01 もっと強く抱いてくれますか?編
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【あらまし】
丹沢純也、速水爽香の話も勿論まだまだ続きます。そちらは一旦置いといて、ここから新たに『国民健康保険課、坂口大輔』の話が加わります。
ここでの話は、市役所に社会科見学で来ていた小学生の松島海斗君が頭を打って意識が無くなってしまいます。
海斗君の父親は行方不明で、母親の松島奈美は海斗の意識が戻らず不安でたまりません。
奈美「今日だけでいいから、ここ(私の部屋)に泊って行ってもらえません?」
と、坂口大輔に頼むのでした。
大輔は市役所で起きた事故なので、責任を感じ、
大輔「わかりました。泊まります」と。
この家族と坂口大輔の行方は……?
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【主な登場人物】
松島海斗 9歳男 社会科見学で、市役所で倒される
松島奈美 34歳女 松島海斗の母、海斗のことが心配
松島博之 37歳男 松島海斗の父、失踪中
茂森早紀 50歳女 美浦市役所国民健康保険課長
小竹由夏 33歳女 美浦市役所国民健康保険課係長
坂口大輔 28歳男 美浦市役所国民健康保険課主事
姫野祐希 25歳女 美浦市役所国民健康保険課主事
マスコット人形ジョーブ君 → 坂口大輔が入っている
マスコット人形アルクサ姫 → 姫野祐希が入っている
笹倉麗子 58歳女 美浦市役所税務課主任
井畑富美 45歳女 美浦市役所税務課主任
由利源吾 30歳男 美浦市役所税務課主任
授業参観の先生
授業参観の父兄
社会科見学引率の先生
社会科見学の児童多数
小学生A 海斗の同級生
小学生B 海斗の同級生
小学生C 海斗の同級生
若草伊織 海斗の同級生
高校生A 市役所内を走り海斗を倒す
高校生B 市役所内を走り海斗を倒す
救急隊員2名 美浦市役所消防署所属
秋石病院医師 脳の専門病院医師、
秋石病院看護師 脳の専門病院看護師、
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【前書き】
●この小説には多くの数字が出てきます。そこで読者の皆様が読み易いように横書きとなっております
●多人数での会話も多いことから、誰が話しているのか、すぐにわかるよう会話の頭に台本形式で、氏または名を付けて表現しました
●この物語はフィクションです。実在の個人・団体、実際のレースとは一切関係ありません。ボートレーサーと市役所職員をモデルに、フィクションとして制作されたものです
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【01】 『後頭部を強く打って死亡』のニュース
坂口大輔のワンルームマンション。朝。
坂口大輔(さかぐち・だいすけ・28歳)は、美浦市役所の国民健康保険課に勤務している。朝、出勤前、大輔はテレビで何気なくニュースを見ていた。
テレビ「中学校で柔道の練習中に女子生徒が死亡しました。原因は大外刈りにより後頭部を強く打ったためです。大外刈りは柔道の中でも一番危険な技と呼ばれており、過去にこの技で亡くなった生徒は10人以上にのぼります」
大輔「へえーっ、柔道で生徒が亡くなることもあるんだ。驚いたなぁ。柔道以外にも、ラグビーとか器械体操も危険と隣り合わせとは聞いていたが」
同じ時、松島家のダイニング。
松島奈美(まつしま・なみ・34歳)は、息子の海斗(かいと・9歳)と二人分の朝食の準備していた。
テレビがついている。
テレビ「中学校で柔道の練習中に女子生徒が死亡しました。原因は大外刈りにより後頭部を強く打ったためです。大外刈りは柔道の中でも一番危険な技と呼ばれており、過去にこの技で亡くなった生徒は10人以上にのぼります」
奈美「えーっ、柔道なんかで死ぬことがあるの? 後頭部を強く打って死ぬことって、あるんだ」
そこに息子の海斗が起きてきた。息子の海斗は小学3年生。
奈美「海斗、顔を洗って食事にしなさい」
海斗「はーい」
海斗は洗面所で顔を洗い食卓についた。奈美と海斗が一緒に食事をしながら、
奈美「今日は、社会科見学で市役所へ行くのよね」
海斗「うん」
奈美「市役所の人が何をやっているのか、ちゃんと見てくるのよ」
海斗「うん、わかった」
奈美「わからないことがあったら、なんでも質問しなさいね」
海斗「質問していいの?」
奈美「もちろんよ。そのために行くんだから」
海斗「また変なこと言っちゃうかも知れないよ?」
奈美は2年前、海斗が小学校1年の時の授業参観を思い出した。
【02】 授業参観「鳥で頭に『つ』の付く鳥は?」
【回想の始まり】
先生「鳥で頭に『つ』の付く鳥、知ってる人?」
奈美は教室の後ろで他の父兄に交じって国語の授業を見ていた。
海斗「は~い」
元気よく最初に手を上げたのが海斗だった。
奈美の周りの父兄が
父兄「あれ、松島さんよ」
その言葉に釣られ、奈美は周囲に対して何度も小さく頷いた。
海斗の後に他の児童も段々と手が上がった。ほぼ全員の手が上がったところで、
先生「じゃぁ一番早く手を上げた松島君、答えを言う前に、文字は何文字」
海斗が指を折り、
海斗「3文字!」
その答えを聞いて先生が頷き、後ろで見ていた奈美も自慢げに頷きながら笑みをこぼした。
父兄のひとりが、児童に聞こえないように、奈美に言った。
父兄「『ツグミ』もありよね」
奈美「あっそうか。でも、それはきっと知らないから」
先生「じゃぁ、松島君、答えは?」
海斗「つくね!」
大きな声で自信たっぷりに答えた。
生徒「ははははは」
父兄「わははははは」
大ウケで笑いが巻き起こった。
奈美「スッスッスッス」
奈美も釣られて苦笑いした。
先生「『つくね』か。松島君はよく食べるのか?」
海斗「はい、よく食べます。でもお母さんの方がもっと食べます」
父兄「わははははは」
海斗「お母さんは、お酒を飲みながら食べます」
父兄「わははははは」
海斗「飲む量も、半端でないんです」
父兄「わははははは」
大ウケで、何度も笑いが巻き起こった。
奈美はどうリアクションをしていいのか、迷ってしまったが、
奈美「うーん、もう」
先生「うん、あれはうまい、うまいよな。酒にも合うし」
先生がフォローし、この場をうまく治めた。
海斗「はい」
海斗の担任は、いい先生だった。奈美はあとで担任の先生が下戸であることを知った。
【回想の終わり】
奈美「変なこと言ってもいいのよ。友達を傷つけるようなことでなければ」
海斗「うん」
奈美「みんなが笑うんなら、いいのよ」
海斗「わかった。じゃぁ行くよ」
奈美「いってらっしゃい」
海斗はすぐ近くの通学班集合場所へと向かった。
奈美は、市内のスーパーマーケットでパートタイマーとして働いている。奈美も後片付けを済ますと職場に向かった。
午前10時。
美浦市役所入口ロビーでは、国民健康保険課のマスコット人形、「ジョーブ君」と、「アルクサ姫」が、社会科見学の小学3年生を出迎えていた。そして、ふたつのマスコット人形を誘導する役目が、係長の小竹由夏(こたけ・ゆか・33歳)であった。
「ジョーブ君」と言う名前の由来は、日本語の「丈夫」と、アメリカのスポーツ医「フランク・ジョーブ」を合わせた名前からである。
「アルクサ姫」と言う名前の由来は、米国や英国で女性に多い名前「アレクサ」を文字ったもので、歩くのは健康にも良いので「歩くさ!」と言って欲しいという願いを込めて付けた名前である。
【03】 恐竜の名は「なんとかドン」、怪獣の名は「なんとかラ」?
ジョーブ君のマスコット人形の中に、主任の大輔が入り始めた。
アルクサ姫のマスコット人形の中には、主事の姫野祐希(ひめの・ゆき・25歳)が入り始めた。
小竹由夏「どう? 着ぐるみの中に入った気分は?」
坂口大輔「なんか、ウルトラマンに出て来る怪獣を思い出しますね」
由夏「そうなんだ」
大輔「ヒドラ、ゴモラ、ガボラ、ゲスラ」
由夏「良く覚えているわね。全部、最後に『ラ』が付くのね」
大輔「そうですね。恐竜は『なんとかドン』『なんとかザウルス』が多いのですが、怪獣は『なんとかラ』ですね。代表的なのが『ゴジラ』に『モスラ』ですかね」
由夏「すごいわね。坂口さんて怪獣評論家?」
大輔「ええ、まぁ。怪獣を見て育ちましたから。特に笑っちゃうのが、日本の怪獣は空手が出来ることですかね」
由夏「ははははは」
祐希「ふふふふふ」
大輔「怪獣が、空手が上手なんて変でしょう?」
由夏「怪獣だって人間と同じように育ち、塾に行ったり、空手を習ったり大変だったのよ」
大輔「なるほど、そうか! それで長年の私の疑問が解けました。怪獣も人間も、子供の頃の生活は同じなんですね」
由夏「私は、そうじゃないかと思うわ?」
大輔「もうひとつ疑問だったのは怪獣が死ぬ時って、必ず爆発するんです。いつの間に体内に火薬を仕掛けたんでしょうね?」
由夏「簡単よ」
大輔「えっ?」
由夏「『かやく(加薬)御飯』を食べたのよ」
大輔「ははははは。うまい!」
祐希「つまらない。オヤジギャグじゃなくて、オバンギャグね」
大輔「しかし、暑いな。ひぇーっ、暑い、暑い。サウナ状態だ」
祐希「半端じゃない暑さね。熱中症になりそうよ」
大輔と祐希がマスコット人形の中からしゃべっていた。
由夏「ふたりとも文句を言わない。30分交代だから、それまでの辛抱よ」
大輔「こうしてみると、ディズニーランドのキャラクターの中に入っている人達はすごいですね。めちゃくちゃ動きがいいもんなぁ」
祐希「本当ね。サンリオピューロランドの人達もすごいわよ」
大輔「今度、みんなで勉強のために行きましょうよ」
祐希「うん、行こう、行こう!」
由夏「さぁ、生徒さんたちが来たわよ。おしゃべりは、おしまい!」
【04】 後頭部を打った海斗が、倒れたまま動かない!!!
80人ほどの児童が、美浦市役所入口ロビーに到着した。
引率の先生と小学生たちが、ジョーブ君とアルクサ姫に挨拶をした。
先生「おはようございます」
児童「おはようございます」
先生「今日は、よろしくおねがいいたします」
せっかく挨拶をしてくれても、ジョーブ君と、アルクサ姫はしゃべることが許されてない。だから挨拶を返す代わりに、二人は、おじぎをした。
ジョーブ君はおじぎをして、はじめて自分の足元がみえることに気付いた。ふつうに、ただ立っていると、頭部と腹部が大きすぎて足元がよく見えないのである。
由夏「みんな、よく来てくれたわね。今日は、市役所を代表して、国民健康保険課のジョーブ君とアルクサ姫が出迎えに来ました。朝からずうっと待っていたのよ」
アルクサ姫が、思いっ切り手を振った。それを見たジョーブ君も慌てて手を振った。
小学生A「うわーっ、大きい」
小学生B「かわいい!」
ロビーから、小学生たちは20人ずつ4班に分かれて、行きたい課に移動した。ジョーブ君、アルクサ姫、出迎えた小竹係長も、それぞれ別々の班に同伴した。
アルクサ姫と一緒の班は、最初に道路課に移動した。
ジョーブ君と一緒の班は、最初に住民課に移動した。20人の小学生たちが住民課に着くと、小学生の代表がカウンター越しに、近くに居る職員に質問をした。
小学生「美浦市には、何人が住んでいるのですか?」
職員はどんな質問がくるのか、事前に知らされていない。ちょうどカウンターの受付に座っていたのは、丹沢純也だった。
丹沢「住んでいる全員の数を『人口』と言うんだけれどね、美浦市の『人口』は約10万人です」
小学生たちが、その答えをノートにメモした。
税務課のカウンターには、井畑富美(いばた・ふみ45歳)、笹倉麗子(ささくら・れいこ58歳)、由利源吾(ゆり・げんご30歳)の3人が立っていた。
富美「社会科見学の生徒たち、次、税務課に来そうよ!」
富美は、ついさっきまで住民課で様子を覗っていたのだ。
麗子「えーっ、困ったわ」
由利「住民課では、生徒たちが、どんな質問していた?」
富美「人口を聞かれていたわ」
由利「それなら、私でも答えられるな。良かった」
富美「うん。小学生だからそんなに難しい質問は出ないと思うけど」
麗子「そうね」
富美「子供たち、去年も税務課に来たの?」
富美は今年の異動で住民課から税務課に来たため、前から税務課に居る麗子に聞いた。
麗子「来なかった」
富美「なら、いいわね。住民課は毎年必ず来るのよ」
麗子「市役所の顔だからね。来客数も市役所の中で一番だからね」
富美「まぁね」
麗子「あっ、来たわよ!」
小学生たちが税務課の方へやって来た。
麗子(通り過ぎますように……)
由利(通り過ぎろ!)
麗子が祈り、由利が念じた。
小学生A「次は、ここだっけ?」
小学生B「そう、ここよ。税務課」
麗子(うわーっ、来た!)
由利(なんだ、来るのかよ)
小学生C「税務課って何する課なんだろう?」
麗子(その質問をするのかしら?)
由利(よし、それなら答えられそうだな)
小学生A「次は、誰が質問する番だ?」
小学生B「伊織じゃない?」
伊織「うん、わたし」
若草伊織(9歳)がそう答えると、グループ20人が税務課のカウンターの前に集まってきた。伊織がグループの先頭に立ち、海斗はグループの一番後ろに居た。海斗の横にはジョーブ君が立っていて、そこから伊織の代表質問を聞こうとしていた。
カウンターには、麗子と由利が居た。富美はいつの間にか消えていた。
伊織「税務課のおばさんとおじさんに質問です」
ジョーブ君「ぶーっ!!!」思わず吹き出した。
海斗「あっ、ジョーブ君がしゃべった!」
海斗はジョーブ君に親しみを覚え、ジョーブ君の足に抱きついた。しかし、ジョーブ君にはそれが見えなかった。
由利(笹倉さんの『おばさん』は良いとして、誰が『おじさん』なんじゃい!)
伊織「おばさんとおじさんは、税金のお仕事をしていて、」
由利(『していて』何?)
伊織「何が楽しいのですか?」
ジョーブ君「ぶーっ!!!」また、吹き出した。
海斗が、また、ジョーブ君の足に抱きついた。
麗子が「あなたが答えなさいよ」と、言わんばかりに肩で由利の肩を突っついた。
由利は一瞬考えてから
由利「楽しいことなんかあるわけないよ!」開き直って言った。
グループの小学生たちが、ノートに答えをそのままメモし始めた。
慌てて麗子が
麗子「それは冗談で、みんなの教室にパソコンやエアコンが入ったでしょう。そういうふうに、学校の設備がどんどん良くなるのが楽しみなのよ」
伊織「なんでパソコンやエアコンが税務課なの?」
麗子「みんなが使うパソコンや教室のエアコンを買うお金って、みんなのお父さんやお母さんが支払った税金なのよ。その大切なお金で、学校が良くなると、私たちも税金の仕事をしていて良かったなーと、思うわけ。わかったかな?」
伊織「なんとなく。でも、おばさんの答えは長いから、私は、さっきのおじさんの『楽しいことなんかあるわけないよ』ってノートに書いておくわ」
ジョーブ君「ぶーっ!!!」また、吹き出した。
海斗が、また、ジョーブ君の足に抱きついた。
麗子「ダメよ、ダメ、ダメ」
麗子が大きく手を振り打ち消した。
そのころ、市役所の入口に男子高校生ふたりがやって来た。ふたりの手には、それぞれ原付バイクの汚れたナンバープレートが握られていた。税務課では、絵や模様の入った独自のナンバープレートを作り、今ついているナンバープレートと交換することが出来た。
高校生A「さぁ、オリジナルナンバープレートに交換するぞ!」
高校生B「在庫の中から、先着順で番号を選べるからな」
高校生A「急がないと良い番号がなくなるぞ!」
高校生B「税務課ってどこだ?」
高校生A「どこだろうな?」
高校生B「あった! あそこだ」
高校生たちが税務課を指さした。
高校生A「走るぞ!」
高校生B「OK、負けないぞ!」
高校生ふたりは、税務課へ向かって同時にスタートダッシュし、全速力で走った。税務課の前では、社会科見学の小学生たちが通路をふさぎ、通り道を狭くしていた。そのせいで高校生のひとりが、ジョーブ君の大きな体に勢いよくぶつかった。
「バン!」
それでも高校生は、税務課奥のカウンター、原動機付自転車窓口(諸税窓口)へと走り続けた。
高校生がぶつかった勢いでジョーブ君は、足に抱きついていた海斗を、まるで蹴るように倒してしまった。
「ゴン!!!」
海斗の頭は強い力で通路の床に叩き付けられた。その音は、少し離れた住民課まで響いた。だが、足元が見えないジョーブ君は、そのことに気付かなかった。
向いにある住民課の職員が、その一部始終を見ていた。
住民課職員「あっ!」
麗子「あっ!」
海斗の頭はこれ以上ないというくらい床に叩きつけられた。海斗は倒れたまま動かない。
同じ班の小学生が、海斗を囲んだ。
小学生A「海斗!」
小学生B「海斗!」
小学生C「海斗!」
数人の小学生が、海斗の名を呼んだ。しかし海斗の反応はなかった。
そのうち女の子たちが泣き始めた。麗子と友晴が、カウンターの中から慌てて飛び出してきた。
由利「大丈夫か!」
大声で海斗に話しかけたが、目を閉じたまま動かない。
ジョーブ君の中に居る坂口大輔には、まだ何が起きたのか把握しきれていなかった。ただ、何か事件が起きたことだけはわかった。
急いで近くの相談室に行き、相談室の中で着ぐるみを脱いだ。着ぐるみを投げ捨てると、すぐに現場に戻って来た。
大輔の目に、まったく動かない海斗の姿が映った。
大輔「海斗! 海斗! 海斗! 海斗! 海斗!」
大輔が呼び続けた。
しかし、海斗は目を開けなかった。どうしてこんなことに。大輔は気が動転した。大輔は、今朝の柔道で女子生徒が死亡したニュースを思い出していたのだった。
大輔(まさか、まさか!)
知らせを聞いて小竹由夏係長が別の班から戻って来た。
そして海斗が倒れているのを見ると、すぐに由夏は、海斗のあごを上げ、頭をうしろに反らした。次に、海斗の口の中を調べ、すぐに自分の顔を海斗の鼻と口に近づけた。
由夏「気道確保、口内に異常なし、呼吸あり」
由夏が海斗の頸動脈に手を当てた。
由夏「脈拍異常なし」
由夏「大丈夫よ、坂口さん。保健室から毛布を数枚持ってきて」
大輔「わかった!」
由夏「由利さん、救急車を呼んで」
由利「わかりました!」
そこに、4階の秘書課を見学していた引率の先生が戻って来た。
由夏「海斗君は大丈夫です。倒れて頭を強く打ったようです。海斗君は、私と坂口で対応しますので、先生は、社会科見学を続けてください。何かあったら、先生を呼びますから」
由夏は海斗の首を少し持ち上げながら言った。
先生「わかりました」
先生が子どもたちを連れて他の課へと移動した。泣いていた女子児童もやっと泣き止んだ。
税務課の原動機付自転車窓口(諸税窓口)では、ジョーブ君に勢いよくぶつかった高校生たちが、何事もなかったかのように、平然とナンバープレートの交換手続きを続けていた。大輔はその後ろを、保健室への行きも帰りも通ったが、その高校生たちがぶつかってきたことなど知る由もなかった。
大輔は保健室から毛布2枚を持って、税務課前の通路に戻って来た。
由夏「この子の体を少し浮かせるから毛布を敷いてくれる?」
大輔「それなら、私がそっちをやりますので、係長が毛布の方を」
由夏「そうね、力が違うものね。ありがとう」
大輔が由夏に代わり、海斗の体を持ち上げ少し浮かせた。その間に由夏が丁寧に、海斗の頭上にも毛布がたっぷり出るように敷いた。
由夏「坂口さん、この子が、左半身が下になるよう横にして押さえていてもらいます?」
大輔「わかりました」
由夏が、海斗の左腕をまっすぐ頭上になるよう伸ばした。その左腕の上に首を置き、嘔吐しても自然に流れるように口元を下に向けた。
由夏「これで万が一、嘔吐しても大丈夫」
由夏は次に上になった右足を前方へ動かし、膝から90度に曲げた。
由夏「姿勢が安定したわ」
大輔「さすがですね」
由夏は救急救命講習修了証を持っていた。由夏が海斗の半ズボンを10センチほど下に下げた。海斗の靴と靴下を脱がすと大輔に渡した。
由夏「しばらくの間、保管しておいてもらえます?」
大輔「わかりました」
その由夏と大輔の横を先ほどの高校生が、それぞれ新しいオリジナルナンバープレートを手にして通りかかった。
高校生A「なんだ、こんなところで毛布を敷いて寝てるぞ?」
高校生B「防災訓練か? 役所はいつものんきだな。ははははは」
高校生が横を通り過ぎた後に、今度は救急隊員がストレッチャーを押しながらやってきた。
隊員「どうされました?」
由夏「すみません、お疲れ様です」
由夏が今までの経緯を救急隊員に説明した。
由夏「頭を強く打っているようで、まだ意識が戻ってないんです」
隊員「なるほど、そうですか」
大輔「隣の市の秋石病院でCTとMRIと脳波を取ってもらえないでしょうか?」
大輔が口をはさんだ。何よりも、朝のニュースが気になって、口を挟まずにはいられなかったのだった。
秋石病院は、救急を受け付けており、脳神経外科が専門だった。由夏がそれを聞いていて、大輔の積極さに驚いた。
隊員「今、車に戻って病院に聞いてきます。ちょっと待っていてください」
隊員は、救急車へ走って行った。しばらくして隊員が戻ってきた。
隊員「秋石病院で受け入れ可能です」
隊員がストレッチャーに海斗を乗せた。
隊員「誰かひとり、付き添いをお願いします」
由夏「私が行きます」
隊員「では、ご同行をお願いいたします」
由夏「わかりました。坂口さん、課長と引率の先生に言っておいてくれる? 私が秋石病院に行くって。坂口さんも後でお子さんの靴を持って、病院に来てくれます? そうだ、それと、海斗君の母親にも保険証を持ってくるよう連絡して」
大輔「わかりました」
由夏「お願いね」
大輔「はい、わかりました。それではお願いします」
隊員たちは、海斗の乗ったストレッチャーを押して行った。それに由夏は付いていった。
大輔は国民健康保険課に戻ると、すぐに課長の茂森早紀(しげもり・さき・50歳)に報告した。
大輔「小竹係長が、付き添いで病院に行ってくれました。私もこれから追いかけて行ってまいります」
課長「わかりました。経緯は、さっき税務課の笹倉さんからすべて聞いたわ。坂口さん、その小学生はきっと大丈夫よ。あとは、すべて小竹係長と坂口主任に任せるから、責任をもって対応をお願いいたしますね。それと、何よりお母様が一番心配するでしょうから、二人で安心させてあげてくださいね。頼んだわよ」
大輔「わかりました。全力でお母様とお子様をお守りします」
大輔は、社会科見学引率の先生を探し、事情と経過を説明した。そして、学校側から海斗君のお母さんに連絡をしてもらい、保険証を持って秋石病院に行くよう連絡をお願いした。
先生「わかりました。すぐ学校に連絡し、お母様に連絡してもらいます」
引率の先生は、携帯電話で小学校に連絡した。
大輔は、公用車の使用許可申請書を出し、公用車に乗り込むと自ら運転して秋石病院へと向かったのだった。
【05】 大輔は後ろから母親奈美の肩を強く握りしめた
大輔が秋石病院に到着すると、すぐに係長の由夏と合流した。
大輔「海斗君は?」
由夏「脳波の検査中、CTとMRIは終わったわ。海斗君のお母様には連絡が取れた?」
大輔「はい。先程、市役所見学の引率の先生から、『保険証を持ってこちらに向かっています』と、連絡がありました」
由夏「そう、ありがとう」
大輔「いえ、すべて私が悪かったんです。先ほど聞いたのですが、私が蹴って海斗君を倒しちゃったみたいですから。係長にまでご迷惑をおかけしてすみませんでした」
大輔が頭を下げた。
由夏「そんな、やめて。着ぐるみを着ると、足元が見えないのでしょう? それに、たくさんの小学生が居たから、余計足元なんか気付かないわよ。私が一緒に回っていれば、こんなことにはならなかったのよ。私の責任だわ」
大輔「いえ、係長に責任はないですから。そうそう、課長から『あとは小竹係長と私に任せるから、責任をもって対応をお願いいたします。お母さんを二人で安心させてあげてください』とのことでした」
由夏「そう、課長らしいわ。いつも任せてもらえるから助かるわ」
大輔「そうですね。うるさいことはまったく言わないし、命令もしませんからね」
由夏「その代わり、責任も部下が持つってことよね」
大輔「その方が良いですね。課長の責任となれば、当然課長が命令し、部下は課長の指示に従わなければなりません」
由夏「それだと部下はやりにくくなるわね。課長は現場の細かいことまで知らないから現場の職員に任せるのが一番よ」
しばらくして、母親の奈美が海斗の保険証を持って病院に到着した。大輔が由夏より先に奈美に気付いた。
大輔「海斗君のお母様でいらっしゃいますか?」
奈美「はい」
由夏「このたびは、わたくしどもの不注意からこんなことになってしまい大変申し訳ございませんでした」
由夏と大輔が深々と頭を下げた。
奈美「……」
由夏「美浦市役所で国民健康保険を担当している小竹と申します」
大輔「坂口です」
由夏「今、海斗君は脳波の検査を行っております」
大輔「ここの病院は、専門が脳神経外科です。海斗君には、CT・MRI・脳波とありとあらゆる検査を行っていただき万全を期す予定です。すでに、CTとMRI検査は終了しております」
由夏「海斗君がここに運ばれるまでの経緯は、お聞きになりましたか?」
奈美「はい、一緒に居た生徒の話を通じて、引率の先生からだいたいは。海斗の意識は戻ったのですか?」
由夏「まだです」
奈美「……」
大輔「海斗君の命には別状ないのですが、倒れたときに頭を強く打たれたようなので、救急車で脳の専門病院に運び、今に至っております」
由夏「私共でできることは、ありとあらゆることをすべてやらせていただきます。今回のことは、すべて私共の責任ですので、海斗君が回復し、完全に良くなるまで、私たちが責任を持って海斗君の治療費を含め、面倒を見させていただきます」
大輔「私たちが必ずあなた方親子をお守りしますので、なにとぞご安心してください」
由夏「脳波検査が終わると、医師から説明がありますので、それまでお待ちください」
奈美「……」
奈美は、心配で言葉が出なかった。そして、今朝見たニュースを思い出していた。奈美の眼に涙が溜まり始めた。そして一滴、ポタッと涙が床に落ちた。
大輔「絶対に大丈夫ですよ!」
大輔は、後ろから奈美の肩を強く握りしめた。由夏がそれをじっと見つめていた。
脳波検査を始めてから1時間、奈美が来てから30分が経過した。
検査室のドアが開き、ストレッチャーに乗った海斗が出てきた。そして、再び救急室へと運ばれた。由夏、大輔、奈美の3人も救急室の待合室へと移動した。
海斗は、目をつぶっているものの、顔色は悪くなかった。
更に20分が経過した。看護師が母親の奈美だけを呼んだ。
看護師「お母様ですね。救急室にお入りください」
奈美「はい」
奈美が救急室に入ると、
医師「どうぞ、こちらにお座りください」
奈美が医師の横にある椅子に座った。
医師「こちらの映像をご覧ください」
パソコンの画面を奈美に見せた。
医師「これは、CT画像です。特に異常は見られませんでした」
奈美「はい」
医師「次にMRIの画像です。こちらも特に異常は見られませんでした」
奈美「はい」
医師「次に脳波です。念のため40分ほど取りましたが、まったく異常は見られませんでした」
一瞬にして、奈美の顔に安堵の色が広がった。
医師「後頭部にコブができましたが、特に心配する必要はありません。一週間もすれば、腫れもひきますので」
奈美「はい」
医師「顔色も良いので問題はないですね」
奈美「はい」
医師「症状としては、脳しんとうと思われます。ですので、薄暗い部屋で安静に過ごし、眠りたいだけ眠らせてあげてください」
奈美「はい」
医師「眠りが長くても、心配することはありません。脳が回復するために休養しているだけですから」
奈美「はい」
医師「明日いちにちは、学校を休ませ安静にしてください」
奈美「はい」
医師「あとは、本人の様子を見て、寝たいのか、家に居たいのか、外へ出たいのか、お子様の意思に従って過ごしてください」
奈美「はい」
医師「一週間は、運動をやめ、静かに過ごしてください」
奈美「はい」
医師「一週間あれば回復し、元の生活に戻れます」
奈美「はい」
医師「今日は病院のベッドが空いておりませんし、もしお子様が目を覚ましたとしても、ご自宅の方が、お子様が安心するでしょう。それに、お母様もお子様と一緒の方が安心するんじゃありませんか?」
奈美「はい」
医師「もし、お子様に、めまい、嘔吐、などの症状が出るようならいつでもお越しください。当病院は、当直もおりますので、夜間でもかまいません。何かありましたら、電話でも結構ですのでご相談ください」
奈美「はい」
医師「一週間は、反応速度の低下、集中力の低下があるかもしれませんが、一過性の症状ですので、ご心配はなさらないでください」
奈美「はい」
医師「お子様が目を覚ましましたら、ゆっくりと話してあげてくださいね。決して早口ではなく」
奈美「はい」
医師「以上ですが、何かご質問等ございますか」
奈美「ありません」
医師「では、特に薬は出しませんので、会計が済みましたらお子様と一緒にお帰りいただいて結構です」
奈美「はい」
奈美が立ち上がった。
そこに看護師が来た。
看護師「家まで、車とかは大丈夫ですか?」
奈美「多分。市役所の職員さんに聞いてみます」
看護師「そうですね」
奈美「はい」
奈美が救急室から出てきた。
由夏「どうでしたか?」
奈美「検査の結果はすべて異常なしとのことでした」
由夏「良かった!」
大輔「良かった。ふーっ」
由夏「お子様は帰れそうですか?」
奈美「はい、会計が済んだら帰っていいそうです」
由夏「良かったわ」
大輔「それは、良かった」
奈美「そこで、お願いなのですが、」
由夏「はい、なんですか?」
大輔「なんでも言ってください」
奈美「実は、」
由夏「はい」
奈美「厚かましくて恐縮なのですが」
由夏「遠慮せずにおっしゃってください」
大輔「なんでも言ってください」
奈美「私と息子を自宅まで車で送っていただけますでしょうか?」
由夏「もちろんです。いいわよね、坂口さん」
大輔「当たり前です。私共のせいでここまで来ていただいているのですから」
由夏「と、言っておりますので」
3人は、会計の待合所へと移動した。
待っている間に、奈美は医師から言われた内容を、一言一句漏らさずそのまま由夏と大輔に伝えた。
由夏「少し、ほっととしましたね」
奈美「はい」
由夏「一週間もすれば、また元気な海斗君が見られるんですね」
奈美「だと良いのですが」
大輔「大丈夫ですよ。お医者さんがそう言っているのですから」
奈美「はい」
大輔「お母様には、本当にご心配をかけてすみませんでした」頭を下げた。
奈美「はい、電話を聞いたときは、私、心臓が止まるぐらい心配しました」
由夏「まぁ、そんなに?」
奈美「本当に気が動転して、今までにないほど動揺しました」
由夏「それだけ海斗君を愛しているのですね」
奈美「それもありますけれど、今朝見たニュースが影響して、」
大輔「あっ、私もそのニュースを見ました。柔道の、ですよね」
奈美「はい」
由夏「なんのニュース?」
大輔「私も海斗君が市役所で倒れたときは、気が気ではありませんでした。まさか! と思いましたよ」
奈美「やっぱり! そうですよね」
由夏「どんなニュースなんですか?」
大輔「あっ、すみません。係長は見てなかったですよね?」
由夏「ええ、見てないわ」
大輔「『中学校で、柔道の練習中に女子生徒が後頭部を強く打って死亡した』というニュースです」
由夏「えっ、そんなニュースがあったのですか?」
奈美「はい。それが頭に浮かんで、この病院に来るまで、生きた心地がしませんでした」
由夏「それじゃぁそうですよね」
大輔「本当にすみませんでした」
大輔がまた頭を下げた。
由夏「いえ、あなたが悪いわけではないし、いいんですよ。マスコット人形が海斗君を蹴飛ばしたのがいけないので、」
大輔「それが、その」
奈美「着ぐるみの中の人が、周りを見ていなかったんでしょう。それで思いっきり海斗を蹴飛ばしたんじゃないですか?」
由夏「そう、聞いているんですか?」
奈美「学校の方がそう言ってました」
由夏「いいえ、着ぐるみが悪いのではなくて、」
奈美「では、うちの子が?!」
急に奈美がムキになった。
由夏「いいえ、とんでもございません。すべて悪いのは私共の方です。お母様のおっしゃる通りです」
由夏が奈美をなだめにかかった。
その時ちょうど、
会計係「松島さーん」
奈美が立とうとすると、
大輔「ここは、私が支払いますから」
大輔が奈美の目の前に両手を出し、奈美が立つのを制止した。
由夏「坂口さん、いいのよ。私が支払いますから」
由夏が先に会計へと歩いて行った。奈美は椅子に座ったまま残った。大輔が由夏を追いかけて行った。
会計の前で、
会計係「1万4千7百円です」
由夏が財布から2万円を取り出した。
大輔「これを使ってください」と、一万円札を出して由夏に渡そうとした。
由夏「いいのよ」
由夏が大輔の手を押し返した。
大輔「でも、私の責任ですから」
由夏は仕方なく大輔の出した一万円札を受け取り、自分の一万円と合わせて会計に出した。
会計係「では、おつり5千3百円です」
由夏は、おつり全部を大輔に渡し、
由夏「じゃぁ、ここから5千円を『ここへ来るまでのタクシー代として』と、言って、あとでお母様に渡してくれる?」
大輔「はい。係長、帰りは?」
由夏「ここからバスで市役所へ帰るわ」
大輔「送っていきますよ」
由夏「いいの、いいの。坂口さんは、松島さんとお子さんを、ご自宅まで丁重に送ってあげて」
大輔「いいんですか?」
由夏「こういうときは、女同士よりも、男女で帰った方がうまくいくものなのよ」
由夏が大輔にウインクした。
大輔「それは、なんとなくわかりますが、」
由夏「じゃぁ、うまくやってよ」
大輔「わかりました。いろいろありがとうございます」
大輔が由夏に軽く会釈した。
由夏と大輔が、待合所で座っている奈美の所に戻ってきた。
由夏「私は、急ぎの仕事があるので、このままバスで帰ります」
奈美「そうですか。いろいろありがとうございました」
由夏「いいえ、ご迷惑をかけてすみませんでした。あとは、この坂口を残していきますので、ご自宅まで送ってもらってください。何かありましたら、国民健康保険課の小竹まで、いつでも電話をくださいね」
奈美「はい」
由夏「では、お大事に」
奈美に会釈して由夏は去って行った。
【06】 主人は消えました……
大輔、奈美、海斗の3人が、市役所の車に乗った。
大輔は車の後部座席を平らにして毛布を敷き海斗を寝かせた。大輔が運転をして奈美が助手席に座った。病院から奈美の自宅までは、2、30分の距離だった。
出発してすぐに、大輔は道路左側のコンビニエンスストアを見つけた。
大輔「ちょっと、コンビニに寄りましょう。お昼、食べてないですもんね」
奈美「はい」
車が停まった。
大輔「どうぞお先に買ってきてください。私は後で行きますから。一緒に車の中で食べましょう」
奈美「あなたが先に行ってください。私は、後からでいいです」
大輔「そうですか。では、お言葉に甘えて。お先に」
そう言うと、大輔は車を降り、コンビニに入って行った。おにぎり3個とペットボトルのお茶を買うとすぐに戻ってきた。
大輔「すみませんでした。では、どうぞ。海斗君を見ていますから安心して行ってきてください」
奈美「はい、わかりました。どうぞ先に食べていてください」
大輔「ありがとうございます。では、そうさせていただきます」
奈美がコンビニに入って行った。
奈美は、三角形のサンドイッチとカップのホットコーヒーを持って戻ってきた。
車中で。
大輔「お子さんは、おひとりなんですか?」
奈美「はい」
大輔「今日、ご主人は?」
奈美「昔に消えました」
大輔「えっ!」
奈美「……」
大輔「消えたって? いつ? どこで?」
奈美「……」
大輔「ご自宅から?」
奈美「……」
大輔「日本から?」
奈美「……」
大輔「まさかこの世から?」
奈美「……」
奈美が返事をしないので、大輔はついつい話を大きくしてしまった。そのことに大輔が気付き、
大輔「ごめんなさい。聞き過ぎですよね」
大輔が頭を下げた。
奈美「大丈夫。何を聞かれても大丈夫ですから。それと敬語は使わなくて大丈夫よ。私もそうするから」
大輔「ありがとうございます」
奈美「『ありがとう』でいいのよ」
大輔「そうですよね。でも、なかなか。すぐには難しいです」
奈美「そうよね。……主人は、私から消えたんだと思うわ」
大輔「『思う』って、―――どういうこと?」
奈美「私の前から姿を消してもう3年も経つわ」
大輔「『3年も』って、それって大変なことじゃないですか?」
奈美「そう、大変なことになったわ。でも、もうそれは過去の話。今はもう落ち着いたし、なんとも思ってない」
奈美がしんみりと語った。
大輔「そう……」
大輔が小さく頷いた。
奈美「主人が居なくなってしばらくは大変だったわ。それはもう……、想像を絶するような出来事の毎日だった」
大輔「ふむ」
大輔が小さく頷いた。
奈美「だって、ある日突然居なくなったのよ、何も言わずに。朝、仕事に出かけて、その日帰らなくて、翌日は帰ってくるかなぁ、と、思ったけれど帰って来なかった。その翌日も帰って来ない。主人の勤め先は税務署だったの。帰ってこなくなった翌日に、勤務先から電話があったわ」
大輔「なんて?」
奈美「『今日、ご主人お休みですか?』って。逆にこっちが聞きたかったわよ! 『昨日、主人は、ちゃんと帰りましたか?』って。でもそのときは聞けなかった、私は、取り繕うので精一杯だったから」
大輔「大変だったんだ。苦労しましたねぇ」
奈美「主人が行きそうな所は全部電話したし、電話がないところは探しに行ったわ。でもまったく見つからなかった。手がかりさえなかった」
大輔「それは大変だったでしょうね」
奈美「なぜ主人は私の前から姿を消したのか、考えたわ。昼も夜も、そして朝になるまで」
大輔「で?」
奈美「わからない、それが結論」
大輔「それが結論?」
大輔がオウム返しに呟いた。
奈美「1、私がいやになって家を出て行った。2、以前から女が居て、その女と日本のどこかで暮らすことになった。3、これからの子育てに不安を感じて飛び出した。4、仕事がいやになってホームレスになった。5、仕事の関係で恨みを買い殺された。6、何が理由かわからないけれど、とにかく自殺した。……考えれば考えるほど私は暗くなり落ち込んだ。どれをとっても暗い理由ばかり。私の方がこの世から姿を消したかったわよ」
大輔「それは、相当辛かったでしょうね。大変な思いをされましたね」
奈美「私がそんなに心配しているにも関わらず、主人の勤務先からは進退伺いを出すように言われ、主人の実家からは『何が原因なの、何があったの?』と問いつめられ、私の体や精神的なことを考えてくれる人は誰ひとり居なかった」
大輔「今の世の中、みんな自分のことだけで精一杯なんですよ。他人を思いやる気持ちなんか、これっぽっちも無くなりました」
親指と人差し指でつまむような仕草で『少し』を表現しながら言った。
奈美「その頃は税務署の宿舎に住んでいたから、職員の家族とすれ違うたびに強い視線を感じたわ。宿舎内で噂になっていることは充分知っていたから。『松島さんのとこ、旦那さんに逃げられちゃったんだって』『奥さんと旦那さん、ケンカが絶えなかったみたいよ』そんな声が聞こえてきた。毎日毎日引っ越したい、とそればかり考えていた。けれど、海斗も小さいし、お金も無かったし、すぐには無理だった。毎日が針のむしろに座らされているようで、税務署の宿舎はまるで刑務所のようだった」
大輔「そういう時って、会社の寮や宿舎って大変だよね。壁に耳あり障子に目あり状態で、まさに四面楚歌ですね」
奈美「今、私、子育てや経済的な面、子供の将来にも大きな不安をいだいる。……海斗がもうすぐ9歳でしょう、あれからもう3年近くが経ったのね。いろーんなことがあったわ。これでもかというくらい辛く厳しい試練が続いたわ。でもいい経験、お陰で強くなれた。軽いうつ病になった時、通っていた病院の先生が言ってた『今後同じくらいの試練には、もう耐えられるようになっているんですよ』って。こうやって人間強くなって行くのね」
大輔「いまだに、ご主人からまったく連絡がないんですか?」
奈美「まったくないわ。だけど、主人の預貯金は、主人が消えて数日後にほとんどおろされていたわ」
大輔「預金が……?」
奈美「あとは何の音沙汰も手がかりもなし」
大輔「ご主人の実家に、電話や手紙も無かったんですか?」
奈美「なし!」
大輔「いったい、こんな綺麗な奥さんと可愛いお子さんを残してどこへ消えちまったんだ!」
大輔が強い口調で言った。
奈美は、細い体形で、整った顔立ちをしていた。
奈美「『綺麗』は要らないかも、綺麗なら消えなかったんじゃない?」
大輔「いえ、とてもお綺麗です」
奈美「ありがとう。お世辞でもうれしいわ」
大輔「でも、ご主人、何かひとことくらいあっても良さそうですよね?」
奈美「夫婦の間には、もう妻の顔も見るのもいや、ひとこともしゃべりたくない、って時もあるじゃない?」
大輔「結婚してないからわからないなぁ。ご主人が消える前、夫婦仲は悪かったんですか?」
奈美「いえ、そういう感じは、まったく無かったわ。少なくとも私はね。主人は、いつものように朝食を取り、いつものように出かけて行った」
その後、大輔は車を走らせ、奈美の案内のもと、奈美と海斗の暮らす共同住宅に無事到着した。
大輔「ここですか?」
奈美「はい」
大輔「落ち着いた良い所ですね」
奈美「ええ。部屋は203号室です」
大輔「わかりました。では、海斗君を抱えていきますので、部屋のドアを開けてもらっていいですか?」
奈美「はい。やっぱり男の人が居ると助かるわ」
奈美は、海斗の靴と靴下を持ち、共同住宅の階段を上がって行った。大輔が海斗を抱え、奈美の後を追いかけた。奈美が、入口のドアを押さえて待っていてくれた。大輔が靴を脱ぎ、部屋に上がった。
大輔が海斗を抱いたまま立っていると、今度は奈美が大輔を追い抜き
奈美「重いのに、ごめんね。今布団を敷くから、」
奈美が急いで、フローリングの床の上にマットレスと敷布団を敷いた。
奈美「ここの上に」
大輔がゆっくり、ゆっくりと海斗を布団の上に寝かせた。海斗は目を閉じたままだった。奈美が海斗の上に布団を掛け、ダイニングに向かった。ダイニングから、
奈美「こっちに座って。今、お茶を入れるから。お茶がいい? それともコーヒー?」
大輔「あっ、すみません。でも、いいですよ」
奈美「遠慮しなくていいのよ」
大輔「でも、」
奈美「もうちょっと貴方に居て欲しいのよ。ひとりじゃ不安だし、話し相手も居ないし」
大輔「では、コーヒーで」
奈美がコーヒーを入れ、お菓子をテーブルの上に置いた。奈美も座ると、
奈美「落ち着いたわ。やっぱり自宅はいいわね」
大輔「そうでしょうね。入院しなくて本当に良かった」
奈美「頭を打ったのはショックだったけれど、坂口さんがテキパキやってくれたので助かったわ。お医者さんもとても親切だったし」
大輔「松島さんの話からすると、良さそうな先生でしたね」
奈美「ええ、とても」
大輔「じゃぁ良かった。秋石病院を指定して」
奈美「坂口さんが、あの病院を選んでくれたんだ」
大輔「はい」
奈美「救急車の人じゃなかったのね」
大輔「はい。以前、父親がかかったとき、とても信頼が出来たので」
奈美「なるほどね、ちょっと遠かったけれど、やっぱり専門病院の方がいいわね」
大輔「そう言っていただくと光栄です」
奈美「あとは、海斗が目を覚ませば、」
大輔「そうしたら、もっと安心できますね」
奈美「うん」
奈美が頷いた。
大輔「きっと今、脳が復活するために力を蓄えているんですよ」
奈美「そうね。ところで、坂口さん、市役所に戻らないといけないんでしょう?」
大輔「いいえ。市役所での仕事も大事ですが、課長から海斗君のお母様を安心させることに全力を尽くすよう言われました」
奈美「いい課長さんね」
大輔「はい、恵まれています。女性の課長なので、女性の気持ちも良くわかるんだと思います」
奈美「女性なんだ。珍しいわね」
大輔「はい。課長も係長も女性。でも二人とも男性以上に仕事が出来て、素晴らしい方々です」
奈美「そう言い切れることも素晴らしいわ。きっと上司と部下がいい関係なのね」
その言い方には、夫の職場への不満が込められているように大輔は感じた。
大輔「何か、私に出来ることがあれば何でも遠慮なく言ってください」
奈美「そうね、ありがとう。でもね、」
大輔「『でも』なんですか?」
奈美「言いにくいと言うか、頼みにくいこともあるから」
大輔「では、こうしましょう。今回のお詫びの印として、私があなたの三つの願いを叶えます。これならいいでしょう。これで、市としても、私としても、あなたの願いを叶えることで気が楽になります」
奈美「ふふふふふ。まるで『アラジンと魔法のランプ』ね」
大輔「良かった。笑い声が聞けて」
奈美「では、早速一つ目のお願いを頼みます」
大輔「はい、なんでしょう?」
奈美「今日だけでいいから、ここに泊って行ってもらえません?」
大輔「はい、お願いは何でも引き受けます」
奈美「海斗が頭を打って、今日だけは、私心配なの」
大輔「そのお気持ちは良くわかります」
奈美「海斗に何が起こるかわからないじゃない? 私だけじゃ車もないし、海斗を持ち上げるだけでも大変だし、もし坂口さんがこのまま居てくれたらどんなに助かるか」
大輔「大丈夫です。泊まります。なんなら車の中で寝てもいいですし」
奈美「そんな。車じゃ体に良くないわ。ここに布団を敷くからぐっすり眠ってください。何かあった時だけ起こしますから」
大輔「わかりました」
大輔は職場に電話をした。
大輔「課長居ますか?」
職員「今、代わります」
課長「その後、どうですか?」
大輔「お子さんを寝かせて、様子を見ているのですが、まだ目を覚ましません」
課長「そうですか」
大輔「市役所には戻らずに、このまま松島さんのお宅に居てもよろしいですか?」
課長「そうね。その方が、お母様も安心でしょうから。お母様が『良い』と言えば、そうしてください」
大輔「わかりました」
課長「その代わり、今日だけですよ」
大輔「わかりました」
課長「5時15分まで、出張扱いにしておきますから」
大輔「ありがとうございます」
電話を切ると国民健康保険課長の茂森早紀が、大輔からの電話の内容を、係長の小竹由夏に伝えた。
係長「そうですか。わかりました」
係長の小竹は、浮かぬ表情を見せた。
由夏(自分が坂口さんに、松島さんを送るよう命じたのに、なんなんだろう、この気持ちは?)
大輔が電話を切った。そばで奈美が大輔の電話を聞いていた。
大輔「大丈夫です。課長に許可をもらいましたので、このままここに残ります」
奈美「ごめんね。わがままで」
大輔「いいえ、とんでもありません」
奈美「だって、急ぎの仕事もあったんでしょう」
大輔「明日頑張ります」
奈美「じゃぁ、今日はここで夕食をして、お風呂も使ってください」
大輔「では、そうさせていただきます」
奈美「何か食べたいものとかある?」
大輔「では、カレーライスを」
奈美「カレーでいいの?」
大輔「はい」
奈美「遠慮しないでいいのよ」
大輔「松島さんの料理は何でもおいしいんでしょうけれど、おいしい物は食べ慣れてなくて。私には、カレーライスかラーメンが一番落ち着くんです」
奈美「男性って、そういう人が多いわよね。カレーとラーメンで生きていけるのよね」
大輔「はい。あと、たまに牛丼です」
奈美「ふふふふ」
【07】 もっと強く抱いてくれますか?
その後、大輔は、海斗の寝る部屋の隅で、ひとりくつろぎ、それから、奈美とテレビを見ながらゆっくりと食事をし、食事が終わると風呂に入った。
その間に奈美は、海斗が寝ている布団の両脇にそれぞれ布団を敷いた。
大輔が風呂から出てきた。
大輔「お風呂、お先にすみませんでした」
奈美「いいえ、とんでもない。布団なんですけれど?」
奈美は、海斗が寝ている部屋へと近づいた。
大輔「はい?」
奈美「嫌だったら言ってね、海斗の両脇に敷いたんだけれどいい?」
大輔「私は、どこでも寝られればOKです」
奈美「そう、良かった! 嫌だったら、他の部屋に敷くから言ってね」
大輔「私の方は、どこでも。それより、松島さんの方が気を遣うんじゃないですか?」
奈美「全然。私、久しぶりに『川の字』で寝て見たかったの」
大輔「『川の字』ですね。わかりました。ご主人様の代役ですね」
奈美「でも、こんな年上の女性とじゃ迷惑なんじゃない?」
大輔「それこそ、全然です」
奈美「良かった」
大輔「そんな年上と感じていませんし」
奈美「そう言ってもらえるだけでうれしいわ。じゃぁ、私、お風呂に入ってきますので、先に寝ちゃっていいですからね」
大輔「はい、ありがとうございます」
奈美は、部屋の灯りを豆球だけにすると浴室へと去って行った。
大輔は、奈美の言葉通り眠れるかな? と思ったが眠れなかった。目をつぶるのだが、いろいろなことが自然と脳裏をよぎり眠れなかった。
奈美が風呂から寝室に戻って来た。大輔が目をつぶって寝ている。奈美は、大輔が寝ているのか、起きているのかわからないので、
奈美「電気、消しますね」
大輔「はい」
大輔が返事した。
奈美がリモコンで部屋の豆球を消した。部屋が真っ暗になった。しばらくの間、静寂が続いた。
突然、奈美がリモコンで豆球を点けて言った。
奈美「すみませんが、海斗を越えてこっちへ来ていただいてもいいですか」
大輔「えっ?」
大輔がびっくりした。が、でもすぐに奈美の言葉に従った。ただ、海斗の上を超えていくことはできず、海斗の足元をぐるりと回って行った。
奈美が少し横にずれ、大輔は、奈美と海斗の間に横たわった。
大輔が奈美の横に横たわると、奈美は、また、部屋豆球の灯りを消した。
奈美「ごめんなさいね、自分勝手なことばかり言って」
大輔「いいえ」
それから奈美は、天井を向きながら、ひとり言のようにしゃべり始めた。
奈美「学生時代に友達とか、結婚してからは主人が居たけれど、気持ちの上で、私は、昔からずうっとひとりで生きてきたのかも?」
大輔「……」
奈美「主人とは旅行先で知り合って、その時は、私が若かったから勢いで結婚しちゃったけれど、」
大輔「……」
奈美「結婚した時、主人はすでに税務署に勤めていて、自分は国民から嫌われる職業だからだから、結婚するのはどうかな? と言ってたわ」
大輔「……」
奈美「私は『そんなの気にしないから』と言って、私から押しかけて行ったのよね」
大輔「……」
奈美「でも、結婚したら違った。日が経ち、月が経ち、年が経ち、主人は勤務年数が長くなればなるほど、そして仕事をすればするほど黙り始め、私や生まれた子供とも距離を置くようになったわ」
大輔「……」
奈美「きっと、仕事のことだけで頭がいっぱいだったんでしょうね」
大輔「……」
奈美「だから私は、常に自分しかいないような感覚だった。『孤独』という言葉が、自分に当てはまりすぎて、人からあまり喜ばれる言葉ではないはずなのに、『孤独』という言葉を聞くと、自分が落ち着き、どんどんその言葉に身を沈めるようになった」
大輔「……」
奈美「すぐそばに主人が居るのに、お互い自分の心を開くことは無かった」
大輔「……」
奈美「なんでだったんだろう?」
大輔「……」
奈美「でも、いつかは、そんな自分を変えなくては。もっと感情を出して、誰かに頼ったり、頼られたりして生きていかなくては。と、思った」
大輔「……」
奈美「そばに主人が居るんだから、この人に甘えて、頼って、自分をさらけ出して生きて行こうと」
大輔「……」
奈美「そう思った時に、主人が消えたわ」
大輔「……」
奈美「なんでだったんだろう?」
大輔「……」
奈美「なんで消えたんだろう?」
大輔「……」
奈美「支え合って生きていくことが、人間らしく生きていくってことなんだろうと思い始めたのに、その相手が消えた」
大輔「……」
奈美「主人が消えてから、徐々に、私はうつ状態になって。主人を含めて誰もが信用できなくなった。誰も」
大輔「……」
奈美「私が人生のどん底に落ちた時に救ってくれたのが海斗だった」
大輔「……」
奈美「海斗がそばに居て、寝顔を見るだけで私は救われた」
大輔「……」
奈美「私が海斗を支え、海斗の成長が私を支え、それで初めて『支え合う』という言葉を知った気がする」
大輔「……」
奈美「今朝ニュースを見て、そのあと小学校から『海斗が頭を強く打った』と電話があり、
もし、もしも、海斗まで失ったら、と考えたら頭がおかしくなった」
大輔「……」
奈美「海斗が死んだら、私も死のうと」
奈美の目尻からシーツへと涙が流れた。
大輔「……」
奈美「だから、今日だけは、今日だけは、誰かにそばに居て欲しかった」
涙声だった。
大輔「……」
奈美「今日の私を、誰かに支えて欲しい」
大輔「……」
奈美「私だって、そんなときがあるのよ」
大輔が黙って奈美の背中に手をやり、ぐっと抱き寄せた。
奈美「もっと強く抱いてくれますか?」
大輔「……」
大輔が黙って強く抱きしめた。
奈美「もっと」
大輔「……」
大輔がもっと強く抱きしめた。
大輔「痛くない?」
奈美「大丈夫。それに、痛くてもいいの」
大輔「……」
奈美「生きていることを体感できるから。誰かと居ることを体感できるから。だから、痛くていいの」
大輔「……」
奈美「抱き合ってわかることってあるでしょう?」
大輔「……」
奈美「あなたの体温、あなたの鼓動」
大輔「……」
奈美「ヒトを感じられるでしょう」
大輔「……」
奈美「『あの人、心が温かいね』って言うでしょう」
大輔「……」
奈美「このことなのね」
大輔「……」
奈美「抱かれていると、落ち着くの、ほっとするのよ」
大輔「……」
奈美「ずうっとひとりだったでしょう」
大輔「……」
奈美「だから抱きしめられて、それが痛くても誰かの腕の中に居る方が、ずうっとずうっと心が癒えるのよ」
大輔「なら良いのですが」
奈美「幼い子が母親に『抱っこ、抱っこ』って。時も場所もわきまえずにせがむでしょ、あの気持ちがわかるわ。だから今は、私があなたにせがんでいるの」
大輔「……」
奈美「抱かれていると安心するのよね、そしてときにはその安心という布団に潜って、いつしか眠ってしまうことも。これって最高に幸せよね」
大輔「……」
奈美「ほらカンガルーとかワラビーとか有袋類の動物っているじゃない? あの動物たちの子供は幸せよね。、ずうっと抱かれているような、今度自分が生まれ変わったら5歳まではカンガルーかワラビーがいいな」
大輔「その後は何に生まれ変わりたいの」
奈美「今度またこんな機会があるときまでに考えておきます」
大輔「……」
奈美「『一日一回、子供を抱きしめると良い子が育つ』と言った人がいるけどそのとおりね。親も一日一回は、子供を抱きしめるべきね」
大輔「『抱く』のではなく、『抱きしめる』のですね」
奈美「うん」
大輔「子供だけでなく大人も一日一回抱きしめれば良い大人が育つと思うな。みんながみんな夜抱き合って寝ていればいじめやけんかなど絶対起きないと思う。なんで戦いや争いなんかが起こるんだろう。みんな抱き合っていればいいのに」
奈美「そうよねぇ。誰かが言っていた『人類みな最高のセックスをしていれば戦争など起きない』と」
しばらくの間沈黙が続いた。
奈美「もっと、くっついてもらってもいいですか」
大輔が奈美を強く抱きしめながらも腰が引けていた。
大輔「はい、でもただ……」
奈美「ただ何か……」
大輔「ちょっと下の方が、変化していまして、」
奈美「良かった」
大輔「良かった?」
奈美「だって少しは私に魅力があるってことでしょ?」
大輔「少しじゃなくて、かなり」
奈美「良かった」
大輔「……」
大輔は、下半身を奈美の体にピッタリくっつけた。
奈美「あったかい」
大輔「そうですか」
奈美「うん、とてもあったかい」
大輔「良かった」
奈美「生きているのを痛感するわ」
大輔「はい」
奈美「やっぱり二人の方があったかいのね」
大輔「そうですね」
奈美「それにピッタリくっついて隙間がない方があったかい」
大輔「はい。あなたの胸の鼓動が伝わってきます」
奈美「ドキドキしているんです」
大輔「とてもそうは見えませんけど」
奈美「慣れているとでも」
大輔「いえ、そんなとんでもない。とても冷静に見えるし、いや冷静にしゃべっているから」
奈美「あなたの方がよっぽど」
大輔「いえ私はだめです。心臓がバクバクしています」
奈美「……」
大輔「こんな経験ないし、」
奈美「本当に、」
大輔「本当です」
奈美「……」
大輔「私この髪の香り好きです」
奈美「良かった、嫌われなくて」
大輔「やわらかい」
大輔が奈美の髪を撫ぜた。
奈美「……」
大輔「少し落ち着いてきました」
奈美「良かった」
大輔「落ち着いたら肘が痛くなってきちゃった」
奈美「ごめん。無理な態勢続けさせちゃって」
大輔「ううーん」
奈美「ねぇ良かったら私の上に乗ってみる?」
大輔「え、えーっ」
奈美「ごめん、私変なこと言っちゃったわね」
大輔「いや、気を遣ってくれているんだよね」
奈美「この敷き布団、柔らかいよ」
大輔「そうだね」
大輔がゆっくりと奈美の上に体を重ねた。
大輔「でもやっぱりダメ」
大輔がすぐに降りた。
大輔「あなたがつぶれちゃう」
二人は横に並んで寝た。大輔が奈美の手を握った。奈美も握り返した。しばらく沈黙が続いた。気付くと安心したのか奈美は寝息を立てて眠っていた。大輔もつられるように眠りに入った。
翌朝。布団の中で。
奈美「目が覚めた?」
大輔「うん。良く寝た。松島さんは?」
奈美「抱きしめられて、朝まで気を失ったみたい」
大輔「そうですか」
奈美「今、朝食を作るから待っててね」
奈美は起きると、海斗の顔に自分の顔を近づけた。海斗は、寝息を立てていた。奈美は、 トーストとサラダと目玉焼きとウインナー炒めを作り始めた。
大輔は起きて、本棚に置かれた奈美と夫との写真を見つけた。
大輔「こちらがご主人なんですね」
奈美「そうよ」
大輔「どんな方なんですか?」
奈美「とにかく真面目。赤信号はぜったいに守る人。どんなに急いでも赤信号では渡らない」
大輔「そうですか」
奈美「私が明るく前向きなのに対して、あの人は暗くて後ろ向きな人」
大輔「仕事柄じゃないですか?」
奈美「博之はまじめで不正が大嫌いでした。ちょっとした不正も見逃すことができませんでした」
大輔「仕事が仕事ですからね」
奈美「家に帰ってきても、頭の中は、仕事のことでいっぱいだったんでしょうね」
大輔「私もそういうときがありますから」
奈美「家に帰ってきても『ショチョウ、フチョウ、トクチョウ、ツイチョウ』と、『長、長、長』って誰か職場の偉い人のことについてブツブツ言ってました」
実際には『署長、普徴(普通徴収)、特徴(特別徴収)、追徴』であり、『署長』以外は、税金の徴収についての単語だった。
大輔は、朝食を済ますと自分の住むワンルームマンションへと帰った。自宅で着替え、気持ちを切り替えると、いつものように美浦市役所へ出勤して行った。
その日の夜。
大輔は、仕事が終わると真っ先に、奈美と海斗の住むマンションを訪ねた。
ドアの所で、
大輔「その後、海斗君は大丈夫ですか?」
奈美「ちょっと上がって、」
大輔が部屋の中に入って行った。
奈美「ほら、あの通りよ」
奈美が指さした所に海斗が居た。海斗は、ダイニングチェアーに座り、テレビゲームをしていた。
奈美「海斗、この前三浦君から借りたサッカーの靴下、洗ったから明日返してね」
海斗「わかったー」
海斗がテレビゲームをしながら返事をした。
海斗は小学校でサッカーをやっていた。奈美はテーブルの上に綺麗に洗った靴下を置いた。
大輔「海斗君、元気そうで良かったぁ」
奈美「ええ、坂口さんがこの部屋を出てから、私が海斗の手を握り、そのまま海斗の手を左右に振っていたら目を覚ましたわ」
大輔「良かったですね」
奈美「ええ、お陰様でもう海斗の体はなんともないみたい」
大輔「はい、」
奈美「ただ、」
大輔「ただ?」
奈美「ただ、記憶だけがどうもなくなっているようなんです」
大輔「えっ!」
奈美「ジョーブ君が思いっきりぶつかってきたみたいで」
大輔「すみません」
奈美「いいのよ、あなたが謝ることじゃないし。でもジョーブ君からひとこと謝罪の言葉があっても良さそうなものなのに」
大輔「私が、代わって、」
奈美「私あなたのことは大好きだけど、ジョーブ君はダメね。とっても恨んでいるのよ」
大輔「私からよく注意しておきます」
奈美「ええお願いします」
大輔「で、記憶の方なんですが?」
奈美「覚えているところもあるんだけれど、まったく記憶が飛んでいるところもあるのよ」
大輔「そうですか? お医者さんには連絡したのですか?」
奈美「はい、よくあることだと言ってました。『頭を打った直前のことは、記憶されないけれど、他のことは徐々にすべて思い出すでしょう』って」
大輔「そんなことがあるのですね。知らなかった」
奈美「海斗に聞くと、やはり社会科見学に行ったことは覚えてないみたい」
大輔「ふーん」
奈美「それ以外のことは、まぁまぁ、記憶があるみたい」
大輔「そうですか」
奈美「でも、まぁ他は何ともないから安心したわ」
大輔「良かった。話は変わりますが、ご主人からは、まったく連絡ないのですか?」
奈美「ええ、もうあきらめています。私から逃げたかったのか、それとも税金の調査で恨みを買って殺されたのか。私には、この子がいるから大丈夫。主人のことは、もう、どうでもいいわ」
大輔「お母さんがしっかりしているから海斗君は、お父さんが居なくても気にしてないと思いますよ」
奈美「そうかしら、そうは思えないけど」
大輔「私もあなたと、昨日の夜と今日の朝、一緒に居て分かったのですが、とても心が落ち着きました」
奈美「そう、じゃぁ良かった。坂口さんに嫌われたんじゃないかと、とても心配していたんです」
大輔「あなたと会うときだけ楽しいのではなく、今日、職場で離れて考えていても楽しかったのです」
奈美「私もあなたと一緒にいると何か落ち着けて、そして心が弾むような、これって不倫かしら?」
大輔「不倫ねぇ、そうかも知れませんけれど、実際にはご主人さんがいないわけだから、」
奈美「主人がいないから、ちゃんとしたセカンドラブね」
大輔「そうです、セカンドラブです」
奈美「良かった!あなたにそう言ってもらえて」
大輔「はい」
奈美「じゃぁ、今から正々堂々と交際宣言しても大丈夫ね」
大輔「はい」
奈美「何か、昨日の夜、あなたの腕の中に抱かれていたら、忘れられなくなっちゃって、」
大輔「私も。これから一旦自分の家に戻り、食事して風呂に入ってまた来ます」
奈美「じゃぁ、十時過ぎに。海斗が寝てからね。うふっ」
大輔「はい」
その夜、大輔は一度自分の家に戻り、また十時過ぎに奈美の部屋を訪れた。すでに海斗はぐっすりと寝ていた。奈美は二人分の布団を敷いたが、ひとつの布団に二人が入った。
奈美「昨日の分まで、ねっ」
大輔「うん」
奈美が大輔に抱きついた。二人は二日分、夜を楽しんだのだった。
翌朝、大輔は海斗が起きる前に奈美の家を出て自分の家に戻って行った。
その日の夕方、奈美がパートの仕事から家に戻ると、海斗がすでに帰っていて相変わらず夢中でテレビゲームをしていた。
奈美「さて、夕食の準備ね」
奈美がテーブルの上を見た。すると、そこに海斗の字でメモが置いてあった。奈美がそのメモを手にして黙読した。
奈美「……」
言葉を失った。メモに書かれてあった内容があまりにショックだった。
奈美(『セックス三度した』)
頭の中でメモを繰り返した。
奈美(えっ! あの子起きてたの?)
奈美が海斗を見た。横顔だった。海斗は母親が見ているのにも気づかず無邪気にゲームにのめり込んでいた。
奈美(ウソっ。聞こえちゃったのかしら?)
奈美(えっ、寝ている子を起こした?)
奈美(そんなに私……)
奈美の顔が赤くなった。
しばらくして、
奈美(ウソっ。三度じゃなく二度よ)
奈美(でも、そんなの小学生の子供が数えられないか)
奈美(わーっ、どんな顔して海斗と向き合えばいいの?)
奈美(ああーっ、弱ったわ。うん、もう!)
奈美(夕飯の支度もしないといけないし、ああーっ、どうしよう!)
奈美(困ったわ。ああーっ)
奈美(ダメダメダメ! 冷静に。とにかく冷静よ)
奈美(落ち着いて。慌ててもろくなことは無いし)
奈美(そうだ、とにかく説明よ。あの子に理解してもらうように説明よ)
奈美(えーっ! でも、なんて説明するのよ?)
奈美が再び海斗の顔をチラッと見た。
奈美(私のことなんか無視ね。ゲームに夢中)
奈美(うん? 待って、昨日のことで私を嫌いになった?)
奈美(そう言うことってあるのかしら? だからゲームで気持ちを発散させている?)
奈美(とにかく、もうばれちゃったんだから、覚悟を決めなきゃ)
奈美(「お父さんが居るのにゴメン」って言う?)
奈美(他には?)
奈美(「好きだから抱き合ってたの。海斗ともするでしょう」って)
奈美(でも、声は出さないか)
奈美(もう、私なにを考えているんだろう?)
奈美(ダメだわ。いい案が出ない)
奈美(降参!)
そのとき、海斗がゲームを止めてキッチンにやって来た。
奈美(わーっ! どうしよう?)
海斗(あっ、それ)
海斗がメモを指さした。
奈美(あーーーーーっ、もうダメ!!!)
海斗「『渡した』って漢字、合ってる?」
奈美「えっ!?」
海斗「この前国語の授業で『度』を習ったんだ。その時先生が、隣に『三』を書くと『渡す』になります。『クラスに居る渡辺さんの渡ですね』これは中学で習います。って言ってたから、書いてみた」
奈美「うん?」
奈美(あれっ? よく見ると最初も『セックス』じゃなく『ソックス』って書いてある)
海斗「ねぇ、『ソックス渡した』って、読めるよねぇ」
奈美(『三』が離れすぎ! でも怒れないわ)
奈美「うん、そう読めた」
奈美(自分のウソつき!)
自分を戒めた。
海斗「やったー」
奈美(止めて、その言葉)
奈美が天井を向いて目をつぶった。
【後書き】
たくさんの作品の中から本編をお読みいただきありがとうございました。m(__)m
まだまだ未熟ではありますが、皆様に愛される作品となりますよう努力を重ねていく所存です。m(__)m
重ね重ね御礼申し上げます。本当にありがとうございました。m(__)m
誤字、脱字、コンプライアンス違反、あきらかな内容の間違いなどありましたら、なんでも結構ですのでお申し付けくださいませ。
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