表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
女子ボートレーサー と市役所職員  作者: 池井 けい
第2章 国民健康保険課、坂口大輔
13/18

03 初めてのフライング?編

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

【あらまし】

 新人ボートレーサー速水爽香のこれまでの成績(着順)、

第1節『結果、6・6・6・6・5・6・欠・6』

第2節『結果、6・6・6・6・6・失』

 そして第3節が始まり、最終日。今日まで成績は、

第3節『●登場人結果、6・6・6・6・6・6・6・今日』


 爽香は最後のレースでフライングを犯してしまう。すると、埼玉支部の先輩、A1級レーサー里見千鶴から「一緒に帰ろう」と誘われるのだった。

 爽香は愛知県蒲郡から埼玉県まで、先輩の息子が運転する車に乗って帰ることになった。その車中で、爽香は先輩レーサー千鶴から次々と興味のある話を聞くのだった……

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

【主な登場人物】

速水爽香 20歳女 女子ボートレーサー

里見千鶴 48歳女 女子ボートレーサー、その後爽香の師匠となる

里見拓也 19歳男 千鶴の息子

ボートレース場係員

選手A~C

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

【前書き】

●この小説には多くの数字が出てきます。そこで読者の皆様が読み易いように横書きとなっております

●多人数での会話も多いことから、誰が話しているのか、すぐにわかるよう会話の頭に台本形式で、氏または名を付けて表現しました

●この物語はフィクションです。実在の個人・団体、実際のレースとは一切関係ありません。ボートレーサーと市役所職員をモデルに、フィクションとして制作されたものです

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

【01】 ここまでの爽香の成績(レース結果のまとめ)


■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

★第1節(爽香にとってのデビュー戦)。ボートレース戸田。

 『結果、6・6・6・6・5(最下位)・6・欠(転覆)・6』

 5着とあるのは1艇がフライングしたため。実質の最下位。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

★第2節(爽香にとって2場所目)。同じくボートレース戸田。

『結果、6・6・6・6・6・失(違反により即日帰郷)』

 爽香にとってのデビュー戦が終わり第2節目も、ボートレース戸田だった。

 速水爽香は、6回走って、6着5回、失格1回、そして『即日帰郷』に終わった。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

★第3節(爽香にとって3場所目)。ボートレース蒲郡。

『結果、6・6・6・6・6・6・6・今日』

 初日から5日目まで7回乗艇、すべて6コースからのスタートで結果はすべて6着だった。そして最終日が来た。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■


 ボートレース蒲郡。最終日。

 今節は速水爽香にとって3場所目。爽香にとって初めての遠征になる。会場は『ボートレース蒲郡』蒲郡は、昼間から夜間ナイターまでレースを楽しめる。午後3時から夜9時までなので、客はその間6時間レースを楽しむことが出来る。朝が苦手な爽香にとって、ナイターレースは好きだった。もうひとつ好きな理由がある。それは「ナイター手当」が付くからである。

「ナイター手当」は最終日の帰り時間が遅くなるので、やむを得ずホテルに泊まるなどの出費に充てられる意味もあった。

 爽香は最終日1回乗り。8レース5号艇での乗艇だった。4号艇、5号艇、6号艇が女子。


『ボートレース蒲郡』 6日目 8レース 予選 男女混合一般戦

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

【出走表】

1号艇 南田 利貴 28歳 A2級 勝率5.55 モーター-53424542

2号艇 土田 孝之 59歳 A1級 勝率6.17 モーター◎5 564252

3号艇 岡安 健梧 30歳 A2級 勝率5.87 モーター×61545541

4号艇 向川 美有 33歳 A2級 勝率5.57 モーター△42153213

5号艇 速水 爽香 20歳 B2級 勝率0.00 モーター○66666 66

6号艇 尾田 雅実 40歳 B1級 勝率4.48 モーター-656566 2

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

※『モーター』のうしろの印はモーターの予想印。その後の数字は前走成績


 爽香は展示航走を終え、本番待機室に居た。

『展示航走』には、『スタート展示』と『周回展示』のふたつがある。どちらも本番レースの直前に行われる。


『スタート展示』は、本番6人のレーサーでスタートだけを練習する。観客にとって、スタートの良し悪しは舟券を買う参考になる。爽香は6コースからトップスタートだった。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

【スタート展示】

スタートタイミング内から13.11.16.12.09.06

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■


『周回展示』は、6艇が間隔を空けて、全速力でコースを2周する。これも舟券予想の参考となる。発表される下記『展示タイム』は直線150mのタイムである。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

【展示タイム】(直線150mのタイム)

1号艇 6.65

2号艇 6.64

3号艇 6.68

4号艇 6.69

5号艇 6.72

6号艇 6.70

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■


 レーサーの『待機室』は、2部屋ある。展示航走の出番を待つ『展示待機室』、本番レースの出番を待つ『本番待機室』のふたつである。

 この小部屋で8(レース)に出場する6人がその時を待つ、男性と女性が半々だった。全員が無言でそれぞれ自分の思いに入っていた。

爽香(さぁ最後だ、今度こそ最低でも5着に入らないと)

 爽香は、そう考えていた。


 舟券(勝舟投票券)発売締め切り5分前、「ブーッ」ブザーが鳴った。『本番待機室』で出場する6人が準備を始め、最後に各自が自前のヘルメットをかぶった。これで準備完了である、そして出走のブザーが鳴った。


 出場レーサー6人が「お願いします」と声を出し、待機室を出てピットに繋がれている各自枠番のボートへと歩いて行った。

 ボートの前で6人が整列する。係員から「事故なく完走するように」と注意を受け、水面に向かって敬礼しボートに乗った。

爽香(6コースばかりじゃ勝ち目がない。勝てるとすれば、唯一あるのはスタート力、一気にまくり勝負だ)

 爽香は心に決めた。


 ピットのランプが「始動」に変わり、爽香はスターターロープをいつもより思いっ切り引っ張った。エンジンがかかり、いよいよ爽香にとって、このプール(ボートレース場水面)最後のレースが始まった。


 爽香の枠順は5枠だが、新人はデビュー後1~2年は主に6コースを、組合せメンバーによっては5コースを走るのがボートレース界の暗黙のきまりである。またそれは、技量的に未熟な新人レーサーが1マークで失速し、外の艇とターンで衝突する恐れを回避するためでもあった。


 ほとんどの事故がターンの時に起こるものであり、その最大危険箇所が1周目の1マークなのだ。大事故は選手生命に、そして人生にも関わることであり、過去に起きた大事故の多くは、レーサーになって3年以内に起きている。そんな事例を基に新人レーサーは6コースから走っていた。


 ピットのランプが「出走」に変わり6艇が一斉にピットを飛び出した。

♪ファンファーレが場内に鳴り響いた。

 気温27度 晴れ 追い風3m 水温21度 波高1cm


 爽香は大きく弧を描くように他の5艇とは別に艇を動かした。大外6コースを走るため、爽香は『イン取り合戦』に参加する必要はなかった。


実況「進入はインから1、2、3、4、6、5、」


 スタートラインにある大時計が動き出し、爽香はスタートラインに向かって全速力になるよう加速した。

 スタートライン85m手前の標識ポール(イン側では80m)を大時計スタート4秒前に全速になるように調整した。

 爽香は頭上に張ってある青と白の正三角形の小旗が目に入った。


【02】 爽香がトップスタート!


実況「進入はインから1、2、3、4、6、5、」

実況「大時計が回り、10秒前、5秒前、」


 大時計の針が『3秒前、2秒前、1秒前』と、数字のない文字盤の上を動いていった。

 大時計の針が真上を指した! 数字は書かれてないが『0(ゼロ)』を意味する。

爽香(よし、マクルわよ!)


 心の中でそう叫びながらスタートは『02(100分の2秒後)』のトップスタートを狙って爽香はスタートラインを通過した。『マクル』とは、他艇を外側から抜くことである。


 内側の艇は、爽香より1艇身後方に見えた。爽香は上体をできる限り伏せ、風の抵抗を少なくした。第1ターンマークが見えハンドルを左側に少しずつ回しながら上体を起こし、その体を艇の左側へと重心をずらしていった。


 ボートレーサー養成所で何度も習ったモンキーターンをする。プロになって過去2節で試行したモンキーターンよりもっとハイレベルで華麗な旋回ができたように自分では思えた。

 それでもは爽香の通った航跡はターンマークからかなり遠かった。インの選手が左側に近づいてきた、しかし爽香のスピードはイン選手より速く、イン選手を少しずつ離しながら直線を全力で走って行った。


爽香(やったートップだ!)と思って振り返り、後方2番手の艇を見た。

 2番手レーサーの被ったヘルメットが「お前は外にどけ!」と言わんばかりに、コース外側へとレーサーの頭が横に振られた。

爽香(これがプロの洗礼なのか、新人のあたしがトップだからもっと外を走れ、と言うのね。そうはさせるものか! いくら新人でもこれはあたしにとっての初勝利、水神祭を受けるための花道なんだから)

 爽香は、自分に言い聞かせた。


水神祭すいじんさい』とは新人レーサーが初勝利すると、仲間のレーサーらの手によってコース水面に投げ込まれる儀式である。

爽香(そっちがその気なら、こっちはコースを絞ってやる)

 爽香は逆に2番手レーサーの前を走るようにハンドルを切った。2番手レーサーは、爽香の引き波を受け少しだけ差が開いた。


 第2マーク爽香は2番手レーサーと少し水が空いた分モンキーターンではなく普通に旋回した。そして直線で目に入ったのが、大時計横の赤いシグナルランプ(信号灯)だった。その下には大きく「5」の数字が光っている。思わず爽香は自分のカポック(レース用の上着)を見た。

爽香(黄色、5枠、あたしだ!!)


 その瞬間、爽香の頭の中が真っ白になった。

 爽香は減速してホームストレッチ(観客側水面)岸寄り(スタンド寄り)にコースを変えた。

 他の5艇が爽香の内側を次々と全力で駆け抜けていく。5艇が過ぎ去った後に爽香はスピードを上げ第1ターンマークを回り、バックストレッチ(向こう側水面)岸寄りを走りピットへ向かった。

 バックストレッチ側、正面奥にも赤いシグナルランプと『5』の数字が光っていた。

爽香(なぜ、バックストレッチ側で『5』のランプに気付かなかったんだろう。レースに夢中だったから?)


 ピットに戻り陸に上がると、テレビモニターを見ている他のレーサーの声が聞こえてきた。

選手A「バカじゃないのあの5号艇、フライングをしておきながら2周も走るなんて」

 フライング艇は1周目向こう正面(バックストレッチ)からピットへ戻るのが決まりだった。

選手B「『5号艇失格』って放送しているのにまったく図々しいわよね」

選手C「ほんと、ほんと、あれでよくボートレーサー養成所を卒業できたわね」

「はははははっ」全員が大声で笑っていた。

 その笑い声の後方を爽香はうつむいたまま通り過ぎた。爽香はうつむくしかなかった。

爽香(『失格』の放送などまったく聞こえなかった。あたしはトップになっただけで、もう夢中だったのだ。人間何かに夢中になると周りの声や音が聞こえなくなるようにできているのだ)

 爽香は、自分にそう言い聞かせた。


 今度は係員がやってきて爽香を叱りつけた。

係員「デビューして3節目でもうフライングか、お前は何を考えて走っているんだ! 自分のことしか考えてないんだろう! 養成所でフライング事故がどんなに重大な罪か習わなかったのか?」

 しばらく沈黙が続いた。

係員「習わなかったか? と聞いているんだ」

爽香「習いました」

 爽香が小さく答えた。

係員「えっ? 聞こえない!」

爽香「習いました!!!」

 爽香が大声で言った。

係員「あれが見えないのか?」

 係員が壁に貼ってある紙を指さした。

 そこには『今日も無事故完走』と書かれていた。

係員「あれが見えないのか!!!」

 係員が今度は()()()怒鳴りつけた。

爽香「見えます!!!」

 爽香も大声で答えた。

係員「お前はあれも見えないぐらいだから、大時計も見えないんだよ!」

 爽香の目に涙が溜まってきた。

係員「フライングしたらまずお客様に迷惑がかかる。返還金作業で事務に支障をきたす。そして何より売上がなくなったらこの仕組み、この組織が崩壊してしまうんだよ。関係者への給与、お前達の賞金、学校関係・福祉関係への寄付金、誰が払うんだ。お前がフライングするたびに、お前が1千万円2千万円出してくれるのか? はぁっ?」

 爽香は下を向いたまま涙が床へと落ちた。

 係員からの説教はその後も延々と続いた。


 説教が終わり通路を歩いていると誰かが爽香の横を通り過ぎた、その瞬間だった、

選手「フライングしたら浮遊物なんだよ。お前なんかさっさと消えろ」 

と、罵声を浴びせられた。

 そう言ったのは、爽香がフライングしたレースで2番手を走っていた男子レーサーだった。爽香は、そのレーサーが手に持っていたヘルメットの色と模様でそのことに気付いた。

爽香(あたしは浮遊物か……)

 爽香は呆然となった。返す言葉もなく、深く、深く落ち込んで行った。

爽香(そうか、あのヘルメットの振り方は『お前はフライングしたからコースアウトしろ』って意味だったんだ。

 2番手レーサーにとっては、フライングしたあたしが邪魔だものね。あたしが、どかないといけなかったんだ。

 もっともその前に『5号艇失格』の放送に気付き、自ら航走を外へと変えなくてはいけないのに。あたし、何やってんだろう……)


爽香(3節走ってすべて最下位、賞金ゼロ、おまけに周りのみんなに迷惑をかけて……、浮遊物かぁ~、ほんと、あたしは浮遊物なのかも知れない。ボートレーサーに向いてないのかな? 誰かが『浮き草稼業』と言ってたけれど『浮き草稼業』とはよく言ったものね。ボートレーサーになっていなければ、こんな辛いことを経験しなくて済んだのに)

 目に涙が浮かんできた、思わず爽香は上を見た、その涙がこぼれ落ちないように。


【03】 里見先輩と夜のドライブ


 最終日が終わり辺りがすっかり真っ暗な中、爽香は大きなスーツケースを引きずりながら憔悴しきった姿で選手宿舎を出た。宿舎の自動ドアを出ると宿舎の駐車場がある。そこに停めてあった車の窓が開いた。車の後部座席に居たのは、里見千鶴(さとみ・ちづる48歳)埼玉支部のA1級レーサーだった。

車の窓から女性の顔がにょきっと出てきた。

千鶴「速水さーん」

 窓にある顔は笑顔だった。

爽香がその声に気づき車の方を見た。女性は車から降りるとその場で爽香をこまねいた。

爽香(《同じ埼玉支部の》里見先輩だ!)

爽香は重いスーツケースを引きずりながら速足で千鶴に近寄って行った。

千鶴「速水さんはこれからどこか寄るの? もしまっすぐ帰るのなら一緒に埼玉までどう?」

 千鶴の息子が車でレース場宿舎まで迎えに来ていた。

爽香「どこも寄るところはないです」

千鶴「じゃぁ、一緒に埼玉までドライブしません?」

爽香「いいんですか?」

千鶴「もちろんよ。長い道のり、話し相手も欲しかったし、何より同じ埼玉支部じゃない」

爽香「ありがとうございます、ではお言葉に甘えて」

千鶴「良かった」

爽香「良かったのはあたしの方です。今もらった旅費も使わないで済むので家計に大助かりです」

 千鶴は爽香のスーツケースを持ち、車のトランクへの方へ押していった。

爽香「先輩いいんです、あたしやります、やりますから」

千鶴「いいのよ、私の方が慣れているから」

 車には鳥のエンブレムがついていた。スポーツタイプでありながらトランク部分が広く使い勝手が良い。しかも走りが良く、乗り心地も良いので千鶴はこの車を選んだのだ。

 千鶴は手際よく爽香のスーツケースを車に積んだ。

千鶴「さぁ、乗って乗って」

 千鶴と爽香が後部座席に座った。


【04】 フライングの強者つわもの


 ボートレース蒲郡はナイター開催である。最終日が終わり、蒲郡から美浦市まで夜のドライブとなった。


 車中で。

千鶴「お疲れ様」

爽香「お疲れ様です」

 仕事を終えた定番の挨拶をしてから、

爽香「初めてのフライングをしてしまいました」

千鶴「『初めてのフライング』かぁ。そう言えば、テレビの番組で『はじめてのおつかい』と言うのがあったわね」

爽香「あっ、それ知ってます。見たことあります」

千鶴「小さい子が、親からお使いを頼まれて買物に行くのよね」

爽香「そうそう」

千鶴「だけれど、いろんな困難に遭い、泣いてしまうのよ」

爽香「あたしも今回泣いてしまいました」

千鶴「でも、落ち込む必要はないわよ」

爽香「はい」

千鶴「落ち込んだって同じよ」

爽香「はい」

千鶴「どのくらいのフライングだったの?」

爽香「『03』です」

千鶴「たったゼロサン(03)のフライングぐらい、」

『03』とは、100分の3秒を意味していた。

爽香「はい」

千鶴「選手の中には、その10倍『100分の30以上』のフライングをした選手もいるのよ」

爽香「本当ですか?」

千鶴「本当よ。しかも複数いるわ」

爽香「そうなんですか」

千鶴「それに、初めてのフライングなんでしょう?」

爽香「はい」

千鶴「私なんかもう10本以上フライングしているわ」

爽香「でも、やっている年数が違いますから」

千鶴「私よりすごい人で、フライングを94回した選手も居たわ」

爽香「94回も!」

 千鶴は、誰かを慰めるときに、必ずもっと上の例を挙げるようにしている。それが何より病んだ者の心を平常にもどす早道であり、ひとつの技法であることを千鶴は知っていた。


爽香「94回もじゃ、相当怒られたでしょうね」

千鶴「それが、その選手全然平気なのよ。怒られるたびに落ち込んでいたら、次のレースなんか出来ないわよ」

爽香「すごい!」

千鶴「フライングをしたら、その内容によっては、愛知県の碧南訓練所に行くのよ」

爽香「あたしも?」

千鶴「あなたは大丈夫よ。例えば05以上のフライングをしたとか、続けてスタート事故を起こしたとかよ」

爽香「今後気を付けます」

千鶴「その94回もフライングをした選手は、碧南訓練所が自分の別荘だと思っていたんじゃない?」

爽香「ははははは」

千鶴「だから二泊三日の研修もさぞ楽しかったんじゃないかしら?」

爽香「すごい人ですね」

千鶴「そう、すごい人よ。偶然にも私たちが今日走った蒲郡がその選手のデビュー戦だったんだけれど、デビューした節で初勝利(1着)を収めているのよ!」

爽香「うわぁーっ!」

千鶴「ねっ! すごいでしょう」

爽香「並外れた選手だったんですね」

千鶴「『並外れた選手』と言うより、『並外れた心臓』の持ち主だったわ」

爽香「ははははは」

爽香「その選手は今も走っているんですか?」

千鶴「残念ながらみんなに惜しまれつつ亡くなられましたけれど、その精神と操縦テクニックは複数のお弟子さんたちに受け継がれているわ」

爽香「お弟子さんたちも素晴らしい方々なんでしょうね」

千鶴「もちろん! そうよ」

爽香「なんだか少し平常心を取り戻してきました」

千鶴「そうよ。落ち込んでいちゃダメよ」

爽香「先輩のお陰です。ありがとうございます」

 爽香が千鶴に向かって深々と頭を下げた。

 そんな姿を運転している息子拓也がルームミラーを通してチラッと見た。

拓也(意外と素直で可愛いじゃん!)

千鶴「そんないいのよ。だって同じ仲間じゃない。助け合わないとね」

爽香「あたしが先輩を助けることなんて、ひとつも無いと思いますが?」

千鶴「なに言ってるのよ。その内私が年老いて、力仕事とか色々助けてもらうことになるわよ。それに、あなたはこれから上り調子、私は下り調子。いつかは、あなたに絶対抜かれるんだから。これは絶対に間違いないことよ」

爽香「そうでしょうか?」

千鶴「そうよ。私が保証するわ」


 車は東名高速道路を浜名湖方面へと走っていた。

千鶴「こんな話があるのよ。ある女子レーサーの話なんだけれどね」

爽香「はい」

千鶴「そのレーサー、デビューして最初に(ボートレース)蒲郡に来たときは、デビューしたてで慎重にスタートしていたせいか、フライングをしなかったんだけれど、二度目に蒲郡に来たときは『06』のフライングをしてしまったの」

爽香「えーっ、即日帰郷じゃないですか?」

千鶴「確か、『05以上で即日帰郷制度』が始まる前年のことだったと思うわ」

爽香「じゃぁセーフですね」

千鶴「ええ、その選手は最終日まで走ったはずよ。そして、3度目で蒲郡に来た時、初日いきなり、また『04』のフライングをしてしまったの」

爽香「初日とは、つらいですね」

千鶴「あとは、もう散々だったわ。『30前後』のスタートを繰り返すだけで、5着、6着の繰り返し」

爽香「あたしも気を付けなくちゃ」


千鶴「そして4度目の蒲郡、その選手どうなったと思う? フライングをしたか、しないか?」

爽香「まさか、またフライングなんて、しないですよね」

千鶴「ファイナルアンサー?」

爽香「ファイナルアンサー! フライングしてません!」

千鶴「こんな言葉を知っている? 『二度あることは』?」

爽香「『二度あることは、誰のせい』?」

 拓也がコケて、思わずハンドルを右に回してしまい車が寄れた。

爽香「きゃっ! 危ない」

拓也「ごめん、ごめん」

爽香「運転、大丈夫ですか?」

拓也「うん、大丈夫」

千鶴「それこそ、誰のせいで車がこけたのよ」

爽香「あたしのせい?」

千鶴「多分?」

拓也「ははははは」

爽香「『二度あることは、やみつきになる』?」

千鶴「それも違うわ。『2』の次は?」

爽香「『3』。あっ、思い出した! 『二度あることは三度ある』」

千鶴「正解!」

爽香「あたし、勉強が大嫌いだったからなぁ」

千鶴「あたしもよ。だからボートレーサーになったの」

爽香「あたしなんか、勉強が嫌いを通り越えて、まったくしませんでした。今のと同じように、先生に、『犬も歩けば?』と、聞かれて、」

千鶴「『犬も歩けば?』と、聞かれて?」

爽香「『猫も歩く』と答えたんです」

拓也「ははははは」

千鶴「ははははは。うまい! 最高!」

爽香「みんなに笑われました」

千鶴「いいのよ、勉強以外で頑張ればいいんだから」

爽香「『犬も歩けば、猫も歩く』の方が言い易いし、自然だと思いません?」

千鶴「そうね。誰かがマンションのベランダから通りを見ていて、有りそうな風景だわ。平和でのんびりとした雰囲気が出ていて素敵なフレーズだわ。心が癒される」


爽香「それで、さっきの話。その選手は、またフライングをしてしまったんですね?」

千鶴「そう、『02』のフライングを。蒲郡へ4回斡旋されて、その内3回がフライング」

爽香「そのレーサー、蒲郡と相性が悪かったんですかねぇ? あたしじゃもう二度と行きたくなくなるな」

千鶴「ところがね、その選手、こう言ったの。『ボートは楽しい!』って」

爽香「えっ! なんで。その人すごい!!!」

千鶴「私もそう思うのよ。フライングだって、最初は『06』、次が 『04』、三度目が『02』。つまり、『02』ずつ減っているのよ。修正能力が高いと思わない?」

爽香「そうか。そう考えればいいんだ」

千鶴「『02』ずつ減ると次は、『00』(ゼロゼロ)のタッチスタートでしょう」

爽香「なるほど」

千鶴「彼女はもう体でタッチスタートの感覚を身につけたのよ」

爽香「で、その選手は、その後どうなったんですか?」

千鶴「それから蒲郡へ行くと、彼女必死にスタート練習をしたわ、何度も何度も。そしてその後は、蒲郡でのフライングは無し。この前の開催では、8回走って平均10のスタートだったの」

爽香「完全に克服していますね」

千鶴「そう。とにかく彼女は前向きで努力家。今や立派なA1選手よ」


 車は、東名高速道路、浜名湖橋に差し掛かった。

爽香「うわーっ、きれい」

千鶴「浜名湖よ。いつか、あなたもここを走るのよ」

爽香「そうですね。頑張らなくちゃ」

千鶴「そう、その意気よ。さっきはフライングの多い選手の話をしたけれど、逆にフライングをほとんどしない選手もいるのよ」

爽香「どのぐらいフライングをしてないのですか?」

千鶴「そう、20年以上ね」

爽香「20年以上も?」

千鶴「走った回数で言うと、5782回」

爽香「えーっ、5782回も!」

千鶴「そこで引退したの。だから記録は、そこで終わり」

爽香「すごい!」

千鶴「徳島支部の選手だったけれど、私たち埼玉支部にもすごい選手がいたのよ」

爽香「どんな?」

千鶴「71歳で優勝という最年長優勝記録を打ち立てた人よ」

爽香「71歳で。」

千鶴「外のコースが大好きなレーサーだった」

爽香「じゃぁスタートが早くて、スタート事故も多かったんじゃないですか?」

千鶴「そう思うでしょう?」

爽香「はい。今日のあたしみたいに」

千鶴「ところが、ほとんどフライングをしなかったのよ」

爽香「ウソぉー」

千鶴「連続3千回以上フライング無しが1回。連続2千回以上フライング無しが2回」

爽香「信じられない!」

千鶴「それで、しかも強いのよ。勝とうとして瞬時に判断する力があるのね」

爽香「見習いたいわ」 

千鶴「選手生活が57年間と長かったので、昔の詳しい記録はもう残ってないんだけれど、残存する記録では、通算勝率が6.54」

爽香「バケモノだわ」

千鶴「言い方は悪いけれど、それ以外の表現がないわよね」

爽香「優勝回数は?」

千鶴「120回」

爽香「平均すると、毎年2回。ウソでしょう」

千鶴「もう引退しちゃったけれど、今ではハンドルをテニスラケットに持ち替えて、近所の奥様方をテニスでやっつけているらしいわよ」

爽香「やっぱり勝負師の血が流れているんですね」

千鶴「そのようね。私がね、こんな話をしたのは……、」

爽香「はい、」

千鶴「その選手は男性だったけれど、今度は女子レーサーとして、あなたに同じようになってもらいたいのよ」

爽香「えっ、あたしが? ムリ、ムリ、ムリ、ムリ、ムリ。無理が5回で御無理ごムリです」

拓也「ははははは」

千鶴「スタートは行かなくてもいいのよ」

爽香「えっ、そうなんですか」

千鶴「あなたがこれから94回フライングをしたいと言うのなら私は止めないわよ」

爽香「その話ですか?!」

千鶴「人それぞれ生き方があるし、レーサーが1,600人いれば、1,600通りの戦法があるわけだから、私はいっさい他人のことを否定も非難もしないし、これまでもしたことないわ」

爽香「はい」


【05】 ボートレーサーに必要なのは『気象学』


千鶴「でもね、せっかく同じ支部に、こういう先人が居らしたのだから、今度は現役のあなたが名レーサーになって欲しいのよ」

爽香「……」

千鶴「私も以前は、そう言う夢があったけれど、もうこの年齢では無理ね。でもあなたは若いし、まだ未来があるわ。スタート勝負の選手ではなく、オールマイティな、なんでもできる選手になって欲しいな」

爽香「オールマイティか……」

千鶴「まずターン技術ね。そして、1マークでの判断力。それと、ほら、養成所でいろいろな学科を勉強したでしょう」

爽香「操縦学と整備学と気象学ですか?」

千鶴「そう、それよ。すごいじゃない、すらすら言えるなんて」

爽香「まぁ、そのぐらいなら」

千鶴「レーサーになると、みんな操縦に重点を置きがちなんだけれど、意外と忘れがちで重要なのは気象学」

爽香「えっ、そうなんですか?」

千鶴「この年齢になると、それがつくづくわかってきたの。なんで養成所で気象学が必要なのか?」

爽香「気象学ってそんなに大事なんですか?」

千鶴「例えば明日の天気、明日の天気はどうやって知るの?」

爽香「新聞やテレビで」

千鶴「そうよね。でもそれって100%当たる?」

爽香「いいえ、ハズレることもたまにあります」

千鶴「そうよね。それに新聞やテレビで、ボートレースに必要な情報はいっさい言ってくれないのよ」

爽香「そう言われれば、そうかも」

千鶴「『気象学』って言うと、ちょっと大げさで難しそうでピンと来ないけれど、私たちレーサーが一旦ボートに乗ったら、いろいろな物と出会うのよ」

爽香「『出会う』んですか?」

千鶴「やさしく言えば、水面、まず水と出会うでしょう」

爽香「はい」

千鶴「そのときの水の温度を知らないと戦えないわよね」

爽香「はい」

千鶴「水温が低いとなれば気温も低い。気温が低いということは、天気が悪いか、北風が強いか、レース場が北に位置しているか、例えば(ボートレース)桐生のように。それとも標高が高いか、例えば(ボートレース)三国のように。」

爽香「そうですね」

千鶴「いろいろな理由が考えられるわよね」

爽香「はい」

千鶴「水温・気温が低いとエンジンの回転は上がる? 下がる?」

爽香「上がります」

千鶴「どうして?」

爽香「寒いと空気の密度が高くなって、吸気の効率が上がるから」

千鶴「さすが、完璧ね」

爽香「養成所で習いました」

千鶴「標高が100m上がると気温は上がる? 下がる?」

爽香「下がります」

千鶴「そう、標高が100m上がると気温は0.6度ほど下がります。(ボートレース)三国は標高85mです。しかも日本海側で北風も強い。だからモーターに取り込める酸素量が増え、エンジンの回転が上がりそうですよね」

爽香「はい」

千鶴「はい、確かに冬場はエンジンの回転が上がることも多いです。でも季節よっては、標高が高いため、気圧が低くなり、モーターの出力が落ちることもあります」

爽香「意外でした」

千鶴「だから一概には、どちらとも言えません」

爽香「それだとどうしたら良いのか?」

千鶴「ひとつだけ良い方法があります」

爽香「どんな方法?」

千鶴「レース場に行ったら必ず日記を書くんです」

爽香「えっ、日記?」

千鶴「さっき出会いの話をしたでしょう」

爽香「ええ、覚えています」

千鶴「だから日記にね、今日は一面真っ青な空と出会えた。風は爽やかで心地よい。水はぬるく穏やかだった。走るのが気持ち良い。とかって勝手気ままに書くのよ。空と出会ってどうだったか、風と出会ってどうだったか、自分の感じたままに。そして、最後にプロペラをこのようにした、とかギヤケースをどうした、とか書けば終わりよ」

爽香「えっ、それでいいんですか?」

千鶴「もちろん、気象学的に、快晴、南南西風速4m、気温15度、水温13度、波高2cm、気圧1003hpa、降水量0mm、って書いても良いけれど、味気ないじゃない」

爽香「それだと続かないかも」

千鶴「でしょう、だから、楽しく、土手につくしが伸び、草が少し揺れていた。プロペラを少し伸び型に叩いてみた。登録番号8823の選手がイケメンだ。とかで、いいのよ」

爽香「そんなことも書いていいんですね」

千鶴「そう言う方が大事なのよ」

爽香「わかりました」

千鶴「そしてノートは24冊買ってね」

爽香「レース場別に記入するんですね」

千鶴「大当たり!」


千鶴「気象学的に、ノートに数字ばっかり書いてもレースでは参考にならないのよ。やっぱり体感が大事。『寒い』、『暑い』、『水が冷たい』『水がぬるい』、私ぐらいの年齢になると『ひざが痛い』『腰が痛い』『頭が痛い』とか、それに合わせて、ペラをたたいたり、ギヤケースを調整したり、そんなもんよ」

爽香「わかりやすくて、ためになります」

千鶴「海老名サービスエリアに着いたら、一日に一万個売れるというメロンパンを食べましょうね。持ち帰りの分もごちそうさせてもらうから」

爽香「えっ、いいんですか? それは楽しみ!」

千鶴「人生いつでも楽しくいかなくっちゃ!」

爽香「はい!」

 3人のドライブは続いた。

爽香(こんないい人もいるんだ!)


■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

【後書き】

 たくさん素晴らしい作品がある中、本編をお読みいただきありがとうございました。m(__)m

 まだまだ未熟ではありますが、皆様に愛される作品となりますよう努力を重ねていく所存です。m(__)m

重ね重ね御礼申し上げます。本当にありがとうございました。m(__)m


 あきらかな内容の間違い、誤字、脱字、コンプライアンス違反などありましたら、なんでも結構ですのでお申し付けくださいませ。m(__)m


【ボートレース関係者の皆様へ】

 いつもボートレースを楽しませていただいております、ありがとうございます。m(__)m

 ボートレーサーの皆様だけでなく、ボートレース関係者の方々、特に裏方として運営や現場そして宿舎を支えている方々には感謝の気持ちでいっぱいです。m(__)m

 これからは逆に、ボートレース関係者の方々に楽しんでいただこうと思い、この作品を書き始め、そして今後も書き続けてまいります。

 皆様方に少しでも恩返しが出来たら幸いです。何とぞ宜しくお願い申し上げます。m(__)m

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ