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女子ボートレーサー と市役所職員  作者: 池井 けい
第1章 住民課、丹沢純也
1/29

01 ■転入届で激突 爽香VS純也 編

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【あらまし】(主人公二人の出会いを描いたコミカルエピソード。速水爽香VS丹沢純也、市役所住民課窓口での第1戦。続きは第1章4話です)


 2012年4月。新人ボートレーサーの速水爽香(はやみ・さやか・20歳)は、福島県から『ボートレース戸田』に近い埼玉県美浦市に引っ越して来た。デビュー戦が始まる前に、住民票を移しておこうと美浦市役所にやって来たのだった。


 爽香は住民課へ行き、最初に番号札を取った。すると住民課受付担当の丹沢純也(たんざわ・じゅんや・30歳)から「書類も書かずに番号札を取ったのか?」と注意される。爽香は丹沢の言い方に腹が立ち言い返す。

 二人はあまりの怒りで興奮し、思わず顔と顔が近づいてしまう。同僚たちは「キスでもするのでは?」とハラハラしながら見守る。


 役所の窓口という「お堅い場所」で、ボートレーサーの爽香と理屈っぽい職員・丹沢のテンポの良い掛け合いがコミカルに繰り広げられる。

 

【今後の展開】

 ボートレーサーとして苦難の道を歩み、トップレーサーになるのを夢見て努力する爽香。

 一方、市役所で日々起こる様々な事件とそれに立ち向かう丹沢。

 速水爽香と丹沢純也、二人の関係と将来は? 周囲の人間も含め、笑いあり涙ありの人間模様が繰り広げられる。

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【主な登場人物】

速水爽香(はやみ ・ さやか) 20歳女 女子ボートレーサー

丹沢純也(たんざわ・じゅんや) 30歳男 主人公、住民課職員

宮入芽衣(みやいり・  めい) 22歳女 窓口担当、新人職員

新川直道(しんかわ・なおみち) 22歳男 窓口担当、新人職員

明石春菜(あかし ・ はるな) 34歳女 面白い中堅職員

若石元気(わかいし・ げんき) 26歳男 強気の若手職員

戸部考一(とべ ・ こういち) 40歳男 冷静なベテラン職員

天満稔江(てんま ・ としえ) 37歳女 天然な所がある職員

君本早苗(きみもと・ さなえ) 40歳女 名字に詳しい職員

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【読書案内】

 各話タイトルの冒頭にある記号は、内容を示すインデックスです。お好みに合わせてお楽しみください。

 ■(建物):市役所を舞台にしたエピソード

 ▼(ボート):ボートレーサーとしての奮闘記

 ◎(コイン):舟券予想にまつわる話

 ♡(ハート):さまざまな恋の話

 ☆(星):心に染みる、少し悲しい話

 また、各話の【あらまし】の後にあるカッコ内の付記は、前後のつながりを補足したものです。途中から読み始めたり、気になるエピソードだけを拾い読みしたりする際のガイドとして、ぜひご活用ください。

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【前書き】

●この小説には多くの数字が出てきます。そこで読者の皆様が読み易いように横書きとなっております

●多人数での会話も多いことから、誰が話しているのか、すぐにわかるよう会話の頭に台本形式で、氏または名を付けて表現しました

●この物語はフィクションです。実在の個人・団体、実際のレースとは一切関係ありません。ボートレーサーと市役所職員をモデルに、フィクションとして制作されたものです

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2012年4月


 速水爽香(はやみ・さやか・20歳)は、埼京線の電車に乗っていた。爽香は、この3月にボートレーサー養成所を卒業し、4月からは正式なボートレーサーとなった。

 電車は大宮駅を出発し、武蔵浦和駅と北戸田駅の間を走っていた。爽香の視線の遠くに、突然、富士山の山影と富士山へ一直線で伸びる高速道路の光景が飛び込んで来た。

爽香(うわぁーっ! なんという素晴らしい光景なの!)

爽香「♪ 富士は日本一のやま~」

 爽香が小さく口ずさんだ。

 しばらくして、

爽香(さて、これから美浦市役所に行かなくちゃ)

 爽香は福島県の実家を出て、埼玉県にある美浦市役所住民課へ、転居の届を出しに行こうとしていた。


【01】 名字で『四月一日』、なんて読むの?


 荒川が流れる埼玉県美浦市。美浦市役所の住民課。四月の第一水曜日、時計の針は夕方4時半を指していた。事務室内では、ある戸籍について話されていた。

 新入職員の宮入芽衣(みやいり・めい・22歳)と新入職員の新川直道(しんかわ・なおみち・22歳)が戸籍の書類を見つめていた。


芽衣「この戸籍なんですが、この人のうじはなんて読むのですか?」

 先輩職員の明石春菜(あかし・はるな・34歳)に聞いた。

春菜「どれどれ」

 その戸籍の氏名欄には『四月一日 昇』と書かれてあった。戸籍には、フリガナがない。だから、職員が困ることもしばしばあった。

芽衣「この『四月一日』というのは氏ですよね? 単なる日付じゃないですよね」

春菜「そうねぇ『氏名欄』だし、下は『のぼる(昇)』と名前が書いてあるのだから、これは氏でしょうね」

芽衣「ですよね。で、読み方は?」

春菜「四月一日は新学期だから『しんがっき・のぼる』。それが縮まって『しんがき』さんじゃないかしら」

芽衣「なーるほど!」

 芽衣が左手のひらに右手こぶしを打ち当てた。

 同じく先輩職員の若石元気(わかいし・げんき・26歳)が、二人の間をのぞき込んで言った。

若石「いや違うな! 四月一日と言えばエイプリルフール、嘘をついても良い日だから『うそ・のぼる』じゃないか」

芽衣「えーっ? ほんとですか?」

 続いて、先輩職員、戸部考一(とべ・こういち・40歳)が答えた。

戸部「『しがつついたち』を略して『しがつい・のぼる』だと思うな」

新川「ふむふむ」

 そしてもうひとり、先輩職員、天満稔江(てんま・としえ・37歳)が、答えた。

稔江「それが意外や意外、実は『はやうまれ・のぼる』って読むのよ」

芽衣「みんなもっともらしくて、どれが本当だかわからないわ?」

新川「うーん、どれももっともらしいけれど、少なくともこのうち三人の答えは間違ってるんですよねぇ? なんだか頭が混乱してきました」

戸部「氏のことなら君本さんに聞くのが一番だと思うよ。あの人が分からなければ、他のどの職員に聞いてもわからないからね」


 君本早苗(きみもと・さなえ・40歳)は、住民課10年のベテランである。早苗は名字に詳しかったので、住民課内で『ミス名字』とも呼ばれていた。新入職員の芽衣と新川の二人が、君本早苗の席に行った。

芽衣「お忙しいところすみません。君本さん、この人の氏の読み方ってご存知でしょうか?」

早苗「あっ、これね!」

 早苗がニコッと笑みを浮かべた。

 そのとき、早苗の机の上の電話が鳴った。

早苗「ごめん、後でね」

 と、言うと早苗は鳴っている電話を取った。

早苗「はい住民課、君本です」

 芽衣と直道は自分の席へと戻りながら、

芽衣「この職場って、電話や窓口で、なかなか職員同士の話ができないのよね」

新川「まったくもう、いやになるな! いつも話が途中になっちゃうんだよな」


【02】 「書類も書かずに番号札を取ったんですか?」


 そんなとき、住民課のカウンターから大きな声が聞こえてきた。なにやら窓口職員の丹沢純也(たんざわ・じゅんや・30歳)と、客の速水爽香(はやみ・さやか・20歳)が揉めている。

丹沢「番号札548番でお待ちの方」

丹沢が受付カウンターからロビーに居る客に向かって呼びかけた。

爽香「はい」

 爽香は右手にテニスボールを持ったままカウンターへと向かった。爽香は、握力をつけるために、常にテニスボールを持ち歩いていた。

丹沢「お客様、番号札はありますか?」

爽香「はい」

 爽香は受付カウンターで立ち止まり、548番の番号札を差し出した。

丹沢「届書は、ありますか?」

爽香「届書って?」

丹沢「ここに書いてあるでしょ」

 丹沢が発券機の隣に貼ってある注意書きを指さした。

 注意書きには『番号札は、届書または申請書を記入してからお取りください』と書かれてあった。爽香は、初めてその注意書きに目をやった。

爽香「目立たない注意書きね」

丹沢「よく居るんですよ、他人より早く受付して欲しいからって、届書を書かないで番号札を取る方が」

爽香「そんな言い方をしなくてもいいでしょ! しかも、あたしはそんな急いでいる訳じゃないし」

丹沢「じゃぁどんな理由で、書類も書かずに番号札を取ったんですか!?」

爽香「いえ、ただ何も考えずに番号札を取っただけよ。注意書きなんて気づかなかったわ。先に注意書きが目に入っていれば届書を書いたわよ」

丹沢「じゃぁ私どもの書いた注意書きに問題があるとでも?」

丹沢が顔を爽香に近づけ、にらみつけた。

爽香「そうよ。それに、これってそんなに怒ることなの!?」

 爽香も負けずと丹沢の顔をにらみ返し、顔を近づけた。

 二人の顔が20cmの距離になった。一触即発の雰囲気である。


 事務室内で、

春菜「カウンターの丹沢さん、随分もめているわね」

若石「二人の顔、近すぎじゃね?」

稔江「もめているうちに顔を近づけて、あの二人まさかキスしちゃうんじゃないでしょうねぇ?」

春菜「ははははは」

若石「ははははは」

戸部「まさか。もめているだけだろう?」

稔江「丹沢さんって、何を考えているのかよくわからないから、いきなりブチューなんて?」

春菜「ありえるかもよ?」

若石「ははははは」

戸部「そんなばかな!」


【03】 爽香「本当にあなたって冷たいのね」


 再びカウンターで。

 丹沢に叱責され、爽香の目が涙目になっている。

丹沢「ちゃんとルールを守ってください!」

爽香「そんな、にらみつけなくてもいいでしょ。クスン」鼻水をすすった。

丹沢「いいえ、にらみつけてなんかいません。それに、泣くなんて卑怯です」

爽香「泣いてなんかいません、番号札ぐらいでここまで言われるのかと思うと悔しくて、自然と涙が出るのよ」

丹沢「『泣く』も『涙が出る』も同じことですよ。まったく困った人だ。今日のご用件はなんですか?」

爽香「なにが『まったく困った人だ』なのよ。しかも人の顔をにらみ続けて!」

丹沢「『にらみ続けて』は、言いがかりです。私がお客様の顔を見るのは仕事ですから」

爽香「仕事? 似顔絵の画家じゃあるまいし! 顔を見るのが仕事なんですか!」

丹沢「そうですよ、見ちゃいけませんか?」

爽香「あんた、警察官にでもなったつもり?」

丹沢「……」

爽香「人相の悪い人間は取り調べがあるとか、人相の悪い人間は引っ越して来るのを拒否するとかなの?」

丹沢「そんなことは誰も言ってません! ただ後で、免許証の顔写真などを見て、本人かどうか確認を行いますので、その時のためにあらかじめお客様の顔を覚えておく必要があるんです」

爽香「へえーっ、本人確認が必要なの?」

丹沢「ええ、最近はなりすましが非常に多いんです」

爽香「『なりすまし』って?」

丹沢「そう、他人になりすまして住民票を作ったり、保険証を作ったりして消費者金融からお金を借りたり、銀行で口座を作ったりする悪い奴がいるんです」

爽香「じゃぁ、あたしもなりすましに見えるの?」

丹沢「そんなことは誰も言ってません。言いがかりですよ。あなたが『なぜ本人確認が必要なのか? ひとの顔を見る理由は何なのか?』って聞くから素直に答えただけじゃないですか!!」

爽香「わかったわ、わかったわ。『なりすまし』でも『ミズスマシ』でもいいから、とにかく早く引っ越しの手続きをしてくれない!!」

丹沢「誰もあなたのことを『ミズスマシ』なんて言ってないでしょ。それに『ミズスマシ』は『なりすまし』と違って悪くはありません。『ミズスマシ』に対して失礼でしょ!」

爽香「そう言う問題?」

丹沢「『ミズスマシ』だって私たちと同様、一生懸命毎日を生きているんだから悪く言ってはいけませんよ」

爽香「わかりました、わかりましたよ。わかったから、そこはあなたの意見に賛成するから先に進めてちょうだい」

丹沢「初めて意見が合いましたね。ミズスマシって泳ぐの速いのかなぁ?」

爽香「ミズスマシは、泳ぐのが速いわよ! どうしてあんなに水面を速く、しかも自由自在に泳げるのか不思議で不思議でたまらないわ。あたしはミズスマシが羨ましくて羨ましくて。そう思わない?」

丹沢「思いませんよ、誰がそんなことを。残念ながら私には、ミズスマシに知り合いはいないし、ミズスマシと話したことが一度もないですからね!」

爽香「なに、その言い方! 随分な言い方ね。ミズスマシは、その泳ぎの速さから『田んぼのF1レーサー』とも言われているのよ、知ってます?」

丹沢「知らないですよ! 『F1』で知っているのはパソコンのキーぐらいですね」

 丹沢は、手元にあったキーボードの『F1』キーを指さした。そしてキーボードを持ち上げると、爽香の顔に近づけ、再度『F1』キーを指さした。そのことにより二人のぶつかっていた視線が遮られた。

丹沢「『F1』キーを押すと『ヘルプのページ』が出てくるのを知ってます?」

爽香「知らないわよ、そんなこと!!!」

丹沢「私は『F1』キーを押して、今すぐにヘルプを求めたいのですが、あなた、この気持ちわかりますか?」

 爽香は、二人の顔の間にある丹沢の持つキーボードを上から手で押さえつけた。

 そして、ゆっくり下へ押しながら、出て来た丹沢の顔に自分の顔を近づけながら、

爽香「本当にあなたって冷たくて、嫌な男ね。ここから荒川って近いんでしょ、荒川が近いのにミズスマシに興味が無いの?」

丹沢「じゃぁなんですか、荒川の近くに住む人は、みんなミズスマシに興味ないといけないんですか!?」

爽香「そうよ、せっかくミズスマシとお近づきになれたんだから」

丹沢「わかりました、わかりましたよ。今度私が生まれ変わったらミズスマシにでもなりますよ!」

爽香「なによ、その言い方。その言い方が冷たいって言うのよ!!!」

丹沢「すみませんね!!!」


【04】 「愛もなければ、時間もありません」


 事務室内で、

春菜「丹沢さん、段々エスカレートして来たわね」

若石「相手の子も、かなり興奮してますね。いい勝負ですよ」

稔江「まさか取っ組み合いになるなんてことにならないでしょうねぇ?」

戸部「まさか! もめているだけだよ」

稔江「丹沢さんって、何を考えているのかよくわからない所があるのよね。いきなり相手を押し倒して羽交い絞めにしてしまうとか?」

春菜「ありえるかも?」

戸部「そんなばかな!」


 カウンターで、

爽香「あなたには愛というものがないの?」

丹沢「愛もなければ、時間もありません、もうすぐ5時ですよ!」

丹沢が腕時計を爽香に見せた。時計の針は夕方5時に指しかかっていた。

爽香「市役所は5時で終わりなの?」

丹沢「いえ、5時15分までです」

爽香「じゃぁさっさと引っ越しの届け出を受けてよ!」

丹沢「『さっさと』ってあなたが……、そう引っ越しですか……、」

丹沢は、あきれ顔をしながら時間がないので話を進めた。

爽香「そう引っ越しですよ。あたしが、この美浦市に住んじゃいけないの?」

丹沢「誰も『いけない』なんて言ってません。人口が増えるのは嬉しいことですし、あなたのように若くて美しくて元気な方に住んでいただけるのは、当市としましては大変喜ばしいことです」

 爽香が急に、ニコっと微笑んだ。

丹沢「あなた単純なんですね」

爽香「大きなお世話よ!」

 爽香が今度はふくれた。

丹沢「で、どこへ引っ越して来たんですか?」

爽香「『(美浦市美女来)みうらし、みめき』って言う所かしら?」

丹沢「『びじょぎ』ですね」

爽香「『びじょぎ』って読むのね」

 丹沢がメモ用紙に『美女来』と書きながら、

丹沢「ええ、『美女来』と書いて『びじょぎ』です」

爽香「とっても素敵な地名ね」

丹沢「昔、京都からすごい美女が来たことに由来して『美女きたる』から『美女来』となったと聞いてます」

爽香「あたしにピッタリの地名ね」

 丹沢が、視線を爽香の顔からはずして、

丹沢「そうですね」

 まったく気のない返事をした。

丹沢「お客様も京都から来たのですか?」

爽香「福島よ」

丹沢「ですよねぇー、京都じゃないですよねぇー」

 大袈裟に吐き捨てるように言った。

爽香「それどういう意味、京都じゃないと美女じゃないってこと?」

丹沢「あっそうだ! 福島県にも素敵な地名があるじゃないですか」

丹沢はとっさに話題を変えた。

丹沢「『ぬるゆ(微温湯)』とかって地名。温泉の温度が30度ちょっとと、ぬるいことから来てるんでしょ」

爽香「よく知ってるわね。でも、あたしの質問の答えにはなってないけれどね、頭がぬるい丹沢さん」

 皮肉たっぷりに言った。


【05】 『転居』と『転入』どう違うの?


 事務室内で、

春菜「『頭がぬるい丹沢さん』って、どういう意味?」

若石「さぁ? わからないな?」

稔江「まさか、彼女、いきなり丹沢さんのおでこに手を当てたりしないでしょうね?」

戸部「まさか! 頭で考えていることが人に対して温かくなく、冷たいことばかり言ってるから皮肉を言ってるだけだよ」

稔江「『ぬるま湯につかっている』ようにのんきに考えている、ってことね。丹沢さんって、何を考えているのかよくわからないのよね。まさか、いきなり相手を温泉に誘ったりしないでしょうね」

若石「ははははは」

春菜「ありえるかも?」

戸部「そんなばかな!」


 カウンターで、

丹沢「では、このカウンターで『異動届』を書いてください。もうこんな時間ですから、他にお客様も居ませんし、ここで書いてもいいですよ」

爽香「それはどうも」

丹沢「どういたしまして」

爽香「で、この『異動届』が『転居届』になるのね」

丹沢「いえ、この『異動届』は『転入届』になります」

爽香「えっ! 『転居届』ではないの?」

丹沢「いえ、お客様は『転居』ではなく、『転入』ということになります」

爽香「『転居』と『転入』と、どう違うの?」

丹沢「『転居』とは美浦市から美浦市など、同じ市内で引っ越す場合を言います。一方、『転入』は他の市から美浦市へ引っ越す場合を言います。ついでに申し上げれば、美浦市から他の市へ引っ越す場合は『転出届』となります」

爽香「偉そうに、何よ、それ!! じゃぁ聞くけれど、引っ越し業者に電話するとき『転入します』とか、『転居します』とか、『転出します』とか、みんな使い分けているの?」

丹沢「……」

爽香「嘘よ! みんな『転居』って言ってるわよ!」

丹沢「引っ越し業者がどうかは知りませんが、役所では『転居』『転入』『転出』と三つを使い分けています。日本中どこの役所でも同じだと思いますよ」

爽香「それが『お役所仕事』だって言うのよ。それはあなた方、お役所の人間だけが勝手に作った用語でしょ。それをこちらに押しつけられても困るわ」

丹沢「わかりました。『転居』『転入』『転出』、この三つの言葉をあなたに正確に説明しようとした私が間違っていました。相手を考えて話すべきでした」

爽香「何よ、それ! あたしがおバカさんだって言いたいの?」

丹沢「はい、それにつきましては……」

爽香「『はい』なの?」

丹沢「いいえ、その……」

爽香「とにかくいいわ、あたしがおバカさんでも、なんでもいいから次に進みましょう。時間のムダだから」


【06】 『肩書き』と『方書かたがき』の違いは?


丹沢「ではこの異動届に『新しい住所』と『今までの住所』を書いていただけますか?」

爽香は異動届の『新しい住所』欄を指さし

爽香「ここね」

丹沢「はい」

 爽香が『美浦市美女来9―8―7』と記入した。

丹沢「方書かたがきはありますか?」

爽香「あたしが社長とか、部長とか、課長ってこと? そんなものないわよ。だいたい会社員じゃないし」

丹沢「いえ、その肩書きではなくて」

爽香「『その肩書き』でなくて、じゃぁ、どの肩書きよ?」

 丹沢は手元のメモ用紙に「方書」と書きながら、

丹沢「『○○マンション』とか『○○ハイツ』とか」

爽香「あぁ共同住宅の名称ね。それならそうと最初っからそう言ってよ。『かたがき』なんて言うからわからないのよ」

丹沢「物わかりの良い方で」

爽香「『共同住宅の名称』なんて忘れたわ」

丹沢「物忘れの良い方で」

爽香「あなたいちいちトゲのある言い方をするわね。マンション名なんか聞いたって、誰だってすぐ忘れるでしょ!」

丹沢「そうですか?」

受付に座っている丹沢が、立っている爽香を上目使いで睨みつけた。

爽香「だってそんなの忘れたって生きていけるでしょ。忘れたからってまさか命まで取られる訳じゃあるまいし」

丹沢「まぁ生きていけますが、住民登録には必要なのです」

爽香「それってすべてあなたの立場でしゃべっているんじゃない?」

丹沢「えっ?」

爽香「あなたが早く仕事を終わらせて、早く帰りたいからそう言ってるのよ。あなた5時15分の定時で帰りたいんでしょ?」

丹沢「そうですよ、悪いですか? それと、もうひとつ、私は常にスピーディーな仕事をするように心がけていますから」

爽香「それは間違いよ。お客様の立場になって話をしたら、普通そんな言葉は出ないはずよ?」

丹沢「わかりました、わかりました。あなたのペースと、あなたのレベルに合わせて話せばいいんですね」

 そのときちょうど、5時15分の終業のチャイムが鳴った。

♪キンコーンカンコーン、キンコーンカンコーン


【07】 同じ住所(住居表示)って、存在するの?


丹沢「ほら時間になっちゃった。コンピュータのシステムも、もうすぐ落ちちゃいますよ」

爽香「でも遅くなれば残業代がもらえるんでしょ?」

丹沢「こんな窓口の対応が1時間ぐらい延びたからって、残業代は出ませんよ」

爽香「そうなんだ、市役所ってけちなのね」

丹沢「私たちは、市民の皆様方の税金からお給料をいただいている訳ですから、あなたひとりの転入手続きのために、市民みなさんの税金を使う訳にはいかないのですよ」

爽香「へぇー、えらいのね」


丹沢「そもそも市役所の終業間際に来るのがどうかと思うんです。外国では時間と同時に、たとえ手続きの途中でも窓口を閉めちゃいますよ」

 爽香は丹沢の名札を見ながら、

爽香「でも、そこが日本人のいいところじゃない、ねぇ丹沢さん」

丹沢「ところで話をもとに戻して、共同住宅の名前は忘れたんですよねぇ」

爽香「じゃぁ聞きますけれど、あなた先週の今日、夜は何を食べました?」

丹沢「覚えていません」

爽香「ほら、忘れているでしょ。それでもあたしのことを責めるの?」

丹沢「別にあなたのことを責めていません、ただ聞いただけです」

爽香「あっ、そう」

丹沢「晩ご飯に何を食べようと住民登録には関係ありませんけれど、住民登録するときに方書はどうしても必要なんです」

爽香「へぇー、そうなんだ」

丹沢「現在は共同住宅が多くなりました。ですので、郵便物や宅配便の誤配を避けるために、また救急車や消防車が一分一秒でも早く正確に着くように転入受付の時、お客様に共同住宅の名前を確認しているのです」

爽香「救急車を呼ぶときに、番地だけ言うよりマンション名も言った方が良いということね」

丹沢「その通りです。『番地』と言いますか、『住居表示』だけでは同じ番号の建物がいくつかある場合もありますから」

爽香「えっ! 同じ番地の建物って、あるの?」

丹沢「はい、あります。ですので、方書がわからないと住民票を作ることができません」

爽香「じゃぁいいわ、どうしてもってあなたが言うのなら今、不動産屋さんに電話して建物の名前を聞くから」

丹沢「今日水曜日なので、市内の不動産屋さん、すべて休みです」

爽香「えっ!」

丹沢「もう、いいですよ。私の方で調べますから」

爽香「えっ! なら最初からそう言ってよ、まったく!!!」

丹沢「もう5時15分を過ぎて他のお客様がいませんので調べられますが、普段は他のお客様の迷惑になります」

爽香「そう、悪かったわね!」

丹沢「いえ、大丈夫です。あちらで座ってお待ちください」

丹沢は待合席の方を指さした。

爽香「まったく、こまかいのねぇ!」

 爽香は丹沢に捨て台詞を吐いて待合席へ向かった。

丹沢「まったく世話の焼ける人だ!」


【08】 『お役所仕事』って、どういう意味?


 爽香は住民課の前にある待合席に腰掛けた。そしてぶつぶつ呟いた。

爽香「まったく『転入』『転居』『転出』だのってお役所仕事なんだから。全部『転居』で何が悪いのよ。充分伝わるでしょうに! 公務員っておバカの巨大組織よね。そうだ、待っていても暇だからスマホで『お役所仕事』の意味を調べてみようっと」

 爽香はスマホで『お役所仕事』と入力して検索し始めた。

爽香「なになに、『形式主義に流れ、不親切で非能率的な役所の仕事振りを非難して言う言葉』」

 爽香はスマホを膝の上に置き拍手した。

『パチパチパチパチ』

 カウンターで丹沢が、

丹沢「なんだ、あいつ? 待合席から私を応援しているのか?」

 爽香は待合席で、スマホ画面を見ながら、

爽香「ははははは、お見事! まさにその通り。『不親切で非能率的』か。丹沢とやら、まったくこの言葉通りのお役所職員だわ。はははははっ」

 更に大きな音を立てて拍手した。

 カウンターで丹沢、

丹沢「あいつ、絶対に頭おかしいぞ!」


 丹沢は、事務室の奥で「方書一覧表」というリストから美女来地区の共同住宅名を探していた。そこに、先輩の戸部考一がやってきた。戸部は室内で戸籍の仕事をしているが、なにかと丹沢の面倒を見てくれた。

戸部「あの女、待合席で急に拍手して笑い出したけれど、頭大丈夫か?」

丹沢「大丈夫じゃないですよね。完全にイカれてます」

戸部「やっぱり。今日は、最後に悪いのに当たったね」

丹沢「いつものことです」

戸部「もう時間外だ、なにか手伝うことがあったらなんでも言ってくれ」

丹沢「ありがとうございます。いつも悪いですね」

戸部「なぁに、お互い様さ」

 管理職とごく一部の職員は、すでに職場を去っていた。


 ロビーの待合席で。

爽香「『かたがきは?』って言われれば誰だって『社長』とか『課長』とかって思うじゃないねぇ、『かたがき』の『かた』が体の『肩』でなく、『方角』の『ほう』なんて言葉、誰が知っているって、馬っ鹿じゃないの丹沢さん。そうだ、時間があるからスマホで『かたがき』っていうひらがなを漢字変換してみようっと」

 爽香はスマホで「かたがき」と入力し、変換候補を見た。

爽香「あれっ? 体の『肩』の『肩書き』しか変換できないじゃない。『方書』なんて、ないわ。やっぱし。ふふふふふ」

 爽香はスマホを膝の上に置き手を叩いて笑い始めた。

拍手「パチパチパチパチ」

爽香「ぐははははは」

 爽香は誇らしげに腹から笑った。


 その拍手の音と笑い声を聞き、丹沢と戸部が住民課の事務室内から爽香を見た。

丹沢「完全にイカれてる!」

戸部「まったく同感だな!」


爽香「しっかし、遅いわねぇ。もっと簡単に手続きが終わらないの? あいつが『ようこそ美浦市へ。はい、これで手続きは終わりです』って、言えばいいのよ! なぜ、こんなに時間がかかるのよ! まったく『不親切で非能率的』なんだから!」

丹沢「速水爽香かぁ、なんできちんと書類を書いてこないのかなぁ、正確に記入してあれば書類を提出して数分で終わるのに。まったくいい加減な女だよ!」

爽香「あの受付の丹沢って男、もてないだろうなぁ。独身か? それともバツイチか? いずれにしても嫌な男ね!」

丹沢「まったく気の強い女だ。あれじゃもらい手がいないだろうな。絶対結婚したくないタイプの女だ!」

戸部「まぁまぁまぁ」


【09】 『住所』も『本籍』も一緒でしょう?


丹沢「おっ、これだ」

 丹沢は『方書リスト』から『美浦市美女来9-8-7 ハッピーハイツ○○○号室』というのを見つけた。丹沢はリストのそのページを開いたまま窓口へと戻った。

丹沢「速水さま~」

 待合席で待っている爽香を呼んだ。爽香は窓口へと向かった。

丹沢「お客様の住む共同住宅の名称がわかりました。名称は『ハッピーハイツ』ですね」丹沢は『方書リスト』に、記載されたその名称を指さして言った。

爽香「そう言えば、そうだったような」

丹沢「何号室かわかりますか?」

爽香「203号室です」

丹沢「良かった、それは覚えていたんですね」

爽香「うるさいわね! あなた、あたしを馬鹿にしてるんでしょ」

丹沢「とんでもない、自分としては褒めたつもりで言ったのですけれど」

爽香「感覚の相違ね、まぁいいわ。いいからあなた仕事して」

丹沢「次に『いままでの住所』欄に、前に住んでいた住所を書いていただけますか?」

爽香は、『いままでの住所』欄に『福島県東白川郡棚加羅町大字関口字一本松9786番地』と書いた。

丹沢「『東白川郡ひがししらかわぐん』の『かわ』の字は、縦3本の『川』なんですね」

爽香「ええそうよ。『白河市しらかわし』のさんずいの『河』と、よく間違える人がいるけれどね」

丹沢はメモ用紙に「春日部かすかべ」と「粕壁」の字を書きながら、

丹沢「参考までにですが、埼玉県の中でも『春日部』という地名と『粕壁』の2種類の地名が存在していますので、私どもも細心の注意を払っています」

爽香「そんなところに細心の注意を払わなくて良いから、他のことに注意を払ってよ!」

丹沢「ははははは」

爽香「なにその笑いは? 知識を見せびらかした自慢の笑い?」

丹沢「ははははは。次に『本籍』欄を記入してください」

爽香「『本籍』ってなんですか?」

丹沢「そう来ましたか」

 丹沢の口元が少し緩んだ。

爽香(なに、そのにやけ。また自慢するのかな? こいつ絶対、市民を馬鹿にしている)

爽香「『住所』も『本籍』も一緒でしょう?」

丹沢「そう言う場合もありますし、違う場合もあります。むしろ違う場合の方が多いかも知れません」

爽香「そうなの?」

丹沢「そうなんです!!」

爽香「何よ、偉そうに! そもそも『本籍』って何に使うの? 住所だけでいいじゃないですか? あたし、今まで生きてきて、誰かに本籍を聞かれたこともないし、本籍を使ったこともないわ」

丹沢「いい質問ですね」

 また口元が緩んだ。

爽香「あなた、自慢したいんでしょ、自分の知識を見せびらかしたいんでしょ。いいわよ、聞いてあげるから言ってごらんなさい」

 爽香が丹沢を手玉に取るように言った。

丹沢「では、」

爽香「では?」

爽香(『では』と来たか! この自慢しぃ、が!)


【10】 爽香「あんたなんか、玉ねぎと一緒よ」


丹沢「その答えを言う前に、『転出証明書』って持ってますか?」

爽香「何それ」

丹沢「えっ!」

爽香「あたしにとって、初めて聞く単語ね」

丹沢「やっぱり!」

爽香「『やっぱり!』って、何よ!」

丹沢「あのぉー」

爽香「『あのぉー』って何よ!!」

丹沢「お客様は、引っ越ししたのは初めてですか?」

爽香「そうよ。生まれてからずうっと『東白川郡棚加羅町ひがししらかわぐんたなからまち』で育ってきたからね」

丹沢「残念ながら、今日、住民票登録はできません」

爽香「えーーーっ!!!」

丹沢「大変申し訳ないのですが」

爽香「散々これだけ引っ張ってきて、受付しないってこと! 冗談じゃないわ!」

丹沢「はい、申し訳ございません」

爽香「『申し訳ない』と思うのなら受付してよ!」

丹沢「それが出来ないのです」

爽香「どうしてよ!」

丹沢「『転出証明書』がないと受付できないのです」

爽香「それって、あたしに対するいじめじゃないの?」

丹沢「とんでもございません」

爽香「あんた、あたしのことが嫌いなんでしょ」

丹沢「とうとう『あんた』と来ましたか。私は決して、この人が好きとか嫌いとかで、仕事したことはありません」

爽香「本当かなぁ?」

丹沢「あなたのことは、むしろはっきりしていて、いいと思っていたのです」

丹沢は心にもないことを言った。

爽香「そおぅ?」

 爽香がニヤッと微笑んだ。

丹沢「単純なんだな」

丹沢が小声で言った。

爽香「えっ、なんて言ったの」

丹沢「『温順なんだな』と言ったんです」 (※温順=素直でおとなしいこと)

爽香「何それ、そんな難しい言葉、わからないわ」

丹沢「後で調べていただければ結構です。それよりお客様は、棚加羅町役場には行ってないのですか?」

爽香「全然。ここ何年も行ってないけれど。それが何か?」

丹沢「『それが何か』と、来ましたか。『転出証明書』は、棚加羅町役場で発行してもらうからです」

爽香「えーっ! じゃぁ、あたしに棚加羅町役場へ行けってこと」

丹沢「まぁ、そう言うことです」

爽香「無理無理。時間もないし、お金もないし。だいたいそんな証明書なくても本当は手続きできるんでしょう?」

丹沢「出来ないです」

丹沢が無表情で言った。

爽香「あたしよりもっと美人の人とか、偉い政治家の人が来たら、その『なんとか証明書』っていうのが無くても手続きしてあげるんでしょう?」

丹沢「しませんよ」

丹沢が無表情で言った。

爽香「本当かなぁー?」

丹沢「手続きしません。しませんというより出来ないです」

爽香「あたしだからって、あなた意地悪しているんでしょ?」

丹沢「そう言うことは、絶対にありません」

爽香「神に誓って?」

丹沢「紙に誓って」

丹沢は、心の中で(神じゃなくて、届書の『紙』に誓って)と思った。


爽香「そう。じゃぁハンコとかないと、やっぱり手続きはできないの?」

丹沢「ハンコが無くても手続きは出来ます」

爽香「えっ! ハンコが無くても手続きは出来るの?」

丹沢「出来ます!」

 丹沢がきっぱりと言った。

爽香「お金を持ってないと手続きは出来ないんでしょ?」

丹沢「お金が無くても手続きは出来ます」

爽香「ハンコが無くても、お金が無くても手続きは出来るの?」

丹沢「出来ます!」

爽香「でも、なんとか証明書、」

丹沢「『転出証明書』です」

爽香「その『転出証明書』が無いと住民票を移す手続きは出来ないのね」

丹沢「そうです」

爽香「じゃぁ、今日は手続きが出来ない訳?」

丹沢「そうなりますね」

爽香「なによ、それ!?」

丹沢「『なによ』と言われましても……」

爽香「えっ! じゃぁ、さっきのあたしの涙はなんだったのよ?」

丹沢「あれっ? 『泣いてません』って、言ってませんでした?」

爽香「泣いてなんかないわよ! ただ涙が出ただけよ」

丹沢「泣かなくとも、涙が出るんですか?」

爽香「そりゃ出るわよ。玉ねぎを切った時だって出るでしょ?」

丹沢「玉ねぎねぇー?」

爽香「あんたなんか、玉ねぎと一緒よ。皮をむけばむくほどと言うか、話せば話すほど涙が出て来るわよ!」


 事務室内で、

春菜「ははははは」

 春菜が大きな声で笑った。

若石「丹沢さんは、玉ねぎか?」

稔江「あの子も言うわねぇ」

戸部「その玉ねぎが、腕のいい料理人に調理されている感じだな」

稔江「玉ねぎが調理されて、そのうち彼女にパクっと食べられてしまうかも?」

春菜「ありえるかも?」

戸部「そんなばかな!」


 カウンターで、 

爽香「なんで『転出証明書』って、そんなに大事なのよ?」

丹沢「二重登録防止です!」

丹沢が無表情で言った。

爽香「ねぇ、もっと感情を込めて言ってくれない?」

丹沢「なんで、感情を込めて言わなければならないんですか? これはドラマや芝居じゃないんですよ!」

 丹沢が怒り気味に言った。

爽香「なぁーんだ、感情表現が出来るじゃない。ははははは」

 爽香がカウンター越しに、丹沢の顔を人差し指でさし、その人差し指を丹沢の顔の前でぐるぐる回しながら笑った。


【11】 爽香「(ちほう公務員って)痴呆症の公務員?」


 事務所内でその二人のやりとりを聞いていた職員たちが、

早苗「あの二人、聞いていると夫婦漫才ね」

若石「でも『転出証明書』が無いのは、致命的だなぁ」

稔江「丹沢さんも、もうちょっと優しくしてあげればいいのにね」

春菜「無理よ。正義感が強いと言うか、自分が正しいと思ったら、引かないのよね」

稔江「それって、いいの、悪いの?」

早苗「さぁ、どっちなんでしょ?」

戸部「歳をとれば、いずれわかるさ」


爽香「『転出証明書』って、そんなに大事なことが書いてあるの?」

丹沢「『転出証明書』に書いてあるのは、『今まで住んでいた住所』と『引っ越し先の住所』と『本籍地』と『国民健康保険』のことと『国民年金』のことなどです」

爽香「わかった! あなたは、あたしの『国民健康保険』と『国民年金』に興味があるんでしょう」

丹沢「興味ないです!」

爽香「そんな冷たい言い方しなくてもいいでしょ!」

丹沢「失礼しました、あまりにもくだらない質問だったので」

爽香「悪かったわね! くだらない質問で」

丹沢「なんで私があなたの保険と年金に興味を示さなければいけないんですか?」

爽香「だってほら、今、他人の保険や年金を狙う人って居るでしょ。あなたって、なにか人の物を盗みそうな顔をしてるわよ」

丹沢「私は犯罪者ではありません。これでも一応は地方公務員です」

爽香「痴呆症の公務員? どうりで話がおかしいと思った!」

丹沢「その『ちほう』ではありません」

爽香「からかっただけよ」

丹沢「私をいじらないでください」

爽香「あなたなら、いじりがいがありそうね」

丹沢「そんなことより、なぜ『転出証明書』が必要かというと」

爽香「はい? また、自慢が始まるのね」

丹沢「自慢じゃないですよ。必要だから言うんです」

爽香「わかったわ、わかったわ。くだらない講釈を聞いてあげるから、言って御覧なさい」

 爽香は、最高に嫌な顔を作って見せた。

 それにもめげず、丹沢は話し始めた。

丹沢「住民票で一番怖いのは、2カ所に作られることなんです」

爽香「2カ所?」

丹沢「つまり、このままあなたの住民票を『埼玉県美浦市美女来』に作った場合、あなたは『福島県東白川郡棚加羅町』にも住民票があり、両方に住んでいることになります」

爽香「ふむ、ふむ」

 爽香が神妙に頷いた。

丹沢「『住民票』は、第三者に対して、例えば速水爽香様が『ここに居住して、寝泊まりしてますよ』っていう証明書なのです。公の機関がそれを証明するわけです」

爽香「居場所の証明書ね」

丹沢「そうです、素晴らしい! 『居場所の証明書』です。それをもとに、大人の方なら『住んでいる所の選挙区で投票をしてください』とか、お子様なら『住んでいる所の学区の学校へ通ってください』となるわけです」

爽香「なるほど」

丹沢「それが、二カ所も三カ所も住民票があったら、あちこちで投票ができちゃうし、学校も好きな学校へ通えちゃいます」

爽香「選挙が不正になっちゃう訳ね」

丹沢「そのとおりです、素晴らしい!! ですから、『福島県東白川郡棚加羅町』の住民票を先に消して、それから『埼玉県美浦市美女来』に住民票を作ります」

爽香「順番があるってことね」

丹沢「素晴らしい!!! 『転出証明書』は『当地の住民票を抹消しました』という証明になるわけです」

爽香「よくわかったわ。わかったから、今回だけは『転出証明書』無しで、美浦市に住民票を作ってくれる? いいでしょう?」

丹沢「ダメです!」

爽香「あんなに褒めてくれたのに。このケチ! バカ真面目! 融通が利かない! つまらない男ね」

丹沢「ははははは。もういいですか?」

爽香「これだけ言っても怒らないの?」

丹沢「何を言われても怒らないと言う研修や講座を受けましたから」

爽香「そんな研修があるの?」

丹沢「『レジリエンス研修』『ストレスマネジメント講座』『アサーティブネス講座』とかですかね」

爽香「わかんない。意味不明」

丹沢「さて、あなたに住民票のことをご理解していただいた上ですが……」

爽香「はい、なんでしょう?」

丹沢「これからあなたが『福島県東白川郡棚加羅町』へ行くのも大変ですから、『棚加羅町』まで行かないで『転出証明書』を取る方法が2通りあります」

爽香「えっ、行かなくてもいいの? 良かった! あたし仕事で旅に出ることが多いから、なかなか実家の方へ戻れないのよ」

丹沢「えっ? 旅に出るのなら、福島県にも行くでしょうに?」

爽香「ここから北へは行かないわ。行ってもせいぜい群馬までね」

丹沢「そうですか、なんだかよくわからないですけれど」

爽香「本当に『棚加羅町』に戻らなくていいのね?」

丹沢「はい」

爽香「わかった! あなたが『棚加羅町』へ電話して『住民票の抹消』を依頼するんだ」

丹沢「おバカさんですね」

爽香「おバカさんとは何よ! プン!」

丹沢「電話では、取り寄せが出来ません。なりすましの電話かもしれませんし『棚加羅町役場』としては、本人の意志で引っ越すんだという証拠書類を残す必要があります。最近は他人の住民票を勝手に動かすという犯罪が多くなっておりますから」

爽香「悪いヤツがいるのね。あなたもたまにやるの?」

丹沢「やりませんよ! なぜ私がやらなくてはいけないんですか?」

爽香「なんかやりそうな気がしたのよ。ふふふふふ。ちょっといじっただけよ」

丹沢「私をいじらないでください!」

爽香「あなたって、いじりがいがあるのよね」


【12】 『転出証明書』の入手方法は?


丹沢「話を進めます。ひとつは郵便で『転出届』を『棚加羅町役場』に出す方法です。運転免許証など本人確認ができる書類のコピーと返信用封筒を入れて送れば、『転出証明書』を送付してくれます」

爽香「それは、いいわね」

丹沢「もうひとつは、『福島県東白川郡棚加羅町』に誰か一緒に住んでいた家族がいれば、その人に頼んで、代理人として『転出届』を『棚加羅町役場』に出してもらうのです。そして受け取った『転出証明書』をあなた宛に送ってもらうのです」

爽香「それも、いいわね」

丹沢「いずれにせよ『転出証明書』が入手できましたら、それを持ってまたお越し願いますか?」

爽香「わかったわ。『転出証明書』が入手できたら、また、あなた丹沢さんの所へ来ればいいのね」

丹沢「いいえ、『転入届』は他の職員でも受けられますから、私でなくて結構です」

爽香「随分冷たいのね、こんなに長い時間お話ししたのに。あなた、あたしのこと嫌いなの?」

丹沢「好き嫌いの問題ではありません。この住民課では特にそのような指名制度はないと申し上げているのです」

爽香「じゃぁ、そこの後ろにいるあなたにしようかなー」

 爽香に指をさされ、少し後方にいた職員の戸部考一が、

戸部「また来たら丹沢を呼んでやってください。あなたみたいな人、こいつの好きなタイプですから」

爽香「そうでしょう、そうだと思った」

丹沢「勘弁してくださいよ、先輩」

爽香「じゃぁね」

 爽香はきびすを返すと、丹沢を見ることもなく、自分の肩の上で軽く手を振って帰って行った。

時計は市役所の終了時間である5時15分を、30分以上過ぎた5時45分を指していた。


【13】 名字で「四月一日」の読み方とは?


 午後5時45分。住民課すべての窓口が閉まり、ようやく窓口担当の職員は帰ることが出来る。先に手の空いたものは、書類の整理、不要な書類のシュレッダー、室内の整頓、コピー機やプリンターの紙補充、電源のシャットダウンなどを行う。それが日常だった。


 新入職員の宮入芽衣と新川直道は、丹沢よりも先に窓口を閉め、うじに詳しい君本早苗の席に行った。君本早苗(きみもと・さなえ・40歳)は、住民課10年のベテランである。

芽衣「先ほどの戸籍で『四月一日』という氏の読み方を、教えていただいてもよろしいですか?」

早苗「ごめん、ごめん。さっきは途中になっちゃったわね」

芽衣「いつものことですから大丈夫です」

早苗「あっこれね、これは『わたぬき』さんよ」

芽衣「えっ! 『わたぬき』?」

新川「『わたぬき』なら『綿貫』という漢字がありますよ」

新川が、メモ用紙に『綿貫』と書きながら言った。

早苗「そう、一般的な『わたぬき』は『綿貫』が使われているわよね」

芽衣「はい、それならわかるんですけれど」

新川「どうして、『四月一日』で『わたぬき』と読むのですか?」

早苗「大昔、寝る時に使う掛け布団って、ひとり1枚しかなかったのよ。今みたいに、『夏掛け用』とか、『冬掛け用』とか、ひとりに対して布団が何枚も無かったのよ。そこで冬から春になった頃、つまり旧暦の四月一日、今なら4月から5月にかけてくらいかしら、一枚の布団から綿を抜いて使った。このことから『四月一日に綿を抜く』。そこから『わたぬき』となった訳」

芽衣「すごい! なるほど、覚えました!」

新川「ありがとうございました」


 それを近くで聞いていた明石春菜と若石元気が、

春菜「『四月一日』を『うそ』と読むなんて言って、それが『うそ』だったのね」

若石「そう言う明石先輩も『しんがっきさん』なんて言って、かなり適当な事を言ってましたよ」

芽衣「それにしても、さすが君本さんですね」

戸部「うん。君本さんは、住民課で『ミス名字』と呼ばれているからな」

芽衣「そうなんですか」

戸部「うん。私と同じ40歳でも、彼女は優秀だよ」

若石「僕とか明石さんて、課内でなんて呼ばれてるんですかね?」

 明石春菜が、丹沢が課長から言われている言葉を思い出し、

春菜「『住民課のお荷物』『寄生虫』『用無し』『役立たず』『クズ』『ゴミ』『弱点』、」

若石「も、もういいです。勘弁してください」

「ははははは」みんなが大笑いした。

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【次回あらまし】

 爽香のデビュー戦が始まった。爽香はボートレーサー養成所を卒業しているにも関わらず、養成所教官の松木四朗(まつき・しろう)から宿題が出される。


松木「デビュー戦の開催6日間、すべてのレースで無事故完走すること! もし、それが出来たらケブラーズボン(ケガ防止用ズボン)、3着以内に入れたらレース用シューズをプレゼントする」


 速水爽香のデビュー戦が始まった。6日間の結果は……?

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【読者様へ】

 たくさんの作品の中から本編をお読みいただきありがとうございました。m(__)m

 これからも皆様に愛される作品となりますよう努力を重ねてまいります。m(__)m

 読んでいただいた方々には「感謝! 感謝!」です。「本当にありがとうございました」m(__)m

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【サイト運営者様へ】

「小説を読もう!」及び「小説家になろう」のサイト運営関係者の方々に心より感謝申し上げます。m(__)m

 読む側も書く側も、すべてが無料というのはとても助かります。

 書く側から申しますと、いつでも編集や修正が出来、「アクセス解析」から「執筆バックアップ」まで、運営者側にやっていただいております。誠に至せり尽せりです。

 この「小説家になろう」及び「小説を読もう!」のサイトがいつまでも続くことを心より願っております。m(__)m

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【ボートレーサー、ファン等関係者様へ】

 私は今日までボートレーサー、ファン等関係者の皆様方からたくさんのことを楽しませて頂きました。

 これからは、ボートレーサー、ファン等関係者の皆様方にも楽しんで頂こうと思い、この作品を書き始め、そして今後も書き続けてまいります。

 皆様方に少しでも恩返しが出来たら幸いです。m(__)m

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【後書き】

 ちなみに、舞台となった「美浦市」は架空の市です。

 主人公の爽香は、ボートレーサーという勝負の世界に身を置く女性です。彼女の勝負師ゆえの「気の強さ」と、丹沢の「公務員としての融通の利かなさ」がぶつかり合う様子は、書いていて私自身も楽しませてもらいました。

 物語の最後、丹沢は「絶対結婚したくないタイプの女だ!」と言い、爽香は「嫌な男」と吐き捨てました。しかし、これだけ激しくやり取りをした二人が、次に窓口で再会したときにどんな顔をするのか。それはまた、別の機会にお話しできればと思います。

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【ポイント応援のお願い】

「主人公二人の今後に期待したい!」と思ってくださいましたら、ページ下の【☆☆☆☆☆】をポチッとお願いいたします。m(__)m

 作者のモチベーションが爆上げとなり、執筆スピードが上がります!

※月に3回程度は更新したいと考えております

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