そのことを知ったのは私が成人になってからだった。母がこっそり教えてくれたの。父は、私が悲しむから母に『絶対に言うな』と口止めしたのに。だから家では、それまで猫がどこかへ行っちゃったことになっていたのよ」

博之「君のお父さんは、僕と同じ考えだったんだな」

奈美「母もその猫の死骸は見てないんだって。父が『見るな!』と言ったらしいわ」

博之「わかるな、その気持ち」

奈美「もし、母が父から『猫の死骸を処理しておいて』と頼まれても、母は出来なかったかも知れない」


博之「それで思い出したけれど、昔、ご近所で家の中でゴキブリが出ると、旦那さんが新聞紙を丸めて叩いて殺すんだけれど、後始末は奥さんにやらせる家があったんだ。その奥さんが僕の母に随分こぼしていた」

奈美「その奥さんは、死骸の始末だけやらされたんだ」

博之「うん」

奈美「母が成人になった私に、猫が死んだ話をしたのは、もう猫が死んだ事実を受け入れられると思ったからじゃないかしら」

博之「子供には話せないけれど、大人になったらなんでも話した方がいいってこと?」

奈美「うん」

博之「でも大人になっても、浮気している話なんかは、お互い知らない方が幸せなんじゃないかな。ほら『知らぬが仏』って言葉もあるくらいだから」

奈美「その話は、そもそも浮気することが間違いよ」

博之「なるほどね」


奈美「喜ぶ話と楽しい話は他人にできるけれど、怒る話と哀しい話は他人にできないのかしら?」

博之「テレビだってそうだよ。トーク番組で悲しい話をする芸能人はいないし、怒りばっかりの国会中継なんて誰も見ていないのが現状だろう?」

奈美「そうよね。でもそうなのかなぁ? じゃぁ、なんのためにあの牧師さんの言葉があるの? 今まで何十年も何百年もあの言葉が使われてきたんでしよう?」

博之「外国人はともかく、日本人が、しかもキリスト教信者でもない人が、みんな本当に考えて答えているのだろうか? 単に『はい、誓います』と形式的に言っているだけなんじゃないのかな?」

奈美「そうかぁ、無宗教の女性でも、教会でウエディングドレスを着た結婚式に憧れるからね」

博之「日本人は、仏教徒でもクリスマスやバレンタインをするんだよ。不思議だよな」

奈美「それだけ順応性があり、心が広い国民なのよ。みんないい人ばかりなのよ!」

博之「いいなぁ奈美さんは。純粋で、天然で、うらやましいよ」


 【03】 よく行く喫茶店


 2009年。


 奈美と博之が結婚して7年が経った。

 二人の間に、男の子がひとり授かった。長男海斗は6歳。二人はごく平凡な幸せな家庭を築いていた。その後、博之は転勤となり、今勤めている所から30Kmぐらい離れた隣の税務署へ配置替えとなった。

しばらくは新しい勤務先でうまくやっていたのだが、上司の命令で、ある喫茶店を税務調査するころから博之の気持ちに変化が生じてきたのだった。


 博之はお昼休みによく行く喫茶店があった。店名は『ブランチ』、老夫婦、阿部真澄(あべ・ますみ・76歳)と妻阿部志津(あべ・しづ・74歳)が二人で切り盛りし、その店には他の税務署職員もよく来ていた。店のオーナーでもあるその老夫婦の会話から、老夫婦の息子は家を出て自立していることも博之は知っていた。


 博之が勤務する税務署。

 上司の寺原昇治が、部下の松島博之に業務を指示した。

上司「喫茶店『ブランチ』を調査してくれ」

博之「『ブランチ』ですか?」

 その喫茶店『ブランチ』は、税務署から歩いて5分ほどの距離にあり、8年ほど前から老夫婦が店を開けていた。

博之(あの老夫婦が脱税?)

 博之は考え込んだ。

上司「何か文句でもあるのか?」

博之「いいえ」

上司「こんな『利益無し』なんて申告、あり得ないだろ」

 老夫婦が書いた確定申告書を手に持っていた。

上司「利益無しでどうやって食べていけるんだ」

 その書かれた確定申告書を寺原が空中で揺らした。

博之「はい、でも世の中には、もっと大きな額をごまかしている者が居るでしょう?」

上司「じゃぁお前何か、少しならごまかしても黙って見逃せって言うのか? しかも上司に向かって言っているのか!」

 寺原のカミナリが落ちた。

博之「いえ、そうは申しておりません。私が申し上げたいのは、優先順位があるんじゃないですか? って、ことです。税務調査するにも、もっと大口で脱税しているところがあると思います。そこから始めた方が、」

上司「あの老夫婦はな、A銀行に毎月2万円ずつ貯金をしているんだよ! A銀行に照会してわかっているんだよ。所得もない夫婦が、なんで貯金が出来るんだ!」

博之「それはわかりますが、一般の納税者から、税務署は最小の経費で最大の効果をあげることを望まれております。それを考えたらもっと効率の良い調査をするべきではないかと、」

上司「ばかやろう! お前は、所長か? 俺とお前とどっちが上なんだ? 俺に口答えするなんて十年早い。良く覚えとけ!」

博之「……」

 博之が黙って上司を睨みつけた。

上司「なんだその目は、」

博之「……」

上司「何か文句でもあるのか!」

博之「いえ、なにも」


 後日。

 博之が税務調査で、老夫婦の営む喫茶店に行った。博之は、老夫婦が、A銀行に毎月2万円ずつ貯金をしていることを聞いてみた。

 喫茶店の店主、阿部真澄が答えた。

真澄「息子からの仕送りです」

 博之は、調査の初日、その言葉を信用し、税務署に戻り上司の寺原に報告した。

上司「じゃぁ息子が脱税しているかもしれんな」

上司「次からは、毎日昼に行け、昼に」

 翌日から、博之は毎日午後1時に調査に行った。

 喫茶店の店主真澄が妻の志津に、

真澄「母さん! 店を閉めてくれ」

志津「何もこんな昼時に来なくてもいいでしょう?」

真澄「あんたは、今まで調査のために、毎日ここに昼を食べに来ていたのかい?」

博之「そんなことはありません」

真澄「毎日来て、客の入りとか、売り上げをチェックしていたんだろう?」

博之「『そんなことはない』と申し上げているでしょう。これからは、私の質問だけに答えてもらえればいいんです」

真澄「質問や調査に拒否権はないのかい?」

博之「ありません。拒否された場合は1年以下の懲役または20万円以下の罰金に処されます」

真澄「そんな無茶な! 私達みたいな税金の素人では、答えられないときもあるだろう?」

博之「それなら顧問税理士でも呼んで代わればいい」

真澄「こんな小さな喫茶店が顧問税理士を抱えている訳がないだろう」

博之「そんなことは知りません。税理士が居ないのであれば、あなたが質問に答えるしかないんじゃないですか?」

真澄「いったい何が聞きたいんだ?」

博之「この店を始めるに当たって、借金をされていますよね」

真澄「してますよ」

博之「いつ、どこから、どれだけの金額を借りたのか? この紙に正確に書いてください」

真澄「そんなのすぐには思い出せないよ」

博之「では、待ちますから。きちんと調べて分かり次第、この紙に正確に書いてください。その間、私はここで待っていますから」

 博之がカバンから白紙を1枚取り出した。

真澄「そんなことされたら、その間、店を開けられず、売り上げが減っちゃうよ。しかもこんな稼ぎどきに」

博之「そんなことは知りません。税務調査の方が優先されます」

志津「あんたは鬼だ! 私達を見殺しにする気だね。店がつぶれればいいと思っているんだろう」

真澄「そんなことは知りません。ただ任務を遂行しているだけです」

 博之と老夫婦とのやり取りは延々と続いた。その間、喫茶店は閉めたままだった。


 博之がその日の調査を終え、税務署に戻ると、上司から小言を言われた。

上司「税務職員が行きつけの店なんか作っちゃいけないんだよ」

博之「すみません」

上司「いいか、徹底的に調べてくれよ」

博之「出来る範囲で」

上司「なんだと! 誰が『できる範囲で良い』と言ったんだ!」

博之「すみません」

上司「じゃぁ、少しのごまかしは見逃しても良いと思っているのか?」

博之「すみません」

上司「みんな、聞いてくれ」

 周りに居た職員が全員振り向いた。

上司「みんな、こいつは『少しのごまかしならしてもいい』って言ってるぞ」

職員「……」

 周りの職員は、全員黙って上司の話を聞くしかなかった。


 それから2か月後、

 結局、博之の税務調査により阿部夫婦の所得隠しが発覚した。

真澄「では、過去5年分の税金をお支払いすればいいんだね?」

博之「いや、7年分です」

真澄「お金の関係は5年ではないのかい?」

博之「悪質なものは7年さかのぼれます」

真澄「私らのは、悪質なんですか?」

博之「はい」

真澄「悪質か悪質でないかは誰が決めるんだい?」

博之「私どもです。少なくともあなた方ではありません」


 後日。

 喫茶店の老夫婦は多額の重加算税と延滞税を払うために、そしてお店を続ける気力を無くし、喫茶店を売り払うことになった。

 博之が、その喫茶店に行き、老夫婦と最後に会った時のことだった。

志津「あんたは、お客の仮面をかぶった税務職員だ! あんた、何か月もここに通ってお客になりすましていたのね」

真澄「これから税務職員が一度でも店に来たら、もう商売は出来ないよ。だから、もう二度と商売はしない!」

志津「あんたは手柄をたてて、これで出世できるんだろう? 良かったわね。私たちは、お店を売ってここを去るわ。あんたの顔なんか二度と見たくないからね」

真澄「所詮、公務員なんて、国民の敵なんだよ。国民をいじめればいじめるほど給料が多くもらえるんだろう?」

 老夫婦は博之に対して、今までの積もりに積もった恨みをここぞとばかり吐き捨てた。その罵詈雑言の根底には、店を閉める、この地を去るというやり切れない気持ちも含まれていた。

 老夫婦は、今の悔しさと、常連さんとの思い出やら会話やらが思い出されて、老夫婦の目から涙がこぼれ落ちた。

真澄「こんちくしょう! とっとと帰れ!」

志津「帰れ! 帰れ!」

 真澄がコーヒーカップを床に叩きつけ、志津がおしぼりを博之に投げつけた。

 博之は、居たたまれず喫茶店を出た。


 博之は、喫茶店から税務署までのたった5分の帰り道を遠回りして何十分もかけて帰った。歩きながら博之の脳裏に、この2か月間のいろいろなことが思い出された。

博之(世の中には、誰かがしないといけない仕事があるんだ。嫌な仕事もあるし、人から恨まれる仕事もある)

博之(税務調査もそのひとつだ。税務官の差し押さえ、警察官のスピード違反の取り締まり、銀行員の融資の打ち切り。子供に注射を打つ看護師、生活指導の先生、裁判官、死刑執行人。この世の中にはいくらでもある)

博之(自分は、ただ仕事をこなせばいいんだ。いちいち感情移入していたら務まらないんだ。そうだろう)

博之(『感情』とか『同情』は、どこかに捨ててくればいいんだ。前に上司が『税務署に居る間は、同情も涙も捨てて来い』と言ってた通りだ。そうすればいいんだ)

 博之は自分に言い聞かせた。


 博之が税務署に帰ると、

上司「おっ! ちょうど良いところに帰って来たな」

博之「はい?」

上司「お前の客が待っているぞ」

 博之が待合所を見渡すと、ひとりの男が博之に近づいて来た。博之はその男の顔に見覚えがあった。老夫婦の経営する喫茶店の前に調査に入った個人店の経営者だった。税務調査をして、重加算税と延滞税をかけた客が来ていた。

 博之がカウンターに行くと、客が近づいてきて、

客「子供が生まれたばかりで、もうこれ以上税金を払えないです。猶予してもらえませんか?」

博之「それって、子供を作るから悪いんじゃないですか?」

客「えっ?」

博之「普通なら、きちんと税金を支払ってから子供を作る。それがあなたの場合、逆なんですよ」

 博之のその一言で客が切れた。

客「なんだと、もういっぺん言ってみろ!」

博之「あなたの場合、子供を先に作って、それから税金をどうしようか考えているんでしょう? それ、おかしいでしょ」

 客がいきなり博之の胸倉をつかんだ。そしてにらみつけてきた。

博之「税金を払うのが精一杯で、子作り出来ない家もあるんだから」

 客が持っている博之の胸倉を締め上げた。

博之(殴られる……)

 そう思ったが、抵抗しなかった。

博之(殴られたら警察を呼べば良い。こちらは暴行罪で訴えるだけだ。いつものことだ)

 客は博之の顔に自分の顔を近づけ、

客「お前その言葉、一生覚えておけよ。俺もお前の顔と名前は、一生覚えておくからな。自分の子供は、注意してよく見ていることだな。元気に育つといいけどな。ははははは」

 そう言い捨ててお客は帰って行った。


 その日税務署で、博之の所属する担当の飲み会があった。博之にとって嫌な上司が『親睦』と称して、月一回『自由参加』と称して行っていた。しかし、『自由参加』とは言うものの、参加しないと後でいろいろ不当な扱いを受ける羽目になるのだった。

 博之は、飲み会に気が進まなかったものの仕方なく参加した。すると、その飲み会で、

上司「お前なんか、とっとと帰れ。そんな不景気な顔を見たってちっとも酒がうまくない。さっさと家へ帰ってかみさんと子供の顔見て寝てしまえ!」

 酔いが回った上司が悪態をついた。いつもは、それでも我慢していた博之だったが、この日は、

博之「帰ります!」

 そう言うと、さっさと帰ってしまった。博之も酒が回り、理性が抑えられなかった。昼間のことで、気持ちが不安定だったことも手伝っていた。

 博之は、税務署まで車で通勤し、税務署の近くに月極駐車場を借りていた。飲み会の日は、帰りタクシーで帰り、車を置いていくのが常だったが、この時の博之は、荒れていた。

博之「冗談じゃねぇ、あんな奴。なんで金払ってまであんな奴と飲まなくちゃいけないんだ!」

博之(早く帰って、妻と子の顔を見て、さぁ、気分転換だ)

 博之はそう思った。それが、博之をマイカー運転に導いた。


 車を運転しての帰り道、

博之「なんで、国民の子作りまで、私が注意しなければならないんだ?」

 酔った頭で思い出し、運転しながらぼやいていた。

 酒気帯び運転だったが無事家に着いた。博之は翌日から2泊3日の中堅職員研修があるので、すぐに寝てしまった。

 そして、この日を境に、博之は奈美の前から姿を消したのだった。

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【後書き】

 たくさんの作品の中から本編をお読みいただきありがとうございました。m(__)m

 まだまだ未熟ではありますが、皆様に愛される作品となりますよう努力を重ねていく所存です。m(__)m

 読んでいただいた方々には「感謝、感謝」です。「本当にありがとうございました」m(__)m

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誤字、脱字、コンプライアンス違反、あきらかな内容の間違いなどありましたら、なんでも結構ですのでお申し付けくださいませ。

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