三の宿 「逆さの手」 その二
「君まで来なくても良いんだよ?」
「いえ……」
私は恐る恐る、先輩のすぐ後ろを歩く。
ついていくのは怖い。でも、一人で待つのはもっと怖い。だから、私は先輩の後に続くしかなかった。
ぎしぎし……どころか、みしりとも鳴らない、古いのに堅牢で立派な廊下を、私たちはゆっくりと進む。その足元の少し先には、小さな光がポウと灯っている。先輩の手に握られた懐中電灯の光。そこから反射する光が廊下と天井とを薄っすらと照らして、柱や天井板に影を踊らせる。
客間がそうだったから、廊下も当然広くて長い。その先、つき当りに扉が見えた。襖じゃなくて、格子状に組まれた木でできた扉。
すっ……と先輩がその扉を横に開いた。懐中電灯の光がその部屋の中にまっすぐ伸びてゆく。床、それから壁。その上に……
「……!!」
「……おお……」
私は息を飲み込んで、先輩は称賛するように息を吐いた。
神棚……っていうんだっけ。それのものすごく立派なやつが、そこにあった。しめ縄と白い紙のお飾り。蝋燭を刺す台と、お供え物を置く台。そういうのがずらりと、そこに並んでた。
「坂手の蛇神様……だね。想像よりずっと大切に守られてるようだ」
「へびがみさま?」
「そう。蛇という生き物は、古代から神の使いとして信仰されてきた由緒ある生き物なんだよ。同時に畏怖の対象でもあったけど」
「へびって……蛇? あのニョロニョロ這う、爬虫類の、蛇ですか?!」
「聞いたことはないかな? 蛇が棲む家は栄えるって。実際、軒下に蛇が棲むとネズミを捕ってくれたりするらしいし、そういうところから始まった信仰というか伝承なんだけれど」
そう言われて私は思い出す。この家にはネズミが出たことないっていう瞳子ちゃんの言葉。つまり……
「蛇が……いるってことですか? ここに?」
「静かに……耳をすませて……」
先輩はそうとだけ言って、私の質問には答えてくれなかった。
えっ何? 蛇? ここにいるの? 本物? それとも蛇の……お化け?!
「今度は……聴こえるだろう?」
「…………!!!」
しるしるしるしるしるしる……
聴こえた。
確かにそれは「音」だった。現実に、私の耳に届いた、音。
私にはそれは、蛇が這う音のように聴こえた。いや、実際に私は蛇が這う音なんかじっくり聴いたことなんかなかったはずだから、そんな風に私が思うのはおかしいはずだった、けれど。
しるしるしるしるしるしるしるしるしるしる……
光の届かない神棚の陰に、私は想像した。その音の正体。蛇。
近づくものをその牙で捕えて丸吞みにして、ぽきぽきと骨を折って喰らう。恐ろしい大蛇の姿を。
私の歯ががちがちと鳴った。背筋に冷たい汗が流れる。
足がすくんで、動けなくて、なのに目を閉じることもできないで、耳は
しるしるししるしるるしるしるしるしるしるしるしるしる……
その音をずっとずっと捉えて離さなくて離れなくてああ駄目だ早くここから逃げないとでも足が脚が動かなくてどうしようどうしようどうしたら……
「怖くないよ」
ぽつり、と先輩はそう呟いた。
「音は聴こえたよね? うん。あれがその正体だよ」
「え………?」
先輩の持つ懐中電灯の光が、神棚の上の方を照らした。
しるしるしるしるしるしる……
そんな音を立てながら、小さな、白い紙きれが舞うように回っていた。
風も何も吹き込んではいない、大きな屋敷の小さな部屋の、神棚の上で。
***
「おはよー。ありがとう! おかげでめっちゃ眠れたよー!」
「ああ、瞳子ちゃん……おふぁよう……」
「おはよう坂手さん。お役に立てたなら良かった」
翌朝、瞳子ちゃんはとてもいい笑顔で客間まで降りてきてくれて、先輩はすっかり身支度を整えてお布団を畳んでそれを出迎えていた。私は…………眠い。
「鈴芽ちゃんは眠れなかった? ごめん、お布団合わなかったかな」
「あー……ううん。大丈夫、そういうのじゃなくって……えと……」
「そうだ、例の『音』は? 昨夜はどうでしたか?」
頭の回ってない私を助けるように、先輩が話題を振ってくれた。
「聴こえませんでした。雨音のせいかもしれませんけど。あー……そういえば寝入りかけた頃に何か聴こえてたような気がしないでもないです。でも、寝る前も今も、全然そんな音してませんよね? だからやっぱり、気のせいだったみたいです」
瞳子ちゃんは首を傾げながらそう言って、微笑んだ。
「独りでいるより何人かでいた方が安心だし、昨晩聴こえなかったのなら、軽い心因性の何かだったのかも、ですね」落ち着いた声で先輩もそう応じる。
「だったらやっぱり、二人に泊まってもらえて良かったですよ。じゃあ、朝ごはん用意しますね!」
「ありがとう。手伝いますよ」
「あ、じゃあ……私も……」
「スズは着替えて、布団畳んで、顔洗ってなさい」
「あ……ふぁーい……」
そういう流れで私は客間に取り残された。うーん。まあ、しょうがないかな。まずは言われた通り着替えて、お布団畳まないとね。
「よしっ……と」
ようやく回り始めた頭を持ち上げて私は立ち上がると、障子を少し開けて、外を見た。
朝日が眩しい。雨は止んで、晴れて澄み渡った空が見えた。
***
「……結局、あれは何だったんですか?」
「分からないよ。正確なところはね」
「えー……」
坂手家の立派な門から瞳子ちゃんに見送られながら出て、少し歩いた先。私達二人はバス停へと向かいながら、昨晩の体験について、もう一度語り合っていた。
「でも、紙垂が外れて、あそこに祀られていたものは困ってたようだから、それを正してあげたのは、少なくとも悪い事ではなかったと思ってるよ」
「しで?」
「あの白い紙だよ。しめ縄につけて垂らすことで、聖域を意味するものだ」
「聖域、ですか」
昨晩見つけた「音の正体」は、要するにそういうことだった。先輩が想像するに、坂手家のご家族が留守の間は瞳子ちゃんがお供えもののお世話とかをしたはずで、そのときうっかり何かを引っかけて、それで紙が外れたんじゃないか……と。
「先輩が『あの紙をしめ縄の上に引っかけてみて』って言ったときは、どうしようかと思いましたよ」
「悪かったね。私じゃ手が届かないからって」
「いえ、こんなことでも役に立てたなら良かったって……今ならそう思えます」
風もないのにしるしると音を立てながら回る白い紙。ちょっと怖かったけど先輩が「怖くない」って言ってくれたから、私は勇気を出してそれをつまみ上げた。そしたら本当にそれは怖くなくて、ただの紙で、だから私はそっと、しめ縄の上にそれを戻してあげられた。
そのとき、しめ縄の上、天井の方に白っぽい影が見えた。
不思議と私は、それも怖いとは思わなかった。
じっとそれを見つめて、視た。するとそれは、ふっと消えた。
「あれが、神様だったんでしょうか?」
「君にも視えたのには、私も驚いたよ。……そうだね、神様かもしれないし、違うかもしれないけど……怖くはなかっただろう?」
「はい」
「どんな風に視えた?」
「え?」
「うん、君にも視えたっていうのは、昨晩もあのとき聞いたよね。でも考えてもごらん。同じものが視えたかどうかまでは分からないじゃないか。実際、そこには物理的に存在しなかったものなんだから」
……まあ、物理的に存在してるものでも、他人同士が同じものを同じように視てるかどうかは証明のしようもないけどと、また難しそうな話を先輩は独りで呟いていた。
私は、思い出す。あのとき視た白い影。
それは、天井からぶら下がった、小さな、赤ちゃんみたいな蛇に視えた。
「蛇か……なるほど。一匹だけかい?」
「いいえ。五匹くらい、いました。なんか途中でからまってるみたいでしたけど、仲良さそうな蛇さんに視えました」
「ふむ……」
「先輩には、どう視えました?」
「手だよ」
「手?」
「君が見た五匹の蛇と、ある意味ではぴったり符号するかもしれないね。私にはあの形は、五本の指を持った一本の手に視えた」
「ああー……」
私は感心しつつ納得した。言われてみれば手みたいにも思える。
「でも祀られてるのは蛇神様だから、蛇に視えても、神様か何かの手みたいに視えても、どちらでも不思議ではないだろうね。きっと、あの存在を奉じた昔の人は、君と同じようにあれを蛇と視た、そういうことなのかもしれないな」
楽しそうに先輩はそう語る。
あれ? そう言えば、もしかして。
「先輩……」
「ん? どうかした?」
「あの、最初に客間に案内されたあと、何か言いかけてましたよね?」
「ああ、覚えてた? うん」
すまなさそうに先輩は笑う。
「陽射しが強いね。ちょっと失礼するよ」
そう言って、持っていた雨傘を開いて日傘代わりにしながら、先輩は
「君が坂手さんの家に行くと聞いて、同行を快諾したのはそういうことだよ。
私の、五日宿に関する研究には、坂手の蛇神様も対象として含まれてたからね」
と、白状した。
「……やっぱり、そうだったんですね」
「幻滅した?」
「いいえ」
「なら、良かった」
傘で陽射しを遮りながら、でも私からの視線と言葉は遮らないで、先輩は優しく、微笑んでくれたのだった。
***
「あ、鈴芽ちゃん。おかえりなさい」
「ただいまです、大家さん」
アパート最寄りのバス停から帰る途中、大家の春香さんにばったり出会った。
「恋ちゃんは? 一緒じゃないの?」
「あ、はい。先輩は別のバスでそのままアルバイトに……って、何で私たちが一緒だって思ったんですか?」
「だって、坂手さん家に泊まったんでしょ?」
「えっ……何でそれを?!」
「田舎の情報網を甘く見ないことね! ……ってのは冗談。恋ちゃんから『二人とも留守してます』って連絡あったのよ。泊まり先もそのとき一緒にね」
「あー、びっくりした……」
大家さんは驚かせてごめんねと謝りながら、お詫びにと、持っていたタマネギとかをお裾分けしてくれた。わー、有難いけど……重い!
「でもいいねえ。坂手さんと仲良しなら、蛇に噛まれる心配はないね!」
「あ、大家さんもご存じだったんですか?」
「勿論。この辺ではけっこう有名だよ」
なるほど、流石は坂手の蛇神様だ。
「……逆の手様が護ってくださるって言うからね」
……えっ?
「さかのて……さま? 蛇神様じゃないんですか?」
「え? ああ、よく知ってるね。蛇神様だなんて、お年寄りしか知らないかと思ってたよ。逆の手様と蛇神様は同じものだったと思うけど……あれ? 違ったかな……」
大家さんは首を傾げながら、知ってることを簡単に説明してくれた。
坂手家は昔、「逆手」家と呼ばれていたこと。
それは当時あの家の周囲で毒蛇が多く出て、手や足を噛まれて死んだ人や、切り落とさなければならなかった手足を供養して、元々水神様として信仰されてた蛇神様と一緒に祀った一族だったから、ということを。
「だから今でも『切り落とされた手が化けて天井から逆さに降りてくる』みたいなことを言う不届きなご老人もいるらしいけど、真面目に取り合っちゃだめだよ。そんじゃねー!」
大家さんはそう言って、家へと入っていった。
私は思い出す。
あのとき「視た」、白い何かの影を。
蛇じゃなかった。あれは、手だ。
神様の? …………ううん、違う。
切り落とされた、人間の…………手だ。
「そりゃ……先輩は怖くないのかもしれないけど……さぁ……」
全身の力が抜けて、私はがっくりと道端に膝をつく。
大家さんにいただいたタマネギが袋からこぼれて地面に転がった。ああもう……!
先輩が帰ってきたら、このタマネギ押し付けて、お説教しよう。
「次に『怖くないよ』って言うときは、必ずその根拠も一緒に示してくださいね!!!」
……って。




